【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2021年05月

権力者ではなく国民が威張るのが真の民主主義


ベスト悪人面横長


国民と対話できない菅首相はうっとうしい稿に続いて菅首相について書く。彼の存在は、日本の政治家の奇天烈を世界に知らしめるのに最善のテーマ、と考えるので今後もこだわって書いていければと思う。

それは僕のこの文章が世界で読まれるという不遜な意味ではなく、彼の存在自体が世界に日本の政治の不思議を物語る。その物語る様子を語ろう、という意味である。

適任者とも見えないのに、いわばタナボタのようないきさつで日本国のトップになった菅首相は、彼がその地位に登りつめたのではなく、国民がそこに据えてやったものだ。

ところが菅首相は、権力者の常ですっかりそのことを忘れてしまったようだ。あるいは彼はその事実を、事実通りに受け取って考えてみることさえないのもしれない。

だがわれわれ国民は決してそのことを忘れてはならない。なぜならそれは民主主義の根幹にかかわる重大な要件だからだ。

つまり国民が「主」であり彼ら権力者は「従」、という厳とした構造が民主主義であるという真実だ。

それにもかかわらずに、特に日本の権力者は上下を逆転して捉えて、自らがお上であり主権者である国民が下僕でもあるかのように尊大な態度に出る。

非はむろん政治家のほうにある。だが、彼らをそんなふうにしてしまうのは、長い歴史を通して権力者に抑圧されいじめぬかれてきた国民の悲しい性(さが)でもある、という皮肉な側面も見逃せない。

日本国民が、民主主義の時代になっても封建社会の首木の毒に犯されていて、政治家という“似非お上”の前についつい這いつくばってしまうのである。

そして政治家は、彼らを恐れ平伏している哀れな愚民の思い込みを逆手に取って、ふんぞり返っている背をさらに後ろに反らして付け上がり、傲岸不遜のカタマリになってしまう。

日本国民はいい加減に目覚めて、背筋を伸ばして逆に彼らを見下ろすべきである。

権力者が国民を見下ろす風潮は、民主主義がタナボタ式に日本に導入されて以後も常に社会にはびこってきた。厳しい封建制度に魂をゆがめられた日本人が、どうしてもその圧迫から脱しきれない現実がもたらす悲劇だ。

明治維新や第2次大戦という巨大な世直しを経ても桎梏は変わらなかった。変わらなかったのは、世直しの中核だった民主主義が、日本人自らが苦労して獲得したものではなかったからだ。

民主主義は欧米社会が、日本に勝るとも劣らない凶悪な封建体制を、血みどろの戦いの末に破壊して獲得したものだ。日本はその果実だけを試練なしに手に入れた。だから民主主義の「真の本質」がわからない。

菅首相は日本の未熟な民主主義社会で、その器とも見えないのに首相になってしまった。そして首相になったとたんに、日本の政治権力者が陥るわなにはまって、自らを過信して思い上がった。

言葉を替えれば彼は、自らを「お上」だと錯覚しある種の国民もまた彼をそう見なした。底の浅い日本民主主義社会にひんぱんに描かれる典型的な倒錯絵図である。

管首相はコロナ対策で迷走を繰り返しながら、国会質疑や記者質問に際して横柄な態度で失態を隠したり、説明責任を逃れたり、ブチ切れたり逆切れしたり、と笑止で不誠実な対応を続けた。

そこには国民との対話こそが民主主義の根幹、ということを理解できないらしい政治屋の、見苦しくうっとうしい姿だけがある。

管首相の一連の失態の中でも最も重大な不始末は、ことし1月27日、国会質疑で立憲民主党の蓮舫代表代行に対し「失礼だ。一生懸命やっている」 と答弁したことだろう。

蓮舫氏の言い方に問題があったことよりも、管首相が国民の下僕である事実を忘れて国民への報告(=対話)を怠り、開き直って居丈高に振る舞ったことが大問題だ。

日本最強の権力者という願ってもない地位を国民のおかげで手に入れながら、彼は日本の政治家の常で自らが民衆の上に君臨する「お上」だと錯覚した。

それは彼に限らず日本の政治家に特有の思い込みである。彼らは権力者という蜜の味の濃い地位に押し上げられたことに感謝し謙虚にならなければならない。ところが逆に思い上がるのである。

民主主義における権力者は、あくまでも民意によってその地位に置かれている「市民の下僕」である。ところがその真理とは逆の現象が起こる。それはー繰り返しになるがー日本の民主主義の底が浅いことが原因だ。

国民は権力者に対して、「俺たちがお前を権力の地位に付けた。お前は俺たちの下僕だ。しっかり仕事をしなければすぐに首を切る(選挙で落選させる)。そのことを一刻も忘れるな」 と威圧しつづけるべきなのだ。

国民は彼ら「普通の人」を、権力者という人もうらやむ地位に据えてやっている。国民はそのことをしっかりと認識して、彼らに恩を着せてやらなければならない。

彼ら政治家や権力者が威張るのではなく、国民が威張らなければならない。それが良い民主主義のひな型なのである。

だが日本ではほぼ常に権力者が「主」で国民が「従」という逆転現象がまかり通る。政権交代がなかなか起きないこともその負のメンタリティーを増長させる。

多くの先進民主主義国のように政権交代が簡単に起きると、国民は権力者の首が国民の手で簡単にすげ替えられるものであることを理解する。理解すると権力者にペこぺこ頭を下げることもなくなる。

例えばイタリアで2018年、昨日までの政治素人の集団だった「五つ星運動」が、連立政権を構築して突然権力の座に就いた。そんなことが現実に起きると、事の本質が暴かれて白日の下にさらされる。

つまり、言うなれば隣の馬鹿息子や、無職の若者や、蒙昧な男女や、失業者や怠惰な人間等々が、代議士なり大臣などになってしまう現象。

彼らの在り方と組織構成が権力者の正体であり権力機構の根本なのである。

そういう状況が日常化すると、権力なんて誰でも手に入れられる、あるいは国民の力でどうにでもなる代物だ、ということがはっきりとわかって、民衆は権力や権力者を恐れなくなる。

そこではじめて、真の民主主義が根付く「きっかけ」が形成されていくのである。




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手のかからない野菜の王様

ラデッシュ味噌漬けヒキ650
             ラディッシュの味噌漬け

菜園をたがやしてわかったことはたくさんあるが、作りやすい野菜と育てるのが難しい野菜がある、ということもそのひとつである。

そんなことはあたり前だと思っていたが、じつはそれはどこかで読んだり聞いたりしたことで、自分で本当に野菜の種の選択や芽の成長過程などにかかわってみないかぎり、具体的にはわからないものだと気づいた。

作りやすい野菜とは、僕の場合はおよそ次のようなことである。

種が早く、そして多く芽ぶく(つまりムダな種が少ない)。

萌えた芽の成長が早い。

水遣りや肥料がいらないか、最小限で済む。

病気になりにくい。

日照りや風や寒さに強い。など、など。

また地域によって異なる土質に適応しやすい。

土地の気候に順応しやすい。

などの人の力では変えられない条件に適合することも重要だろうが、そうした点はあまり気にかけなくてもいいようだ。

それというのも市販されている種子や苗は、種苗メーカーが長い間の経験で取捨していて、たとえば起源が南国の野菜でも寒い北イタリアで十分に育つ、など品種改良がなされている。

逆に作りにくい野菜とは、上記とは逆の性質を持つもののことである。

10年あまりにわたって野菜を作った中で、僕がもっとも作りやすいと思うのは、なんといってもラディッシュと春菊である。

どちらも種をまき散らしておけば確実に芽ぶき、成長も早い。水遣りも少なくて済む。また追肥もいらない。

ラディッシュは欧州で盛んに栽培される。

春菊はここにはないので日本から種を持ち込む。

ラディッシュはサラダで食べるのが主流だが、煮たり焼いたり漬物にしたりもできる。

僕はほぼ大根と同じとらえ方で扱い調理する。

冒頭の写真は収穫したばかりのラデッシュを葉とともに味噌をまぶして半日ほど漬け込んだもの。

イタリア人の友人らにも好評な一皿だ。

一方春菊は、自分で作ってはじめて生食できることを知った。新芽あるいは若芽を刈ってサラダにするのだ。

みずみずしく香りもまろやか。きわめて美味だ。

かつては僕にとって春菊とは、においのきつい、鍋に入れることが多い、個性の強烈な野菜のことだった。

が、菜園で栽培して初めて、新芽がにおいも味もたおやかで上品な野菜だと知った。

春菊の新芽のサラダを食べるのは、菜園をたがやす者の特権だとひとり合点しているが、実際はどうなのだろうか。

ラディッシュも春菊も、春浅い時期に種をまいてもよく芽ぶく。成長があきれるほどに早く、数週間から遅くても1ヵ月ほどで食べごろになる。

ラディッシュは一度収穫したらそれで終わりだが、春菊は切り取った茎からまた芽が出てくるので何度も収穫できる。

新芽を食べつづければ夏の間ずっと楽しめる。

春菊はサラダ以外に、野菜炒めに加えたり、豆腐と煮たり、白和えにしたりもする。

だがここイタリアで食べるかぎり、他のサラダ菜とまじえる生食がほとんどである。

その場合はわが家の鉄則で、オリーブ油と醤油だけで和える。




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マタレッラ大統領と反マフィア判事の接点


合成falcone&mattarella

1992523日17時30分頃、ジョヴァンニ・ファルコーネ判事の乗った車が、シチリア島パレルモのプンタライジ空港を市内に向けて走り出した。

ファルコーネ判事はマフィア殲滅を目指して戦うイタリアの反マフィア勢力の旗手。島の出身であることを活かして、闇組織との激しい法廷闘争を繰り返していた。

自動車道を時速約150キロ(140キロ~160キロの間と推測される 。判事の車はマフィアの襲撃を防ぐために常に高速走行することが義務付けられていた)で疾駆していた車が1758分、凄まじい爆発音と共に中空に舞い上がった。

ファルコーネ判事と同乗していた妻、さらに前後をエスコートしていた車中の3人の警備員らが一瞬にしてこの世から消えた。

マフィアはそうやって彼らの敵であるファルコーネ判事を正確に葬り去った。

いわゆる「カパーチの悲劇」である

ほぼ2ヶ月後の7月19日、ファルコーネ判事の朋友で反マフィア急先鋒のパオロ・ボルセリーノ判事もパレルモ市内で爆殺された。

セルジョ・マタレッラ大統領はコロナ禍中の今日、パレルモ市内の刑務所のホールで催されたファルコーネ、ボルセリーノ両判事の29回目の追悼式典に参列した。

それはマタレッラ大統領の最後の式典参加になると見られている。彼の任期は来年2月まで。大統領は2期目の選挙への出馬は目指さない、とつい先日明言した。

マタレッラ大統領はシチリア島人である。そればかりではない。彼は家族をマフィアに殺された凄惨な過去を持っている。

1980年1月6日、シチリア州知事だった兄のペルサンティ・マタレッラがマフィアに襲われて死んだ。州知事は反マフィア活動に熱心だった。

それに反発した犯罪組織が刺客を送って知事に8発の銃弾を撃ち込んだ。

たまたまその場に居合わせたセルジョ・マタレッラは、救急車に乗り込んで虫の息の兄を膝に抱いたまま病院に向かった。

兄の体とそれを掻き抱いている弟の体が鮮血にまみれ車中に血の海が広がった。

そのむごたらしい出来事が、当時は学者だったセルジョ・マタレッラを変えた。

彼は兄の後を継いで政治家になる決心をした。

マフィアを合法的に殲滅するのが目的だった。3年後、かれは下院議員に初当選。

そうやって筋金入りの反マフィア政治家、セルジョ・マタレッラが誕生した。

2015年、セルジョ・マタレッラはイタリア共和国大統領に選出された。

マフィア撲滅を願う彼は、殺害された反マフィア判事らの追悼式にも毎年参列してきた。

シチリア島を拠点にするマフィアは、近年イタリア本土の犯罪組織ンドランゲッタやカモラに比べて陰が薄い。

だがそれはマフィアが消えたことを全く意味しない。

マフィアから見れば、新興勢力とも呼べるンドランゲッタやカモラが派手に活動するのを隠れ蓑にして、老舗の暗黒組織はむしろ執拗にはびこっている。

現にコロナパンデミック禍中では、マフィアが困窮した事業や一般家庭を援助する振りで取り入り、彼らを食い物にする実態なども明らかになった。

マフィアを完全に駆逐することは難しい。

それでも反マフィアの看板を下ろさないマタレッラ大統領は、あるいは来年からは市民のひとりとして、故郷の判事追悼式典に参加するのかもしれない。





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ベルルスコーニを許すイタリア人はワクチン抜け駆け接種者も斬り捨てない


イタリアを含むEU(欧州連合)のワクチン接種戦略は、宇紆余曲折をたどりながらもほぼ軌道に乗りつつある。

2021年、5月18日現在のイタリアのワクチン接種状況は:18.977.897人 人口の 31,82% 。このうち2回接種を受けた者:8.787.150 人口の14,73%

接種率約32%というイタリアの数字は、EU全域の数字と見てほぼ間違いない。

EU27ヵ国は共同でワクチンを購入し、人口に応じて公平に分配する仕組みを取っている。人口が多いほど受け取るワクチンの数は多いが、比率はほぼ同じである。

しかし国によって国民間の接種状況は違う。

ある国は高齢者への接種を優先させ、ある国は医療従事者への接種をまず徹底するなど、国によってワクチンの使い道は自由に裁量できるからだ。

例えばここイタリアでは医療従事者への優先接種を大幅に進めたあとで、80歳以上の高齢者への接種を始めた。

5月18日現在は、50歳代の国民への接種も開始されている。

ちなみに僕はワクチン鑑識表上は40歳~49歳をジジババ予備軍、50歳~69歳を若ジジババ、70歳~79歳をジジババ、80歳~99歳を老ジジババ、100歳~を超人老と呼んで区別している。

ワクチンの数が足りなかった2月から3月にかけては、順番や年齢を無視して抜け駆け接種をする不届き者の存在が問題になった。

僕の近くでも、介護で多くの老人に接することが多い、と偽って抜け駆け接種をした女性がいる。50歳代の彼女は他人の家で働くいわゆる家事手伝い。

長い間寝たきりだった夫を介護していた事実を利用して、あたかも他者の介護もする介護人資格保有者のように装い2月頃にワクチンの優先接種を受けた。

そのことがバレて近所で評判になったが、彼女は悪びれず「私は他人の家に入って清掃をするのが仕事。人の家だから感染のリスクが高い」と強弁してケロリとしていた。

似たようなことがイタリア中で起こった。4月初めの段階で、自分の番でもないのに割り込みで抜け駆け接種を受けた者は全国で230万人にものぼった。

中でも南部のシチリア、カラブリア、プーリア、カンパーニャ各州で割り込み接種が多く、4州ではそのせいで優先接種を受けるべき80歳代以上の住民の接種が大幅に遅れた。

そのうちナポリが州都のカンパーニャ州では、デ・ルーカ州知事自身が順番を無視して抜け駆け接種をしたことが明るみに出た。

批判を浴びると知事は、「カンパーニャ州は年齢順ではなく業種別に接種を進める」と開き直った。

南部4州に加えて、フィレンツェが州都のトスカーナ州でも割り込み接種が多かった。同州では80歳以上の人を尻目に接種を受けた不届き者が、弁護士や役場職員や裁判官などを中心に12万人にも及んだ。

似たようなことは、お堅いはずのドイツでさえ起こっている。例えば旧東ドイツのハレ市では、64歳の市長が優先接種の対象となっている80歳以上の人々を出し抜いてワクチン接種を受けた。

彼は「時間切れで廃棄処分に回されそうなワクチンを接種しただけ」と言い訳したが、規則に厳しいドイツ社会は抜け駆けを許さず、辞職を含む厳しい処分を受けると見られている。

同様な問題は日本でも起こっているが、ドイツほどの苛烈な批判にはさらされていないようだ。むろんイタリアほどひどくはないが、コネや地位を利用しての抜け駆け接種はやはり見苦しい。

その一方で、ドイツの厳格さも息が詰まるように感じるのは、よく言えばイタリア的寛容さ、悪く言えばイタリア的おおざっぱに慣れた悪癖なのかもしれない。

「人は間違いをおかす。だから許せ」が信条のイタリア人は、醜聞まみれのあのベルルスコーニさんも許し、ワクチン抜け駆け接種の狡猾漢も最終的には許してしまう。

人間が小さい僕は、どちらも許せないと怒りはするものの、結局イタリア人の信条にひそかに敬服している分、ま、しょうがないか、と流してしまういつもの体たらくである。




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特許権停止という世迷言

バイデン横顔 650

バイデン大統領が、コロナワクチンの特許を一時停止することに賛成、と表明して世間を騒がせている。

特許を開放して、ワクチン開発者たちの知的財産を世界中に分け与えるべき、という主張だ。

特許権を停止することで、企業秘密である生産ノウハウに誰もがアクセスしてワクチンを製造することができる。そうやってワクチンが貧しい国々にも行き渡る。だから公平だ、という論法だ。

しかし、それを果たして公平と呼べるのだろうか?

新型コロナは変異種の猖けつ もあり世界をますます恐慌に陥れている。その中でも特に苦しんでいるのがインドをはじめとする途上国だ。

そのインドと南アフリカが口火を切って、ワクチン特許の一時停止論が盛んになった。

ワクチン製造の秘密をまず彼らが無償で手に入れて、世界中の途上国も同じ道を行きワクチンを大量に製造して、コロナ禍から脱するというわけだ。

その主張をバイデン大統領が支持した。彼は善意を装っているが、ここまでアメリカは同国産のワクチンを独り占めにしている、という途上国などからの批判をかわす意図も透けて見える。

それに対して主に英独仏をはじめとする欧州各国が不支持を表明した。彼らは貧しい国々へのワクチンの流通を阻んでいるのは特許権ではなく、生産能力や品質基準の問題だと主張している。

またIFPMA(国際製薬団体連合会)も「ワクチンの特許を停止しても、生産量が増えたり世界規模の健康危機への対抗策が直ちに生まれるわけではない」と反論。

IFPMAはさらに、増産の真の障害はワクチンの原材料不足、サプライチェーンの制約、各国のワクチンの囲い込み、貿易障壁などが主要な要因だとも言明している。

当事者たちのそうした懸念を待つまでもなく、特許を保護しなければ研究開発に必要な民間投資が活性化せず、政府等の資金提供も損なわれる。それはイノベーションが起こらずワクチンの製造が不可能になることを意味する。

インドの惨状に心を痛めない人はまれだろう。また先進国だけがワクチンの接種を進めて途上国や貧しい国々にまで行き渡らなくてもよい、と考える者もよほどの冷酷漢でもない限りあり得ない。

弱者や貧しい人々は必ず救済されなければならない。だが、そのために多くの努力と犠牲と情熱を注いでワクチンを開発した人々や会社が、犠牲になってもいいという法はない。

ワクチン製造は慈善事業ではない。能力と意志と勇気と進取の気性に富んだ人々が、多大な労力を注ぎ込み且つ大きな経済的リスクを冒して開発したものだ。

彼らは成功報酬を目当てにワクチンを開発する。利益を得たいというインセンティブがあってはじめてそれは可能になる。それが自由競争を根本に据えた資本主義世界の掟だ。

懸命に努力をしても彼らの知的財産が守られず、したがって金銭的報酬もなければ、もはや誰も努力をしなくなる。しかもパンデミックは今後も繰り返し起きることが確実だ。

製薬会社は高く強い動機を持ち続けられる環境に置かれるべきだ。それでなければ、次のワクチンや治療薬を開発する意欲など湧かないだろう。彼らの努力の結果である特許権を取り上げるのは間違いだ。

特許権を取り上げるのではなく、それを基にして生産量を増やし急ぎ先進国に集団免疫をもたらすべきだ。その後すばやく途上国や貧困国にワクチンを送る方策を考えればいい。

世界はひとつの池のようなものだ。先進国だけが集団免疫を獲得しても、他の地域が無防備のままならコロナの危険は去らない。だから前者をまず救い同じ勢いで他も救えばよい。

先進国は、それ以外の世界のコロナを収束させなければ、どうあがいても彼ら自身の100%の安全を獲得することはできないのだ。

そのためにも特許権を守りつつ生産を大急ぎで増やして、まず先進国を安全にし、その安全を他地域にも次々に敷衍していけばいいのである。

途上国はコロナという大火事に見舞われている。同時に先進国も熱火に焼かれている。自家が燃えているときには、よその家の火事を消しに行くことは中々できない。

まず自家の火事を鎮火させてから、急ぎ他者の火事場に向かうのが最も安全で効果的な方法だ。それでなければ共倒れになって、二つの家が焼け落ちかねない。

バイデン大統領は、ここは善人づらで無定見な政治パフォーマンスをしている場合ではない。重大な発明をした製薬会社を守りつつ、世界の健康を守る「実務」パフォーマンスもぜひ見せてほしいものである。




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反ワクチン論者の理外の理  

ワクチン会場2看板650

明るい兆し

イタリアのコロナワクチン接種計画が軌道に乗りつつある。

EU(欧州連合)のワクチン療治スキームはことしに入ってから挫折しっぱなしだった。EU加盟国のイタリアもむろん例外ではない。

構想が崩れたのは、ワクチン製造会社の供給の遅れだった。特にアストラゼネカが大きく停滞。それは同社がイギリスへの配分だけをこっそり拡大したから、という疑惑さえ生まれた。

だがアストラゼネカ社以外からの供給が3月半ば頃から徐々に増えて、EUのワクチン政策は当初の計画に少しづつ追いついた。イタリアの状況もそれに連れて改善した。

5月5日時点でのイタリアのワクチン接種は一回接種が15.081.403回。総人口のおよそ25,30%。2回接種済の者は6.520.204 人である。

イタリア政府は4月26日、全土にわたるロックダウンを徐々に解除していくと決めた。観光・飲食店業界などが、これ以上の休業には耐えられない、と激しく政府を突き上げた。

それが思い切った緩和策の導入をもたらした。だが、その大きな規制緩和策の裏には、ワクチン接種環境が改善しつつある、という政府の自負もある。

懸念

政策転換は危険な賭けだ。なぜならイタリアのワクチン接種は、たとえばイギリスやアメリカなどに比べるとはるかに数が少ない。拙速な規制緩和は強いリバウンドを呼ぶリスクがある。

それとは別に、イタリアにはワクチン接種に絡むもうひとつの懸念もある。強い反ワクチン勢力の存在である。それが「“No Vax(ノー・ヴァクス)” 」だ。

No Vaxはイタリアの左右のポピュリスト政党、五つ星運動と同盟の主導で勢力を拡大した。きっかけは2017年、イタリア政府が全ての子供に10種類のワクチンを接種する義務を課そうとしたことによる。

過激集団No Vaxはワクチンの「危険と不自然性」を叫んで政府に噛み付いた。そこに「反体制」を標榜する両党が飛びついて運動の火に油を注いだ。火はたちまち燃え盛った。

反体制を標榜する両党は、No Vaxのみならずワクチン接種に懐疑的な人々の票が欲しかったのである。イタリアはフランスに似て、ワクチン接種に積極的ではない人々が多い国だ。

2018年の総選挙では、五つ星運動と同盟が躍進して両党による連立政権が発足。NoVaxはさらに隆盛しワクチン反対運動は激化の一途をたどった。

そこに新型コロナが出現した。No Vaxはそれまでの主張を踏襲拡大して、新型コロナウイルス・ワクチンにも断固反対と叫び始めた。

いきさつ

ワクチンの効能に疑問を持ち、且つ安全性に不安を持つ人々は、世界中で増え続けている。きっかけは20年以上前に遡る。

イギリスの医師、アンドリュー・ウェイクフィールドが、はしかの予防接種は自閉症を引き起こす、というセンセーショナルな論文を発表した。これが反ワクチン派の人々を狂喜させた。

論文はその後ねつ造だったことが分かり、彼は医師免許を剥奪された。しかし、道理を全く認めようとしない反ワクチン過激派の人々には、そんな真実など存在しないに等しい。

彼らはその後もワクチンの危険と欺瞞を「狂信」し続けた。イタリアのNo Vaxはその流れをくむ運動である。それはほぼ彼らの宗教だから、科学の言葉は通じない。

NoVaxは狂信的で声が大きく活動が荒っぽい。各国のグループをまとめる国際的な反ワクチン組織は、NoVaxが引っ張るイタリアの反ワクチン活動を「抵抗のシンボル」とさえ見なしている。

だが、そうはいうものの、ここ最近のイタリアの状況は少し静かに見えないこともない。

国論
コロナワクチンに猛然と異議を唱えているのは、極く少数の過激な人々である。それを裏付けるように、イタリアでワクチン接種が始まってからは、実力行使にまで及ぶ極端な動きは少ない。

仲間同士でつるんで気勢を上げる以外には、接種会場に火炎瓶を投げつけたり、高齢者を煽動して集団で接種を拒否させたりという動きがニュースになったぐらいだ。

またイスラエルや米英など、ワクチン接種先進国における成功が刺激となって、やはり予防接種は重要だという気運が全国的に高まりつつあるのも確かだ。

それでも過去のイタリアのありさまを思うと不安は大きい。

元々ある嫌ワクチン気分に加えて、イタリアの良く言えば多様性に富む国の様態、悪く言えば分裂気質の国民性が、国を挙げてのワクチン接種キャンペーンに影を落としている。

英独仏などの欧州先進国と違って、イタリアは同じ先進国ながら統一した民意が形成されにくい。だからこそイタリア政府は事あるごとに「イタリア全国民こぞって~」という類の主張を繰り返す。

それは多様性ゆえに四分五裂する世論をまとめるための、イタリア政府の懸命の努力のあらわれなのである。

だが、再びイタリアは、英独仏や北欧各国に比べて合理性への帰依が薄い。そこが同じカトリック教国であるフランスとも違う、イタリアの弱点であり面白さだ。

フランスも反ワクチン勢力の強い国だが、最終的には合理的思考が勝って、イタリアとは対照的にワクチン接種賛成論が世論を席巻する可能性が高い。

集団免疫

イタリアはそうはならないかもしれない。いま現在の正確な統計はないが、昨年末あたりの統計では、ワクチン接種に積極的なイタリア人は60%あまりというものもあった。

その60%あまりの人々が、ワクチン接種状況を良い方向に引っ張っているとするなら、やがてそれは行き詰まってしまうかもしれない。そうなるとイタリア政府が目指す「集団免疫」の獲得が頓挫する可能性もある。

「集団免疫」は運が良ければ、国民全体のワクチン接種率70%程度で達成できるともされる。だが一般的には80%程度が目安で、数字が高ければ高いほど確率が高くなる。

既述のように今日現在の明確な統計はないが、僕が友人知己その他を含む独自のネットワークで調べた限りでは、80%の接種率に至るのはかなり厳しいように感じる。

積極的にワクチン接種に反対、とは言わなくても、喜び勇んで接種会場に足を運ぶ気にまではなれない、という者も多いのだ。

NoVaxを筆頭にしたワクチン懐疑派の喧伝と、血栓などの健康被害が発見されたアストラゼネカ・ワクチンの出だしでのつまずき等が、大きく影響しているようだ。

統計の数字にこだわるわけではないが、イタリアのワクチン戦略は接種率が60%に近づいたあたりで停滞し、その後は何らかの措置が取られない限り「集団免疫」の完成には至らない可能性がある。

そうなった場合イタリア政府は、一般的には懐疑論が強い「ワクチン接種の義務化」を模索するかもしれない。イタリアは先日、欧州で初めて医療従事者のワクチン接種を義務化した。

多様性と自由を尊重するところがイタリア共和国の最大の美点だが、それは行き過ぎてカオスを呼び込むことも多い。そしてカオスが制御不能に陥ると、伝家の宝刀「強制施行策」が抜かれる。ワクチン接種もそうなる可能性があるように思う。

切捨てではなく説得が解決策

ワクチン懐疑論者のうち陰謀説などにとらわれている勢力は、科学を無視して荒唐無稽な主張をする米トランプ大統領や追随するQアノンなどを彷彿とさせる。

言うまでもなくワクチンには問題がないわけではない。だがワクチンを凌駕するほどの感染症への特効薬をわれわれ人類ははまだ見出していない。

ワクチンを拒否するのは個人の自由だ。

NoVavを含むワクチン懐疑派の人々は、彼らなりの考えで自分自身と愛する人々の健康を守ろうとしている。

問題は彼らが間違った情報や嘘に惑わされていることだ。

従って彼らは正しい情報と科学の言葉によって説得されるべきだ。決して切り捨てられるべき存在ではない。彼らを納得させるのが政治の仕事である。

ワクチンはフェイクニュースや思い込みに縛られている人々自身を救う。同時に彼らが所属する社会は、コロナ禍から脱出するために「集団免疫」が必要だ。

それは社会の大多数がワクチン接種を受けたときに達成される。彼らを無知蒙昧だとして切り捨てれば、ワクチンの社会的な効果は半減しかねない。

繰り返すが、ワクチン接種は彼ら自身を守ると同時に彼らが生きる社会を守る。為政者は彼らを啓蒙して、そのことをしっかりと理解させなければならない。

どうしても理解しない者、あるいは理解してもワクチン接種を意図的に拒む者には、罰則が科されてもあるいは仕方がないと考える。反社会的行為にも当たるからだ。

むろんコロナパンデミックは、反ワクチン派の人々が主張するように、自然のままに蔓延させることで「自然に」集団免疫ができ「自然に」終息する、という考え方もある。

しかし、そこに至るまでに一体何人の人が死に、医療崩壊を含むどれだけの社会の混乱と不都合と不利益と不自由があるかを考えた場合、やはりワクチンによって終息を図ることが重要だ。

また、ウイルスが絶え間なく変異する怖い存在であることを考えても、できるだけ迅速に宿主を減らしてウイルスの活動を封じ込むべきである。


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男の出産



則菜園:チンゲン&大根中ヒキ800

菜園を耕すようになって10年あまりがたちました。

野菜作りはおいしい食料の獲得、という実利以外にも多くのことを教え、気づかせてくれます。

菜園耕作者はいやでも季節の変化に敏感になり、野菜たちの成長や死滅に大きくかかわる気候変動に一喜一憂します。

彼らは風気の多情に翻弄されつつ、育児のように甲斐甲斐しく野菜たちの世話を焼きます。

菜園作りでもっとも嬉しいのは、育った野菜の収穫です。

そしてもっとも感動的なのは、土中で目覚めた芽が「懸命に」背伸びをし肩を怒らせ、せり上がって土を割る瞬間。

ICHIGO デカデカと650

すなわち大地の出産。

いつ見ても言葉をのむ劇的な光景です。

出産できない男がそこに感服するのは、おそらく無意識のうちに「分娩の疑似体験」めいたものを感じているからではないか。

自ら耕やし、種をまき水遣りをして大切にはぐくむ過程が、仮想的な胚胎の環境を醸成して、男をあたかも女にします。

そして男は大地とひとつになって野菜という子供を生みます。

それはいうまでもなく「生みの苦しみ」を伴わない出産です。

苦しみどころか生みの喜びだけがある分娩です。

だが楽で面白い出産行為も出産には違いありません。

竹かご野菜800に拡大

一方、女性も、菜園の中では男と同じように「命の起こりの奇跡」を再び、再三、繰り返し実体験します。

真の出産の辛さを知る女性は、もしかすると苦痛を伴わないその仕事を男よりもさらに楽しむのかもしれません。

菜園ではそうやって男も女も大地の出産に立ち会い合流します。

野菜作りは実利に加えて人生の深い意味も教えてくれる作業です。

少なくともそんな錯覚さえも与えてくれる歓喜なのです。





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