【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2021年08月

ダンクシュートは異星人のフラメンコ


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開会式は見逃してしまったが、パラリンピックの車いすバスケットボール女子の試合をテレビ観戦した。

予選2試合目のオランダvs米国である。

オランダが68-58で米国を下した。片時も目を離せない出色の試合内容でひどく感動した。

選手のテクニックも身体能力もガッツも、そしてむろんスポーツマンシップも、超一流だと心から思った。

いうまでもなく選手は全員が身体障害者だが、彼女たちのプレーに引き込まれるうちに健常者のそれとの違いが分からなくなった。

例えばNBAなどのプロバスケットチームの試合のほうが非現実で、こちらのほうがリアルだと思ったりした。

特に男子のプロバスケットのゲームでは、よくダンクシュートなどのスーパープレーが飛び出して拍手喝采を浴びる。

だがそうした超人的なパフォーマンスは、僕には異空間の出来事のようで、少しも面白くない。

ただの見世物か曲芸の類いにしか見えないのだ。

身長2m内外の大男たちが、ジャンプしてバスケットの上から中にボールを叩き入れるダンクシュートは、単に身体能力の高さを示すだけで、優れたテクニックや意外性や創造性とは無縁だ。

ま、いわばウドの大木の狂い舞い、というところか。

身体能力抜群のプロ選手を「のろまなウドの大木」と形容するのはむろん正確ではない。

なので「異星人のフラメンコ」とでも言い直しておこう。

いずれにしてもダンクシュートは、背が高くてジャンプ力があれば、いわば誰にでもできるアクションだ。

それどころか、例えば身長が2m46㎝あるイランのパラリンピック選手、モルテザ・メヘルザードセラクジャーニーさんなら、ジャンプしなくても普通に立ったままでダンクシュートができそうだ。

その場合も身体能力はむろん高いに違いない。が、テクニックや創造性というわれわれを感動させるスポーツのエッセンスは、やはりほとんど存在しない

一方、女子車いすバスケットの選手たちは、不自由な身体を持ちながらもテクニックによってそれをカバーし、プレーヤーとしてはるかな高みにまで達している。

車いすをまるで自らの体の一部でもあるかのように正確に操作しつつボールを受け、ドリブルしパスを送り、相手の動きをかわしたりブロックしたりする。

そして究極のアクションは、上半身だけのバネを使っての正確かつエレガントなショットの数々。

ショットはもちろん外れることもある。だがおどろくほどの高い確率でボールはゴールネットに吸い込まれる。

ショットの力量も、身体の全ての動きも、ボールコントロール技術も何もかも、飽くなき厳しい鍛錬によって獲得されたものであることがひと目で分かる。

彼女たちがパラリンピアンとして、あるいは世界有数のアスリートとして、そのひのき舞台に立っているのは必然のことなのだ、とまざまざと思い知らされるのだ。

選手の躍動を支えているに違いない激甚なトレーニングと、自己管理と、飽くなき向上心が目に見えるようで激しく心を揺さぶられる。

彼女たちのプレーは現実の高みにあるものである。

言葉を替えれば、われわれ素人がバスケットボールを遊ぶその遊びの中身が、鍛錬と自己規制と鉄の意志によって、これ以上ない練熟の域にまで達したものだ。

ダンクショットを打つNBAの猛者たちももちろん優れたアスリートであり熟練者である。

しかし彼らの身体能力は、キャリア追及の初めから常軌を逸するほどに優れていて、努力をしなくても既にはるかな高みにある。

そのことが彼らをいわば異次元のアスリートに仕立て上げる。現実味がない。いや現実味はあるのだが、われわれ凡人とは違う何者か、という強烈な印象を与える。

もっと言えば、われわれは努力しても逆立ちしてもダンクシュートを打つプレーヤーにはなれないが、われわれは努力し情熱を持ち鍛錬すれば女子車いすバスケットの選手の域に達することができる。

達することができる、とわれわれが希望を持っても構わないような、そんな素晴らしい現実味がある。

彼女たちがわれわれと同じ地平から出発して、プロの高みと呼んでも構わない最高位のプレーヤーの域に達したように。

いや、少し違う。

不自由な肉体を持っている彼女たちは、身体能力という意味ではむしろわれわれ健常者よりも低い地平から身を起こした。

そしてわれわれの域を軽々と超えて、通常レベルのアスリートの能力も凌駕してついに熟練のプレーヤーにまでなった。

しかも彼女たちは、ダンクシュートを打つ異星人ではなく、飽くまでもわれわれと共にいる優れたアスリートであり続ける。

その事実が、われわれを激しく感動させてやまないのである。





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日本の感染爆発とワクチン無策の相関図

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ワクチン無策の危険

日本の今の急激なコロナ感染拡大は、経済活動を含む国民の全ての動きを封鎖する厳格なロックダウンを断行してこなかったことの当然の帰結である。

経済も維持しながら感染拡大も抑える、という理想像を追いかけて日本はここまで来た。

その延長で経済を回すどころか、必ず感染拡大につながると見られていたオリンピックさえ開催した。

そして予想通り感染急拡大がやってきた。

だが日本の課題は感染拡大ではない。ワクチン政策の失敗、あるいはもっと直截に言えば、ワクチン無策が最大の問題である。まともなワクチン政策があったならば日本の今の感染爆発などどうということもなかったのだ。

なぜならワクチン接種が進展していれば、感染拡大が起きても重症化や死亡が防げる。それは医療崩壊危機も遠ざけるということと同義語である。

ここイタリアを含む現在の欧州やアメリカ、またイスラエルなどがそういう状況下にある。

展望なき2人のボスの罪

ウイルス感染を予防するワクチンだけがコロナパンデミックから人類を救うというコンセプトは、コロナ禍が深刻になった時点で世界中の科学者や有能な政治家などに共有されていた。

だがそのことを理解した有能な政治家の中には、残念ながら日本の安倍前首相と菅首相は含まれていなかったようだ。

彼らはワクチン争奪戦が熾烈になることを予測するどころか、ワクチンそのものが人類を救うという厳然たる事実にさえ気づかないように、目の前の感染拡大と経済、つまり金との融和だけに気を取られた。

もっと言えばオリンピックという巨大イベントの開催を執拗に推し進めながら、ワクチンが五輪開催にとって命綱とさえ言えるほどに重要であることに気づかず、たずらに時間を費やした。

その意味では安倍前首相の罪は菅首相にも増して深い。なぜなら安倍前首相こそ五輪開催を熱心に唱えた張本人だからだ。

前首相の右腕だった菅首相は、ボスの足跡を忠実になぞっただけだ。だからと言って、現在は日本最強の権力者の地位にいる菅首相の罪が軽減されるわけではないけれど。

いつか来た道

今の日本の感染拡大のありさまは、イタリアの昨年の10月末~11月ころに似ている。

とはいうものの似ているのは一日当たりの感染者の増減で、重症者や死者の数は圧倒的に当時のイタリアのほうが多かった。

2波に見舞われていた当時のイタリアには、今とは違ってワクチン接種が進行している事実から来る希望も余裕もなかった。

イタリアは世界に先駆けてロックダウンを敢行した第1波時とは逆に、同国に先んじてロックダウンを導入したドイツ、フランス、イギリス等を追いかけて、部分的なロックダウンを断行しながら第2波の危機を乗り切った。

そして20201227日、世界の情勢が読めない日本がまだぼんやりとしている間に、ワクチン接種を開始してコロナとの戦いの新たなフェーズに突入した。

ワクチン争奪戦

ワクチンの入手は当初は困難であることが明らかになった。イギリスのアストラゼネカ社のワクチン生産が間に合わずEUはワクチン不足に陥った。

EUは一括してワクチンを購入し加盟各国に分配する方式を取った。そのためEU加盟国であるイタリアもワクチン不足で接種事業が停滞した。

ところがBrexitEUを離脱したばかりのイギリスは、EUをはるかに凌ぐ勢いでアストラゼネカ社製を含む各種のワクチンを入手して、急速に国民への接種を進めた。

EUは疑心暗鬼になった。イギリスの製薬会社であるアストラゼネカが、秘密裡に母国への供給を優先させているのではないか、と考えたのである。

EU加盟国はこぞってアストラゼネカを責め、同社の製品をボイコットするなどの対抗措置に出た。イギリス政府への不満も募らせた。

誰も表立って認めることはなかったが、そこにはEUを離脱して連合の弱体化を招いたイギリスへの反感もくすぶっていた。それはEUとイギリスの将来の関係を示唆する出来事のようにも見えた。

EUとイギリスは、後者の離脱によって発生したドーバー海峡での漁業権をめぐって既に対立を深めていた。イギリスは海峡に戦艦を送りフランスが対抗するなどの事態にさえなった。

ワクチン争奪戦は一歩間違えば、血で血を洗う武力衝突が日常茶飯事だったかつての欧州への先祖返りさえ示唆するような、深刻な事態を招く可能性もゼロではなかった。

しかしアストラゼネカ社の不正がうやむやになる中、幸いにもファイザー社のワクチンを始めとする各社の製品の供給が進んで、EUのワクチン接種戦略は2月末~3月にかけて大きく進展した。

イタリアの安心

EUへのワクチン供給がスムーズになるに連れて、イタリアのワクチン接種環境も大きく改善した。

2021823日現在、イタリア国民の61,2%が2回の接種を済ませている。

それによって人々の日常は―マスクを付けたまま対人距離を保つ習慣はまだ捨てられないものの―コロナ禍以前と同じ生活に戻りつつある。

それはEUに加盟する国々にほぼ共通した状況である。

イタリアの過ぎた地獄と日本のノーテンキ

イタリアは20203月、コロナの感染爆発に見舞われ医療崩壊に陥った。そのため世界に先駆けて全土ロックダウンを敢行した。

それは功を奏してイタリアは地獄から生還した。

イタリアの先例は後に感染爆発に見舞われたフランス、イギリス、スペイン、ドイツの欧州各国やアメリカなどの手本となり、ロックダウンは世界中で流行した。

世界の成り行きを固唾を飲みながら見守っていた日本政府は、感染爆発の気配が見えた時、「緊急事態宣言」を発出して国民の移動を規制し危機を脱しようと企んだ。

強制力のない「緊急事態宣言」は、日本社会に隠然とはびこる同調圧力を利用しての、政権安易なコロナ政策にほかならない。

国民が自らの「自由意志」によって外出を控え、集合や密を回避し、行動を徹底自制して感染拡大を防ぐ、とは言葉を替えれば「感染拡大が止まなければそれは国民自身のせいだ」ということである。

日本社会の同調圧力は、時として「民度の高さ」と誤解されるような統一した国民意識や行動規範を醸成してポジティブに作用することも少なくない。

だがそれは基本的には、肌合いの違う者や思想を排除しようとするムラの思想であり精神構造である。村八分になりたくないなら政府の方針を守れ、と恫喝する卑怯な政策が緊急事態宣言なのである。

それに対してロックダウンは、政府が敢えて国民の自由な行動を規制して感染拡大を食い止める代わりに、不自由を押し付けた代償として政府の責任において国民生活を保障し国民の健康を守る、という飽くまでも国民のための「不愉快な」強行政策なのである。

日本の幸運がもたらした不幸

安倍前政権と菅政権は、1度目はともかく2度目以降は必ず“宣言慣れ“や“宣言疲れ”が出て効果が無くなる緊急事態宣言を連発して、災いの元を絶たない対症療法に終始した。

その結果起きているのが、閉幕したオリンピックの負の効果も相乗して勢いを増している、今現在の感染爆発である。

だがそれは、日本のコロナ禍が世界の多くの国に比較して軽いという、「僥倖がもたらした行政の怠慢」という側面もあると思う。

つまり日本はこれまで、ロックダウン=国土の全面封鎖という極端な策を取らなければならなくなるほどの感染爆発には見舞われなかった。

だからこそコロナパンデミックの巨大な危機に際して、緊急事態宣言という生ぬるい政策を思いつき、gotoキャンペーンのような驚きの逆行策がひねり出され、挙句にはオリンピックの開催という究極の反動策まで強行することができた。

そうした日本の幸運な、だがある意味では不幸でもある現実に照らし合わせてみれば、安倍前首相や菅総理を一方的に責め立てることはできないかもしれない。

万死に値する無定見

ところが現実には彼らは、日本の最高責任者として万死にも値するというほどの失策を犯した。

それが冒頭から何度も述べているワクチン政策の巨大なミスである。いや、ワクチン対応の巨大な無策ぶりと言うべきかもしれない。

彼らは世界中の多くの指導者が早くから見抜き、遠慮深謀し、そこへ向けてシビアに行動を開始していた「ワクチン獲得への道筋」を考えるどころか、それの重要性さえ十分には理解していなかった節がある。

だからこそ安倍前首相は、東京五輪を開催すると繰り返し主張しながら、長期展望に基づいたワクチン戦略を策定しなかった。いや、策定できなかった。

そんなありさまだったからこそ日本はワクチン争奪戦に敗れた。

そのために欧米またイスラエルなどがワクチン政策を成功させて、パンデミックに勝利する可能性さえ見えてきた情勢になっても、日本国内にはワクチンが不足するという目も当てられないような失態を演じることになった。

それだけでは飽き足らず、日本は人流と密と接触の増大が避けられない東京五輪まで強行開催した。

その結果、冒頭でも例えた如く「予定通りに」感染爆発がやってきた。

祈り

コロナ地獄に陥ったイタリアで、身の危険を実感しながら日々を過ごした体験を持つ僕の目には、実は今の日本の感染爆発はまだまだ安心というふうに見える。

その一方で、ワクチン不足と接種環境の不備という2つの厳しい現実があることを思えば、それは逆に極めて不気味、且つ危険な様相を帯びて見えてくるのもまた事実である。

僕は遠いイタリアで、母国のワクチン接種の進展と、さらなる僥倖の降臨を祈るばかりである。





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一石二鳥のニラツナ・パスタ

笊のニラ


日本にある一般的な野菜の中でイタリアにはないもののひとつがニラです。

筆者はニラが好きなので仕方なく自分で育てることにしました。

わが家はミラノ郊外のブドウ園に囲まれた田舎にあります。ですから菜園用の土地には事欠きません。

日本に帰った際にニラの種を買って戻って、指定された時期にそれを菜園にまきました。が、種は一切芽を出しませんでした。
 
イタリアは日本よりも寒い国だから、と時期をずらしたりして試してみましたが、やはり駄目でした。20年近くも前のことです。

いろいろ勉強してプランターで苗を育てるのはどうだろうかと気付きました。

次の帰国の際にニラ苗を持ち込んでプランターに植えました。今度はかなり育ちました。

かなりというのは日本ほど大きくは育たなかったからです。

成長すれば30~40センチはあるりっぱなニラの苗だったのですが、ここではせいぜい15~20センチ程度しかなく茎周りも細かったのです。

しかし、野菜炒めやニラ玉子を作るには何の支障もありませんので、頻繁に利用しています。

そればかりではありません。ニラはニンニク代わりにも使えます。特にパスタ料理には重宝します。

わが家ではツナ・スパゲティをよく作りますが、そこではニンニクを使わずニラをみじん切りにして加えます。ニンニクほどは匂わずしかもニンニクに近い風味が出ます。

またニンニクとオリーブ油で作る有名なスパゲティ「アーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノ」にもニラをみじん切りにして加えたりします。

すると味が高まるばかりではなく、ニラの緑色が具にからまって映えて、彩(いろど)りがとても良くなります。

見た目が美しいとさらに味が良くなるのは人間心理の常ですから、一石二鳥です。





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死刑廃止論も存置論も等しく善人の祈りである

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ステレオタイプの二元論

残忍な殺人事件や、銃乱射、テロ等が発生するたびに死刑制度の是非について繰り返し考える。そのたび思いは深くなり、重なり広がってやがて困惑するのがいつもの道筋である。

最近では77人を虐殺したノルウエーの殺人鬼アンネシュ・ブレイビクが、刑期のほぼ半分を終えて10年後に自由の身となる事実に、いわく言い難い違和感を覚えた。

僕の理性は死刑を否定し、その残虐性を憎み、自らの思いが寛容と開明に彩られた世界の趨勢に共鳴しているらしいことに安堵する。

ところが同時に僕の感情は、何かが違うとしきりに訴えている。

死刑は非情で且つ見ていて苦しいものだが、それを否定することで全ての問題が解決されるほど単純ではない。

死刑制度を否定することで、われわれは犠牲者を忘れるという重大な誤謬を犯しているかもしれない。

だが死刑制度を必要悪として認めてしまえば、それは死刑存置論となにも変わらない依怙地な守旧思想になる。

死刑制度の是非は古くて新しい命題だ。守旧部分にも何らかの真実や事態の本質が詰まっている。

そして守旧派の主張とは死刑制度の肯定以外のなにものでもない。

殺人鬼 

2011年7月22日、極右思想に染まったキリスト教原理主義者のアンネシュ・ブレイビク はノルウエーの首都オスロで市庁舎を爆破したあと、近くの島で若者に向けて銃を乱射する連続テロ事件を起こした。

爆破事件では8人、銃乱射事件では69人が犠牲になった。後者の犠牲者は、全員がリベラル政党を支持するために集まっていた10代の若者たちだった。

警官制服で偽装したブレイビクは、自らが計画実行した市庁舎の爆破事件の捜査を口実にして、若者らを整列させ銃を乱射し始めた。

逃げ惑う若者を追いかけ狙い撃ちにしながら、ブレイビクは倒れている犠牲者の生死を一人ひとり確認し、息のある者には情け容赦なくとどめをさした。

泣き叫ぶ者、情けを請う者、母の名を呼ぶ者などがいた。ブレイビクは一切かまわず冷酷に、そして正確に若者たちを射殺していった。

今からちょうど10年前、そうやって77人もの人々を爆弾と銃弾で虐殺したノルウェーの怪物ブレイビクは、たった11年後には自由の身となる。

ノルウェーの軽刑罰 

残虐な殺人者は、逮捕後は死刑どころか終身刑にさえならず、禁固21年の罰を受けたのみである。

ノルウェーにはほとんどの欧州の国々同様に死刑はなく、いかに酷薄な犯罪者でも禁固21年がもっとも重い刑罰になる。

ノルウェーには他の多くの国に存在する終身刑もない。厳罰主義を採らない国はここイタリアを始め欧州には多いが、ノルウェーはその中でも犯罪者にもっとも寛容な国といっても過言ではないだろう。

世界の潮流は死刑制度廃止であり、僕もかすかなわだかまりを覚えつつもそれには賛同する。

わだかまりとは、死刑は飽くまでも悪ではあるものの、人間社会にとって―必要悪とまでは言わないが―存在する意義のある刑罰ではないか、という疑念が消えないことだ。

少なくともわれわれ人間は、集団で生きていく限り、死刑制度はあるいは必要かもしれない、と常に自問し続けるべきだと思う。

それぞれの言い分  

世界の主流である死刑廃止論の根拠を日本にも絡めて改めて列挙しておくと:

1.基本的人権の重視。人命はたとえ犯罪者といえども尊重されるべき。死刑で生命を絶つべきではない。

2.どんなに凶悪な犯罪者でも更生の余地があるから死刑を避けてチャンスを与えるべき。

3.現行の裁判制度では誤判また冤罪をゼロにすることは不可能であり、無実の人を死刑執行した場合は取り返しがつかない。

4.国家が人を殺してはならないとして殺人罪を定めながら、死刑によって人を殺すのは大いなる矛盾。決して正当化できない。

5.死刑執行法と制度自体が残虐な刑罰を禁止する日本国憲法第36条に違反している。

6.死刑廃止は世界の潮流であるから日本もそれに従うべき等々。

これらの論拠の中でもっとも重大なものは、なんといっても「誤判や冤罪による死刑執行があってはならない」という点だろう。このことだけでも死刑廃止は真っ当すぎるほど真っ当に見える。

一方、死刑存置派はもっとも重大な論拠として、被害者とその遺族の無念、悲しみ、怒り等を挙げる。彼らの心情に寄り添えば極刑も仕方がないという立場での死刑肯定論である。

それらのほかに凶悪犯罪抑止のため。仇討ちや私刑(リンチ)を防ぐため。凶悪な犯罪者の再犯を防ぐため。大多数の日本国民(80%)が死刑制度を支持している。人を殺した者は自らの生命をもって罪を償うべき、等々がある。

主張の正邪

死刑肯定論者が主張する凶悪犯罪抑止効果に対しては、廃止論者はその証拠はない、として反発する。実際に抑止効果があるかどうかの統計は見つかっていない。

また80%の日本国民が死刑を支持しているというのは、設問の仕方が誘導的であり実際にはもっと少ないという意見もある。

また誤判や冤罪は他の刑の場合にも発生する。死刑だけを特別視するのはおかしい、という存置派の主張に対しても、死刑廃止論者はこう反論する。

「死刑以外の刑罰は誤判や冤罪が判明した場合には修正がきく。死刑は人の命を奪う。その後で誤判や冤罪が判明しても決して元に戻ることはできない。従って死刑の誤判や冤罪を他の刑罰と同列に論じることは許されない」と。

そうして見てくると、死刑制度が許されない刑罰であることは明らかであるように思う。

無実の者を死刑にしてしまう決してあってはならない間違いが起こる可能性や、殺人を否定しながら死刑を設ける国の矛盾を見るだけでも、死刑廃止が望ましいと言えるのではないか。

生きている加害者の命は死んだ被害者の命より重いのか

生まれながらの犯罪者はこの世に存在しない。何かの理由があって彼らは犯罪を犯す。その理由が貧困や差別や不平等などの社会的な不正義であるなら、その根を絶つための揺るぎのない施策が成されるべきである。

死刑によって犯罪者を抹殺し、それによって社会をより安全にする、というやり方は間違っている。

憎しみに憎しみで対するのは、終わりのない憎しみを作り出すことである。その意味でも死刑廃止はやはり正しい。

それでいながら僕は、やはりどうしても死刑廃止論に一抹の不審を覚える。それは次のような疑念があるからだ。

殺人鬼の命も重い。従って殺してはならないという死刑廃止論は、殺されてしまった被害者の命を永遠に救うことができない。

命を救うことが死刑廃止の第一義であるなら、死刑廃止論はその時点で既に破綻しているとも言える

また死刑廃止論は、「生きている加害者を殺さない」ことに熱心なあまり、往々にして「死んでしまっている被害者」を看過する傾向がある。

生者の人権は、たとえ悪人でも死者の人権より重い、とでもいうのだろうか。それでは理不尽に死者にされてしまった被害者は浮かばれない。

死刑廃止は凶悪犯罪の抑止にならない

死刑は凶悪犯罪の抑止に資することはないとされる。ところが同時に、死刑廃止も凶悪犯罪の抑止にはつながらない。

死刑のない欧州で、ノルウェー連続テロ事件やイスラム過激派によるテロ事件のような重大犯罪が頻発することが、そのことを如実に示している。

この部分では死刑制度だけを責めることはできない。

なるべくしてなった凶悪犯罪者には死刑は恐怖を与えない。だから彼らは犯罪を犯す。

だがそれ以外の「まともな」人々にとっては、死刑は「犯罪を犯してはならない」というシグナルを発し続ける効果がある。それは特に子供たちの教育に資する。

恐怖感情を利して何かを達成するというのは望ましいことではない。だが犯罪には常に恐怖が付きまとう。

特に凶悪犯罪の場合にはそれは著しい。

従って恐怖はこの場合は、必要悪として認めても良い、というふうにも考えられる。

汚れた命 

殺してはならない生命を殺した凶悪犯は、その時点で「人を殺していない生命」とは違う生命になる。分かりやすいように規定すれば、いわば汚れた生命である。

殺人犯の汚れとは被害者からの返り血に他ならない。

従って彼らを死刑によって殺すのは、彼らが無垢な被害者を殺したこととは違う殺人、という捉え方もできる。

汚れた生命は「汚れた生命自身が与えた被害者の苦しみ」を味わうべきという主張は、復讐心の桎梏から逃れてはいないものの、荒唐無稽なばかりとは言えない。

理論上もまた倫理上も死刑は悪である、だが人は理論や倫理のみで生きているのではない。人は感情の生き物でもある。その感情は多くの場合凶悪犯罪者を憎む。

揺るぎない証拠に支えられた凶悪犯罪者なら、死刑を適用してもいいと彼らの感情は訴える。だが、最大最悪の恐怖は―繰り返しになるが―冤罪の可能性である。

法治国家では誤判の可能性は絶対に無くならない。世の中のあらゆる人事や制度にゼロリスクはあり得ない。裁判も例外ではなく必ず冤罪が起きるリスクを伴う。

ほんのわずかでも疑問があれば決して死刑を執行しない、あらゆる手を尽くして死刑に相当するという確証を得た場合のみ死刑にすることを絶対条件に、極刑を存続させてもいいという考えもあり得る。

ノルウエーのブレイビクのような凶悪な確信犯が、彼らの被害者が味わった恐怖や痛みを知らずに生き延びるのはおかしい。理由が何であるにせよ、残虐非道な殺人を犯した者が、被害者の味わった恐怖や痛みや無念を知ることなく、従って真の悔悟に至ることも無いまま、人権や人道の名の下で保護され続けるのは不当だと思う。

彼らは少なくとも死の恐怖と向き合うべきだ。それは殺されない終身刑では決して体験できない。死刑の判決を受けて執行されるまでの時間と、執行の瞬間にのみ味わうことができる苦痛だ。

彼らは死の恐怖と向き合うことで、必ず自らの非情を実感し被害者がかけがえのない存在であることを悟る。悟ることで償いが完成する。

犯罪者以外は皆善人

死の恐怖を強制するのはむろん野蛮で残酷な仕打ちだ。だが彼らを救うことだけにかまけて、被害者の無念と恐怖を救おうとしない制度はもっと野蛮で残酷だとも言える。

つまるところ死刑制度に関しては、その廃止論者のみが100%善ではない。存置論者も犯罪を憎む善人であることに変わりはないのである。

無闇やたらに死刑廃止を叫んだり、逆にその存置を主張したりするのではなく、多くの人々―特に日本人―が感じている「やりきれない思い」を安んじるための方策が模索されるべきだ。

死刑をさっさと廃止しない日本は、この先も世界の非難を浴び続けるだろう。

だが民意が真に死刑存置を望むなら、国民的議論が真剣に、執拗に、そして胸襟を開いてなされるべき時が来ている。

日本は国民議論を盛り立てて論争の限りを尽くし、その上で独自の道を行っても構わないのではないか。

いつの日か「日本が正しい」と世界が認めることがないとは、誰にも言えないのである。



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イタリアが燃えている


山火事キプロス650

イタリアは文字通り燃えるほどの猛暑に見舞われている。

南部のシチリア島では811日、欧州の最高気温となる48,8℃を記録した。それまでの欧州記録は1977年ギリシャのアテネで観測された48℃。

なお、1999年に今回と同じシチリア島で48,5℃が観測されたが、それは公式の記録としては認められていない。

欧州とは思えないほどの熱波はアフリカのサハラ砂漠由来のもの。広大な砂漠の炎熱は、ヒマラヤ山脈由来の大気が日本に梅雨をもたらすように、地中海を超えてイタリアに流れ込み気象に大きな影響を及ぼす。よく知られているのは「シロッコ」。

熱風シロッコはイタリア半島に吹き付けて様々な障害を引き起こすが、最も深刻なのは水の都ベニスへの影響シロッコは秋から春にかけてベニスの海の潮を巻き上げて押し寄せ、街を水浸しにする。ベニス水没の原因の一つは実はシロッコなのである。

48,8℃を記録した今回の異様な気象は、アフリカ起源の炎熱もさることながら地球温暖化の影響が大きいと見られている。

シチリア島では熱波と空気乾燥で広範囲に山火事が起きた。

シチリア島に近いイタリア本土最南端のカラブリア州と、ティレニア海に浮かぶサルデーニャ島でも山林火災が発生し緊急事態になっている。

同じ原因での大規模火災は、ギリシャやキプロス島など、地中海のいたるところでも連続して起きている。

熱波と乾燥と山火事がセットになった「異様な夏」は、もはや異様とは呼べないほど“普通”になりつつあるが、山火事に関してはイタリア特有の鬱陶しい現実もある。

経済的に貧しい南部地域に巣くうマフィアやンドランゲッタなどの犯罪組織が、人々を脅したり土地を盗んだりするために、わざと山に火を点けるケースも多々あると見られているのだ。

イタリアは天災に加えて、いつもながらの人災も猖獗して相変わらず騒々しい。

偶然だが、ことし6月から7月初めにかけての2週間、いま山火事に苦しんでいるカラブリア州に滞在した。

その頃も既に暑く、昼食後はビーチに出るのが億劫なほどに気温が上がった。

夕方6時頃になってようやく空気が少し落ち着くというふうだった。

それでもビーチの砂は燃えるほどに熱く、裸足では歩けなかった。

人々の話では普段よりもずと暑い初夏ということだった。今から思うとあの暑さが現在の高温と山火事の前兆だったようだ。

北イタリアの僕の菜園でもずっと前から異変は起きていた。

4月初めに種をまいたチンゲン菜とサントー白菜が芽吹いたのはいいが、あっという間に成長して花が咲いた。

花を咲かせつつ茎や葉が大きくなる、と形容したいほどの速さだった。

チンゲン菜もサントー白菜も収穫できないままに熟成しきって、結局食べることができなかった。

温暖化が進む巷では、気温が上昇する一方で冷夏や極端に寒い冬もあったりして、困惑することも多い。

だが菜園では野菜たちが異様に早い速度で大きくなったり、花を咲かせて枯れたり、逆に長く生き続けるものがあったりと、気温上昇が原因と見られる現象が間断なく起きている。

自然は、そして野菜たちは、確実に上がり続けている平均気温を「明確」に感じているようだ。

だがいかなる法則が彼らの成長パターンを支配しているかは、僕には今のところは全くわからない。

今回のイタリアの酷暑は、バカンスが最高に盛り上がる8月15日のフェラゴスト(聖母被昇天祭)まで続き、その後は徐々にゆるむというのが気象予報だ。

だがいうまでもなくそれは、温暖化の終焉を意味しない。

それどころか、暑さはぶり返して居座り、気温の高い秋をもたらす可能性も大いにありそうである。




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開会式で五輪マークという神輿を担いだ日本の孤独 

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危なかしい純真

五輪の開幕式をやや否定的な気分でテレビ観戦した。

思い入れの強いシークエンスの数々が、「例によって」空回りしていると感じた。

「例によって」というのは、国際的なイベントに際して、見本人が自らの疎外感を穴埋めしょおうとしてよく犯す誤謬にはまっていると見えたからである。

英語にnaiveという言葉がある。ある辞書の訳をそのまま記すと:

「(特に若いために)世間知らずの、単純な、純真な、だまされやすい、単純で、純真で、(特定の分野に)未経験な、先入的知識のない、甘い、素朴な」

などとなる。

周知のようにこの言葉は日本語にも取り込まれて「ナイーブ」となり、本来のネガティブな意味合いが全てかき消されて、純真な、とか、感じやすい、とか、純粋な、などと肯定的な意味合いだけを持つ言葉になっている。

五輪開会式のパフォーマンスには、否定的なニュアンスが強い英語本来の意味でのnaiveなものがいっぱいに詰まっていると思った。意図するものは純真だが、結果は心もとない、とでもいうような。

それは五輪マークにこだわった開会式典の、コアともいうべきアトラクションに、もっともよく表れていた。

美しい空回り

日本独特の木遣り唄に乗せて職人が踊るパフォーマンスは興味深いものだった。トンカチやノコギリの音が打楽器を意識した音響となって木霊し、やがて全体が大仕掛けの乱舞劇へとなだれ込んでいく演出は悪くなかった。

だがすぐに盛り下がりが来た。

踊る職人たちの大掛かりな仕事の中身が、「木製の五輪マーク作り」だった、と明らかになった時だ。

演出家を始めとする制作者たちは、日本文化の核のひとつである木を用いて、「オリンピックの理念つまり核を表象しているところの五輪マーク」を創作するのは粋なアイデアだ、と自画自賛したに違いない。またそれを喜ぶ人々も多くいたようだ。

英国のタイムズ紙は、開会式が優雅で質朴で精巧だった、とかなり好意的に論評した。パンデミックの中での開催、日本国民の不安や怒りなどが影響して、あまり悪口は言えない雰囲気があったのだと思う。

木遣り唄のパフォーマンスは、タイムズ紙が指摘したうちの質朴な要素に入るのだろうが、実際にはそれは日本人の屈折した心理が絡んだ複雑極まる演出で、質朴とはほど遠いものだった。

なぜなら職人たちが作ったのは五輪マークという「神輿」だったからだ。

神輿に改造された五輪マークは、そうやって現実から乖離して神聖になり、担いで崇めてさえいればご利益があるはずの空虚な存在になった。

傍観者

僕は五輪マークに異様に強くこだわる心理が世界の気分と乖離していると感じた。

五輪の理念や理想や融和追求の姿勢はむろん重要なものである。

だがそれらは、日本が建前やポーズや無関心を排して、真に世界に参画する行動を起こすときにこそ意味を持つ。

しかし日本はその努力をしないままに、世界や日本自身の問題に対しスローガンや建前を前面に押し出すだけの、いわば傍観者の態度で臨んでいることが多い。

具体的に言えば例えば次のようなことだ。

日本は先進国でありながら困難に直面している難民に酷薄だ。また実態は「移民」である外国人労働者に対する仕打ちも、世界の常識では測れない冷たいものであり続けている。

日本国内に確実に増え続けている混血の子供たちへの対応も後手後手になっている。彼らをハーフと呼んで、それとも気づかないままに差別をしているほとんどの国民を啓蒙することすらしない。

世界がひそかに嘲笑しているジェンダーギャップ問題への対応もお粗末だ。対応する気があるのかどうかさえ怪しいくらいだ。

守旧派の詭弁

夫婦同姓制度についても女性差別だとして、日本は国連から夫婦別姓に改正するよう勧告を受けている。

するとすぐにネトウヨヘイト系保守排外主義者らが、日本の文化を壊すとか、日本には日本のやり方がある、日本には夫か妻の姓を名乗る自由がある、などという詭弁を声高に主張する。日本政府は惑わされることなく、世界スタンダードを目指すべきなのに、それもしない。

夫婦別姓で文化が壊れるなら、世界中のほとんどの国の文化が壊れていなければならない。だが実際には全くそうなってなどいない。

その主張は、男性上位社会の仕組みと、そこから生まれる特権を死守したい者たちの妄言だ。

日本の法律では夫か妻の姓を名乗ることができるのは事実だ。だがその中身は平等とはほど遠い。ほとんどの婚姻で妻は夫の姓を名乗るのが現実だ。そうしなければならない社会の同調圧力があるからだ。

同調圧力は女性に不利には働いている。だから矯正されなければならない、というのが世界の常識であり、多くの女性たちの願いだ。

言うまでもなく日本には、何事につけ日本のやり方があって構わない。だがその日本のやり方が女性差別を助長していると見做されている場合に、日本の内政問題だとして改善を拒否することは許されない。国内のトランプ主義者らによる議論のすり替えに惑わされてはならないのだ。

五輪は世界に平和をもたらさない

それらの問題は、日本が日本のやり方で運営し施行し実現して行けばよい他の無数の事案とは違って、「世界の中の日本」が世界の基準や常識や要望また世論や空気を読みながら、「世界に合わせて」参画し矯正していかなければならない課題だ。

日本が独自に問題を解決できればそれが理想の形だ。だが日本の政治や国民意識が世界の常識の圏外にあるばかりではなく、往々にして問題の本質にさえ気づかないケースが多い現状では、「よそ」のやり方を見習うのも重要だ。

日本は名実ともに世界の真の一員として、世界から抱擁されるために、多くの命題に本音で立ち向かい、結果を出し、さらに改善に向けて行動し続けなければならない。

「絆を深めよう」とか、「五輪で連帯しよう」とか、「五輪マークを(神輿のように)大事にしよう」とか、あるいは今回の五輪のスローガンである感動でつながろう(united by emotion」などというお題目を、いくら声高に言い募っても問題は解決しない。

オリンピックは連帯や共生やそこから派生する平和を世界にもたらすことはない。世界の平和が人類にオリンピックをもたらすのである。

そして平和や連帯は、世界の国々が世界共通の問題を真剣に、本音で、互いに参画し合って解決するところに生まれる。

今の日本のように、世界に参加するようで実は内向きになっているだけの鎖国体制また鎖国メンタリティーでは、真に世界と連携することはできない。

輪開会式に漂う日本式の「naive」なコンセプトに包まれたパフォーマンスを見ながら、僕はしみじみとそんなことを頭に思い描いたりした。

美しい誤謬

この際だから最後に付け加えておきたい。

古い日本とモダンな日本の共存、というテーマも五輪の意義や理想や連帯にこだわりたい人々が督励したコンセプトである。

そのことは市川海老蔵の歌舞伎十八番の1つ「暫(しばらく)」と女性ジャズピアニストのコラボに端的に表れていた。

日本には歴史と実績と名声が確立した伝統の歌舞伎だけではなく、優秀なモダンジャズの弾き手もいるのだ、と世界に喧伝したい熱い気持ちは分かるが、僕は少しも熱くならなかった。

古い歌舞伎に並べて新しい日本を世界に向けてアピールしたいなら、例えば開会式の華とも見えた「2000台近い発行ドローンによる大会シンボルマークと地球の描写」をぶつければよかったのに、と思った。

ドローンによるパフォーマンスこそ日本の技術と創造性が詰まった新しさであり、ビジョンだと感じたのだ。

日本の誇りである「大きな」且つ「古い」歌舞伎に対抗できるのは、ひとりのジャズピアニストではなく、新しいそのビジョンだったのではないだろうか。

さらに、意味不明のテレビクルーのジョークはさて置き、孤独なアスリートや血管や医療従事者などのシンボリックなシーンは、手放しでは祝えない異様な五輪を意識したものと考えれば共感できないこともない。だが残念ながらそこにも、再び再三違和感も抱いた。

そもそも心から祝うことができないない五輪は開催されるべきではない。だが紆余曲折はあったものの既に開催されてしまっているのだから、一転してタブーを思い切り蹴散らして、想像力を羽ばたかせるべきではないかと感じた。アートに言い訳などいらないのだ。

オリンピックは、例えば「バッハ“あんた何様のつもり?”会長」の空虚でむごたらしくも長い「挨拶風説教」や、政治主張や訓戒や所論等々の強要の場ではなく、世界が参加する祝祭なのだ。祝祭には祝祭らしく、活気と躍動と歓喜が溢れているほうがよっぽど人の益になる。

最後に、自衛隊による国旗掲揚シーンは、2008年中国大会の軍事力誇示パフォーマンスほど目立つものではなかったが、過去の蛮行を一向に総括しようとはしない「守旧日本の潜在的な脅威の表象」という意味では、中国の示威行動と似たり寄ったりのつまらない光景、と僕の目には映った。





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秘境のヤギ料理はチョー世界一の味がした

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チヴィタ風カプレット(子ヤギ)煮込み


6月から7月初めにかけて滞在したカラブリア州では、いつものように地域グルメを満喫した。

今回の休暇でも、1日に少なくとも1回はレストランに出かけた。昼か夜のどちらかだが、初めの1週間はこれまた例によって1日に2度外食というのがほとんどだった。

だが時間が経つに連れて、美食また飽食に疲れて2度目を避けるようになったのも、再び「いつもの」成り行きだった。

海のリゾートなので食べ歩くレストランではまず魚介料理に目が行った。

海鮮のパスタは全く当たり外れがなく、全てが極上の味だった。

イタリアではそれが普通だ。パスタの味が悪いイタリアのレストランは「あり得ない」と断言してもいい。もしあるならそれはまともなレストランではない

イタリアにおけるレストランのレベルは、パスタを食べればすぐに分かる、というのが僕の持論である。

一方、魚そのものの料理の味わいは、いつも通りだと感じた。

つまり日本食以外の世界の魚料理の中では1、2を争う美味さだが、日本の魚料理には逆立ちしてもかなわない、という味である。

そんな訳で結局、魚介膳はパスタに集中することになった。

それに連れて、メインディッシュは肉料理が多くなった。

そこでもっとも印象に残ったのは、黒豚のロースト・秘伝ソース煮込みである。肉を切るのにナイフはいらず、フォークを押し当てるだけでやわらく崩れた。口に入れるととろりと舌にからんでたちまち溶けた。

芳醇な味わいと、甘い残り香がいつまでも口中に漂った。

黒豚皿全体800pic
黒豚のロースト秘伝タレ煮込み


肉料理に関してはさらに驚きの、全く予期しない出来事もあった。

なんと僕が追い求めているカプレット(子ヤギ肉)の煮込み料理に出会ったのだ。味も一級の上を行くほどの秀逸なレシピだった。

場所はカラブリア州コセンザ県の山中の町、チヴィタのレストランである。

チヴィタは15世紀頃にバルカン半島のアルバニアからイタリアに移り住んだ、「アルブレーシュ」と呼ばれる人々の集落である。アルブレーシュの集落がコセンツァ県には30箇所、カラブリア州全体では50箇所ほどあるとされる。

キリスト教のうちの正教徒であるアルブレーシュの人々は、彼らの故郷がイスラム教徒のオスマントルコに侵略されたことを嫌って、イタリア半島に移住した。

チヴィタは広大なポッリーノ国立自然公園内にある。よく知られた町でアルバニア系住民を語るときにはひんぱんに引き合いに出される。

アルブレーシュの人々は、むろん今はイタリア人である。彼らは差別を受けるのでもなければ、嫌われたりしているわけでもない。

イタリア人は、日本人を含む世界中の全ての国民同様に混血で成り立っている。

そのことをよく知り且つ多様性を誰よりも愛するイタリア人は、自らのルーツを忘れずに生き続けるアルブレーシュの人々を尊重し親しんでいる。

僕はそうした知識を持って滞在地から30キロほど離れた山中にあるチヴィタを訪ねた。

そこでチヴィタ独特のカプレット(子ヤギ)料理があると聞かされたのである。

それまでは「アルブレーシュ」の人々が、ヤギや羊肉料理に長けているとは思ってもみなかった。

僕はイタリアを含む地中海域の国々を訪ねる際には、いつもカプレットや子羊を含むヤギ&羊肉料理を食べ歩く。むろん他の料理も食べるが、ヤギや羊肉は地中海域独特の膳なので集中して探求するようになった。

初めは珍味どころか、ゲテモノの類いにさえ見えていたヤギ&羊肉膳は、最近ではすっかり僕の大好きな料理になっている。

以前はそれを見るさえいやだ、と怒っていた妻も、今では僕と同じか、あるいはさらに上を行くかもしれないほどのヤギ&羊肉料理愛好家になってしまった。

カラブリア州でも「ヤギ&羊肉を食べるぞ」計画を立てて乗り込んだが、海際のリゾート地にはそれらしい料理は見当たらなかった。

山中のチヴィタで初めて、思いがけなく出会ったのだ。

チヴィタで食べたカプレットの煮込みは、これまでに食べたヤギ&羊肉料理のなかでもトップクラスの味がした。

食べながら少し不思議な気がした。

ヤギや羊肉を好んで食べるのは、イスラム教徒を主体にする中東系の人々である。宗教上の理由で豚肉を避ける彼らは、自然にヤギや羊肉の調理法を発達させた。

アルバレーシュはキリスト教徒である。従ってイスラム教徒やユダヤ教徒、また中近東系のほとんどの人々のようにヤギや羊を好んでは食べない、と僕は無意識のうちに思い込んでいた。

だが思い返してみると実際には、地中海域のキリスト教徒もヤギや羊をよく食する。イスラム教徒の影響もあるだろうが、ヤギや羊は地中海地方のありふれた家畜だから、彼らも自然に食べるようになった、というのが歴史の真実だろう。

チヴィタでよく知られたレストランは、どこでもカプレット料理を提供していた。他のアルブレーシュの町や村でも同じだという。

アルブレーシュ風のヤギ・羊肉膳は、ソースやタレで和えた煮込みと焼き料理が主だが、肉を様々にアレンジしてパスタの具にする場合もある。

チヴィタでは日にちを変えて3件のレストランを訪ね、それぞれが工夫を凝らしたカプレット料理を堪能した。

また、滞在地から遠くない内陸の村にもアルブレーシュの女性が経営するレストランがあり、カプレット料理を出すことが分かった。チヴィタのレストランで得た情報である。

早速訪ねてカプレットの煮込みを食べてみた。そこの味も出色だった。

場所が近いのでもう一度訪ねて、今度はカプレットの炭火焼きに挑戦しようと思ったが、時間が足りずに叶わなかった。

そのレストランもチヴィタの店も、もう一度訪ねたい気持ちは山々だが、旅をしたい場所や国は多く、人生は短い。

果たして再び行き合えるかどうかは神のみぞ知るである。





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