【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2021年09月

品格なき横綱の名誉薄い引退


白鵬紙面中ヨリ800

白鵬が引退した。

僕はそのニュースをなんとイタリアの高級紙corriere della sera紙上で知った。

corriere della sera紙が大相撲を語ることはほどんどない。ましてや一力士の引退報告なんて奇跡に近い。

その奇跡に近いニュースを、僕はこれまためったにない状況で目にした。普通なら大相撲のニュースはNHKの衛星放送で知るが、その日はたまたまテレビを観なかった。

そのおかげで白鵬引退の第一報をイタリア語で目にするという珍しい体験をしたのである。

さて、

以上のような書き方をしたのは、白鵬という力士がここイタリアの新聞さえ話題にするような重要な存在、ということを言いたかったのである。

たとえばイギリスやアメリカのメディアは、よりグローバルな意識が強いから、大相撲史上最強と考えられる白鵬の引退をニュースにしても僕はそれほど驚かない。

現にイギリスのBBCはきっちりとニュースにしている⇒

https://www.bbc.com/news/world-asia-58705596

白鵬は言うまでもなく偉大な力士である。

同時に残念な力士でもある。

彼の引退を伝えるcorriere della sera紙もBBCも言及していないが、戦跡の巨大に比べて白鵬の所作や言行は寂しい。

白鵬は横綱になり、優勝回数が重なるごとに寂しい力士になっていった印象がある。

世間ではそれを思い上がりと形容するのだろう。僕もそう思うが、もっと踏み込んで白鵬の持って生まれた性質、と言いたい気持ちさえある。

白鵬のあまり気高いとは言えない行状や発言や物腰については、僕はそこかしこで書いたり言ったりしてきた。

彼は決して悪い人間ではないと思うが、性質軽佻で横綱の地位にふさわしい心根をついに獲得できなかった、というふうに見えるのだ。

彼は相撲好きな人々の眉をひそませるような行為や発言を繰り返したが、ことしの名古屋場所では決定的とも見えるなミスを犯した。

14日目の正代戦で、会場が呆気に取られた奇怪な立ち合いを見せた後、今度は観客が大きくどよめくほどの殴り合いを演じた。

「殴り合い」というのは言葉のあやで、白鵬は暴力そのものでしかない張り手を一方的に正代に浴びせ続けた。

NHK解説者の北の富士さんが「正気の沙汰とは思えない」と表現した醜いパフォーマンスは、彼の思惑通り対戦相手の正代をたじろがせて白鵬は勝利を収めた。

それは彼の長いキャリアと44回もの優勝をひと息に汚してしまうほどの見苦しい取り組みだった。

ところが白鵬の異様な戦法は翌日も続いた。

照ノ富士戦で再び殴打じみた張り手を連発したのだ。卑怯というよりも醜悪というほうがふさわしい手法で、白鵬はそれによって勢いに乗る照ノ富士も下した。

結果、白鵬は45回目の優勝を全勝で飾った。

だが彼のその優勝を喜ぶ者は、熱烈なファンでもない限りほとんどいなかったのではないか。

大横綱であるはずの白鵬は、残念ながら晩節を汚したままで引退することになった。

今後は相撲協会に残って部屋を興す予定のようだが、「終わり良ければ全て良し」とはならなかった彼の未来は果たしてどうなるのだろうか。

モンゴル出身の横綱は朝青龍、日馬富士、そして白鵬と問題児ばかりだ。人品の良い鶴竜もいるが、彼は引き技ばっかりの弱い横綱だったから、印象に残らない。

モンゴル出身の新横綱、照ノ富士の行く末まで気になってきた。

白鵬は相撲協会で後進の指導に当たるのであれば、朝青龍、日馬富士の名折れと自身の不徳を挽回するためにも、ぜひ横綱のあるべき姿を一から勉強し直してから行動を起こしてほしい。






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ドイツ首相が必ずEUのリーダーになれるのではない


選挙ポスター3候補650

ドイツの総選挙は事前の予測通り社会民主党の僅差の勝利で終わった。

第一党となった社会民主党(SPD)の得票率は25,7%。過半数にはほど遠いので、当然連立を模索することになる。

引退すると表明しているメルケル首相所属のキリスト教民主同盟(CDU+キリスト教社会同盟(CSU)は24.1%。前回選挙のおよそ33%から大きく後退した。

順当に行けば、議会第1党 のショルツ党首がメルケル首相の後を継いでドイツ宰相になる。

しかし、事態はそう単純ではなく、連立の枠組みによってはキリスト教民主同盟のラシェット党首が首相になる可能性もある。

そればかりではなく、14.8%と過去最高の得票率を得た緑の党のベアボック共同党首が、首班になる可能性もゼロではない。

それらの人々のうちの誰がドイツ首相になっても、ほぼ自動的にEU(欧州連合)の事実上のリーダーになる、と主張する人々がいる。

アンゲラ・メルケル首相がそうであったように、と。

バカを言ってはいけない。

EUの国々は、国力つまり経済力の違いはあるものの、ほとんどが自由と民主主義と人権擁護を国是にする開明的な政体だ。

誰もが対等な存在なのだ。

メルケル首相に率いられたドイツが、近年圧倒的な指導力と影響力を発揮し尊敬と親しみを集め続けたのは、当のメルケル首相自身のカリスマ性ゆえだ。

ドイツはEU第一の経済大国である。黙っていても存在感はゆるぎがない。

しかし、そのことはEU加盟国の誰もが自動的にドイツにひれ伏すことを意味しない。

今この時は、アンゲラ・メルケルの存在の大きさに圧倒されて、ひどく卑小に見える将来のドイツの指導者たちは、彼らがEUをも導くほどの甲斐性の持ち主であることを証明しなければならない。

証明までの過程はおそらく、長期化が予想される連立協議の中での、人物も思想も力量も人格も、全てひっくるめてのバトルになるだろう。

ポスト・メルケルのEUの発展のためにも、ぜひそうであってほしい。





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剽軽な種馬は憎めないが信用もできない

剽軽Johnson切り取り650

イギリスのボリス・ジョンソン首相は、今の妻との間にできた子供を含めて、3度の結婚と婚外交渉によって6人の子供がいる、とすっぱ抜かれ、これを事実と認めた。

現在進行形の妻が2人目を妊娠中なので彼の子供は分かっているだけで7人。だがまだ他にも隠し子がいるかもしれない、といろんな人があれこれ憶測をしている。

2番目の結婚で生れた子供4人と、現在の妻との間の子供2人は隠しようがないから、婚外子の存在が好奇の目にさらされている訳だ。

噂話は醜いからやめろ、と怒る道徳家も少なくないらしいが、ジョンソン首相は人もうらやむイギリス最強の権力者である。

ジャーナリズムの監視や指弾のみならず、大衆の批判や噂話やジョークや蔑みや嫉妬や怒りなど、あらゆる閑談の対象になるのが当たり前。

それはいわば有名税とでも言うべきものだ。

僕はジョンソン首相の、台風一過の鳥の巣みたいなヘアスタイルを思い出しつつ笑う。

ミニ・トランプの彼は政治的には危険な男だが、愛嬌たっぷりで多くの人に愛されている。

そして7人の子供と、もしかするとその他大勢の子供の父親でもあるかも、と露見したことで、間違いなく多くの女性にも愛されていることが明らかになった。

子供は男ひとりではつくれない。それどころか相手の女性の同意や確認なくしては不可能だ。

笑いつつ僕は、ある地方の言葉に「まらだま」というのがあると思い出した。それは漢字で書くと「魔羅魂」あるいは「魔羅っ魂」だと思うが、もしかすると「魔羅玉」のことかもしれない。

仏教語の「魔羅」にからめたその言葉には、男の本性そのものが宿っている、という意味が込められているようにも見えるし、本性が「魔羅」の如く下劣な男、というふうにも読める。

また「魔羅玉」と書くのなら、男根と陰嚢のみで存在が形成されている男、ということなのかもしれない。

実はこのまらだま似た言葉がイタリア語にもある。Testa di Cazzoというのである。

直訳すると「〇んぽアタマ」。〇んぽの如く物を考えない奴、という意味だ。なんだかジョンソン首相のために編み出された言葉のように聞こえなくもない。

いずれにしても「まらだま」も「〇んぽアタマ」も男の本質を鋭く衝いた言葉で、女性やまた全ての女性的な社会現象が、その言葉を嫌悪し卑下するに違いない意味合いを持っている。

それは同時に男の多くが、眉をひそめる振りで実は羨望するような響きもあるように思う。

何度も結婚し、結婚生活中もひんぱんに婚外交渉を重ねて、子供は7人もいて且つまださらに隠し子がありそうだ、というジョンソン首相はまさに「まらだま男」というふうに見える。

そしてこの系譜の政治家は世界中に多い。例えば、俺は有名人だからいつでもどこでもどんな女性のプッシーにも触ることができる、と豪語したトランプ前大統領。

80歳近くになってもBUNGABUNGA乱交パーティーを楽しんでいたここイタリアのベルルスコーニ元首相。

フランスのミッテラン元大統領なども女たらしの本性を見抜かれた有名人だ。

おお、忘れてはならない。ごく最近の例では、セクハラ王のアンドリュー・クオモ前ニューヨ-ク州知事もいるではないか。

昔の日本の政治家もほとんどが一夫多妻で、妾を持つことがステータスというふうだった。政治家ではなくとも、事業家や金持やその他の有名人も妻以外の女性と堂々と関係を持っていた。

時代は変わって、特に日本では誰もが、道徳家ぶって婚外交渉や不倫をバッシングする風潮に変わった。だがジョンソン首相のイギリスでは、彼の艶聞を醜聞と捉えて目を吊り上げて指弾する風儀は強くはない。

ここイタリアの国民性も同じだ。例えばこの国には、すっかり世界の笑いものになった前出のベルルスコーニまらだま元首相がいるが、人々はうわさ話にして楽しむことはあっても、彼の艶聞を弾劾する風潮はない。

大人の国、と定義してしまうと語弊があるが、まらだま男らが物心両面、特に経済面で母子を支えている限り、他人は口を挟まないという傾向がある。

もっとも一部の女性たちが、ベルルスコーニ氏の行為を女性蔑視と指弾して、抗議デモを行うなどの現象は時々起こる。

だが基本的には、それは家族の問題であり、且つその問題の根源は男と女の痴話話。要するにそれは誰にでも起こリ得る物語、と「誰もが」知っている。

僕は三面記事的好奇心にかられて、ジョンソンまらだま首相にまつわるニュースや噂話や浮評はたまた流説めいた情報を眺めたり笑ったり時には羨んだりしている。

だが実はそんなことよりも、僕はジョンソン首相に対しては、ずっとずっと気になることがある。

Brexitを成し遂げた彼が、愛嬌のある言動の裏で画策するトランプ主義的政策や反EUの姿勢。隠微な人種差別主義や、鼻につく伝統的イングランド優越意識など。など。

ドイツのメルケル首相が退陣してしまう今この時こそ、彼にとっては大きなチャンス到来というところだろう。

ミニ・トランプのまらだま英首相が、親中国の真意を隠してどのようなこすからい狼藉を働くのか、しっかり監視して行こうと思う。




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メルケル首相の再就職先

メルケル鸚鵡と遊ぶキャー!650

 

9月26日、ドイツのみならずEU(欧州連合)の命運さえも左右するドイツの連邦議会選挙が行われる。

なぜEUにも「影響を与える」と表現せずにEUの「命運さえも左右する」と強い言葉を用いるかと言えば、選挙後にメルケル首相が退陣するからである。

16年間ドイツを率いてきたメルケル首相は、ドイツだけでなくEUの最大のリーダーでもあった。

それどころか、変形独裁国家の首魁であるプーチン大統領にも毅然として対峙し、トランプ食わせ者 大統領が出現すると、正義と自由と民主主義の旗手として断固たる態度で彼の嘘に挑んだ。

トランプ大統領の太鼓持ちだった安倍首相や定見のない英メイ首相、若いだけが取り柄の仏マクロン勇み足大統領、またただそこにいるだけで空気と同じ無意味な伊ジェンティローニ首相などとは大違いだったのだ。

ドイツもヨーロッパもそして世界も、アンゲラ・メルケルという偉大な指導者を失う。ドイツの総選挙が行われる2021年9月26日は、そんな劇的なコンセプトが遂行される時間なのである。

ポスト・メルケルのドイツの政治地図はカオスと歪みと落書きの坩堝のようである。

メルケル首相が所属するキリスト教民主同盟のラシェット党首、選挙戦終盤になって支持率を伸ばしている 社会民主党のショルツ党首が後継争いをしているが、メルケル首相の前では悲しいほどに器が小さく見える。

目先が変わるという意味で注目を集めた緑の党のベアボック共同党首は、なんと日本にも通底する陳腐な学歴詐称問題と文章盗用疑惑などで激しいバッシングを受けて沈没した。

どんぐりの背比べにしか見えない首班候補らが、しのぎを削っているだけの寂しい現実。それがドイツ総選挙の実態なのである。

世界にはピカロな指導者が跋扈している。

例えば一党独裁国家、中国の習近平ラスボス主席や変形独裁国家の首魁プーチン大統領。彼らの腰巾着である世界の強権首脳たち。

はたまた反動トランプ主義者の英ジョンソン、伯ボルソナーロ、欧州最後の独裁者ベラルーシのルカシェンコ、欧州の最後から2番目の独裁者ハンガリーのオルバン首相など、など。

それらのくえない権力者に対抗できるのは、今のところ、メルケル首相だけだ。

バイデン大統領でもなければマクロン大統領でもない。ジョンソン首相に至っては、トランプ前大統領の金魚のフンという実体を、ピエロの仮面で隠しているだけの危険人物だから問題外だ。

そしてトランプ事件の根源前大統領や、今触れたジョンソンゴマの蠅Brexit首謀者らを称賛するのが、ここイタリアのサルヴィーニ極右「同盟」党首でありメローニ仁義なき戦い「イタリアの同胞」党首だ。

そこにはフランスの極右ルペン指導者がいてオランダの自由党がありオーストリア、ギリシャ、ドイツ、ノルウエーetcの極右「暴力信奉勢力」がずらりと並ぶ。

それらの反動勢力は、極東で言えば中国であり北朝鮮だ。そして中国と北朝鮮にも匹敵するのが、日本国内で隠然と蠢く歴史修正主義者であり靖国信者であり東洋蔑視主義者らだ。

彼らはいわゆるバナナ人種。表は黄色いのに中身が白くなって、アジアを見下し白人至上主義者のトランプやバノンを仲間と勝手に思い込む。

トランプやバノンが蔑んでいる非白人でありながら、自らが白人の域にいるつもりで白人至上主義者らに媚びを売るのだ。

なんと悲しくなんと寂しく、そして何よりもなんと醜い現実だろう。。。

米ケツ舐め実践者&ネトウヨヘイト系排外差別主義者らは、さっさと目覚めなければならない。

目覚めて、われわれの父や祖父らが犯した罪を認めて腹から謝罪し、現実を見据え、歴史を真正面から見て恐れず、そのことによって日本民族の優秀性を証明するべきだ。

日本を含む世界の反動勢力に静かに、だが断固として対峙できる政治家が繰り返しになるが今のところアンゲラ・メルケルただ一人なのである。

そんな彼女が政界を引退するのは、世界の巨大な損失だ。

そこで彼女をなんとしても再就職させたいと考えるのだ。

転職先は、EU(欧州連合)のトップの座である欧州委員会委員長がもっとも相応しいのではないか。

EUの現在の委員長はウルズラ・フォンデアライエン氏だ。

フォンデアライエン委員長は、知性的で清潔感に溢れ人柄も誠実なようだが、残念ながら政治的な重みに欠けるきらいがある。

また世界に跋扈する悪の大物政治家らの向こうを張って、自由と民主主義と人権擁護主義を死守できるのか、心もとない。

引退するメルケル首相が委員長の座に座れば理想的だ。

フォンデアライエン氏はメルケル委員長の補佐役になるか、あるいはドイツ首相へと横滑りしてもらえば良いと思う。

メルケル首相には、なんとしてももうしばらくは世界のリーダーの位置にいてもらいたい、と願うのは僕だけだろうか。



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欧州初のコロナ地獄国イタリアが、欧州初の集団免疫獲得国になる?!


腕に射す700に拡大

イタリアのワクチン接種数が急増している。

政府が、10月15日から全労働者にワクチンの接種証明「グリーンパス」の提示を義務付ける、と発表したからだ。

イタリアはことし4月、欧州で初めて医療従事者にワクチン接種を義務付けた。

「グリーンパス」の提示を全労働者に義務付けるのも、欧州ではイタリアが初めてである。

医療従事者に「グリーンパス」の提示を義務付けたのは、全国民へのワクチン接種義務化を目指す伏線、と僕はずっと考えてきた。

だから今回それが全労働者へと拡大されても驚かず、いよいよ全義務化に向けた取り組みが加速した、と捉えた。

マリオ・ドラギ首相が、ワクチン接種の義務化を否定しない、と何かにつけて示唆しつづけていることも僕の推測の根拠になっていた。

また僕自身も、ワクチン接種を義務付けない限り、イタリアの集団免疫確保は困難だろうと考えていた。

イタリア国内に根強くあるワクチン懐疑論や、過激な反ワクチン勢力NoVaxの存在などが気になっていたからだ。

NoVaxは暴力行為や脅迫さえいとわない狂的な反ワクチン運動である。

ごく少数の過激な人々で構成されているが、声が大きく行動が過激な分、影響力も大きい。

反ワクチン派の大多数は、言うならば「ためらい」派あるいは「慎重」派である。

彼らは正しい情報と正確な言葉によって説得すれば、将来はおそらくワクチンの接種を受けるに違いない人々だ。

だが、SNS上にあふれるFake情報がそれを困難にし、NoFaxをはじめとする反ワクチン過激派のかく乱行為が事態を複雑にする。

それやこれらで僕は、イタリア全国民へのワクチン接種の義務化は避けて通れないもの、と考えてきた。

ところが、各労働者に「グリーンパス」の提示を義務付ける、という法律が成立するや否や、ワクチン接種の予約が急増した。

この調子で行くとイタリアは、あるいは欧州で初の「集団免疫獲得国」になるのかもしれない。

楽観的思考また希望的観測に過ぎないとは思うけれど。。





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安楽死~イタリアがついに一級国の仲間入りをしそうだ

握り合う手612

イタリアで安楽死を法制化するように求める署名運動が、75万人余りの賛同を集めた。

これによって、安楽死への賛否を問う国民投票が、早ければ来年にも実施される可能性が高くなった。

イタリアでは50万人以上の署名で国民投票が実施される決まりである。

安楽死は、命の炎が消え行くままに任せる尊厳死とは違って、本人または他者が意図的に命の炎を消す行為である。

その意味では尊厳死よりもより罪深いコンセプトであり、より広範な論議がなされるべき命題と言えるかもしれない。

別の言い方をすれば、安楽死は尊厳死を内在させているが、尊厳死は安楽死を包含しない。

僕は安楽死及び尊厳死に賛成する者だ

いわゆる「死の自己決定権」を支持し、安楽死・尊厳死は公的に認められるべきと考える。

回復不可能な病や耐え難い苦痛にさらされた不運な人々が、「自らの明確な意志」に基づいて安楽死を願い、それをはっきりと表明し、そのあとに安楽死を実行する状況が訪れた時には、粛然と実行されるべきではないか。

生をまっとうすることが困難な状況に陥った個人が、安楽死、つまり自殺を要求することを否定するのは、僭越であるばかりではなく、当人の苦しみを助長させる残酷な行為である可能性が高い。

安楽死を容認するときの危険は、「自らの明確な意志」を示すことができない者、たとえば認知症患者や意識不明者あるいは知的障害者などを、本人の同意がないままに安楽死させることである。

そうした場合には、介護拒否や介護疲れ、経済問題、人間関係のもつれ等々の理由で行われる「殺人」になる可能性がある。親や肉親の財産あるいは金ほしさに安楽死を画策するようなことも必ず起こるだろう。

あってはならない事態を限りなくゼロにする方策を模索しながら-繰り返しになるが-回復不可能な病や耐え難い苦痛にさらされた不運な人々が、「自らの明確な意志」に基づいて安楽死を願うならば、これを受け入れるべきである。

イタリアでは安楽死は認められていない。そのため毎年約200人前後もの人々が、自殺幇助を許容している隣国のスイスに安楽死を求めて旅をする。そのうちのおよそ6割は実際にスイスで安楽死すると言われる。

安楽死に対するイタリア社会の抵抗は強い。そこにはカトリックの総本山バチカンを抱える特殊事情がある。自殺は堕胎や避妊などと同様に、バチカンにとってはタブーだ。その影響力は無視できない。

だが堕胎や避妊と同様に、禁忌の壁が高かった安楽死についても、崩壊の兆しが少しづつ見えていた。そしてついに、その是非を問う国民投票が実施されるかもしれないところまでこぎつけた。

(尊厳死を含む)安楽死は、命を救うことが至上命題である医療現場に、矛盾と良心の呵責と不安をもたらす。イタリアではそこにさらにバチカンの圧力が加わる。

医者をはじめとする医療従事者は、救命という彼らの職業倫理に加えて、自殺を否定し飽くまでも生を賛美するカトリック教の教義にも影響され、安楽死に強い抵抗感を持つようになる。

自殺幇助が犯罪と見なされ、5年から12年の禁固刑が科されるイタリアだが、実は2019年、憲法裁判所は世論の圧力に屈して例外規定を設けた。

延命措置を施されつつも治る見込みのない患者が、肉体的また精神的に耐え難い苦痛を覚え続け、且つ患者が完全に自由で明晰な判断が可能な場合のみ例外とする、としたのだ。

安楽死を推進する人々に対しては、キリスト教系の小政党などから「死の文化」を奨励するものだという批判が上がった。

またカトリックの総本山であるバチカンは、自殺幇助は「本質が悪魔的な行為」として、従来の批判を声高に繰り返した。

それらは極めて健全な主張だ。生を徹頭徹尾肯定することは、宗教者のいわば使命であり義務だ。彼らが意図的に命を縮める安楽死を認めるのは大いなる矛盾だ。

安楽死を怖れ否定するのは、しかし、宗教者や医療従事者のみならず、ほぼ全ての人々に当てはまる尋常な在り方だろう。

生は必ず尊重され、飽くまでも生き延びることが人の存在意義でなければならない。

従って、例え何があっても、人は生きられるところまで生き、医学は人の「生きたい」という意思に寄り添って、延命措置を含むあらゆる手段を尽くして人命を救うべきである。

その原理原則を医療の中心に断断固として据え置いた上で、患者による安楽死への揺るぎない渇求が繰り返し確認された場合のみ、安楽死は認められるべきと考える。

カトリックの教義に従順なイタリアの保守的な世論が、安楽死という重いテーマを正面から見据えて、北欧などを中心とする開明的な国々に追随する方向へと進んでいることを歓迎したい。





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南イタリアの異常気象の化けの皮


650一本の木と猛火

米気象学会は8月25日、昨年2020年のヨーロッパの気温が観測史上最高を記録したと発表した。

それは世界でも史上3番目に入る暑さだった。

スイス、ベルギー、フランス、スペイン、スウェーデン、ノルウェーなど、欧州の17カ国で史上最高気温となった。

一方、米海洋大気局(NOAA)によれば、ことし7月の世界の平均気温は16.73度となり観測史上で最も高かった。

7月は1年で地球が最も暑くなる時期。

2021年7月は例年にも増して暑くなり、142年間の観測史上で最も暑い月となった。

そうした流れの中で2021年8月11日、イタリアのシチリア島では欧州の過去最高気温となる48,8℃が記録された

それまで欧州で最も暑かった記録は、1977年にギリシャのアテネで観測された48℃である。

炎熱はアフリカのサハラ砂漠が起源の乾いた風と共にやってきた。

熱波と乾燥に伴って、シチリア島のみならずイタリア本土やギリシャ、またキプロスやトルコなど、地中海沿岸の国々に山火事が頻発して緊急事態になった。

8月25日までに焼失したイタリア全土の山林はおよそ15万8千ヘクタール。

その数字はイタリアの3大都市圏ローマとミラノとナポリを合わせた面積に匹敵する。

15万8千ヘクタールは、2017年全体の焼失記録およそ141,000ヘクタールを既に超えている。

なおイタリアでは 2018年に14,000ヘクタール、2019年には37,000ヘクタール、2020年には53,000ヘクタールの山林が灰になっている。

山火事は夏のイタリアの風物詩のような様相を呈しているが、他の国々とは違う陰鬱な顔も持っている。

ほとんどの山林火災が、放火あるいは人災として発生しているのである。

具体的には全体の54,7%が放火。13、7%が不慮あるいは人の不注意から来る事故。

一方で落雷などが原因の自然発生的な山火事は、全体の2%以下にとどまっている。

放火は多くの場合犯罪組織と結びついていると考えられている。

マフィア、ンドランゲッタ、カモラなどが、土地争いに絡んで脅迫や強奪を目的に火を点けたり、緑地を商業地に変えようとしたり、ソーラーパネル用の土地を獲得しようと暗躍したりする。

犯罪者の意図的な悪行とは別に、乾き切った山野また畑地などでは火災が容易に発生する。

例えば農夫が焼き畑農法の手法で不注意あるいは不法に下草に火を放った後に制御不能に陥る。

人々がバーベキューや炊事や湯沸かしの火を消し忘れる。

ドライバーが車の窓から火のついたままの煙草を投げ捨てて、乾き切った道路脇の枯草に引火する。

不埒な通行人が同じように煙草のポイ捨てをすることもある。

ほとんど雨が降らない7月から8月の間の南部イタリアの山野は、既述のようにアフリカ由来の高気圧や熱波に襲われて気温が高くなり空気が極度に乾いている。

砂漠並みに乾燥した山野の枯葉や枯草は、ガソリンのように着火しやすく一気に炎上して燃え盛るのである。

犯罪や事故による山林火災は昔から常に発生してきた。近年は地球の温暖化に連れて気温が上がり、山火事がより発生しやすくなっているとされる。

だが、南イタリアの山林火災に関する限り、気候変動を隠れ蓑にした犯罪者らの悪行のほうが、地球の温暖化そのものよりもより深刻、とさえ言えそうである。





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集団免疫効果“ただ乗り”の是々非々


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世論調査によるとイタリア人の8割がコロナワクチンの接種を義務化するべき、と考えている。

驚きの統計は、反ワクチン過激派NoVax(ノー・ヴァックス)が、ワクチン接種を証明するグリーンパスを阻止するとして、全国の駅を占拠すると宣言した直後に発表された。

列車の運行を妨害しようとしたNoVaxの試みは失敗した。強い危機感を抱いた当局が全国の主要駅に厳しい警護策を施したからだ。

グリーンパスはレストランや劇場等への入店入場のほか、飛行機や列車移動に際しても提示を要求される。NoVaxが駅を占拠して列車の運行を妨害しようとしたのもそれが理由だ。

イタリアのワクチン接種は割合順調に進んでいる。

しかしワクチン接種を拒む人々も一定数存在している。彼らはワクチンの拙速な開発や効果を疑って反対する。それは理解できる動きだ。

コロナワクチンが迅速に開発されたのにはれっきとした科学的な理由がある。また完璧なワクチンや効果が100%のワクチンは存在しない。その中でコロナワクチンは効果が極めて高い。

それを知らずに―だが理解できないこともない理由で―ワクチン接種をためらう人々とは別に、根拠のないデマや陰謀論に影響されてワクチン反対を叫ぶ人々もいる。

それらの人々のうち、陰謀説などにとらわれている勢力は、科学を無視して荒唐無稽な主張をするトランプ前大統領や、追随するQアノンなどをほう彿とさせる。

彼らを科学の言葉で納得させるのはほとんど不可能に近い。思い込みがほぼ彼らの宗教になっていて、他者の言葉に貸す耳を持たないからだ。

イタリアにおいてはそれがNoVaxを中心とする少数の反ワクチン過激派の人々だ。

彼らは単にワクチン接種を拒否するばかりではなく、政治家や医療専門家やジャーナリストなどを脅迫したり、ワクチンの接種会場に火炎瓶を投げつけたりするなど、過激な動きを続けている。

NoVaxを含む反ワクチン論者の人々は、彼らなりの考えで自分自身と愛する人々の健康を守ろうとしている。

従って彼らを排除するのではなく、政治が彼らを説得して、ワクチン接種に向かうように仕向けるべきだが、現実はなかなか難しい。

ワクチンはフェイクニュースや思い込みに縛られている人々自身を救う。同時に彼らが所属する社会は、コロナ禍から脱出するために「集団免疫」が必要だ。

反ワクチン派の人々は、それ以外の人々が副反応のリスクなどの対価を払ってワクチンを接種して、やがて社会全体が守られる集団免疫に達したとき、何の貢献もしないまま同じ恩恵を受ける。

それはいわゆる フリーライダーつまりただ乗り以外のなにものでもない。

ワクチン接種の必要性を理解しない者、あるいは理解してもワクチン接種を意図的に拒む者には、罰則が科されてもあるいは仕方がないと考える。反社会的行為にも当たるからだ。

いったんそうなった暁には、ワクチンの強制接種、という施策が取られるのも時間の問題だろう。

イタリア国民の80%がワクチンの強制接種に賛成という統計は、2020年に世界に先駆けて凄惨なコロナ地獄を体験した人々の切実な願いの表れと見える。

イタリアではワクチン強制接種論と平行して、基礎疾患のある高齢者を対象に3回目のワクチン接種を始めるべき、という意見も出ている。

後者はすぐにでも実施されるだろうが、ワクチンの強制接種に関しては、まだまだ紆余曲折があるのではいか、と思う。




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口は災いの元、無口は災いそのもの


合成健さん&遠藤650

朴念仁首相を生んだ土壌

菅首相の退陣が決まったとたんに、これまで口を噤んでいた猫も杓子も誰もが、まるで石もて追うように批判の大合唱になっていると見えるのは、僕の思い過ごしだろうか。

多くの問題を抱えて迷走した菅首相だったが、もっとも重大な手落ちは絶望的なコミュニケーション能力だったのではないか。

それは失策というよりも彼の人となりや気質の問題ではあった。

だが何よりも奇妙なのは、発信力がほぼゼロの政治家が長く生き延び、あまつさえ総理の地位にまで登り詰めることができる日本の社会のあり方である。

短期間とはいえ彼が宰相の地位に留まることができたのは、コミュニケーション力をそれほど問題にしない日本独特の社会風習があるからだ。

無口や沈黙を許すのみならず、ほとんど賞賛さえするのが日本の文化である。


ふたりのスター

菅首相の訥弁を思うとき、僕はよく今は亡き銀幕の大スター高倉健と、大相撲の人気力士遠藤を連想する。

そこで日本人に愛される2人の例をひいて、日本人とコミュニケーションについて考えてみたい。

なお、あらかじめ断っておきたいが、僕は健さんと遠藤の大ファンである。

健さんの映画はたくさん観た。寡黙な男の中の男。義理や人情のためなら命も投げ出す「ヤクザの健さん」はいつもまぶしくカッコよかった。

力士の遠藤は、足が天井にまで投げ上げられるかと見える四股の美しさと、相撲のうまさが際立っている。もはや30歳にもなって出世は高くは望めないかもしれないが、いつまでも気になる力士である。

彼らふたりは通常の意味でのコミュニケーション力はゼロ以下だ。だがそのことは、健さんが優れた俳優であり、遠藤が優秀な力士である事実をなんら傷つけない。


ムッツリ遠藤

遠藤はNHKの大相撲中継において、横綱・大関を倒したときや勝ち越しを決めたときなどにインタビューされる。そのときの彼の受け答えが、見ている者が苦しくなるほどに貧しい。

相撲取りはしゃべらないことが美徳という暗黙の掟がある。しゃべる男は軽い、という日本のある種の社会通念に縛られて、無理やり感情の表出を抑える。

そしてその同じ行為を続けるうちに、習慣は彼らの中で血となり肉となってついには彼らの本性にまでなる。相撲社会全体を覆っている無言の行という風儀は、人工的に作られたものだ。しかし、もはやそれが自然と見えるまでに浸透し切っている。

しかし、遠藤の受け答えは自然ではない、と僕の目には映る。自らを強く律して言葉を発しないようにしていると分かる。だがその仕方に相手、つまりインタビューアーへの配慮がない。

自分がインタビューを迷惑がっていると分からせることを意識しているのか、顔や態度や言葉の端々に不機嫌な色を込めてしゃべる。それは見ていてあまり愉快なものではない。

遠藤のインタビュアーへの反感は、巡りめぐってファンや視聴者への反感として顕現される。それはつまりコミュニケーションの否定、あるいは彼自身が理解されることを拒絶する、ということである。

遠藤のあまりの言葉の少なさと、少ない言葉に秘められた一種独特な尊大さは、力士としての彼の力の限界が見えてきたことと相俟って、見ていて悲しい。

遠藤はかつて、大関くらいまではスピード出世するのではないかと見られた。だが、相撲の巧さが即ち相撲の小ささになってこじんまりとまとまってしまい、大関は夢のまた夢状態になった。

だがそれは彼のプロ力士としての力の現実であって、コミュニケーションを拒む彼の訥弁とはむろん関係がない。彼の訥弁を良しとする日本文化が問題なのである。相手を見下すのでもあるかのような遠藤のひどい訥弁も許されるから、彼は敢えてそれを改善しようとは考えない。

そうはいうものの、しかし、大相撲のダンマリ文化から開放された力士が、突然あふれるように饒舌になるのもまたよくあることだ。最近では 稀勢の里の荒磯改め二所ノ関親方が、引退したとたんに大いなるおしゃべりになって気を吐いている。

また元大関琴奨菊の秀ノ山親方 、同じく豪栄道の武隈親方 なども、引退して親方になるや否や饒舌になって、大相撲解説などで活躍している。 

彼らは心地良いしゃべりをする中々優れたコミュニケーターであり、語り口や語る内容は知性的でさえある。

そうしたことから推しても、力士の無口は強制されたものであることが分かる。遠藤のケースも同じなら、彼は現役引退後にハジけて饒舌になるのかもしれない。


だんまり健さん

高倉健の場合には、20015月に放送されたNHK『クローズアップ現代』で、国谷裕子のインタビューを受けた際に、彼の反コミュニケーション振りが徹底的に示された。

健さんはそこで国谷キャスターの質問の度に、じれったくなるほどの時間をかけて考え、短く、だが再び時間をかけてゆっくりと答えていく。

それは何事にも言葉を選んでしっかりと答える、という彼の美質として捉えられ、確立し、世に伝えられてもいる内容なのだが、僕の目には「言葉を選ぶ」というよりも「言葉が無い」状態に見えた。

あるいは考えを表現する言葉が貧弱、というふうにも。

その後はインタビューを介して、彼がスクリーンで演じる役柄と生身の高倉健自身が交錯し、合体して分別が不可能なほどに一体化していることが明らかになっていく。健さん自身もそのことを認める展開になる。

個人的には現実の人身と架空の役柄が渾然一体となる状態は優れた俳優の在り方ではない。しかし、高倉健という稀有な存在が、生身の自分と銀幕上の個性をそれとは知らずか、あるいは逆に意識して、融合させて生きている現実が明らかになるのは興味深い進展だった。

彼は男らしい男、男の中の男、また義理人情のためなら命も投げ出す高倉健、という日本人が好きなコンセプトに自身をしっかりとはめ込んで生きているのである。

そして高倉健という人間が、本名の小田剛一も含めて「俳優の高倉健」と完全に合体している姿に、彼自身が惚れている。

彼が惚れて自作自演している高倉健は、韜晦し過ぎるほどに韜晦する人間で、しかも彼自身はその韜晦するほど韜晦する高倉健が大好き、とういうのが彼の生の本質だ。

高倉健と力士遠藤は、韜晦し過ぎで且つ韜晦する自分が好きな男たちなのである。

健さんも遠藤も誰をはばかることもない成功者であり有名人だ。むろんそれで一向に構わない。それが彼らの魅力でもある。なぜなら「韜晦」は日本人のほぼ誰もが好きな概念だから。


目は口ほどにはものを言わない

一方、日本人のコミュニケーション力というコンセプトの中では、それらの朴訥な態様はきわめて陰鬱で且つ深刻な命題だ。

「口下手を賞賛する」とまでは言わなくとも、それを忌諱もしない日本文化があって、健さんの寡黙や遠藤の無言、果ては菅首相の訥弁が許されている。

繰り返すが、それはそれで全く構わないと思う。なぜならそれが日本の文化であり、良さである。おしゃべり過ぎる例えばここ欧米の文化が、逃げ出したくなるほど鬱陶しい場合も多々あるのだ。

言うまでもなく人のコミュニケーションや相互理解や国際親善等々は、言葉を発することでなされる。

言葉を用いないコミュニケーションもむろんある。表情やジェスチャーや仲間内の秘密の符丁やサインなど、などだ。

しかし思想や哲学や科学等々の複雑な内容の意思伝達は言葉で行われる。それ以外のコミュニケーションは、動物のコミュニケーションと同じプリミティブな伝達手段だ。

人間のコミュニケーションは「おしゃべり」の別名でもある。しゃべらなければ始まらないのだ。

ところが日本にはおしゃべりを嫌う沈黙の文化がある。寡黙であることが尊敬される。この伝統的な精神作用が、日本人を世界でも最悪な部類のコミュニケーターにする。

自らの考えを明確に伝えて、相手を説得し納得させて同意を得るのがコミュニケーションの目的である。

同時に相手の反論や疑問も受け入れて、それに基づいてさらに説得を試みる。そのプロセスの繰り返しがコミュニケーションだ。

おしゃべりであるコミュニケーションは、井戸端会議の「おしゃべり」に始まって、社会的な重要さを増すごとに「しゃべり」「話し合い」「議論」「討論」「討議」「対話」などと呼ばれる。


言葉は暴力抑止デバイス

それらは全て暴力や闘争や威圧や戦争を避けるために人間が編み出した手段だ。

自然的存在としての人間、あるいは生まれながらの人間は暴力的である。人の行動は生存のためにアグレッシブにならざるを得ない。

そうでない者は食料を得られず、飢えて淘汰される可能性が高い。それが動物の生存原理であり自然の摂理だ。

人の暴力性を和らげるのが言葉である。言葉は発信され、受け止められ、反応されることで言葉になり意義を獲得する。つまりコミュニケーションである。

コミュニケーションは積極的に「しゃべる」者によってより洗練され研ぎ澄まされ、改善されていく。

世界中で行われてきたこの慣行は、人種が交錯し人流が激しい欧米では間断なく練磨が進んだ。違う人種や国民間では対立が激しく、コミュニケーションが無くては血で血を洗う闘争が繰り返されるからだ。

争いが絶えない欧米では、紛争毎にコミュニケーションの訓練も加速した。

一方日本では、封建領主による言論・思想弾圧に加えて、単一民族と国民が誤解するほどに似通った人種や同言語話者が多かったことなども手伝って、コミュニケーションの重要性が薄かった。

そのために、島あるいはムラの人々の間で、お互いに察し合うだけで済む「忖度・あうんの呼吸文化が発達し、今日にまで至った。

何度でも言うが、それはそれで全く構わないと思う。多くを語らなくてもお互いに分かり合える、というのは心が和む時間だ。そこには日本の美が詰まっている。

しかしながら、日本が「世界の中の日本」として生きていく場合には、日本人同士でしか理解し合えない寡黙や無言や訥弁はやはり不利だ。いや、それどころか危険でさえある。

日本はそろそろ重い腰を上げて、討論や会話や対話を重視する教育を始めるべきだ。また重い口を開いて、世界に向けて自己主張のできる者をリーダーとして選択するべき、とも考える。




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あっと驚くタイミング~むべなるかな菅首相の退陣~

緑suga切り取り


自民党の総裁選にからませて、「コミュニケーションが不得手らしい菅首相は日本の国益に資さないから選挙に敗れるか自粛して退いたほうがいい」という趣旨の記事を書いていた。

するとまさにそこに、「菅総理、総裁選に出馬せず総理大臣を辞任」というニュースが飛び込んできてひどく驚いた。

だが驚いたのは、ニュースのタイミングであってその内容ではない。

菅首相の突然の辞任表明は、つまるところ自民党内の政争に敗れた、ということである。政界の暗闘は日常茶飯事だからそれは何も驚くべきことではないのだ。

こういう場合、日本人のいわば心得として、死者を貶めないという 慣習を敷衍して「戦いに敗れて辞めていく者を悪く言わない」という一見善意じみた風儀もある。

だが、政治家や悪人などの場合には、必要ならば死者も大いに貶めるべきだ。

ましてや権力の座にあった者には、職を辞しても死しても監視の目を向け続けるのが民主主義国家の国民のあるべき姿だ。なぜなら監視をすることが後世の指針になるからだ。

公の存在である政治家は、公の批判つまり歴史の審判を受ける。受けなければならない。

「死んだらみな仏」という考え方は、恨みや怒りや憎しみを水に流すという美点もあるが、権力者や為政者の責任をうやむやにして歴史を誤る、という危険が付きまとう。決してやってはならない。

他者を赦すなら死して後ではなく、生存中に赦してやるべきだ。「生きている人間を貶めない」ことこそ真の善意であり寛容であり慈悲だ。

だがそれは、普通の人生を送る普通の善男善女が犯す「間違い」に対して施されるべきべき理想の行為。

菅首相は普通の男ではなく日本最強の権力者だ。日本の将来のために良い点も悪い点もあげつらって評価しなければならない。口をつぐむなどもってのほかなのである。

国際社会においてはコミュニケーションは死活問題である。

コミュニケーションは、沈黙はおろか口下手や言葉の少ない態度でも成立しない。日本人のもっとも苦手なアクションの一つである会話力が要求される。

その観点から眺めたときに、菅義偉首相の訥弁ぶりは心もとない

いや、訥弁でも話の中身が濃ければ一向に構わない。だが、菅首相の弁舌の中身もまた弁舌の形自体も、分かりづらくて国際社会では苦しい。

コミュニケーション力のない政治家が国のトップに座るのは世界では珍しいケースだ。なぜなら国際社会の規範では、コミュニケーション能力こそが国のトップに求められる最重要な資質だからだ。

魑魅魍魎の跋扈する政界で勝ち組のトップにいる菅首相は、、統治能力や政治手腕や権謀術数に長けているのだろう。それでなければ今の地位にいることはあり得ない。

しかし、「政治ムラ」内での現実はともかく、菅首相は国民への訴求力が極めて弱いように見える。訥弁でしゃべる姿が暗く鬱陶しい。

それはいわば貧乏や苦労人であることを売りにする日本の古い暗さである。あるいは時代錯誤がもたらす日本の過去の面倒くささである。

日本の国益に資さないそんな指導者は表に出ないほうが良い、というのが国際社会から祖国を眺めている者の、偽りのない思いだ。




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漁師の命と農夫の政治

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菜園を耕してみて分かったことの一つは、野菜は土が育ててくれる、という真理です。

土作りを怠らず、草を摘み、水や肥料を与え、虫を駆除し、風雪から保護するなどして働きつづければ、作物は大きく育ち収穫は飛躍的に伸びます。

しかし、種をまいてあとは放っておいても、大地は最小限の作物を育ててくれるのです。

農夫はそうやって自然の恵みを受け、恵みを食べて命をつなぎます。農夫は大地に命を守られています。

大地が働いてくれる分、農夫には時間の余裕があります。余った時間に農夫は三々五々集まります。するとそこには政治が生まれます。

1人では政治はできません。2人でも政治は生まれません。2人の男は殺し合うか助け合うだけです。

シソ整然&costeヒキ800

農夫が3人以上集まると、そこに政治が動き出し人事が発生します。

政治は原初、百姓のものでした。政治家の多くが今も百姓面をしているのは、おそらく偶然ではありません。

漁師の生は農夫とは違います。漁師は日常的に命を賭して生きる糧を得ます。

漁師は船で漁に出ます。近場に魚がいなければ彼は沖に漕ぎ進めます。そこも不漁なら彼はさらに沖合いを目指します。

彼は家族の空腹をいやすために、魚影を探してひたすら遠くに船を動かします。

ふいに嵐や突風や大波が襲います。逃げ遅れた漁師はそこで命を落とします。

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古来、海の男たちはそうやって死と隣り合わせの生業で家族を養い、実際に死んでいきました。

彼らの心情が、土とともに暮らす百姓よりもすさみ、且つ刹那的になりがちなのはそれが理由です。

船底の板1枚を経ただけの、荒海という地獄と格闘する漁師の生き様は劇的です。

劇的なものは歌になりやすい。

演歌のテーマが往々にして漁師であるのは、故なきことではありません。

現代の漁師は馬力のある高速船を手にしたがります。格好つけや美意識のためではありません。

大嵐を行く漁船見下ろしbest650

沖で危険が迫ったとき、一目散に港に逃げ帰るためです。

また高速船には他者を出し抜いて速く漁場に着いて、漁獲高を伸ばす、という効用もあります。

そうやって現代の漁師の生は死から少し遠ざかり、欲が少し増して昔風の「荒ぶる純朴な生き様」は薄れました。

水産業全体が「獲る漁業」から養殖中心の「育てる漁業」に変貌しつつあることも、往時の漁師の流儀が廃れる原因になりました。

今日の漁師の仕事の多くは、近海に定位置を確保してそこで「獲物を育てる」漁法に変わりました。農夫が田畑で働く姿に似てきたのです。

それでも漁師の歌は作られます。北海の嵐に向かって漕ぎ出す漁師の生き様は、男の冒険心をくすぐって止みません。

人の想像力がある限り、演歌の中の荒ぶる漁師はきっと永遠です。


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