【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2021年10月

自由な人々には自らをロックダウンする自由もある


山荘への道2021-10月800

イタリアのワクチン接種は順調に進んでいるが、数日来新規の感染者が増えている。

早めに接種を済ませた人々の発祥予防効果が薄れ出したこと。

ワクチン未接種の人々の感染増加などが原因と見られている。

欧州全体が似通った状況になっている。

反ワクチンの立場が宗教の域にまで達している者や、これを煽る極右の政治勢力はさておいて、ワクチンに懐疑的な人々が未だに多いのは不思議だ。

彼らを説得できない政治が悪いのか、彼ら自身がヘンなのか。

たぶん両方なのだろう。

ワクチン接種は個人の自由意志によるべきだ。

民主主義社会では個人の自由が何よりも大切であることは論を俟たない。

だがその個人の自由を担保する「自由な社会」そのものが、コロナによって破壊されようとしているのが今の現実だ。

もしも未接種の人々のせいでコロナが収束しない、と科学的に証明されるなら、それらの人々には「自由意志で」彼らだけのロックダウンに入ってもらうのが筋だろう。

だが、むろんそれだけでは問題は解決しない。




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日本人に愛されたいと切望した大横綱白鵬の悲哀 


白鵬-宝富士切取550

おどろき

NHKスペシャル「横綱 白鵬 “孤独”の14年」というドキュメンタリー番組を見た。不可解な部分と妙に納得できる部分が交錯して、いかにも「異様な横綱」に相応しい内容だと感じた。

2007年に22歳の若さで横綱になった白鵬は、心技体の充溢したような強い美しい相撲で勝ち続けた。

途方もない力量を持つ白鵬の相撲が乱れ出したのは30歳を過ぎた頃からだ、とNHKスペシャルのナレーションは説明した。

加齢による力の衰えと、“日本人に愛されていない”という悩みが彼の相撲の劣化を招いた、というのである。

加齢は分かるが、白鵬には「日本人に愛されていないという悩みがあった」という分析は、新鮮過ぎて少しめまいがしたほどだった。

僕は引退前5~6年間の白鵬の動きにずっと違和感を抱いてきた。それは30歳を過ぎてから白鵬の相撲が乱れ始めた、という番組の見方とほぼ一致している。

だが僕は白鵬の変化を、彼の思い上がりがもたらしたものと考えてきた。一方NHKスペシャルは、彼の力の衰えと日本人に愛されたいといういわば「コンプレックス」が乱れの原因と主張するのだ。

大横綱の光と影

白鵬は2020年にコロナパンデミックが起きる前までは、荒っぽい取り口も多いものの常に力強い相撲を取っていると僕は感じていた。

今の時代、アスリートの力の衰えをは30歳で見出すのは中々むつかしい。20歳代後半から30歳前後がアスリートの最盛期というイメージさえある。

一方で取り組み前や取り組み後の彼の所作は見苦しかった。鼻や口を歪めてしきりに示威行為を繰り返し、仕切り時間一杯になるとタオルを放り投げたりする

取り組みで相手を倒すとダメ押し気味に殴る仕草をする。ガッツポーズは当たり前で腕を振り肩をいからせてドヤ顔を作る。威嚇する。

仕上げには賞金をわしづかみにして拝跪し、それだけでは飽き足らずに振り回し振りかぶる。日本人には中々真似のできないそれらの動きは品下って見えた。

見苦しい所作は、時間が経つにつれて増えていった。だが20歳代までの白鵬は、冒頭で触れたように心技体の充実した模範的な横綱に見えていたのた。

事実、横綱になって3年後の2010年には、彼の優勝を祝して館内に自然に白鵬コールが起こるほどに彼は尊敬され愛され賞賛されていた。後に目立つようになる醜い所作も当時はほとんど見られなかった。

功績

彼は優勝を重ね、全勝優勝の回数を増やし、双葉山に次ぐ連勝記録を打ち立て、北の湖、千代の富士の優勝回数を上回る記録を作った。そしてついには大鵬の優勝回数を超えてさらに大きく引き離した。

次々に記録を破り大記録を打ちたてながら、彼は相撲協会を襲った不祥事にも見事に対応した。賭博事件と八百長問題で存続さえ危ぶまれた相撲協会をほぼひとりで支えた。

名実ともに大横綱の歩みを続けるように見えた白鵬はしかし、日馬富士、鶴竜、稀勢の里の3横綱の台頭そして引退を見届けながら徐々に荒れた相撲を取るようになった。同時に取り組み前後の所作も格段に見苦しくなって行く

僕は彼の取り口ではなく、土俵上の彼の行儀の悪さを基に、白鵬は横綱としての品格に欠けると判断し、そう発言してきた。

白鵬が次第に品下っていったのは、彼の思い上がりがなせる技で、誰かが正せば直ると僕は信じていた。だが一向に矯正されなかった。そして彼はついに、僕に言わせれば「晩節を汚したまま」引退した。

だがNHKスペシャルは、白鵬の所作ではなく「取り口」が乱れたのだと力説した。それは横綱審議委員会と同じ見方である。

つまりどっしりと受けてたつ「横綱相撲」ではなく、張り手やかち上げを多用する立会いが醜い、とNHKスペシャルも横綱審議委員会も主張するのだ。

それは僕の意見とは異なる。僕は以前にこのブログで次のように書いた。


強い横綱は張り手やかち上げなどの喧嘩ワザはできれば使わないほうが品格がある、というのは相撲文化にかんがみて、大いに納得できることである。
だが僕は、白鵬の問題は相撲のルール上許されている張り手やかち上げの乱発ではなく、土俵上のたしなみのない所作の数々や、唯我独尊の心を隠し切れない稚拙な言行にこそあると思う。
白鵬が張り手やかち上げを繰り出して来るときには、彼の脇が空くということである。ならば相手はそこを利して差し手をねじ込むなどの戦略を考えるべきだ。
あるいは白鵬に対抗して、こちらも張り手やかち上げをぶちかますくらいの気概を持って立ち合いに臨むべきだ。
白鵬の相手がそれをしないのは、張り手やかち上げが相手を殴るのと同様の喧嘩ワザだから、「横綱に失礼」という強いためらいがあるからだ。
白鵬自身はそれらの技が相撲規則で認められているから使う、とそこかしこで言明している。横綱の品格にふさわしくないかもしれないが、彼の主張の方が正しいと僕は思う。
それらのワザが大相撲の格式に合わないのならば、さっさと禁じ手にしてしまえばいいのである。
要するに何が言いたいのかというと、横綱審議委員会は白鵬の相撲の戦法を問題にするなら、対戦相手の対抗法も問題にするべき、ということだ。
張り手やかち上げは威力のある手法だが、それを使うことによるリスクも伴う。白鵬はそのリスクを冒しながらワザを繰り出している。
対戦相手は白鵬のそのリスク、つまり脇が空きやすいという弱点を突かないから負けるのだ。横綱審議委員会はそこでは白鵬の品格よりも対戦相手の怠慢を問題にしたほうがいい。
もう一度言う。横綱としての白鵬の不体裁は相撲テクニックにあるのではなく、相撲規則に載っていない種々の言動の見苦しさの中にこそあるのだ。


晩節を汚した立ち合い

そんな具合に僕は横審ともNスペともちょっと違う意見を持っている。だが、自分の見解が果たして妥当なものであるかどうかの確信はない。それというのも白鵬は、彼の最後の土俵となったことしの名古屋場所で、またしても驚きの動きをしたからだ。

全勝で迎えた7月場所の14日目、白鵬は時間いっぱいの仕切りで、仕切り線から遠い俵際まで下がって立ち合いの構えに入った。館内がどよめき対戦相手の正代は面食らって立ちすくんだ。

NHK解説者の北の富士さんが「正気の沙汰とは思えない」と評価した立ち合いである。正代は訳がわからないままに立ち、白鵬は例によって張り手を交えた戦法でショックから立ち直れない正代を下した。

異様な相撲はそこでは終わらなかった。白鵬は翌日の千秋楽でも大関の照ノ富士を相手に、殴打あるいは鉄拳にさえ見える張り手を何発も繰り出して、相手の意表をつき小手投げで勝った。45回目のしかも全勝での優勝の瞬間だった。

白鵬は正代との一戦を「散々考え抜いた末に、彼にはどうやっても勝てないと感じたので、立ち合いを“当たらない”で行こうと決めた」とインタビューで語った。

立ち合いを当たらないとは、要するに変化する、逃げる、などと同じ卑怯な注文相撲のことである。

だが何が何でも勝ちに行く、という白鵬の姿勢は責められるべきものではない。相撲でも勝つことは重要だ。また、仕切り線から遠い俵際まで下がって立ち合いに臨むのも、反則ではない。かち上げや張り手が禁じ手ではないように。

それどころか仕切り線から遠くはなれて俵際から立ち合うという形は、ある意味では誰も思いつかなかった斬新な戦法である。ましてや横綱がそれをやるなどとは誰も考えないだろう。

文化と文明の相克

白鵬の張り手やかち上げを「まともな戦法」と主張する僕は、正代戦での彼の立ち合いもまっとうな戦術の一つ、と認めて庇護しなければならない。だが、全くそんな気分にはなれない。

その立ち合いと、立ち合いに続く戦いは、白鵬の土俵上の所作や土俵外での言動に勝るとも劣らない醜さだと僕は感じた。

白鵬の戦法は理屈では理解できる。しかし僕の感情が受け入れない。そしてこの感情の部分こそが、つまり、「文化」なのである。

勝つことが全て、という白鵬の立場は普遍的だ。相撲は勝負であり格闘技だから勝つことが正義だ。それはモンゴル人も、ヨーロッパ人も、アフリカ人も、われわれ日本人も、要するに誰もが理解している。

誰もが理解できるコンセプトとはつまり文明のことだ。白鵬の立ち位置は文明に拠っているためにいかにも正当に見える。だが僕を含む多くの日本人はそこに違和感を持つ。われわれにの中には文明と共に日本文化が息づいているからだ。

その日本文化が、大相撲はただ勝てば良いというものではない、とわれわれに告げるのである。

文化は文明とは違って特殊なものだ。日本人やモンゴル人やイタリア人やスーダン人など、あらゆる国や地域に息づいている独特の知性や感性が文化だ。そして文化は多くの場合は閉鎖的で、それぞれの文化圏以外の人間には理解不可能なことも珍しくない。

普遍性が命である文明とは対照的に、特殊性が文化の核心なのである。従って文化は、その文化の中で生まれ育っていない場合には、懸命に努力をし謙虚に学び続けない限り決して理解できず、理解できないから身につくこともない。

相撲は格闘技で勝負ごとだから何をしても勝つことが重要、という明晰な文明は正論だ。だがそれに加えて「慎みを持て」という漠たる要求をするのが文化である。日本文化全体の底流にあるそのコンセプトは、大相撲ではさらに強い。

文明のみを追い求める白鵬は、そのことに気づき克服しない限り決して横綱の品格は得られない。さらに言えば白鵬の場合、気づいてはいるものの克服する十分な努力をしていない、というふうにも見える。

驚きの“日本人に愛されたい症候群”

しかしながら白鵬の在り方のうちで最もよく分からないのは、彼が「日本人に愛されたいという強い願望を持っている」というNHKスペシャルの指摘である。

番組によると白鵬は、日本人に愛されたいと願っていて、それが叶わないために屈折しコンプレックスとなりプレッシャーになって相撲が乱れたのだという。

そうした白鵬の思い込みは、最後の日本人横綱である稀勢の里との対戦の際に、観客が日本人である稀勢の里のみを応援して自分を軽んじている、という見方を彼にもたらした。

彼はさまざまな場面でそんなひけ目や葛藤また孤独感を抱いて相撲ファンを恨み、それに沿った言動をして日本社会から隔絶していった。

それらが事実なら、反動で白鵬は優勝インタビューにかこつけて万歳三唱を観客に要請したり(2017年)、3本締めを強制したり(2019年)して顰蹙を買い、さらに溝を深めていった、という分析も可能だ。

僕は白鵬の土俵上の所作とともに万歳三唱や3本締めを冷ややかに見てきた。あまり利口なやり方ではない、と苦笑する思いでいた。従ってそのことに批判的らしい番組の方向性に納得した。しかしその原因が、いわば「日本人に愛されたい症候群」によるとは思いもよらなかった。

日本人に愛されたい願望がある、とは日本人に嫌われているということである。少なくとも白鵬自身はそう感じているということだ。

それはもしかすると、日本人の中にある執拗な人種差別あるいは排外感情を、白鵬が感じ続けているということなのかもしれない。

大相撲に絡んだ人種差別は、小錦騒動などでも明らかだった。僕はモンゴル人の鶴竜が横綱に昇進した時点で、人種差別は克服されたと書いた。

白鵬はバナナ日本人など恐れなくていい

だが圧倒的な強さを誇った白鵬が、そんな苦悩を抱えていたという意識とともに最後の優勝シーンを思い返してみると、ちょっとつらい気持ちになった。

名古屋場所の千秋楽に白鵬は家族を招待していた。彼が優勝を遂げた瞬間、奥さんと子供たちは嬉し泣きをした。僕はそれを、膝の怪我を克服して復活した白鵬を家族が喜び称える姿、と信じて疑わなかった。だがそこに人種差別的な要素が加わるとひどく違うシーンに見える。

白鵬の「日本人の奥さん」と「日本人の子供たち」は、理不尽な差別を受ける夫また父親が、重圧を跳ね返してまた優勝を遂げたことを祝い、賞賛し、誇る気持ちから喜びの涙にくれた、とも考えられるのである。

向かうところ敵なしの強さと、存在感を示し続けた白鵬を否定しようとする勢力があるとすれば、日本人であるということ以外には何にも誇るものを持たない「ネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者」、あるいは皮膚は黄色いのに中身が白人のつもりのバナナ市民、つまり「国粋トランプ主義者」あたりだろう。

それらの下種な勢力は、モンゴル人だからという理由で白鵬を貶めようとすることも十分考えられる。

だが先に触れたように白鵬は、2007年に横綱に昇進して以降力強く美しい相撲で快進撃を続け、野球賭博や八百長問題で存続の危機にまでさらされた大相撲を救った立役者だ。

その意味では日本人以上に日本の最重要な伝統文化の一つを守った男なのだ。白鵬がもしもバナナ国民の中傷や攻撃を受けていたのなら、怖れることなく告発をするべきだ。

日本の国際的な評判を貶めるだけの反日・亡国の輩、すなわち「ネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者」あるいは「国粋バナナ・トランプ主義者」等々を怖れる必要などないのである。





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イタリア政府の巧緻なたくらみ


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ワクチンパスポートあるいはグリーンパスに仕掛けたイタリア政府の小さな術策はどうやら成功したようだ。

イタリアでは10月15日から全ての労働者にグリーンパス(ワクチン接種証明書ほか)の携帯が義務付けられた。

統計ではイタリア国民のおよそ3分の2がその措置に賛成しているが、断固反対の人々もいて暴力沙汰を含む抗議デモが繰り返された。

反ワクチン過激派の反対運動は今も続いている。だが、急ぎワクチンを接種したり、グリーンパスをダウンロードする国民が15日以降急増した。

10月15日は金曜日である。

イタリア政府がわざわざ週末を期して法を施行したのは、人々が月曜日からの仕事に備えて週末にワクチン接種をし、グリーンパスを手に入れようと急ぐに違いない、と計算したからだろう。

その思惑は当たって、金曜日だけでも86万7千あまりのグリーンパスがダウンロードされた。土、日にもその傾向は続き、18日の月曜日は1日あたりの過去最高となる104万9千384件のパスが発行された。

駆け込みでグリーンパスを取得した人々の全員がワクチン接種を受けたのではない。グリーンパスはワクチン接種を受けた者と、感染し回復した者、直近の検査が陰性だった者に発行される。

とはいうものの、ワクチンの接種に踏み切った人は多い。それでなければ数日毎に「自費で」PCR検査を受け続けなければならないから負担が重いのだ。

ワクチン接種が自発的な選択で成されなければならないのは、民主主義世界では自明のことだ。誰も個人の自由や権利を冒すことはできないし冒してもならない。

それは例えば、ことし1月に出された 欧州評議会決議2361の「ワクチン接種は義務ではない。ワクチン接種を受けたくない者に、政治的、社会的、その他の圧力をかけてはならない。またワクチン接種を受けたくない者を差別してはならない」という勧告にも明らかだ。

それ以前にも、ワクチン接種に限らず、「医学研究への参加は、自発的な行為でなければならない」とするヘルシンキ宣言や、「人は誰でも自己の身体を尊重する権利がある。人の身体は不可侵である」と謳うフランス民法など、医療にまつわる個人の自由を守る法や宣言は多くある。

新型コロナワクチンの接種に対しても、そうした事例は適応されるべき、という考え方もある。だが新型コロナは社会全体が危険にさらされる緊急事態だ。個人の自由が社会全体の不都合や危機に直結する可能性が高い。

イタリア政府の措置はその考えに基づいた険しい動きだ。それは昨年2月イタリアで始まった未曾有のコロナ危機と、それに続いた前代未聞の全土ロックダウンを意識しての政策だ。

イタリアは全土ロックダウンのあとも、医療従事者へのワクチン接種義務、娯楽施設でのグリーンパス提示義務、そして今回の全労働者へのグリーンパスの提示義務など、世界初や欧州初という枕詞がつく過酷な施策を次々に導入してきた。

全労働者へのグリーンパスの提示義務には、ワクチン接種をさらに加速させるという大きな狙いがある。イタリアは経済的にも社会的にも再びの全土ロックダウンには耐えられない、とドラギ政権は考えている。それは恐らく正しい。

僕もその考えを支持する。だが行政はワクチンを拒否する人々を排除するのではなく、彼らを説得する道筋を辿って不安と不満を取り除く努力をするべきだ。

イタリア共和国は将来の過酷な全土封鎖に耐える体力はもはやなく、国民の大半もそれを避けたい。同時に極右の政治勢力ではない反ワクチン派の人々にとっては、グリーンパスの強制はロックダウンにも匹敵する苦痛であることは、常に意識されるべきと考える。




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イタリア式新聞制作トリセツ


則表紙暖色800


先頃、ミラノに本拠を置くイタリア随一の新聞Corriera della seraから僕を取材したいという連絡があった。ここしばらく遠い昔にアメリカで賞をもらったドキュメンタリーが蒸し返されることが続いたので、またそのことかと思った。少しうんざりした、というのが本音だった。

ところが古い作品の話ではなく、イタリア・ロンバルディア州のブレシャ県内に住むプロフェッショナルの外国人を紹介するコーナーがあり、そこで僕を紹介したい、と記者は電話口で言った。断る理由もないので取材を受けた。

そうは言うものの、あえて今取材依頼が来たのは、やはり昔の受賞作品が見返されたことがきっかけだということは、記者の関心の在所や質問内容で分かった。だがそれは不快なものではなかった。記者の人柄が僕の気持ちをそう導いた。

発行された新聞を見て少しおどろいた。丸々1ページを使ってかつ何枚もの写真と共に、自分のことが紹介されていた。過去に新聞に取材をされたことはあるが、1ページいっぱいに書かれた経験などない。

アメリカで賞をもらったときでさえ、もっとも大きく書かれたのは日本の地方新聞。写真付きで紙面の4分の一ほどのスペースだった。全国紙にも紹介されたが、本人への直接の取材はあまりなく、僕の名前と受賞の事実を記しただけのベタ記事がほとんどだった。

それなものだから、1ページ全てを使った報道に目をみはった。

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イタリアの新聞には顔写真が実に多く載る。これは自我意識の発達した西洋の新聞ということに加えて、人が、それも特に「人の顔」が大好きなイタリアの国民性が大きく影響している。彼らは人の個性に強くひきつけられる。そして個性と、個性が紡ぎだす物語は顔に表出される、と彼らは考えている。

記事の文章は顔に表出された物語をなぞる。だが文章は、顔写真という“絵”あるいは“映像”よりももどかしい表現法である。絵や映像は知識がなくても解像し理解できるが、文章はどう足掻いても文字という最低限の知識がなければ全くなにも理解できない。

直截的な表現を好むイタリアの国民性は、彼らのスペクタクル好きとも関係しているように見える。イタリアでは日常生活の中にあるテレビも映画も劇場もあらゆるショーも、人の動きもそして顔も、何もかもがにぎやかで劇的で楽しい表現にあふれている。時には生真面目な新聞でさえも。

僕を紹介する記事は、若い頃の顔写真をなぞって物語を構成していて、記事文に記されている東京、ロンドン、ニューヨークなどの景色は一切載っていない。僕が生まれ育った南の島の、息をのむように美しいさんご礁の海の景色でさえも。

記者にとっては、つまりイタリアの読者にとってはそこでは、海や街の景色や事物や自然よりも人物が、人物だけが、面白いのである。そして人物の面白さは顔に表れて、顔に凝縮されている。かくて紙面は顔写真のオンパレードになる。

若い自分の写真は面映いものばかりだが、幸い今現在の、成れの果ての黄昏顔もきちんと押さえてくれているので、どうにか見るに耐えられると判定した。

日本で結婚披露宴をしたとき、僕は黒紋付ではなく白を着たいと言い張った。べつに歌舞伎役者などを気取ったわけではなく、黒よりも白のほうが明るくて楽しいと思ったのだ。今となってみるとあれでよかったのだと思う。

ちなみにその披露宴場には、あらゆる色の紋付き袴が賃貸用に備えられていた。天の邪鬼は自分以外にもいるらしい、と思ったのを昨日のことのように覚えている。





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100歳で現役のメルケルさんを見てみたい


メルケル白黒450

ドイツの政治不安が続いてる。

先月の連邦議会選挙で、僅差の勝利を収め第1党になった中道左派の社会民主党(SPD)が、連立政権の樹立を目指している。だが先行きは不透明だ。

社会民主党は第3党の「緑の党」と、第4党の自由民主党(FDP)との3党連立を模索している。だが緑の党と自由党の政策の違いは大きく、共存は容易ではない。

第2党になったメルケル首相所属のキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)も、緑の党と自由党との連立政権樹立を狙っている。

それは4年前の政治混乱時とよく似た構図である。当時は総選挙で第1党になったキリスト教民主・社会同盟が、連立政権樹立を目指したが紛糾

紆余曲折を経て、前回選挙では第2党だった社会民主党との大連立が成立した。今回選挙では第1党と第2党が逆転したのである。

社会民主党は、メルケル首相が率いるキリスト教民主・社会同盟の影で、長い間存在感を発揮できない苛立ちを抱えてきた。そのこともあって、辛うじて第1党になった今回は、メルケル色を排除しての連立政権構想を立てている。

だが既述のように僅差で第1党になったことと、連立を組みたい緑の党と自由民主党の間の不協和音もあって政権樹立は容易ではない。

連立交渉が長引き政治不安が深まれば、2017年同様に大統領を含む各界からの圧力が強まって、結局社会民主党はキリスト教民主・社会同盟との大連立を組まざるを得なくなる可能性も出てくる。

4年前の総選挙では連立交渉がおよそ半年にも及んだ。政治不安を解消するために、シュタインマイヤー大統領が介入して各党に連立への合意を勧告した。

その結果大統領自身が所属する社会民主党が妥協して、同盟との大連立を受け入れたといういきさつがある。

大統領が介入した場合には、議会第1党から首相候補を選ぶのが慣例。その後議会で無記名の指名選挙が実施される。そこで過半数の賛成があれば首相に就任する。

埒が明かずに指名選挙が繰り返され、合計3度の投票でも決着がつかなければ、大統領は少数与党政権の首班として首相を指名する。それでなければ議会を解散して新たな総選挙の実施を宣告する。

次の政権ができるまでは、メルケル首相が引き続きドイツを統率する。言葉を変えればドイツは、政治不安を抱えながらも、メルケル首相という優れた指導者に率いられて安泰、ということでもある。

少し妄想ふうに聞こえるかも知れないが、いっそのことメルケル首相が続投すれば、ドイツはますます安泰、EU(欧州連合)も強くまとまっていくだろうに、と思う。

強いEUは、トランプ前大統領の負の遺産を清算しきれないアメリカや、一党&変形&異様な独裁国家つまり中ロ北朝鮮にもにらみをきかせ、それらのならず者国家の強い影響下にある世界中のフーリガン国家などにも威儀を正すよう圧力をかけることができる。

卓越したリーダーの資質を持つメルケル首相には、人生100歳時代を地で行ってもらって、ドイツ首相から大統領、はたまたEUのトップである欧州委員会委員長などの職を順繰りに就任して世界を導いてほしい。

人の寿命が延びるに従って世界中の政治家の政治生命も飛躍的に高まっている。バイデン大統領は間もなく79歳。ここイタリアのベルルスコーニ元首相は85歳。マレーシアのマハティール氏は2018年、92歳という高齢で首相に就任した

また2019年、老衰により95歳で死去 したジンバブエのロバート・ムガベ大統領は、93歳まで同国のトップであり続けた。中曽根元総理なども長命の政治家だった。メルケルさんは67歳。それらの政治家の前では子供のようなものだ。

メルケル首相は、疲れた、休みたい、という趣旨の発言をしているというが、彼女も結局政治家だ。周りからの要請があれば、胸中に秘めた政治家魂に火がついて政界復帰、というシナリオも十分にあり得るのではないか。

危機の只中にあるにもかかわらず病気と称して2度も政権を投げ出し、あたかも政界から身を引くかのような言動でフェイントをかけておいて、首相擁立の黒幕的存在とみなされているどこかの国の元首相さえいる。

その元首相は、国内の右翼や歴史修正主義者やトランプ主義者らにウケるだけで、国際的には何の影響力も持たない。むしろ過去の歴史を反省しない危険な民族主義者と見られて、国際的には国益を損なう存在だ。

メルケル首相は、その元首相とは大違いで、ドイツの過去の蛮行を正面から見据えて反省し、迷惑をかけた周辺国への謝罪の気持ちを言葉にし実行し続けた。その姿勢は国際社会からも高く評価された。

引退を発表した彼女を惜しむ世界の声は、そうした誠実でぶれない人柄と強い指導力、また比類のない実績の数々を称えて日々高まっているようにさえみえる。

メルケル後のドイツ政権はいつかは成立するだろう。だが新政権のトップが無力だったり非力と見なされた場合には、メルケル復権を求める声が実際に高まる可能性は十分にあると思う。

個人的には僕はそういう状況の到来をひそかに願ってさえいる。




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無能のレッテルを貼られて消え行く「永遠の都」の女性市長は永遠かも


ラッジ胸像


10月3日-4日に行われたローマ市長選挙で現職のヴィルジニア・ラッジ市長が落選した。

ラッジ氏は2016年、ローマ誕生以来2769年間続いてきた男性オンリーの支配体制に終止符を打った。

ローマは、オオカミに育てられた双子の兄弟ロームルスとレムスが、紀元前753年に建設して以降、常に皇帝や執政官や独裁官や教皇や元首などの男性指導者に統治されてきた。

生粋のローマっ子で当時37歳のラッジ氏は、彗星の如くあらわれて鋭い舌鋒で既存の政治家を糾弾。私がローマの全てを変える、と主張した。

当時ローマでは、前市長が公費流用疑惑で辞任し、市当局がマフィアと癒着していた醜聞が明らかになるなど、市民の怒りと政治不信が最高潮に達していた。

ラッジ氏は既成の政党や古い政治家を厳しく批判して支持を伸ばしていた反体制政党「五つ星運動」の所属。時節も追い風になって彼女は大勝した

ラッジ市長は、サラ金や麻薬密売を武器にローマにはびこる犯罪組織、カザモニカ(casamonica)を押さえ込んで市民の喝采を浴びた。

だが一方で、バスや電車に始まる公共交通機関の乱れや劣化する一方のインフラなど、ローマの構造的な腐食や疲弊には無力だった。

中でもゴミ問題に対する市の対応の遅れと拙さが厳しい批判を浴びた。ラッジ市長は「永遠の都」に日々積みあがっていく腐敗物を尋常に処理できなかったのだ。

ローマには街に溢れるゴミを目当てに、イノシシの群れが徘徊する事態まで起きた。それでもラッジ市長は有効なゴミ処理策を打ち出せなかった。驚くべき非力である。

彼女の奇態はそこでは終わらなかった。ラッジ市長は市内の公園や歴史的建造物の庭園で芝刈り機を使う代わりに、ヤギや羊また牛などを放牧し草や木々の葉を食べさせて清掃しようとした。

そうすることで財政難が続く永遠の都の台所を救い、環境保護にも資することができる。一石二鳥だ、と彼女は言い張ったのである。

そのアイデアは実は彼女独自のものではない。例えばパリやドイツのケルンなどでも公園などに羊を放牧して草を食ませ掃除をしている。欧州のみならず世界中に同じ例がある。

だが、ローマの場合には余りにも規模が大きい。ローマは欧州随一の緑地帯を持つ都市なのだ。導入する動物の数や管理に加えて、垂れ流す糞便のもたらす衛生健康被害を想像しただけでも実現は不可能と知れた。

市長の批判者は、そのアイデアはゴミをカモメに食べてもらう企画に続くラッジ市長の荒唐無稽な施策だ、と激しく反発した。

同時に彼らは「市長はやがて蚊を退治するためにヤモリの大群をローマに導入しようと言い出すに違いない」などとも嘲笑し愚弄した。

ラッジ市長は政治的には無能だったと僕も思う。世界有数の観光都市ローマの道端にゴミが溢れる状況を改善できないなんて、まさしく言語道断だ。

しかしラッジ市長は-例えば日本に比べれば遥かに進んでいるとはいうものの-欧米先進国の中では女性の社会進出が遅れているイタリアの首都の、史上初の女性トップだった。

ローマには何食わぬ顔で女性蔑視・男尊女卑を容認するカトリックの総本山バチカンがある。

カトリックは許しと愛と寛容を推進する偉大な宗教だが、ジェンダーに関しては救えないほどの古い思想また体質を持っている。

欧米先進国の中でイタリアの女性の社会進出が遅れているのはカトリックの影響も大きい。欧州の精神の核の一つを形成してきたローマは、ジェンダーという意味ではひどく後進的な都市なのだ。

古代の精神を持つそのローマで、ヴィルジニア・ラッジ市長という女性のトップが生まれた歴史的意義は大きい。

われわれは例えば、パリやロンドンやニューヨークなどの、欧米の他の偉大な都市で女性市長が誕生しても、もはや誰も驚かない。それらの都市は既に十分に近代的で「男尊女‘’」の社会環境にあるからだ。

ローマは違う。さり気なく且つ執拗に男尊女卑の哲学を貫くバチカンを擁する現実もあって、イタリア国内を含む他の欧州の都市のように近代的メンタリティーを獲得し実践するのは困難だった。

それが古来はじめて転換したのである。

転換の主体だったラッジ市長は、彼女の使命を終えて政治の表舞台から去ることになった。

彼女が任期中にたとえ多くの懸案を解決できなかったとしても嘆くことはない。

なぜなら厳とした男尊女卑の因習を持つイタリアで、初の「女性ローマ市長」になったラッジ氏の真の役割は、例えばアメリカ初の黒人大統領バラック・オバマ氏のそれに似た、歴史の分水嶺を示す存在であること、とも考えられるからだ。





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猥褻は作品ではなく、それを見る者の心中にある


胸像715

チチョリーナな農婦

イタリア南部の町サプリで、1800年代に書かれた詩に基づいて作られた銅像が女性蔑視だとして物議をかもしている。

詩のタイトルは「サプリの落ち葉拾い」。当時の支配者ブルボン家への抗議を示すために、仕事を放棄した農婦の自己決定権を描いている。

銅像はその詩へのオマージュである。

ところが銅像農婦はすけすけのドレスを着ていて、特に腰からヒップのラインが裸同然に見える。それに対してフェミニストやジェンダー差別に敏感な人々が怒りの声を挙げた。

銅像は女性の自己決定を無視し、反ブルボン革命について全く何も反映していない。女性はまたもや魂を欠いた性の対象に過ぎない肉体だけを強調され、「サプリの落ち葉拾い」が語る社会的且つ政治的問題とは全く関係がないと糾弾した。

それに対して銅像の作者で彫刻家のエマヌエレ・スティファーノ(Emanuele Stifano )さんは、何事にもただただ堕落のみを見たがる者に芸術を説明しても意味がない、と反論した。

作品も評論も心の目の見方

尻くっきり650x650

僕は彫刻家に味方する。銅像が優れた作品であるかどうかは別にして、それは創作アートである。何をどう描いても許されるのが芸術活動だ。

芸術作品に昇華された農婦は、裸体でもシースルーの服を身にまとっていてもなんでも構わない。作者の心の目に見える姿が、そこでの農婦の真性の在り方なのである。

また同時にその作品を鑑賞する者には、作品をいかようにも評価する自由がある。

従ってフェミニストが、銅像は女性への侮辱だと捉えるのも正当なものであり、彼らの主張には耳を傾けなければならない。

批判や反感は鑑賞者の心に映る作品の姿だ。作者が自らの心に見える対象を描くように、鑑賞者も自らの心の鏡に映してそれを審査する。

僕はそのことを確認した上で、銅像の作者の言い分を支持し、一方で批判者の論にも一理があると納得するのである。

芸術と猥褻の狭間

だが、批判者の一部が「銅像を破壊してしまえ」と主張することには断固として異を唱えたい。

極端な主張をするそれらの人々は、例えばボッティチェリのビーナスの誕生や、ミケランジェロのダヴィデ像なども破壊してしまえ、と言い立てるのだろうか。

彼らが言い張るのは、農婦の銅像は女性の尊厳を貶める下卑たコンセプトを具現化している。つまり猥褻だということである。

体の線がくっきりと見えたり、あるいはもっと露骨に裸であることが猥褻ならば、ビーナスの誕生も猥褻である。また猥褻には男女の区別はないのだから、男性で裸体のダヴデ像も猥褻になる。

あるいは彼らが、農婦像は裸体ではなく裸体を想像させる薄い衣を身にまとっているから猥褻、だと言い張るなら、僕はナポリのサンセヴェーロ礼拝堂にある「美徳の恥じらい」像に言及して反論したい。

美徳あるいは恥じらい

ためらい(美徳・謙遜)ヒキ全身縦600 (1)

女性の美しい体をベールのような薄い衣装をまとわせることで強調しているその彫像は、磔刑死したイエスキリストの遺体を描いた「ヴェールで覆われたイエスキリスト」像を守るかのように礼拝堂の中に置かれている。

「美徳の恥じらい」像は、イタリア宗教芸術の一大傑作である「ヴェールで覆われたイエスキリスト」像にも匹敵するほどの目覚ましい作品である。

「サプリの落ち葉拾い」像の農婦がまとっている薄地の衣は、実はこの「美徳の恥じらい」像からヒントを得たものではないかと僕は思う。

ためらい(美徳・謙遜)切り取り胸から上原版660

大理石を削って薄い衣を表現するのは驚愕のテクニックだが、銅を自在に操ってシースルーの着物を表現するのも優れた手法だ。

僕は農婦の像を実際には見ていない。だがネットを始めとする各種の情報媒体にあふれているさまざまの角度からの絵のどれを見ても、そこに猥褻の徴(しるし)は見えない。

女性差別や偏見は必ず取り除かれ是正されるべきである。しかし、あらゆる現象をジェンダー問題に結びつけて糾弾するのはどうかと思う。

ましてや自らの見解に見合わないから、つまり気に入らないという理由だけで銅像を破壊しろと叫ぶのは、女性差別や偏見と同次元の奇怪なアクションではないだろうか。

猥褻の定義  

猥褻の定義は存在しない。いや定義が多すぎるために猥褻が存在しなくなる。つまり猥褻は人それぞれの感じ方の表出なのである。

猥褻の定義の究極のものは次の通りだ。

「男女が密室で性交している。そのときふと気づくと、壁の小さな隙間から誰かがこちらを覗き見している。男も女も驚愕し強烈な羞恥を覚える。ある作品なりオブジェなり状況などを目の当たりにして、性交中に覗き見されていると知ったときと同じ羞恥心を覚えたならば、それが即ち猥褻である」

僕の古い記憶ではそれはサルトルによる猥褻の定義なのだが、いまネットで調べると出てこない。だが書棚に並んでいるサルトルの全ての著作を開いて、一つひとつ確認する気力はない。

そこでこうして不確かなまま指摘だけしておくことにした。

Simone De Beauvoir e Jean-Paul Sartre300

キリスト教的猥褻

学生時代、僕はその定義こそ猥褻論議に終止符を打つ究極の見解と信じて小躍りした。

だが、まもなく失望した。つまりその認識は西洋的な見方、要するにキリスト教の思想教義に基づいていて、一種のまやかしだと気づいたのだ。

その理論における覗き見をする者とは、つまり神である。神の目の前で許されるのは生殖を目的とする性交のみだ。

だからほとんどが悦びである性交をキリスト教徒は恥じなければならない。キリスト教徒ではない日本人の僕は、その論議からは疎外される。

その認識にはもうひとつの誤謬がある。性交に熱中している男女は、決してのぞき穴の向こうにある視線には気づかない。性交の美しさと同時に魔性は、そこに没頭し切って一切を忘れることである。

性交中に他人の目線に気づくような男はきっとインポテンツに違いない。女性は不感症だ。セックスに没頭しきっていないから彼らはデバガメの密かな視線に気づいてしまうのである。

若い僕はそうやって、インテリのサルトルはインポテンツで彼のパートナーのボーヴォワールは不感症、と決めつけた。

猥褻は人の心の問題に過ぎない

スマホupで絵を撮る650

そのように僕は究極の猥褻の定義も間違っていると知った。

そうはいうものの僕はしかし、いまこの時の僕なりの猥褻の定義は持っている。

僕にとっての猥褻とは、家族の全員及び友人知己の「女性たち」とともに見たり聞いたり体験した時に、羞恥を覚えるであろう物事のこと、である。

僕はサプリの農婦の像やビーナスの誕生やダヴィデ像、そしてむろん美徳の恥じらい像を彼らとともに見ても恥らうことはない。恥らうどころか皆で歓ぶだろう。

その伝でいくと、例えば女性器を鮮明に描いたギュスターヴ・クールベの「世界の起源」を、もしも僕に娘があったとして、その娘とともにく怯むことなく心穏やかにに眺めることができるか、と問われれば自信がない。

しかしそれは、娘にとっては何の問題もないことかもしれない。問題を抱えているのは飽くまでもこの僕なのだ。

そのように猥褻とは、どこまでも個々人の問題に過ぎないのである。






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