【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2021年12月

コロナ規制強化は普通に反ワクチン頑民に留めるべきかも

650霧のぶどう園と道路

イタリアのコロナ感染者数は12月23日~25日にかけて3日連続で過去最悪を記録した。

その数字は英独仏ほかの国々に比べると低かったが、パンデミックの初っぱなで医療崩壊を含むコロナ地獄を経験しているイタリアは、敏感に反応して年末年始の規制強化策を導入した。

12月23日のことである。

僕はその策は生ぬるいと感じた。ワクチン未接種を厳しくロックダウンすると同時に全体的な規制も強めるべき、と考えていた。

だがどうやら僕は間違っていたようだ。

僕は濃厚接触者への隔離策が厳しすぎるという点を見逃していたのだ。

現在の抑制策は、濃厚接触者がワクチンを接種済みなら7日間、未接種なら10日間、自主隔離するというものだ。

だがそれでは2週間以内に全国で500万人から1000万人が自主隔離を迫られることになる。

緩和策が取られなければ国全体がたちまち麻痺する事態に陥りかねない。

多くの専門家がそう指摘している。

ワクチン接種を済ませている者の隔離を減らし、逆にワクチン未接種者への規制を強化するべき、という強い意見もそこかしこから上がっている。

僕もそれに賛成だ。

イタリアの一日あたりの感染者数は、12月25日の54762人をピークに下降線をたどろうとしているようにも見える。

12月31日まで屋外での集会やイベントが禁止されることを考えれば、その傾向は続くのだろうが油断はむろん禁物だ。

少し油断をすれば、基本的に規則や法律に始まるあらゆる「縛り」が嫌いなイタリア国民は、自由奔放、やりたい放題に動いて、すぐに感染爆発がやって来かねない。




facebook:masanorinakasone









反ワクチン市民への弾圧の可能性

則イラスト鼻毛up800を100


昨日次のようにブログに書いた。


12月23日、イタリア政府による年末年始のコロナ規制強化策が発表された。

それらは:

1.屋内でのみ義務化されているマスク着用を屋外にも適用。

2.ワクチン接種証明のグリーンパスの有効期間を9ヶ月から6ヶ月に短縮。

3.映画館、劇場、スポーツ観戦、また公共交通機関を利用する際には現在使われているサージカルマスク(医療用マスク)ではなく、FFP2(防塵マスク)を使用すること。

4.現在はグリーンパスが無くても飲食できるバーやカフェ、レストランカウンターなどでもグリーンパスの提示を義務付ける。

5.屋外でのイベントやパーティーを12月31日まで禁止。

など。

12月23日、イタリアの1日あたりの感染者数が過去最悪の44595人にのぼった。

これまでの記録は2020年11月13日の40902人。

また23日の死者数は168。最近では高い数字だが、これまでの最悪記録である、やはり2020年11月13日の550人よりは大幅に少ない。

12月23日の集中治療室収容の患者は1023人、通常病棟のコロナ患者は8772人。

片や昨年11月13日の記録は集中治療室収容の患者が3230人、通常病棟のコロナ患者は30914人にものぼった。

昨年の11月にはまだワクチンはなかった。その事実は数字の高さと相まってイタリア中を不安の底に陥れた。

ワクチン接種を拒む愚民は存在するものの、今年はワクチンが普及したため人々は少し穏やかな年末年始を迎えようとしている。

しかし、クリスマスの祝祭と年末年始の賑わいを考えた場合、イタリア政府の規制策は生ぬるいと思う。

ここ数日で感染が急激に拡大し、ついには過去最悪の数字を超えた事態を軽視していないか。

感染力の強いオミクロン株が、英国を真似て跋扈しそうな雰囲気があり、とても不気味だ。


ところが1日あたりの感染者数はすぐに塗り替えられて、クリスマスイブの新規感染者数は50599人にのぼった。

英仏独などでも新規感染者の数が爆発的に増えている。

イタリアはそれらの国よりまだ増しだが、規制強化がどう考えても十分ではないように見える。

昨年、3月~5月に医療崩壊にまで陥った恐怖を、肺腑にしみて知っているはずのイタリア政府もまた国民も、緊張が長く続き過ぎて心にゆるみがきているようだ。

年末年始の賑わいが大きくなるほどに感染拡大は続くだろう。おそらく感染爆発と形容しても良いほどに。

パンデミックが終息しないのは、ワクチン接種を拒否する頑民の存在が大きい。

終息しなければウイルスは今後も変異を繰り返す。

そこを見据えて各国政府は動き出そうとしている。

つまりワクチン接種の義務化だ。

それだけで済めば良いが、事態が改善しない暁には国家権力は、反ワクチン市民への弾圧まで考える可能性がある。

権力とはそういう不快なものだ。

権力に慈悲を求めるのは、飢えた猛獣をハグしようとするくらいに愚かしい行為である。




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オミクロン株の足音が聞こえる


海に沈むomicron看板

12月23日、イタリア政府による年末年始のコロナ規制強化策が発表された。

それらは:

1.屋内でのみ義務化されているマスク着用を屋外にも適用。

2.ワクチン接種証明のグリーンパスの有効期間を9ヶ月から6ヶ月に短縮。

3.映画館、劇場、スポーツ観戦、また公共交通機関を利用する際には現在使われているサージカルマスク(医療用マスク)ではなく、FFP2(防塵マスク)を使用すること。

4.現在はグリーンパスが無くても飲食できるバーやカフェ、レストランカウンターなどでもグリーンパスの提示を義務付ける。

5.屋外でのイベントやパーティーを12月31日まで禁止。

など。

12月23日、イタリアの1日あたりの感染者数が過去最悪の44595人にのぼった。

これまでの記録は2020年11月13日の40902人。

また23日の死者数は168。最近では高い数字だが、これまでの最悪記録である、やはり2020年11月13日の550人よりは大幅に少ない。

12月23日の集中治療室収容の患者は1023人、通常病棟のコロナ患者は8772人。

片や昨年11月13日の記録は集中治療室収容の患者が3230人、通常病棟のコロナ患者は30914人にものぼった。

昨年の11月にはまだワクチンはなかった。その事実は数字の高さと相まってイタリア中を不安の底に陥れた。

ワクチン接種を拒む頑民は存在するものの、今年はワクチンが普及したため人々は少し穏やかな年末年始を迎えようとしている。

しかし、クリスマスの祝祭と年末年始の賑わいを考えた場合、イタリア政府の規制策は生ぬるいと思う。

ここ数日で感染が急激に拡大し、ついには過去最悪の数字を超えた事態を軽視していないか。

感染力の強いオミクロン株が、英国を真似て跋扈しそうな雰囲気があり、とても不気味だ。












めでたさも中くらいのクリスマス 

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イタリア政府は今日(12月23日)中に、年末年始のコロナ規制をどうするか、閣議決定する予定である。

イタリアは昨年、年末年始を全土の完全ロックダウンではなく、クリスマスイブから新年の6日までの間に、スイッチを入れたり切ったりする変形ロックダウンで乗り切った。

具体的には1月24日から1月6日までの2週間のうち、12月28、29、30日と1月4日以外の日々は、全土にロックダウンをかける、というものだった。

クリスマス前後と年末年始の数日間はイタリアも人出が多い。だからそこを封鎖したのである。

ことしはワクチンのおかげで状況は改善した。しかし、オミクロン株とワクチン未接種の頑民のせいで、再び環境が悪化。コロナ以前と同じ年末年始になることは望めない。

欧州ではオランダが12月19日から全土のロックダウンを敷いている。

ドイツとその周辺の北欧諸国のコロナ環境も最悪だ。

むろんここイタリア、フランス、スペインなどの大国の状況も切羽詰っている。

オランダに続いて誰がロックダウンを宣言してもおかしくない。

また欧州ではオーストリアが来年2月からワクチン接種を義務化する。

ドイツもその方向で動いている。

どの国も、市民の自主的な判断に任せていては、これ以上ワクチン接種人口は増えない、と考えている。

特にいまだにワクチンは危険だとか陰謀だとかの世迷言をいう輩や、コロナは怖い病気ではないとのたまう痴人、果てはコロナは存在しないとまで主張する狐憑きが存在する限り、パンデミックは収まらない。

だれもが自由を希求する。現代の民主主義世界では、たとえどんなに強権的な政府でも、自国民の自由を縛ろうとは考えない。

それができるのは、例によって中露北朝鮮をラスボスとする独裁政権と、彼らを崇める世界中の“金魚のフン“国家のみだ。

ワクチンを拒否する頑迷人種は、その固陋さゆえに他者、つまり政府によって自由を束縛されることになるだろう。

残念だがそれは仕方のないこと、と言わざるを得ない。



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無神論者がクリスマスに熱狂する理由(わけ)


玉多数飾り800

イタリアを含む欧米諸国や世界中のキリスト教国では、人々がクリスマスをにぎやかに且つ厳かに寿ぎます。同時に世界中の非キリスト教国でも、人々はクリスマスを大いに楽しみ祝います。

昨年はコロナで痛めつけられ、クリスマスを祝う余裕はほとんどありませんでした。コロナ禍は続きますが、ワクチンのおかげでことしは少し祝祭を楽しむ余裕が出ています。

毎年、クリスマスのたびに思うことがあります。

つまり、今さらながら、西洋文明ってホントにすごいな、ということです。クリスマスは文明ではありません。それは宗教にまつわる文化です。それでも、いや、だからこそ筆者は、西洋文明の偉大に圧倒される思いになるのです。

大川・橋・教会650

文化とは地域や民族から派生する、祭礼や教養や習慣や言語や美術や知恵等々の精神活動と生活全般のことです。それは一つ一つが特殊なものであり、多くの場合は閉鎖的でもあり、時にはその文化圏外の人間には理解不可能な「化け物」ようなものでさえあります。

だからこそそれは「化け物の文(知性)」、つまり文化と呼称されるのでしょう。

文化がなぜ化け物なのかといいますと、文化がその文化を共有する人々以外の人間にとっては、異(い)なるものであり、不可解なものであり、時には怖いものでさえあるからです。

そして人がある一つの文化を怖いと感じるのは、その人が対象になっている文化を知らないか、理解しようとしないか、あるいは理解できないからです。だから文化は容易に偏見や差別を呼び、その温床にもなります。

ところが文化の価値とはまさに、偏見や恐怖や差別さえ招いてしまう、それぞれの文化の特殊性そのものの中にあります。特殊であることが文化の命なのです。従ってそれぞれの文化の間には優劣はありません。あるのは違いだけです。

そう考えてみると、地球上に文字通り無数にある文化のうちの、クリスマスという特殊な一文化が世界中に広まり、受け入れられ、楽しまれているのは稀有なことです。

それはたとえば、キリスト教国のクリスマスに匹敵する日本の宗教文化「盆」が、欧米やアフリカの国々でも祝福され、その時期になると盆踊りがパリやロンドンやニューヨークの広場で開かれて、世界中の人々が浴衣を着て大いに踊り、楽しむ、というくらいのもの凄い出来事なのです。

でもこれまでのところ、世界はそんなふうにはならず、キリスト教のクリスマスだけが一方的に日本にも、アジアにも、その他の国々にも受け入れられていきました。なぜでしょうか。それはクリスマスという文化の背後に「西洋文明」という巨大な力が存在したからです。

文明とは字義通り「明るい文(知性)」のことであり、特殊性が命の文化とは対極にある普遍的なコンセプトです。言葉を替えれば、普遍性が文明の命です。誰もが希求するもの、便利なもの、喜ばしいもの、楽しい明るいものが文明なのです。

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それは自動車や飛行機や電気やコンピュターなどのテクノロジーのことであり、利便のことであり、誰の役にも立ち、誰もが好きになる物事のことです。そして世界を席巻している西洋文明とは、まさにそういうものです。

一つ一つが特殊で、一つ一つが価値あるものである文化とは違って、文明には優劣があります。だから優れた文明には誰もが引き付けられ、これを取り入れようとします。より多くの人々が欲しがるものほど優れた文明です。

優れた文明は多くの場合、その文明を生み出した国や地域の文化も伴なって世界に展延していきます。そのために便利な文明を手に入れた人々は、その文明に連れてやって来た、文明を生み出した国や地域の文化もまた優れたものとして、容易に受け入れる傾向があります。

たとえば日本人は「ザンギリ頭を叩いてみれば文明開化の音がする」と言われた時代から、必死になって西洋文明を見習い、模倣し、ほぼ自家薬籠中のものにしてきました。その日本人が、仏教文化や神道文化に照らし合わせると異なものであり、不可解なものであるクリスマスを受け入れて、今や当たり前に祝うようになったのは一つの典型です。

西洋文明の恩恵にあずかった、日本以外の非キリスト教世界の人々も同じ道を辿りました。彼らは優れた文明と共にやって来た、優劣では測れないクリスマスという「特殊な」文化もまた優れている、と自動的に見なしました。あるいはそう錯覚しました。

そうやってクリスマスは、無神論者を含む世界中の多くの人が祝い楽しむ行事になっていきました。それって、いかにも凄いことだと思うのですが、どうでしょうか。



祝祭の日々割れ


Rotterdum riot lockdown

2021年12月18日、オランダが全土ロックダウンを敢行した。

欧州のコロナ状況ははかばかしくない。オミクロン株への不安に加えて、感染拡大が止まないのである。

人口1700万人あまりのオランダは、1日あたりの感染者数が2万人近くにのぼる日もあり、クリスマス期間の大きな人出に耐えられないと判断した。

オランダに先立ってロックダウンを敷いたオーストリアは、規制を緩和したが状況は予断を許さない。

大国ドイツの感染状況も依然として厳しい。

ここイタリアでもじわじわと感染が拡大し続けている。

だが情勢はいま触れた3国をはじめとする欧州のほとんどの国よりは良い。

特にオミクロン株が今のところは低く抑えられている。

そのことを踏まえてドラギ政権は、EU各国からの旅行者にワクチン接種済みか否かを問わず入国制限をかけた。

オミクロン株を排除するのが目的だが、EU本部からの反発も受けた。

イタリアを含む欧州各国は、経済に大きな影響を与えるクリスマス需要を守ろうと必死になっている。

だがついに-冒頭で触れたように-オランダが脱落してロックダウンを断行した。

状況が良くないドイツがもしも将来ロックダウンに踏み切れば、オランダのそれとは比較にならない大きな影響が出る。

EUを離脱した英国の環境も険悪だ。

ミニトランプのジョンソン首相は、死に物狂いで規制強化を避けようとするだろうが、先行きは極めて不透明。

クリスマスから年末年始にかけては、感染が拡大するであろう、と予想されてきた。

そのため欧州各国はクリスマス期間前に規制を強化して、祝祭の日々をできる限り明るくしようと懸命に動いている。

その結果がどうなろうとも、ワクチン接種を拒否する人々の数が減らない限り、パンデミックの終息は速やかにはやってこないだろう。

来年2月にワクチン接種を義務化するオーストリアの計画が、もしも予定通り遂行されて現実のものとなったとする。

その場合は欧州もまたそのほかの世界も、本格的に反ワクチン住民を仕置きする動きに出るだろう。

それは必要なことかもしれないが、社会はさらに深い分断の闇に飲み込まれていく可能性が高い。

それでも事ここに至っては、何らかの仕置きはなされるべきだろう。ひたすらパンデミックの終焉のために。







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ハゲの横好き


偉大だったドイツのメルケル首相が退陣して、ショルツ新首相が誕生しました。

筆者はショルツ首相を公私ともに応援しています。

「公」は民主主義の旗手、ドイツを率いる彼の手腕。

「私」は容姿が似ている彼への親しみ。

右向き素朴650


筆者はショルツ首相の後を追って、ハゲ街道を驀進中なのです。

なのに、あ~それなのに、いいハゲこいて、もとへ、いいトシこいて、筆者はPerfumeが好きです。

いまPerfumeを香水と思った人はオヤジでありオバchanです。

ならばPerfumeとは何か。

Perfumeを知らない若者のために説明しますと、Perfumeは若い女性3人組のアイドルグループです。テクノポップユニット とも言うらしい。

そんなものを好きな筆者のようなオヤジはエロいと見なされることもあります。正確に言うと若い女性歌手やグループを追っかけるオヤジはエロいらしい。エロ目的のくせにエロい情熱を隠して出没する、ということなんでしょうね。

筆者はぶっちゃけそこまでエロくはなさそうです。なぜならPerfumeの追っかけをするほどの元気はありませんし、それほどの情熱もありません。また筆者の子供ほどの年齢のアイドル娘3人をアイドルともみなせません。

筆者のアイドルは(年齢と時代の関係で敢えて言えば)キャンディーズです。へてからに、キャンディーズを知っている人はぶっちゃけオヤジとオバchanです。で、人気絶頂の頃のキャンディ-ズの3人娘は、まぶしくて近寄りがたくて憧れでした。

筆者はそこでもキャンディーズの追っかけをするほどの熱烈なファンではなく、遠くから眺めているという程度の煮え切らない若者でした。が、同世代の女性アイドルを熱く見つめている青年が内に秘めているのは、歌への情熱に織り込んだまさにエロだった、という気はしないでもありません。

perfumeダサコスチューム

ところが、Perfumeの3人の踊り子たちは、とても田舎っぽくて前述したように筆者にはアイドルには見えません。Perfumeは、キャンディーズオジさ んの筆者にとっては憧れではなく、例えば故郷の友人のタカオとかヨシオとかの娘みたいな、 あるいは田舎の姪っ子たちみたいな、要するにフツーの娘過ぎてエロにはならないのです。

とはいうものの、こうしてあれこれ言い訳めいたことを書き連ねているのが怪しい。やっぱりエロだ。というスルドイ指摘もありそうですので、本題に戻ります。

筆者のPerfume好きをもっと具体的に言えば、実は筆者はPerfumeの歌「ワンルーム・ディスコ」が好きなのです。それは♪ジャンジャンジャン♪という電子音(デジタルサウンドと言うらしい)に乗って次のように軽快に歌われます。

ディスコディスコ ワンルーム・ディスコ
ディスコディスコ
ディスコディスコ ワンルーム・ディスコ
ディスコディスコ                           なんだってすくなめ 半分の生活 だけど荷物はおもい 気分はかるい
窓をあけても 見慣れない風景 ちょっとおちつかないけれど そのうち楽しくなるでしょ                           新しい場所でうまくやっていけるかな 部屋を片付けて 買い物にでかけよ
遠い空の向こうキミは何を思うの? たぶん できるはずって 思わなきゃしょうがない
(中略)
新しい場所でうまくやっていけるかな 音楽をかけて計画をねりねり 
今日はなんだかね おもしろいこともないし リズムにゆられたいんだ ワンルーム・ディスコ                          ディスコディスコ ワンルーム・ディスコ
ディスコディスコ~

デジタルサウンドという新鮮な音の洪水に乗って流れるメロディーもいいが、筆者にとっては歌詞がもっと良い。つまり:
「なんだってすくなめ 半分の生活」 
「荷物はおもい 気分はかるい」
「そのうち楽しくなるでしょ」
「たぶん できるはずって 思わなきゃしょうがない」

それらの前向きな態度や思考は、筆者が理解している限りでの全き禅の世界です。作詞・作曲をした中田ヤスタカさんが禅を意識していないのが、余計に禅的で良いと思います。

禅とは徹頭徹尾プラス思考の世界です。しかもそのポジティブで前向きな生き方を意識しないまま、自然体で体現するのがもっとも理想に近い禅世界です。

円相切り取りやや横へ拡大

受身ではなく能動的であること。消極的ではなく積極的であること。言葉を替えれば行動すること。「書を捨てよ。町へ出よう」と動くこと。またはサルトルの「アンガージュマン」で行こうぜ、ということです。

もっと別の言い方で説明すれば、それは筆者の座右の銘である「日々是好日(にちにちこれこうにち(じつ)」と同じ世界です。まさに理想的な禅の世界なのです。

日々是好日とは、どんな天気であっても毎日が面白い趣のある時間だ、という意味です。つまり雨の日は雨の日の、風の日は風の日の面白さがある。あるがままの姿の中に趣があり、美しさがあり、楽しさがある。だからそれを喜びなさい、という意味です。

筆者はバカかった頃、もとへ、若かった頃、この言葉を「毎日が晴れたいい天気だ」と勝手に理解して、東洋的偽善の象徴そのものだと嫌悪しました。これは愚かな衆生に向かって、「たとえ雨が降っても風が吹いても晴れた良い天気と思い(こみ)なさい。そうすれば仏の慈悲によって救われる」という教えだと思ったのです。

まやかしと偽善の東洋的思想、日本的ものの見方がその言葉に集約されていると当時の筆者は思いました。

その大誤解は筆者が日本を飛び出して西洋世界に身を投入する原動力 の一つにもなりました。筆者は禅がまったく理解できませんでした。しかも理解できないまま筆者が思い込んでいる禅哲学が、反吐が出るほど嫌いでした。無知とはゲに怖ろしい。

西洋にも禅的世界観があります。歌の世界であれば:

♪ケセラセラ なるようになるさ~♪

がそうであり、ビートルズの

♪レットイットビー  レットイットビー  レットイットビー♪

もそうです。

ただ西洋のそれは、人生をある程度歩んだ「大人の知恵」という趣が込められた歌だと筆者は感じます。つまりそれは、敢えて言えば哲学です。Perfumeの3人娘が歌うのはそんな重い哲学ではありません。

軽い日常の、どうやら失恋したらしい女の子の、前向きな姿を今風のデジタルな音曲に乗せて、踊りを交えて歌う。その軽さがいい。深く考えることなく、「軽々と」禅の深みに踏み込んでいるところがいい。

あるいは考えることなく「軽々と」禅の高みに飛翔している姿がいい。。

というのはしかし、東洋の、特に禅の全きポジティブ思考に魅せられている「東洋人の」筆者の、東洋世界への依怙贔屓 (えこひいき)に過ぎないのかもしれません。


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歴史を食う

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ミラノ近郊の、筆者の住む北イタリアのブレッシャ県には、有名な秋の風物詩があります。狩猟の獲物を串焼きにする料理「スピエド」です。

狩猟は主に秋の行事です。獲物は鳥類や野ウサギやシカやイノシシなど多岐にわたります。

それらの肉を使うスピエドは野趣あふれる料理ですが、そこは食の国イタリア。

肉の切り身に塩やバター等をまぶして、ぐるぐると回転させながら何時間も炙(あぶ)ります。さらに炙ってはまた調味料を塗る作業を繰り返して、最後には香ばしい絶品の串焼き肉に仕上げます。

スピエドは元々、純粋に狩猟の獲物だけを料理していました。

特に山では、ふんだんに獲れる鳥類が、貧しい木こりや農夫の空腹を満たしました。鳥肉の串焼きには山の斜面の痩せた土でも育つジャガイモが加えられました

スピエドの原型は、野鳥の肉とジャガイモの串焼きなのです。

やがて鳥肉以外の狩猟肉も調理されてレシピが発展していきました。

しかし野生の動物が激減した現在は、狩りで獲得したジビエよりも豚肉やスペアリブ、また家畜のうさぎや鶏肉などを使うのが一般的です。

ジャガイモはそこでも変わらずに重宝されます。

焼きあがったスピエドには、ポレンタと呼ばれる、トウモロコシをつぶして煮込んだ餅のような付けあわせのパスタが添えられます。

スピエドは赤ワインとの相性も抜群です。

イタリアは狩猟が盛んな国です。猟が解禁になる秋には、キジなどの鳥類や野うさぎやイノシシなどが全国各地で食卓に上ります。

しかしもっとも秋らしい風情のあるスピエド料理はブレッシャ県にしかありません。

これは一体なぜか、と考えると見えてくるものがあります。

スピエドぐるぐる全体中ヒキ800

ブレッシャにはトロンピア渓谷があります。そこは鉄を多く産しました。

そのためローマ帝国時代から鉄を利用した武器の製造が盛んになり、やがて「帝国の武器庫」とまで呼ばれるようになりました。

その伝統は現在も続いていて、イタリアの銃火器の多くはブレッシャで生産されます。

世界的な銃器メーカーの「べレッタ」もこの地にあります。

べレッタ社の製造する猟銃は、これぞイタリア、と言いたくなるほどに美しいデザインのものが多い。「華麗なる武器」です。

技術も高く、何年か前にはニューヨークの警官の所持する拳銃が全てべレッタ製のものに替えられた、というニュースがメディアを騒がせたりもしました。

ブレッシャは銃火器製造の本場だけに猟銃の入手がたやすく、しかもアルプスに近い山々や森などの自然も多い。

当然のように古くから狩猟の習慣が根付きました。

狩猟はスピエド料理を生み、それは今でも人々に楽しまれている、というのが筆者の解釈です。

つまりスピエドを食べる行為には、少し大げさに言えば、ギリシャ文明と共にヨーロッパの基礎を作ったローマ帝国以来の歴史を食するという側面もある、と筆者はひそかに心を震わせたりもします。

外したスピエドUP800

2020年はコロナ禍でスピエドを食べる機会がほとんどありませんでした。

ことしもコロナ以前に比べるとチャンスはやはり多くはありませんでした。それでも友人一家に招待されて食べることができました。

友人は山育ちです。スピエドでもてなしてくれる筆者の友人は、ほとんどが山の暮らしを知っています。

山では古来、鳥類が多く食べられてきました。

先に触れたスピエドの原型がそこから生まれたのです。

山鳥は野うさぎや鹿に始まる獣類よりも圧倒的に数が多く捕獲も容易でした。

今では獣類も鳥類も大幅に数は減りました。それでもやはり両者のうちでは鳥類が多く狩られます。

山に親しい筆者の友人たちは、彼らが苦心して捕獲した貴重な野鳥をスピエドに加えます。

当節は各家のスピエドに使われる本物の野生動物の肉は、狩猟で獲られる鳥類のみ、といっても過言ではありません。

少しの鳥肉が、豊富な豚肉やスペアリブやウサギやジャガイモとともに香ばしく炙られる場合がほとんどなのです。

ことしはレストランなどでも、週末を中心にスピエドを提供する店がかなり目立ちました。

ただレストランの場合は、狩猟で得られる鳥肉がスピエドに加えられることはまずありません。

鳥類は多くが狩猟が禁止になっています。また捕獲が許されている山鳥でも数が少なく、レストランで提供するのは難しい事情があるのです。

レストランなどでは、野生の鳥肉の代わりに市販の鶏肉が調理され提供される、というのが実情です。

それも美味ですが、少量の山鳥の肉が加わる山のスピエドは、野趣に富み格別の味がします。

最近は料理にも興味を持っている筆者は、友人たちに頼んでスピエドの調理法を習得したいと考えています。

しかし複雑でひどく手間のかかる行程に恐れをなして、なかなか手を出せずにいます。

そうはいうものの筆者にとっては、「歴史を食う」というほどの趣を持つ魅力的な料理ですから、いつかじっくりとレシピを勉強して、必ず自分でも作ってみるつもりでいます。




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蟻の一穴~ イタリア初の安楽死認定

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2021年11月、イタリア生命倫理委員会が、安楽死を切望する四肢の麻痺した40歳の男性の自殺幇助を認める決定を出した。

イタリア初の出来事である。

イタリアではことし8月、安楽死を法制化するように求める署名運動が75万人余りの賛同を集め、それは間もなく100万人を突破した。

50万人以上の署名で国民投票が実施されるのがイタリアの決まり。

それを受けて、早ければ来年にも安楽死への賛否を問う国民投票が実施される見込みになっている。

イタリアの世論は歴史的に安楽死に対して強い抵抗感を示す。その最大の理由はカトリックの総本山バチカンの存在。

ローマ・カトリック教会は自殺を強く戒める。

バチカンにとっては安楽死つまり自殺は、堕胎や避妊などと同様に強いタブーなのである。国民の約8割がカトリック教徒であるイタリアではその影響は大きい。

それにもかかわらず、安楽死を認めるイタリア国民の数は確実に増え続けている。

憲法裁判所は2019年、回復不可能な病や耐え難い苦痛にさらされた人々が、自らの明確な自由意志によって安楽死を願う場合には許されることもある、という決定を出した。

その歴史的な審判は、全身麻痺と絶え間のない苦痛にさいなまれた有名DJが、自殺幇助が叶わないイタリアを出てスイスに渡り、そこで安楽死を遂げたことを受けて示された。

2017年の事例である。

そこでも世論が大きく高まって、2年後には憲法裁判所のその決定につながった。

司法は続いてイタリア議会に安楽死法案の是非を審議するよう求めたが、それは遅々として進まなかった。

だがイタリアは、署名活動の進展、前述の生命倫理委員会の初の自殺幇助の支持決定など、安楽死を合法化する方向を目指している。

僕はその動きを大いに支持する。「死の自己決定権」と安楽死の合法化は、文明社会の真っ当な在り方、と考えるからだ。

イタリアでは基本的に安楽死は認められていない。

憲法裁判所の裁定や生命倫理委員会の決定は、今のところは飽くまでも、いわば例外規定なのだ。

それがゆるぎない法律となるには国民投票を経なければならない。

現在は自殺幇助には5年から12年の禁固刑が科される。

そのため毎年約200人前後ものイタリア国民が、自殺幇助を許容している隣国のスイスに安楽死を求めて旅をする。

イタリアの敬虔なカトリック教徒は、既述のように自殺を否定するバチカンの教えに従う。

医者を始めとする医療従事者はもっと従う。なぜなら彼らの至上の命題は救命であり、且つ彼らの多くもカトリック教徒なのだから。

だがそれは許しがたい保守性だ。不治の病や耐え難い苦痛に苛まれている患者の煩悶懊悩を助長するだけの、思い上がった行為である可能性さえ高い。

僕は以前、そのことについて次のように自らの考えを書いた。

同じことをここで彼らに伝えたい。

安楽死や尊厳死というものはない。死は死にゆく者にとっても家族にとっても常に苦痛であり、悲しみであり、ネガティブなものだ。

あるべき生は幸福な生、つまり「安楽生」と、誇りある生つまり「尊厳生」である。

不治の病や限度を超えた苦痛などの不幸に見舞われ、且つ人間としての尊厳を全うできない生は、つまるところ「安楽生」と「尊厳生」の対極にある状態である。

人は 「安楽生」または「尊厳生」を取り戻す権利がある。

それを取り戻す唯一の方法が死であるならば、人はそれを受け入れても非難されるべきではない。

死がなければ生は完結しない。全ての生は死を包括する。「安楽生」も「尊厳生」も同様である。

生は必ず尊重され、飽くまでも生き延びることが人の存在意義でなければならない。

従って、例え何があっても、人は生きられるところまで生き、医学は人の「生きたい」という意思に寄り添って、延命措置を含むあらゆる手段を尽くして人命を救うべきだ。

その原理原則を医療の中心に断断固として据え置いた上で、患者による安楽死への揺るぎない渇求が繰り返し確認された場合は、しかし、安楽死は認められるべき、と考える。






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「不惑」という困惑

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筆者から見ると若いアラフォー世代の友人女性が、不惑という言葉を知って少し困惑したような、困惑しなかったような、不思議な気分になった様子の連絡をくれました。

そうした世代の男女の友人を見ていると、40歳という年齢に強い感慨を抱いたり不安を覚えるような言動をするのは、男性に比べて女性の方が多いように感じます。

40歳をあらわす不惑という言葉は、言うまでもなく論語の「40歳(しじゅう)にして惑わず」から来ていて、それは人生、つまり寿命が50年程度だった頃の道徳律、と解釈すれば分かりやすいのですが、正確に言うと少し違うようです。

論語の一節であるその言葉を残した孔子の時代、つまり約2500年前は人間の平均寿命は50年よりもきっと短いものだったと考えられます。人間の平均寿命が50歳ほどになったのは明治時代になってからという説さえあります。人間は長い間短命だったのです。

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しかし2500年前の孔子でさえ72歳まで生きています。また70歳をあらわす古希という言葉もあって、それは周知の如く「70歳は古来、希(まれ)なり」のことです。つまり昔は70歳まで生きる者は「ひどく珍しい」と言われるほどの長生きだったのです。孔子はその希な人間の一人でした。

過去の時代は全て「人生50年」ほどの世の中だった、という日本人の思い込みの多くは実は、織田信長が好んだ敦盛の中の「人間50年 下(化)天のうちを比ぶれば 夢まぼろしのごとくなり~♪」の影響が一番大きいように見えます。

そこで言う人間50年とは平均寿命が50年という意味ではありませんが、人の生命は宇宙の悠久に比べるとあっという間に過ぎず、たとえ50年を生きたとしても宇宙の一日にしか当たらない、まことにはかないものだ、ということですから、拡大解釈をして平均寿命50年の人生、というふうに考えても当たらずとも遠からずというところでしょう。

要するに、今現在の平均寿命である約80歳はさておいても、2500年前の孔子の時代から江戸の頃まで、大ざっぱに言って人間はやっぱり50歳程度が平均寿命だった、と考えてもいいと思うのです。

あるいは人々が願った長生きの目標が50歳程度だった、とか。はたまた、正式な統計があったわけではありませんが、50歳まで生きることができればラッキー、というふうに人々は感じていた、とか。

その伝で行くと、不惑の次の「知命」つまり「50歳にして天命を知る」とは、死期に至った人間が寿命や宿命を知るということになり、さらにその次の「還暦」の60歳は、おまけの命だからもう暦をゼロに戻してやり直すということです。

そんなふうに人間が短命だった頃の70歳なんてほぼ想定外の長生き、希な出来事。だから前述したように古希。

さらに、88歳をあらわす「米寿」という言葉は、88歳なんていう長生きはある筈もないから、八十八をダジャレで組み立てて米という文字を作って「米寿」、というふうにでも決めたんじゃないか、と茶化したくなります。

何が言いたいのかというと、年齢を気にして「年相応に」とか「年甲斐も無く」とか「~才にもなって・・」などなど、人間を年齢でくくって行動や思想や生き方を判断しようとするのは、実に偽善的でつまらないことだと思うのです。

40歳を意味する不惑という言葉にも、精神の呪縛をもたらす東洋的な閉塞感と狭量と抑圧の響きが充満していると思います。少なくとも筆者が好きで住んでいるここ西洋には、全くないとは言いませんが、人を年齢で縛る考え方は多くはありません。

天使と悪魔に囲まれて悩む女性

そういうところも筆者が西洋文化を好きなった一因です。感じるままが年齢だ、という生き方に憧れを抱いている筆者にとっては、年齢をあまり気にしない欧米社会の風通しの良さは心地がよいのです。

40歳でも惑いまくり悩みまくるのが普通の人間であって、それは人生50年の時代でも同じだったはずです。ましてや人生80年の現代、40歳の若さで悟りきって惑わない、つまり「不惑」者がいるとするなら、その人こそまさに「古来希な」大天才か、あるいは重いビョウキか何かなのではないでしょうか。

筆者はもうとっくに還暦も過ぎてしまったオヤジーですが、不惑なんて少しも気にしないまま(惑いまくってそれを気にする暇などないまま)ジーオヤになって、しかもそれが当たり前だと腹から思っている男です。

それどころか、運よく古希を迎えても、さらに喜寿(77歳)を過ぎその先まで生きる喜びがあったとしても、きっと相変わらず惑い、悩み、葛藤し、妄想して、煩悩の中に居つづけることでしょう。

いや、きっとそうしていたい。なぜならそれが生きているということであり、悩まなくなった人間はもはや死人と同じだと思うから。

惑い、悩み、葛藤し、妄想して、煩悩の中にいることこそ生きるということであり、生きている限りそれもまたきっと人生を楽しむ、ということなのでしょう。

楽しむ、というのが言い過ぎなら、そうした人生の負の側面でさえ「生きていればこそ」と考えて立ち向かうこと。あるいは積極的に受け入れて肯定すること。つまりそれから目をそらさないこと。

そんな考え方は、言うまでもなく別に筆者の発見ではありません。禅の教えの根本です。いや、分かった風を装ってはなりません。筆者のここまでの浅い知識の範囲で理解している禅の根本です。

そうしてみると、不惑を意識して悩み、不安にかられ、もがいている女性たちは、男などよりも人生を楽しむ術を知っている優れ者たち、ということにもなるのですが・・



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「無原罪の御宿リ」の日に無限大の野菜を収穫した

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128日はイタリアの祝日だった。

聖母マリアが生まれながらにして原罪から解放されていたことを祝う、無原罪の御宿り(Immacolata Concezione)」の日である。

イタリア中がこの日を境にクリスマスモードに入る、とよく言われる。

ことしはコロナの毒の勢いがワクチンによって抑えられていることもあって、クリスマスの祝祭が盛り上がりそうだ。

むろん限界がある。

ワクチン忌諱者がいるために社会全体の自由が狭められているからだ。

欧州第4波の恐怖におののいているドイツに代表されるEU各国は、ワクチンを接種しない住民をロックダウンしたオーストリアに続いて、反ワクチン派の国民への締め付けを強化しようとしている。

4波の痛みが今のところはまだ軽いイタリアも、じわじわと増えるコロナ感染者数をにらんで、ワクチン接種の義務化を含めた反ワクチン派の人々への干渉をしきりに考慮している。

不穏な空気の中、ミラノ・スカラ座は例年通り127日に開演した。

スカラ座の初日が127日と定まったのは1951年である。元々は1226日が初日と定められていて、それは1939年まで140年間同じだった。

127日と決められたのは、その日が街の守護聖人「聖アンブロージョの祝日」だから。

ミラノのクリスマスシーズンは、「聖アンブロージョの日」を境に始まる。無原罪の御宿り」を契機とするイタリア全国よりも1日早いのである。

昨年はコロナ禍でスカラ座も閉鎖された。

ことしはやはりワクチン様様で公演が可能になり、およそ40万円の特等席を含む全てのチケットが、1126日に販売開始から数時間で売り切れた。

オープニングにはマタレッラ大統領も出席した。

大統領は来年2月に退任する。それを惜しんで劇場では「マタレッラ2期目を!」コールが湧き起こった。

そうした世の中の動きを追いかけつつ、僕は菜園でまた少し仕事をした。

ここのところ野菜尽き菜園づくめになっている。

温暖化のせいらしい野菜たちの変化が気になるのである。

ひと言でいえば、12月に入っても夏野菜の幾種類かが収穫できていることへのおどろきと、喜びと、そして不審。

たとえば127日。

スカラ座初日のニュースに気を取られたわけではないが、翌128日が大雪になるというニュースを見逃した。

夜になって予報を知ったが、時すでに遅し。ミックスサラダ菜などの夏野菜は朝までには雪で全てダメになるだろうと観念した。

明けて128日。

5時に起きて書斎兼仕事場から暗いぶどう園を見渡したが、雪が積もっている様子はない。

まだ降り出さないのである。

8時前、どんより曇った空がようやく少し明るくなった。急ぎ菜園に行きミックスサラダ菜ほかの野菜を全て刈り取った。

その後でこれから成長する白菜や大根に雪除けの網をかぶせた。

その際、虫食いの激しい白菜3株も引き抜いた。食害の犯人はヨトウムシとカタツムリが多い。

結球しかけている玉を割ってそれを確認し、退治法を考えようと思った。

空気は冷えて雪の前兆が明白に漂っていたが、作業を全て終わるまで雪は落ちてこなかった。

結局、雪は夕方になって少し降っただけだった。しかもすぐに雨に変わり、雪は溶けて跡形も無くなった。

北イタリアはあちこちでドカ雪になったが、僕の住む一帯はほとんど降雪がなかった。

あわてて野菜を収穫したことを悔いたがもう後の祭り。

無理して収穫した野菜たちの量は今回もまた多い。

できるだけサラダで食べるが、食べきれないときは他の食材と炒めたり、茹でて保存に回したりと、店で買い求めた野菜なら決してやらない余計な仕事を、自分に課す羽目になった。





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先に見え隠れする不都合な真実

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2021126日、イタリアでは「スーパーグリーンパス」制度が施行された。

それ以前に効力があった「グリーンパス」は、①ワクチンを接種した者、 ②コロナから回復した者、 ③48時間以内の陰性証明がある者に与えられた。

「スーパーグリーンパス」はそこから③を除いた証明書。

古いグリーンパスは今後も有効だが、ワクチンを接種しない者は、仕事や交通機関を利用する場合以外はどこにも行くことができず、公共施設も利用できない。

一方でワクチンを接種した者とコロナから回復した者は、これまで通りレストラン、劇場、映画、コンサートなど、自由に娯楽を楽しむことができる。

それを「スーパーグリーンパス」と呼ぶのである。

実質的にワクチン未接種者をロックダウンした形、と考えてもいいだろう。

次に来るのはワクチン接種の義務化となりそうだ。

だが、今日まで頑強にワクチン接種を拒否している人々を翻意させるのは容易ではない。

反ワクチンが宗教の域にまで達している少数の過激な人々と、接種をためらっている多くの慎重派の人々を明確に区別して政治を行うべきだが、今のところ良い知恵はないように見える。

するとパンデミックはいつまでも経っても収束せず、人々の自由は制限され続ける。

誰もが自由を求めている。

ワクチン接種を終えた者も、接種を拒否する者も。

ワクチンを接種した人々が希求する自由は、反ワクチン論者も懐抱する。パンデミックを終息させて、社会全体で共に自由になろうとするものだからだ。

片や反ワクチン派の人々が希求する自由は、ワクチン接種そのものを拒否する自由という、彼ら自身の都合のみに立脚したものである。

そして彼らのその自由は、社会全体が不自由を蒙る、という断じて無視できない害悪をもたらす可能性を秘めている。

国家権力は将来、パンデミックの終焉が望めない、あるいはさらに遅れる、と判明した場合には必ずその害悪を回避しようと動き出すだろう。

その際に暴力の行使が決してないとは誰にも断言できない。

そしていま現在の世相は、国家権力がそんな不快な方向に向かうよう後押ししていると見えないこともない。

そうなれば、ファシズムの到来である。

それはだが、国家権力のみの咎ではない。反ワクチン派の人々が招く不都合な真実だ。

そうならないための鍵は、政府とワクチン未接種者双方の今後の動きの中にある。



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息苦しい報道キャスターは見ているこちらも息苦しい

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NHKの主だった番組は衛星を介してよく見ている。見過ぎるほど見ていると言ってもいいかもしれない。

僕はBBCほかの衛星英語チャンネルとイタリアの地上波も見ているが、両者はニュースとドキュメンタリー、またスポーツ番組以外はほとんど見ない。

一方、日本語の衛星放送は、ニュース、ドラマ、バラエティ、ドキュメンタリー、スポーツなど、あらゆるジャンルの番組をひんぱんに見ている。

僕がテレビをよく見るのは、自身が番組作りをするテレビ屋で且つテレビ番組が大好きだからである。それに加えて日本語や日本文化への渇望感があることが大きい。

かつてはインターネットはおろかテレビの日本語放送などなかった。

その頃は帰国するたびに、大量の本や雑誌を買い込んでイタリアに戻るのが僕の習いだった。週刊誌などはイタリアにいる時は広告までむさぼるように読んだ。

本は昔も今も変わらずに読む。読書は僕の最大の娯楽だ。しかし、日本語のテレビ放送の視聴に費やす時間が増えた分、読書量は減った。

昨今はそこにインターネットで遊ぶ時間も加わって、読書量がさらに削られることは否めない。

しかし、インターネットではかつて本で得ていた情報も得られるので、その領域の場合は時間的には差し引きゼロというところかもしれない。

役に立たない小説などの読書量が減ったのが少し苦しい。

情報や数字や理屈や経済などを語る本は人間を豊かにしない。知識が増え理屈っぽくなり論難に長けた専門バカ風の人間が出来上がるだけだ。

役に立たない小説本ほかの書籍の中にこそ、心を豊かにし情緒を鍛え他者を慮る繊細を伸ばす力が詰まっている。

前置きが長くなった。

NHKをはじめとするテレビの報道番組のキャスターについて語りたい。

僕は仕事でもまた視聴者としてもNHKに大きくお世話になっている。NHKのファンである。

ファンであるばかりではなく、世界のテレビ局とも付き合ってきたプロのテレビ屋としても、NHKを高く評価している。

NHKは報道、ドキュメンタリー、それにドラマ部門で英国のBBCに匹敵する。それらの3部門でBBCに劣るのは、報道における「時の政権」への批判精神だけだ。

いや、批判精神はあるのだろうが、日本の政治また社会風土ゆえに表立ってそれを標榜できず、結局権力に屈するような報道姿勢が垣間見える。

それでもNHKは日本のメディアの宝だ。BBCがイギリスの至宝であるように。

さて報道のうちの、NHKの顔とも言える夜9時のニュースキャスターが最近気になる。今このときで言えば和久田麻由子アナウンサーの身ごなし。

和久田麻由子アナは、美しい顔を皮膚のすぐ下あたりからこわばらせてしゃべる癖がある。

その時は彼女は、ひとりで懸命に深刻になっていて、あたかも世の中を嘆いてみせることがキャスターの役目と弁えているようだ。

聞くところによると彼女は学生時代に演劇を勉強した経験があるという。

表情の豊かさはそのあたりから来ているのだろう。しかし、報道は演技ではない。彼女はもっと淡々と語り、読み、表現するべき、と思う。

彼女が例えば難民の子どもの苦しい生活や、世界の悲劇や、貧困者の苦難や殺人事件などを報道するとき、まるで世界の悲しみをひとりで背負っているのでもあるかのように眉をひそめ、苦悶の表情をするのは少しうっとうしい。

相方の話に相槌をうちつつ、テレビ目線でこちら(テレビカメラ)に向かって流し目を送るのも、全く最善とは言いがたい。

彼女の意図は分かる。視聴者をリスペクトして視聴者の感興を求めて彼女はカメラに視線を投げている。だがそれは行過ぎた所作だ。やはり演技が過ぎるように思う。

キャスターが余計な表現をする習慣は、前任の桑子真帆アナウンサーあたりから顕著になった。

一つ一つのニュースを読み上げた直後に、桑子アナは唇をくいと大げさに引き締める。読後に唇がかすかに開くことを戒めているのだろうが、なんとも不自然な表情だった。

そのスタイルは相方の有馬嘉男キャスターが始めて、桑子アナも真似した印象が強い。むろん有馬キャスターのその仕草も決して見栄えの良いものではなかった。

和久田麻由子アナはその習いを受け継いで、さらに悪化させたと僕の目には映る。

報道番組のキャスターの態度が見ていてつらいこと以外にも、和久田アナの行状が好ましくないもっと重大な理由がある。

悪いニュースにことさら反応して胸の内を表現するなら、彼女は自分が気にいらないニュースにはいつも眉をひそめたり悲しんだり怒ったりしなければならない。

さらに例えば、彼女が支持しない政党の候補者が選挙で当選した場合も不快な気分を露わにしなければならない。報道キャスターとしてそれが許されないのは明らかだ。

彼女は以前、イタリアのベニスで女性受刑者を追いかけるバラエティドキュメントのリポーターをしたことがある。

僕はリポーターが誰なのか全く知らずにその番組を見ていた。若い女性リポーターからは、性質の素直と思いの深さがあふれ出ていて、美しいほどだった。大分あとになって僕はそれが和久田麻由子アナだと知った。

彼女はその分野にふさわしいキャラだと思う。

バラエティ系のドキュメンタリーやソフトニュースなどよりも、定時のニュース番組が格上という暗黙の理解がNHKにはある。

だから和久田アナも定時番組のキャスターになったことで、必要以上に固まって深刻さをアピールする傾向があるようだ。才能豊かな人だけにそれはとても残念だ。

和久田アナは報道ではなく、例えば小野文恵アナウンサーのようにバラエティ系番組の中でこそ最も輝くと思う。その方向に行かないのなら、彼女はもっと感情を抑えて報道しニュースを読む努力をすべきではないか

和久田アナに似たケースが、イタリアの公共放送RAIでも起きている。

RAIの看板番組である夜8時の女性キャスターの一人も特異な報道をする。

見ていてひどく居心地が悪い。

彼女の名前はラウラ・キメンティ(Laura Chimenti)。ニュースを読むのに大きく声を張り上げ挑むような調子で進む。

報道局内でセクハラやパワハラに遭っていて、それを告発したい思いが奇妙な調子になっているのではないか、とさえ僕などは意地悪く考えたくなる。

その枠にはほかにも3人のメインのキャスターがいる。男性2人と女性1人。

そのうちの女性キャスターはエンマ・ダクイノ(Emma D`aquino 。彼女は、例えばフランス2の有名キャスター、アンヌ・ソフィー・ラピ(Anne-Sophie Lapix)を彷彿とさせる。

落ち着いた、自然体の 、従って知性味にもあふれた優れたキャスターである。

和久田麻由子アナも、ここイタリアのラウラ・キメンティアナも、エンマ・ダクイノキャスターやアンヌ・ソフィー・ラピキャスターの爪の垢を煎じて飲めとまでは言わないが、少し見習って出直したほう良い。

この際なのでひとつ余計なことも付け加えておきたい。

和久田アナがときどき披露する、思わずのけぞってしまうほどにひどいファッションセンスは、歌手の夏川りみとどっこいどっこいの、どうでもよいことだと笑い、流して見ていられる。

が、彼女の余計な仕草や思い入れはそうは捉えられない。時間とともに少なくなっているようにも見えるが、ぜひとも改めてほしい。

一人の NHKファンとして切に願う。

もうひとつNHKへの苦言があるが、長くなるので次に回すことにした。




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目からサラダでうろこが落ちた話  


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2021年11月末日、寒くなった菜園でなにごともなかったかのように繁茂している、チンゲンサイ、ピーマン、ナス、ルッコラ、春菊、ミックスサラダ菜を収穫。

そのうちナスと春菊はほぼ全て採り込んだが、ほかの野菜はまだ菜園に残っている。

急速に寒気が深まればたちまち朽ちるだろうが、いまこのときは十分に青く健やかだ。

温暖化の力は全くもって驚異的である。

収穫したチンゲンサイとナス以外の野菜をツナと混ぜて、オリーブ油と醤油で和えて昼食に。

食べきれないので、野菜はツナを加えたり除いたりしながら、4、5日は続けて食べ、それでも残れば豆腐やハムなどと炒めて食することになる。

サラダをオリーブ油と醤油だけで食するのは、2、3世紀も前のロンドン時代にイタリア人の妻が発明した食べ方。

当時は生野菜をそんな和え方で食べたことがなかったのでびっくりした。

若くて腹を空かしていた僕は、そのころはまだ結婚していなかった若い妻の感覚にあきれながらも、食べてみた。

おいしさにふたたびびっくりした。

それ以来、わが家ではツナのあるなしにかかわらずサラダは常にオリーブ油と醤油で和えて食する。

友人知己を招いての食事会でも同じ。

ただし、食事会で出すサラダは付け合せなのでツナは加えない。新鮮な野菜をオリーブ油と醤油のみで和える。

評判はいつも上々である。

すでに知っている者は、それが楽しみ、と口にしたりもする。

妻はやはりまだ若かりしころ、茶碗蒸しをラーメン用の丼鉢で作って僕を仰天させたこともある。

どうしたのだ、と訊くと、おいしいからたくさん作ったの、と涼しい顔で言う。

ナルホド、と目からうろこが30枚ほど落ちた。

小さな鉢に少なく作るからおいしい、というのは真実だが心理的である。

おいしいから大きな鉢にたくさん作る、というのは真理であり物理的である。

若くて腹を空かしていた僕は、妻の物理的な真理に大いに感心した。

背中に負っている文化が違う者同志が一つ屋根の下で暮らす。

すると摩擦も起きるが文化の化学反応も起きて面白かったりもする。

地球温暖化も障害ばかりではなく何か取り柄があってほしいものだ。

だがいまのところ分かるのは、菜園で野菜の寿命が伸びるケースもあるというささやかなメリットのみ。

一方では地球そのものが危機に瀕しているのだという。

12月に夏野菜が収穫できることを喜んでばかりもいられないのである。

だからといって菜園に罪があるわけではなく、個人的にはむしろ、温暖化による異常気象を感触できる「装置」としても小さな野菜畑を重宝している。





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ハゲとオッパイ

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ハゲとオッパイ

カラフル絵

最近、筆者は急速にハゲてきています。年齢も年齢ですから珍しいことではありませんし、血筋もハゲの系列ですので、さらに大きくハゲることへの覚悟もできています。

それでも、ハゲるのはなんだかイヤだなぁという気分がどうしてもついて回ります。それどころかハゲることが不安のようでもあります。われながらうっとうしいもの思いです。

なぜそうなのか、と考えつづけていたら見えてきたものがあります。

つまり、ハゲは実は女性の問題であり、そう考えてみると、なんとオッパイは実は男性の問題なのではないか、というオソロシイ結論に至りました。

そこで筆者は自分のコワイ発見を、日本のある新聞のコラムに寄稿することにしました。

筆者はこれまで新聞雑誌にも結構記事を書いてきましたが、長く連載を続けているのはそのコラムだけです。つまり筆者とその新聞は、まあまあ強い信頼関係にある、と筆者は考えています。

それにも関わらずその短い記事は、連載開始以来はじめてボツという憂き目を見ました。

記事は次のような内容でした:

ハゲとオッパイ
ハゲは女性の問題であり、オッパイは男性の問題である。
 つまり、男は女のせいでハゲを気にし、女は男のせいでオッパイの大小を気にする。
 僕は男だから100%分かるのだけれども、もしもこの世の中に男しかいなかったなら、男の誰もハゲなんか気にしない。自分のハゲも他人のハゲも。
 たとえば僕は男オンリーの世界でなら、僕の周りの男どもが全員ハゲで、かつ自分が彼らの百倍ハゲていたとしても、まったく気にならないと断言できる。
 世の中の女性が男のハゲを笑い、男のハゲを気にするから、僕ら哀れな男どもはハゲに強烈な恐怖心を抱いている。
 それと同じことがもしかすると女性の側にも言えるのではないか。
 つまり、女性は世の中の男どもが巨乳とかボインとか爆乳とか面白おかしく話題にするから、自分のオッパイの大きさを気にするのではないだろうか。
 もしもこの世の中に女しかいなかったら、自分の胸や他人の胸のデコボコが高いか低いかなんて、全然気にならないのではないか。ハゲは女性の問題であり、オッパイは男性の問題である、とはそういう意味である。
 ところで、男のハゲを気にするのは日本人女性が圧倒的に多い。ここイタリアを含む西洋の女性たちは、男性のハゲをあまり気にしない。
 大人の感覚とも言えるが、欧米人男性が元々毛深くてハゲが多いせいもあるのだろうと思う。女性が男のハゲに寛大だから、西洋の男どもは日本人男性ほどにはハゲを悩みにしていない。
 そんな訳でヤマトナデシコの皆さん、あんまりハゲ、ハゲと僕ら哀れな男どもを笑うのをやめてくれませんか?

記事が掲載拒否になった理由は、ハゲは不快用語で、オッパイという言葉も新聞では使いにくい、というものでした。

ところが実は、まさにハゲが不快用語だからこそ、ほぼハゲである筆者はそれを問題にしました。

つまりハゲと言う言葉に恐怖心を抱いている(不快感をもっている)筆者は、その言葉が無神経に流布している現実への密かな抗議と、また自己防衛の思惑からそのコラムを書きました。

他人にハゲと言われる前に自分で言ってしまえ、というあの心理ですね。

ところが新聞はそこのところを全く無視して、ハゲと言う言葉には読者が不快感を抱きかねないので掲載できない。またオッパイの大小も個性の問題なのであり、これも読者が反発しかねない、という奇妙な論理でボツにしました。

ハゲと言う言葉に不快感を持つ読者とは、つまり「ハゲている読者」のことであり、それらの読者は筆者の同志です。彼らこそまさに、筆者のこのコラムを読みたい人々のはずなのです。

それなのに新聞は、一歩間違えば偽善的とさえ言われかねない自らの考えに固執して、そのことに気づかないように見えます。

またオッパイの大小が女性の個性の一つだというのは、まさにその通りです。

ところが世の中の男どもは、その個性を個性として認めようとはせず、ま、いわば劣情に曇った目で女性の胸を見て、あれこれ品定めをし辱(はずか)しめます。

巨乳よ爆乳よ、とはやし立てるばかりではなく、その逆の大人しい胸を貧乳やペチャパイ、壁やこ(小)っぱいなどと揶揄したりします。

そのことを指摘して、そんなものは男のたわ言であり身勝手な魂胆なのだから、無視して堂々としていた方が良い、というのが最終的には筆者の言いたいところです。

その趣旨は筆者の短い文章の中に十分に示唆されていると考えます。もしもそうでないのなら、それは筆者の文章力の拙さが第一の原因です。

だが、同時にもしかすると、新聞人のあり余るほどの自信と無明がその目を曇らせている、ということもあり得るのではないでしょうか。


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