【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2022年10月

夏10月を遊ぶ~カモーリ~ 

手前木枝&ビーチ・通り650

イタリア語にOttobrata(オットブラータ)という言い回しがある。Ottobre10月)から派生した言葉で、日本語に訳せば小春日和に近い。

小春日和は初冬のころの暖かい春めいた日のことだ。あえて言えば秋のOttobrataとは時期がずれる。が、イタリアの秋は日本よりも冷えるから小春日和で間に合うようでもある。

Ottobrataも小春日和も高気圧が張り出すことで生まれる。ただOttobrataは小春日和のように1日1日を指すのではなく、数週間単位のいわば“時節”を示す印象が強い。

ことしのOttobrataはほぼ10月いっぱい続き、11月にまでずれこみそうだ。もっともイタリア語では、11月に入ってからの暖かい日々は「サンマルティーノの夏」と呼ぶ。

それは英語のインドの夏とほぼ同じニュアンスの言葉だ。

ことしのOttobrataは期間が長く気温も高い。そこで週末は遠出をしたり1泊程度のプチ旅行をしたりしている。もう10月も終わるが、好天が続いているので過去形よりも現在進行形で語りたい。

このまま晴天が続けば、「サンマルティーノの夏」にまでなだれこんで、12月まで寒さがやってこないかもしれない、と考えたくなるほどの陽気が続いている。

長すぎるOttobrataはやはり温暖化のせい、というのが専門家の見立てである。専門家ではなくとも、近年の異常気象を見れば何かがおかしいと推測できる。

イタリアはことしは冬、異様な旱魃に見舞われ大河ポーが歴史始まって以来の低水位にまで下がった。危険な状況は春には改善したが、夏には再び干上がって警戒水準が続いた。

夏の少雨は強烈な日差しを伴った。記録的な暑さが和らぐと普通に気温が下がるかと見えた。だがそれはほんの数日のことだった。

真夏の暑さは去ったものの、強い日差しが続いて、Ottobrataに突入したのだった。

近場を巡り、少し足を伸ばしてリグーリア州やピエモンテ州にも出かけた。ほとんどが日帰りの旅だったが、リグーリアとピエモンテではそれぞれ一泊した。

車で半時間足らずの距離の小さな湖や、そこより少し遠いヴェローナなども訪ねた。

食べ歩きをイメージした仕事抜きの旅は、夏の休暇を除けば初めての経験である。

最初は10月半ばの週末。リグーリア州に向かった。そこにはジェノヴァがありチンクエテッレがありサンレモがありポルトフィーノもある。

僕はそれらの土地の全てをリサーチやロケなどの仕事で訪れている。

先ずジェノヴァの隣のカモーリを訪れた。

カモーリは崖と海に挟まれた小さなリゾート地。ミニチュアのような漁港がある。

漁港では毎年5月、直径4メートルもの大フライパンで魚を揚げて、人々に振舞う祭りがある。僕は以前その様子を取材したこともある。

レストランやバールが連なる海岸沿いの通りの下には海がありビーチがある。通りの先にあるのがいま触れた港である。

ほぼそれだけの街だが、リゾートの魅力がこれでもかと詰め込まれた印象があって、全く飽きがこない。

通りを行き来して不精をたのしみ、美味い魚介のパスタと土地の白ワインを堪能した。

きんきんに冷えた白ワインと魚介パスタの相性は、昔食べたときも今回も、筆舌に尽くしがたい絶妙な味がした。





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イタリア初の女性首相と極右の因縁

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極右と規定されることも多い右派「イタリアの同胞」のジョルジャ・メローニ党首が、イタリア初の女性首相となって1週間が経過した。

連立政権とはいえ、ついに極右政党が政権を握る事態に欧州は驚愕した、と言いたいところだが現実は違う。欧州は警戒心を強めながらもイタリアの状況を静観してきた、というのが真実だ。

メローニ政権は、少しの反抗を繰り返しながらも、基本的にはEU(欧州連合)と協調路線を取ると見るのが現実的だ。

近年、欧州には極右政党が多く台頭した。それは米トランプ政権や英国のBrexitEU離脱)勢力などに通底した潮流である。

フランスの「国民連合」、イタリアの「同盟」と「イタリアの同胞」、スペインの「VOX」ほかの極右勢力が躍進して、EUは強い懸念を抱き続けてきた。

2017年には極右興隆の連鎖は、ついにドイツにまで及んだ。極右の「ドイツのための選択肢」が総選挙で躍進して、初めての国政進出ながら94議席もの勢力になった。

それはEUを最も不安にした。ナチズムの亡霊を徹底封印してきたドイツには、極右の隆盛はあり得ないと考えられてきたからだ。

それらの極右勢力は、決まって反EU主義を旗印にしている。EUの危機感は日増しに募った。

そしてとうとう2018年、極右の同盟と極左の五つ星運動の連立政権がイタリアに誕生した。

ポピュリストの両党はいずれも強いEU懐疑派である。英国のBrexit騒動に揺れるEUに過去最大級の激震が走った。

だが極右と極左が野合した政権は、反EU的な政策を掲げつつもEUからの離脱はおろか、決定的な反目を招く動きにも出なかった。

イタリアでは政治制度として、対抗権力のバランスが最優先され憲法で保障されている。そのため権力が一箇所に集中しない、あるいはしにくい。

その制度は、かつてファシスト党とムッソリーニに権力が集中した苦しい体験から導き出されたものである。同時にそれは次々に政治混乱をもたらす仕組みでもある。

一方で、たとえ極左や極右が政権を担っても、彼らの思惑通りには事が運ばれない、という効果も生む。

過激勢力が一党で過半数を握れば危険だが、イタリアではそれはほとんど起こりえない。再び政治制度が単独政党の突出を抑える力を持つからだ。

イタリアが過激論者に乗っ取られにくいのは、いま触れた政治制度そのものの効用のほかに、イタリア社会がかつての都市国家メンタリティーを強く残しながら存在しているのも大きな理由の一つだ。

イタリアが統一国家となったのは今からおよそ160年前のことに過ぎない。

それまでは海にへだてられたサルデーニャ島とシチリア島は言 うまでもなく、半島の各地域が細かく分断されて、それぞれが共和国や公国や王国や自由都市などの独立国家として勝手に存在を主張していた。

国土面積が日本よりも少し小さいこの国の中には、周知のようにバチカン市国とサンマリノ共和国という2つのれっきとした独立国家があり、形だけの独立国セボルガ公国等もある。

だが、実際のところはそれ以外の街や地域もほぼ似たようなものである。

ミラノはミラノ、ヴェネツィアはヴェネツィア、フィレンツェはフィレンツェ、ナポリはナポリ、シチリアはシチリア…と各地はそれぞれ旧独立小国家のメンタリティを色濃く残している。

統一国家のイタリア共和国は、それらの旧独立小国家群の国土と精神を内包して一つの国を作っているのだ。だから政府は常に強い中央集権体制に固執する。

もしもそうしなければ、イタリア共和国が明日にでもバラバラに崩壊しかねない危険性を秘めているからである。

各都市国家の末裔たちは、それぞれの存在を尊重し盛り立てつつ、常にライバルとして覇を競う存在でもある。

イタリア共和国は精神的にもまた実態も、かつての自由都市国家メンタリティーの集合体なのである。そこに強い多様性が生まれる。

そして多様性は政治の過激化を抑制する。多様性が息づくイタリアのような社会では政治勢力が四分五裂して存在するそこでは、極論者や過激派が生まれやすい。

ところがそれらの極論者や過激派は、多くの対抗勢力を取り込もうとして、より過激に走るのではなくより穏健になる傾向が強い。跋扈する極論者や過激思想家でさえ心底では多様性を重んじるのだ。

2018年に船出した前述の極右同盟と極左五つ星運動による連立政権は、政治的過激派が政権を握っても、彼らの日頃の主張がただちに国の行く末を決定付けることはない、ということを示した。

多様性の効能である。

今回のイタリアの同胞が主導する右派政権もおそらく同じ運命を辿るだろう。

メローニ首相率いるイタリアの同胞は元々はEUに懐疑的でロシアのクリミア併合を支持するなど、欧州の民主主義勢力と相いれない側面を持つ。

「イタリアの同胞」はファシスト党の流れも汲んでいる。だがイタリア国民の多くが支持したのは右派であって極右ではない。ファシズムにいたっては問題外だ。

メローニ新首相はそのことを知りすぎるほどに知っている。彼女は選挙戦を通して反民主主義や親ロシア寄りのスタンスが、欧州でもまたイタリア国内でも支持されないことをしっかりと学んだように見える。

メローニ「右派」政権は、明確に右寄りの政策を打ち出すものの、中道寄りへの軌道修正も行うというスタンスで進むだろう。

それでなければ、彼女の政権はイタリアと欧州全体の世論を敵に回すことになり、すぐにでも行き詰まる可能性が高い。




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タナボタ英新首相の正体

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リシ・スナク氏が英国の新首相に就任した

ジョンソン元首相、トラス前首相に続く3人目の負け犬首相である。前代未聞の事態が次々に起きる英国は、あるいは存続の危機にあるのではないか

ジョンソン元首相は追い詰められて辞任した。トラス前首相は失脚した。そしてスナク新首相は保守党の党首選でトラス前首相に敗れたばかり。彼もやはり負け犬なのだ。

負け犬が3連続で首相を務める英国はきわめて異様に見える。

何よりも先ずそのことを指摘しておきたい。

負け犬から突然、タナボタで英国最強の権力者になった、スナク首相の就任演説をBBCの実況放送で聴いた。

辞職したばかりのトラス前首相のミスをさりげなく、だが明確に指摘しながら、そのミスを是正し英国経済を立て直す、と宣言する様子は傲岸なふうではなく、むしろ頼もしいものだった。

だがそれはまだ単なる彼の言葉に過ぎない。

コロナパンデミックに続くロシアのウクライナへの侵攻によって、英国に限らず世界中の経済は危機にさらされている。巨大な危難は英国一国だけで解決できる問題ではないと見える

世界経済は複雑に絡み合い利害を交錯させながら回っている。

有名金融関連企業で働いた後、ジョンソン政権で財務大臣も務めたスナク首相は、実体経済にも詳しいに違いない。だが単独で英国経済を立て直せるかどうかは未知数だ。

経済政策でコケれば彼もまた早期退陣に追い込まれる可能性が高い。そうなるとスナク氏は再び落伍者となって、負け犬指導者が4代続く事態になり英国存続の危機はいよいよ深化するばかりだ。

閑話休題

スナク首相は経済政策を成功させるか否かに関わらず、既に歴史に残る一大事業を成し遂げた。僕の目にはそちらのほうがはるかに重要トピックと映る。

いうまでもなくスナク首相が、英国初の非白人の首班、という事実だ。

彼は宗教もキリスト教ではなくヒンドゥー教に帰依する正真正銘のインド系イギリス人である。人種差別が根深いイギリスでは、画期的な出来事、といっても過言ではない。

2009年、世界はアメリカ初の黒人大統領バラク・オバマの誕生に沸いた。それは歴史の転換点となる大きな出来事だった。

だが同時にそれは、公民権運動が激しく且つ「人種差別が世界で最も少ない国アメリカ」に、いつかは起きる僥倖と予見できた。

アメリカが世界で最も人種差別の強い国、というのは錯覚だ。アメリカは逆に地球上でもっとも人種差別が少ない国だ。

これは皮肉や言葉の遊びではない。奇を衒(てら)おうとしているのでもない。これまで多くの国に住み仕事をし旅も見聞もしてきた、僕自身の実体験から導き出した結論だ。

米国の人種差別が世界で一番ひどいように見えるのは、米国民が人種差別と激しく闘っているからだ。問題を隠さずに話し合い、悩み、解決しようと努力をしているからだ。

断固として差別に立ち向かう彼らの姿は、日々ニュースになって世界中を駆け巡り非常に目立つ。そのためにあたかも米国が人種差別の巣窟のように見える。

だがそうではない。自由と平等と機会の均等を求めて人種差別と闘い、ひたすら前進しようと努力しているのがアメリカという国だ。

長い苦しい闘争の末に勝ち取った、米国の進歩と希望の象徴が、黒人のバラック・オバマ大統領の誕生だったことは言うまでもない。

物事を隠さず直截に扱う傾向が強いアメリカ社会に比べると、英国社会は少し陰険だ。人々は遠回しに物を言い、扱う。言葉を替えれば大人のずるさに満ちている。

人種差別でさえしばしば婉曲になされる。そのため差別の実態が米国ほどには見えやすくない。微妙なタッチで進行するのが英国の人種差別である。

差別があからさまには見えにくい分、それの解消へ向けての動きは鈍る。だが人種差別そのものの強さは米国に勝るとも劣らない。それはここイタリアを含む欧州の全ての国に当てはまる真実だ。

その意味では、アメリカに遅れること10年少々で英国に非白人のスナク首相が誕生したのは、あるいはオバマ大統領の出現以上に大きな歴史的な事件かもしれない。

僕はスナク首相と同じアジア人として、彼の出世を心から喜ぶ。

その上でここでは、政治的存在としての彼を客観的に批評しようと試みている。

スナク首相は莫大な資産家でイギリスの支配階級が多く所属する保守党員だ。彼はBrexit推進派でもある。

個人的に僕は、彼がBrexitを主導した1人である点に不快感を持つ

白人支配の欧州に生きるアジア人でありながら、まるで排外差別主義のナショナリストのような彼の境遇と経歴と思想がひどく気にかかる。

ジョンソン首相の派手さとパフォーマンス好きと傲慢さはないものの、彼の正体は「褐色のボリス・ジョンソン」という印象だ。

それゆえ僕は英国の、そして欧州の、ひいては世界に好影響を与えるであろう指導者としての彼にはあまり期待しない。

期待するのはむしろ彼が、ジョンソン前首相と同様に「英国解体」をもたらすかもしれない男であってほしいということだ。

つまりスナク首相がイギリスにとっては悪夢の、欧州にとっては都合の良い、従って世界の民主主義にとっても僥倖以外の何ものでもない、英連合王国の解体に資する動きをしてくれることである。



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トラス首相とともに沈み行く英国が見える


 ボロ布ユニオンジャック600に拡大


トラス英首相が辞任を表明した。

就任からわずか6週間での辞任。

驚きだが、予定調和のような。

不謹慎だが、何かが喜ばしいような。

何が喜ばしいのかと考えてみると、ボリス・ジョンソン前首相の鳥の巣ドタマが見えてきた。

ジョンソン前首相はいやいやながら辞任し、虎視眈々と首相職への返り咲きを狙っている。

トラスさんのすぐ後ではなくとも、将来彼は必ず首相の座を目指すだろう。

彼の首相就任は英国解体への助走、あるいは英国解体の序章。。。

なるほど。喜ばしさの正体はこれだ。僕は英国の解体を見てみたいのだ。

英国解体は荒唐無稽な話ではない。

英国はBrexitによって見た目よりもはるかに深刻な変容に見舞われている。

その最たるものは連合王国としての結束の乱れだ。

イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランド から成る連合王国は、Brexitによって連合の堅実性が怪しくなった。

スコットランドと北アイルランドに確執の火種がくすぶっている。

スコットランドはかねてから独立志向が強い。そこにBrexitが見舞った。住民の多くがBrexitに反発している。

スコットランドは独立とEUへの独自参加を模索し続けるだろう。

北アイルランドも同じだ。

Brexitを主導したのはジョンソン前首相だった。彼は分断を煽ることで政治力を発揮する独断専行型の政治家だ。

Brexitのように2分化された民意が正面からぶつかる政治状況では、独断専行が図に当たればあらゆる局面で政治的に大きな勝ちを収めることができる。

言葉を変えれば、2分化した民意の一方をけしかけて、さらに分断を鼓舞して勝ち馬に乗るのだ。

彼はそうやって選挙を勝ち抜きBrexitも実現させた。だが彼の政治手法は融和団結とは真逆のコンセプトに満ちたものだ。

彼の在任中には英国の分断は癒されず、むしろ密かに拡大し進行した。

だが国の揺らぎは、エリザベス女王という稀代の名君主の存在もあって目立つことはなかった。

そんな折、ジョンソン首相がコロナ政策でつまずいて退陣した。

国の結束という意味ではそれは歓迎するべきことだった。

ところが間もなくエリザベス女王が死去してしまった。

代わってチャールズ3世が即位した。新国王は国民に絶大な人気があるとは言えない。国の統合に影が差した。

そこへもってきて就任したばかりのトラス首相が辞めることになった。

彼女の辞任によって、退陣したばかりのジョンソン前首相がすぐにも権力の座をうかがう可能性が出てきた。

ジョンソン前首相は英国民の分断を糧に政治目標を達成し続けたトランプ主義者であり、自らの栄達のためなら恐らく英国自体の解体さえ受け入れる男だ。

彼が首相に返り咲くのは、先述したように英国の解体へ向けての助走また序章になる可能性がある。

それは悪い話ではない。

理由はこうだ:

英連合王国が崩壊した暁には、独立したスコットランドと北アイルランドがEUに加盟する可能性が高い。2国の参加はEUの体制強化につながる。

世界の民主主義にとっては、EU外に去った英国の安定よりも、EUそのもののの結束と強化の方がはるかに重要だ。

トランプ統治時代、アメリカは民主主義に逆行するような政策や外交や言動に終始した。横暴なトランプ主義勢力に対抗できたのは、辛うじてEUだけだった。

EUはロシアと中国の圧力を押し返しながら、トランプ主義の暴政にも立ち向かった。

そうやってEUは、多くの問題を内包しながらも世界の民主主義の番人たり得ることを証明した。

そのEUBrexitによって弱体化した。EUの削弱は、それ自体の存続や世界の民主主義にとって大きなマイナス要因だ。

英連合王国が瓦解してスコットランドと北アイルランドがEUに加盟すれば、EUはより強くなって中国とロシアに対抗し、将来再び生まれるであろう米トランプ主義的政権をけん制する力であり続けることができる。

大局的な見地からは英国の解体は、ブレグジットとは逆にEUにとっても世界にとっても、大いに慶賀するべき未来だ。

《エリザベス女王死去⇒チャールズ国王即位⇒トラス首相辞任⇒ジョンソン前首相返り咲き》

という流れは、歴史が用意した英国解体への黄金比であり方程式である。

むろんそれは僕の希望的観測ではあるものの。。。



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イタリア初の女性首相の因縁


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ついにイタリア初の女性首相が誕生した。右派「イタリアの同胞」のジョルジャ・メローニ党首が権力の座にすわる。

イタリアの同胞はファシスト党の流れをくんでいて、極右と規定されることも多い。

だがイタリア国民のほとんどは極右を支持していない。ファシズムにいたっては問題外だ。

メローニ新首相はそのことを知悉している。彼女の政権はEU(欧州連合)ともNATO(北大西洋条約機構)とも連携していくはずだ。

しかし連立を組む同盟とFI(フォルツァ・イタリア党)の中には、EU及びNATO懐疑派の勢力もある。

また同盟のサルビーニ党首とFIのベルルスコーニ党首はプーチン大統領と親しく、ロシアのウクライナ侵略に対するEUの制裁に疑問を呈することも辞さない。

メローニ首相率いるイタリアの同胞も、元々はEUに懐疑的でロシアのクリミア併合を支持するなど、欧州の民主主義勢力と相いれない側面を持つ。

メローニ新首相は選挙戦を通して、そうした反民主主義且つ親ロシア寄りの政策が、欧州でもまたイタリア国内でも支持されないことをしっかりと学んだように見える。

メローニ政権は明確に右寄りの政策を打ち出すものの、常に中道寄りへの軌道修正も行うというスタンスで進むだろう。

それでなければ、彼女の政権内の反対勢力が頭をもたげる前に、イタリアの世論と欧州全体のそれが、彼女を権力の座から引きずり下ろすことになるだろう。



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おバカなベルルスカのスカスカな脳ミソ


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イタリア・FI(フォルツァ・イタリア)党党首のベルルスコーニ元首相が、彼得意の放言・迷言・呆言街道を驀進中だ。

最新版は自党の国会議員の集まりで、ロシアのプーチン大統領との友情を再構築しプレゼントと友達の証の手紙を交し合った、と語ったもの。

発言はローマの日刊紙にすぐさまスッパ抜かれて、間もなく船出する予定の右派政権内に激震が走った。

ジョルジャ・メローニ次期首相は、すかさず「NATOに留まり西側諸国としっかり協調する政権だけが私の望みだ」と発言。ベルルスコーニ元首相を強くけん制した。

元欧州議会議長でFI党の副党首でもあるアントニオ・タイヤーニ氏は、FI党も彼自身も、また党首のベルルスコーニ氏も完全にNATO及び西側連合と一体であり、ウクライナを支持する、と火消しにやっきになった。

タイヤーニ氏はメローニ政権で外務大臣に指名されると見られていたが、ボスのベルルスコーニ氏の迷走でその役職が吹き飛んだとも囁かれている。

86歳のベルルスコーニ元首相が繰り出す多くの奇天烈な発言は、もはや老害以外のなにものでもない、と揶揄する声も高まっている。

元首相はかつて自分の庇護下にあったジョルジャ・メローニ氏が、彼を追い越してイタリア首相の座に就くことに実感がわかないのか、あるいはわざと実感できない振りをしているようだ。

誰それをどこそこの閣僚にとか、メローニ氏が傲慢になっているとか、私が次期政権の後見人だなど、など、まるで来たる右派政権が自らの主導でもあるかのような言動を繰り返している。

45歳のメローニ氏は、ベルルスコーニ翁の困った言動を、その都度たしなめたりうまくいなしたりしながら、自身の立場は明瞭に示す、という大人の対応をしている。

その態度は、彼女の首相としての資質はもしかするとベルルスコーニ元首相を上回るのではないか、と思わせるほど堂々としている。

プーチン大統領と極めて親密な間柄だった元首相は、ロシアのウクライナ侵略に際して口を噤んで、厳しい批判にさらされた。彼は後になって「しぶしぶ」プーチン大統領の動きを糾弾する発言をした。

だがその後は積極的にロシアを責める言動は控えて、彼が内心プーチン支持であることをにおわせ続けてきた。

そして元首相は何を血迷ったのか、彼自身も軽くない役割を担うであろう次期政権の発足直前になって、冒頭の発言をして世間を唖然とさせたのである。

元首相は一貫してEU支持者であり続けている。プーチンと親しい仲であるにもかかわらず、彼がロシアの独裁者のウクライナ侵略を批判したのも、芯に強いEU信奉の精神があるからだ。

そのことは恐らく今後も変わらないだろう。

僕はそれを見越して、元首相は時期政権内でEU協調路線を主張し続けるだろうとそこかしこで語ってきた。

彼がまさしくそう動けば、それは間違いなくイタリアの国益に資する。

彼の方向性は今後も同じと考えられる。だが、プーチン大統領とプレゼントを交換し合ったり、親しく手紙をやり取りしたなどと得意気に語るのは、相も変らぬ元首相の子供じみた軽挙妄動だ。

バカバカしいが、時節がら見苦しいことこの上もない。





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ベルルスコーニの最後の奉公

口歪めサングラス原版

ベルルスコーニ元首相に関する直近の記事を読んだ読者の皆さんの中には、彼のイタリアにおける影響力が極めて大きいと考える人も多いようだ。

それは僕の書き方が悪いのが原因だ。非力を謝罪したうえで少し付け加えておきたい。

ベルルスコーニ元首相は90年代初め以降、イタリア政界に多大な影響力を持ち続けたが、アップダウンを繰り返しながらその力は右肩下がりに下がり続けた。

2011年にはイタリア財政危機の責任を取らされて首相を辞任。支持率は急降下した。

そして2013年、脱税で有罪判決を受けて公職追放となり議員失職。彼の政治生命は絶たれたと見られた。

ところが元首相は2019年、公民権停止処分が解除されたことを受けて欧州議会選挙に出馬。何事もなかったかのように欧州議会議員に当選した。

イタリアのメディアの中には彼を《不死身》と形容するものまで出た。

だが、ベルルスコーニ元首相率いる「FI(フォルツァ・イタリア党)」の、先日の総選挙における得票率はわずか約8%。かつて飛ぶ鳥を落とす勢いだった政党としてはさびしい数字だ。

非力なFI党首のベルルスコーニ氏が影響力を持つのは、同党が選挙で大勝した右派連合の一角を占めるからだ。

右派連合の盟主は、次期首相就任が確実比されているジョルジャ・メローニ氏が率いる極右「イタリアの同胞」である。

両者の立場が逆転した今、メローニ氏が自らの政権内でベルルスコーニ氏を優遇する可能性は十分にある。

醜聞と金権と汚職にまみれたベルルスコーニ元首相が、支持率を落としながらもしぶとく生き残ってきたのは、物理的な側面から見れば彼がイタリアのメディアの支配者である事実が大きい。

インターネットが普及した欧州先進国の中にあって、イタリアは未だに既存メディアが大きな影響力を持つ国のひとつだ。特にテレビの力は巨大である。

イタリアのメディア王とも呼ばれる元首相は、自らが所有するテレビ局のニュースや番組やショーに頻繁に登場して自己アピールをする。

日本で言えば民放全体を束ねた勢力である元首相所有のMEDIASETが、堂々とあるいは控えめを装って、ベルルスコーニ元首相の動きを連日報道するのである。

そうした実際的な喧伝活動に加えて、多くの国民が元首相を寛大な目で見ることも彼の生き残りに資する。

ほとんどがカトリック教徒であるイタリア国民は、「罪を忘れず、だがこれを赦す」というカトリックの教義に深く捉われている。

彼らはベルルスコーニ元首相の悪行や嫌疑や嘘や醜聞にうんざりしながらも、どこかで彼を赦す心理に傾く者が多い。

たとえ8%の国民の支持があっても、残りの92%の国民が強く否定すれば彼の政治生命は終わるに違いない。

だがカトリック教徒である寛大な国民の多くが彼を赦す。つまり消極的に支持する。あるいは見て見ぬ振りをする。

結果、軽挙妄動の塊のような元首相がいつまでも命脈を保ち続けることになるのだ。

要するにベルルスコーニ元首相は、右派連合が分裂しない限り、メローニ政権内で直接・間接に一定の影響力を行使するだろう。

彼の動きはいつものように我欲とまやかしに満ちたものになるに違いない。それは連立政権を崩壊させるだけの数の力を持っている。

だがそれだけのことだ。彼の時代は終わっている。もしも政権を瓦解させれば彼自身も今度こそ本当に政治生命を絶たれる。

86歳にもなった元首相はそんな悪あがきをすることなく、彼が唯一イタリア国民のために成せることをしてほしい。

つまり前回も書いたとおり、極右的性格のメローニ政権がEUに反目して国を誤ろうとするとき、諌めて中道寄りに軌道修正させるか、軌道修正の糸口を提供することである。

寛大な国民に赦され続けて政治的に生き延びてきたベルルスコーニ元首相の、それが国民への最後の奉公となるべき、と考えるが、果たしてどうなるだろうか。





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イタリア人がベルルスコーニを許す理由(わけ)

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間もなく発足する予定のイタリアの右派政権には、醜聞と汚職と暴言また金権にもまみれたベルルスコーニ元首相も加わると見られています。

政権を率いるのは極右政党党首のジョルジャ・メローニ氏。彼女はかつてのベルルスコーニ政権で、31歳の史上最年少閣僚として起用された過去を持っています。

以来ベルルスコーニ氏は「政界の親」として、彼女を擁護してきました。

立場が逆転した今、メローニ氏が自らの政権内でベルルスコーニ氏を優遇する可能性は十分にあります。

ベルルスコーニ氏は外相あるいは法相を目指しているとも、上院議長の席を狙っているとも噂されています。

ベルルスコーニ元首相は2013年、脱税で有罪判決を受けて6年間の公職追放措置になりました。だが悪運強く前倒しで解放されました。

彼はすぐに選挙活動を開始。2019年には欧州議会議員に選出されて政界復帰を果たしました。86歳になる今日も変わらずにイタリア政界を掻き回しています。

実業家だったベルルスコーニ氏は1994年、独自のフォルツァ・イタリア党を結成。長年イタリアを牛耳っていたキリスト教民主党の死滅を受けて、ほどなく総選挙で勝利し首相に就任しました。

以後、3期(4期)9年余に渡って首班を務め、下野している間も一貫してイタリア政界に君臨し多大な影響力を持ち続けてきました。

他の先進民主主義国ならありえないようなデタラメな言動・行跡に満ちた彼を、なぜイタリア国民は許し、支持し続けるのか、という疑問が国際社会では良く提起されます。

その答えは、世界中のメディアがほとんど語ろうとしない、一つの単純な事実の中にあります。

つまり彼、シルヴィオ・ベルルスコーニ元イタリア首相は、稀代の「人たらし」なのです。

日本で言うなら豊臣秀吉、田中角栄の系譜に連なる人心掌握術に長けた政治家、それがベルルスコーニ元首相です。

こぼれるような笑顔、ユーモアを交えた軽快な語り口、説得力あふれるシンプルな論理、誠実(!)そのものにさえ見える丁寧な物腰、多様性重視の基本理念、徹頭徹尾の明るさと人なつっこさ、などなど・・・元首相は決して人をそらさない話術を駆使して会う者をひきつけ、たちまち彼のファンにしてしまいます。

彼のそうした対話法は意識して繰り出されるものではなく、自然に身内から表出されます。

彼は生まれながらにして偉大なコミュニケーション能力を持つ人物なのです。

人心掌握術とは、要するに優れたコミュニケーション能力のことです。元首相が、人々を虜にしてしまうのは少しも不思議なことではありません。

元首相はそのコミュニケーション力で日々顔を合わせる者をからめ取ります。

加えて彼の富の基盤である、自身が所有するイタリアの3大民放局を始めとする巨大情報ネットワークを使って、実際には顔を合わせない人々、つまり視聴者まで取り込んで味方にしてしまうのです。

イタリアのメディア王とも呼ばれる元首相は、政権の座にある時も在野の時も、ひんぱんにテレビに顔を出して発言し、討論に加わり、飽くことなく政治主張をし続けてきました。

有罪判決を受けて以降も、彼はあらゆる手段を使って自らの潔白と政治メッセージを明朗に且つ雄弁に申し立ててきたのです。

しかしながら彼の明朗や雄弁には、暗い影もつきまとっています。ポジティブはネガティブと常に表裏一体なのです。

即ち、こぼれるような笑顔とは軽薄のことであり、ユーモアを交えた軽快な口調とは際限のないお喋りのことであり、シンプルで分りやすい論理とは大衆迎合のポピュリズムのことでもあります。

また誠実そのものにさえ見える丁寧な物腰とは、偽善や隠蔽を意味し、多様性重視の基本理念は往々にして利己主義やカオスにもつながります。

さらに言えば、徹頭徹尾の明るさと人なつっこさは、徹頭徹尾のバカさだったり鈍感や無思慮の換言である場合も少なくありません。

そうしたネガティブな側面に、彼の拝金主義や多くの差別発言また人種差別的暴言失言、少女買春、脱税、危険なメディア独占等々の悪行を加えて見てみればいい。

すると恐らくそれは、イタリア国民以外の世界中の多くの人々が抱いている、ベルルスコーニ元首相の印象とぴたりと一致するのではないでしょうか。

それでもイタリア国民は彼を許し続けています。ポジティブ志向のイタリア国民は、元首相のネガティブな側面よりも彼の明朗に多く目を奪われます。

短所はそれを矯正するのではなく、長所を伸ばすことで帳消しにできる、とイタリア国民の多くは信じています。短所よりも長所がはるかに重要なのです。

例えばこういうことです。

この国の人々は全科目の平均点が80点のありふれた秀才よりも、一科目の成績が100点で残りの科目はゼロの子供の方が好ましい、と考えます。

そして どんな子供でも必ず一つや二つは100点の部分があります。その100点の部分を120点にも150点にものばしてやるのが教育の役割だと信じ、またそれを実践しようとします。

具体的な例を一つ挙げます。

ここに算数の成績がゼロで体育の得意な子供がいるとします。すると親も兄弟も先生も知人も親戚も誰もが、その子の体育の成績をほめちぎり心から高く評価して、体育の力をもっともっと高めるように努力しなさい、と子供を鼓舞するのです。

日本人ならばこういう場合、体育を少しおさえて算数の成績をせめて30点くらいに引き上げなさい、と言いたくなるところですが、イタリア人はあまりそういう発想をしません。

要するに良くいう“個性重視の教育”の典型です。醜聞まみれのデタラメな元首相をイタリア人が許し続けるのも、子供の教育方針と似た理由からです。

元首相は未成年者買春や収賄や脱税などの容疑にまみれた男です。

同時に彼は性格が明るく、コミニュケーション能力に長け、一代で巨万の富を築いた知略を持つ傑出した男でもあります。

ならば後者をより重視しよう、という訳です。

イタリア共和国には ― 繰り返しになりますが ― 短所を言い募るのではなく長所を評価するべき、と考える人が多いのです。

実はそこには「過ちや罪や悪行を決して忘れてはならない。しかしそれは赦されるべきである」 というカトリック教の「赦し」の理念も強く作用しているように見えます。

人々は元首相の負の側面を決して忘れてはいません。忘れてはいませんがあえてそれを赦して、彼のポジティブな要素により重きをおいて評価をしている、とも考えられるのです。

閑話休題

ベルルスコーニ元首相が、極右とも規定されるメローニ政権内で国民のために成すことがあるとすれば、政権が反EUに走ろうとする際にこれを引き止めることです。

元首相はEU信奉者です。

メローニ氏は、逆に反EUを標榜してこれまで政治活動をしてきました。メローニ氏の立場は欧州の全ての極右勢力と同じです。

それはつまり、英国のBrexit首謀者やトランプ主義者と同じ穴のムジナ、ということでもあります。

保守主義者でプーチン大統領とも親しいベルルスコーニ氏が、我欲を捨ててEU結束のためにメローニ首相に諫言し立ちはだかるのかどうか、筆者はここからはより注意深く見守ろうと思います。


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パスタをスプーンで食う不穏、また愉快

カニスパゲティLivorno 650


先年、相手が音を立ててそばを食べるのが嫌、という理由で日本の有名人カップルの仲が破たんした、と東京の友人から連絡がありました。

友人は筆者がいつか「音を立ててスパゲティを食べるのは難しい」と冗談交じりに話したのを覚えていて、愉快になって電話をしてきたのです。

筆者も笑って彼の話を聞きましたが、実は少し考えさせられもしました。

スパゲティはフォークでくるくると巻き取って食べるのが普通です。巻き取って食べると3歳の子供でも音を立てません。

それがイタリアにおけるスパゲティの食べ方ですが、その形が別に法律で定められているわけではありません。

従って日本人がイタリアのレストランで、そばをすする要領でずるずると盛大に音を立ててスパゲティを食べても逮捕されることはない。

スパゲッティの食べ方にいちいちこだわるなんてつまらない。自由に、食べたいように食べればいい、と筆者は思います。

ただ一つだけ言っておくと、ずるずると音を立ててスパゲティを食べる者を、イタリア人もまた多くの外国人も心中で眉をひそめて見ています。あまり見栄えが良いとは言えません。

しかし分別ある大人はそんなことはおくびにも出しません。知らない人間にずけずけとマナー違反を言うのはマナー違反です。

また音を立ててスパゲティをすするほどではないかもしれませんが、右手にフォーク、左手にスプーン(あるいは左右逆の)姿でスパゲティを食べるのは、アメリカ式無粋だからやめた方がいい、という意見もあります。

フォークにからめたスパゲティをさらにスプーンで受けるのは、例えば湯呑みの下にコースターとか紅茶受け皿のソーサーなどを敷いて、それをさらに両手で支えてお茶を飲む、というぐらいに滑稽な所作です。

田舎者のアメリカ人が、スパゲティにフォークを差し立ててうまく巻き上げる仕草ができず、かと言って日本人がそばを食べるようにズルズルと盛大に音を立ててすすり上げることもできず、苦しまぎれに発明した食べ方。

それを「上品な身のこなし」と勘違いした世界中の権兵衛が、真似をし主張して広まったものです。本来の簡素で大らかで、それゆえ品もある食べ方とは違います。

上品のつもりで慎重になりすぎると物事は逆に下卑ることがあり、逆に素直に且つシンプルに振舞うのが粋、ということもあります。

スパゲティにフォークを軽く挿(お)し立てて、巻き上げて口に運ぶ身のこなしが後者の典型です。

というのは実は、数年前に亡くなったイタリア人の義母ロゼッタ・Pの受け売りです。義母は北イタリアの資産家の娘として生まれ、同地の貴族家に嫁しました。

義母は死の直前には残念ながら壊れてしまいましたが、それまでは物腰の全てが閑雅な人でした。義母に言わせると、イタリアで爆発的に人気の出たスイーツ「ティラミス」も俗悪な食べ物でした。

「ティラミス」はイタリア語で「Tira mi su! 」です。直訳すると「私を引き上げて!」となります。それはつまり、私をハイにして、というふうな蓮っ葉な意味合いにもなります。

義母にとってはこの命名が下品の極みでした。そのため彼女は「ティラミス」を食べることはおろか、その名を口にすることさえ忌み嫌いました。

筆者は義母のそういう感覚が好きでした。

彼女は着る物や持ち物や家の装飾や道具などにも高雅なセンスを持っていました。そんな義母がけなす「ティラミス」は、真にわい雑に見えました。

また、フォークですくったパスタをさらにスプーンで受けて食べる所作は、アメリカ的かどうかはともかく、大げさに言えば、法外で鈍重でしかも気取っているのが野暮ったい、という感じがしないでもありません。

そう感じるのは義母の影響もありますが、多くは子供でさえフォーク1本でうまくスパゲティをからめ取って食べる、イタリアの食卓を見慣れていることが関係しています。

その一方で筆者の目には、フォークにスプーンを加えて2刀流でスパゲティに挑む人々の姿は、剣豪宮本武蔵をも彷彿とさせて愉快、とも映ります。

発見や発明は多くの場合、保守派の目にはうっとうしく見え、新し物好きな人々の目には斬新・愉快に見えます。

そして筆者は、新し物好きだが保守的な傾向もなくはない、普通に中途半端な男です。




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「ちむどんどん」の微妙な大団円

魂よび650

NHKの朝ドラ「ちむどんどん」が終了した。大団円と形容しても良いフィナーレも相変わらず微妙だった。

だが、時間を一気に40年も飛ばした後で元に戻して終わる正真正銘の最後は、フィクション(ドラマ)の基本である時間経過の魔法を上手く使っていると感じた。

その一手だけでも、6ヶ月に渡った消化不良の一部がきれいさっぱり無くなった気がした。

結局、この長丁場のドラマの最大の欠陥は、これでもかとばかりに愚劣なエピソードを重ねた“にーにー”の存在だったこが明白になった。

多くの視聴者は、主人公の暢子のキャラクターにも好感を抱かなかったようだ。それが嵩じて役者自体の評判も悪くなっている風潮もあるらしい

主人公の暢子は料理にひたむきに取り組む一本気な女性として描かれる。彼女は料理に没頭するあまり、人情の機微に疎いKY(死語?)な女性であり続ける。

終盤では妹とその恋の相手が、衆目集まる前で感動の抱擁に至る直前、無謀にも2人の間に割って入って、恋人を押し退け妹を思い切り抱きしめることまでする。

多くの視聴者が「は?」と首を傾げた)に違いない演技は、役者ではなく演出のキテレツな感性が生み出したタワケだ。

演出は“暢子の愛すべきキャラクター”の一環としてそのシーンを描いている節がある。だが、そこだけに限らず、笑いを目指しているらしいエピソードの全てが空回りしている。

演出家にはユーモアのセンスがない。鈍感な暢子という視聴者の評判があるらしいが、そうではなくて演出が鈍感なのである。

断っておきたいが、僕は監督が誰なのか知らない。エンドクレジットも見ていない。彼(彼女)は明らかに能力のある演出家だ。全体の差配力も高い。何よりもNHKが演出を任せた監督だ。実力がない訳がない。

僕はドラマの演出も少し手がけた者として「ちむどんどん」を批判的に見ていて、脚色の不手際を指摘しつづけている。しかしそれはいわば細部の重大な欠点についてのもので、演出家の存在の全体を批判したいのではない。

完璧な演出家も完璧な演出もこの世には存在しない。それは「ちむどんどん」の場合も同じだ。僕は「ちむどんどん」の実力ある演出家の失点を敢えてあげつらって、ドラマの出来具合を検討してみたいだけなのである。

主人公の暢子のエピソードも人物像も、にーにーのそれも、つまるところ、前述のように演出家のユーモアのセンスの無さが生み出す齟齬、と僕の目には映る。

すべりまくるシーンのほとんどは、明らかに笑いを誘う目的で描かれている。だが一切うまく機能していない。

暢子の故郷である沖縄山原(やんばる)、東京、横浜市鶴見のシーンは割合に巧く描かれていると思う。だがしつこいようだが、主人公の暢子とその兄のにーにーの人物像とエピソードが辛い。

それはどちらも細部だ。しかし、物語の中核あたりにちりばめられた大きな細部であるため、結局ドラマ全体に深い影を落としてしまった。

視聴者の眉をひそめさせ、考えさせる優れたドラマの制作は難しい。多くのドラマがそこを目指して失敗する。

そして視聴者を笑わせるドラマを作るのは、もっとさらに至難だ。

さらに言えば、視聴者を笑わせ同時に考えさせるドラマは、天才だけが踏み込める領域だ。例えばチャップリンのように。

「ちむどんどん」は全体としては一定の水準を保つドラマながら、制作が非常に困難な笑いのシーンのほぼ全てでコケた、というのが僕の評価だ。

長帳場の朝ドラだから、資金力と能力のあるNHKとはいえ、安手のシーンや展開が頻繁に見られるのは仕方がない。

それらの瑕疵は以前にも言及したように、終わりが良ければ全て良しという雰囲気で仕舞いになるのが普通だ。「ちむどんどん」もそうだと言いたいが、やはり少し厳しい。

最終回の前日、重要キャラクターのひとりである歌子が昏睡(危篤?)状態になり、暢子に率いられた兄妹が、他人も巻き込んで海に向かって助けを求めて叫ぶシーンが放送された。

それは「理解不能だ」「もはやカルトだ」などとネット民の大ブーイングを呼んだらしい。だがネット民ではなくても、恐らく多くの視聴者が展開の唐突と場面の意味不明に驚いたのではないか。

何の説明も無く挿入された物語を僕は次のように解釈した。

あれはいわゆる「魂(たま)呼び」あるいは「魂呼ばい」の儀式である。死にかけている人の名を呼んで、肉体から去ろうとする魂を呼び戻し生き返らせようとする古俗の名残だ。

今のように科学が進んでいない時代の人々は、愛する者の死の合理的な意味が良くわからない分、恐らくわれわれよりもさらに強く死を恐れた。同時に奇跡も信じた。

恐れと祈りに満ちた強い純真な気持ちが、 魂(たま)呼びという悲痛な儀式を生んだ。そのやり方は地方によって違う。

井戸の底に向かって呼びかけたり、西に向かって叫んだり、屋根の上で号泣したりもする。井戸は黄泉の国につながっている。西方浄土は文字通り西にある。屋根に上れば西方への視界も開ける。

時代劇などで、人々が井戸の底に向かって死者や危篤者の名を呼ぶシーンを見たことがある読者も多いのではないか。井戸はあの世につながっているばかりではなく、底にある水が末期の水にも連動している。

沖縄の民間信仰では死後の理想郷は海のかなたにある。いわゆるニライカナイである。儀来河内とも彼岸浄土とも書く。それは神話の「根の国」と同一のものであり、ニライは「根の方」という意味である。

そこで沖縄の兄妹は、必死に海に向かって助けを求めて叫ぶのである。しかし呼ばれたのは病人の歌子の名前ではなく、死んだ父親の魂だ。

僕が知る限り沖縄には魂呼びの風習はない。だから危篤の歌子の名前ではなく、ニライカナイにいる亡き父の魂に呼びかけて助けを求めた、と解釈した。

だが兄妹が突然海に向かって叫ぶ場面の真の意味を、いったい何人の視聴者が理解していただろうか?極めて少数ではないか。もしかするとほぼゼロだったかもしれない。

ニライカナイという概念を知っている沖縄の視聴者でさえ首を傾げた可能性が高い。それほど唐突な印象のエピソードだった。

そんな具合にすっきりしないまま、ドラマは翌日の最終回を迎えて、歌子は元気に年齢を重ねて40年が過ぎた、という展開になる。

中途半端や荒唐無稽や独りよがりの多いドラマだったが、ニライカナイの概念と魂呼びの風習に掛けたらしい挿話を、突然ドラマの終わりに置いた意図も不明だ。

あのシーンはもっと早い段階で展開させたほうが、珍妙さが無くなって深みのあるストーリーになったと思う。

返す返すも残念な仕上がりだった。






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