イタリア人女優のジーナ・ロロブリジーダが95歳で亡くなったのは1月16日。
ちょうど同じ日にマフィアの最後の大ボスとも呼ばれるマッテオ・メッシーナ・デナーロが、30年の逃亡生活を経て逮捕された。
翌日、イタリアきっての高級紙Corriere Della Seraは二つの出来事を一面トップに並べて報道した。
他の紙面も、テレビほかのメデァイアの扱いもほとんど同じだった。
僕はロロブリジーダと実際に会ったこともありながら、面識などあるはずもないメッシーナ・デナーロの逮捕劇を優先して記事に書き、女優の死については後回しにしてきた。
イタリアでは大女優として扱われるロロブリージダだが、僕の中にはあまりそういう印象がなかった。彼女が出演した映画もいくつかは観ていると思うのだが、記憶が薄い。
女優とは一度テレビのインタビューの仕事をした。
当時彼女は60歳代半ばあたりの年齢だったと思う。女優業は既に休止して写真家として活動していた。
スタジオインタビューの際、彼女は照明の一つ一つに注文をつけた。われわれスタッフに指図をして彼女の好みの位置に照明を移動しろ、というのである。
映像は光の芸術とも呼ばれる。照明は絵作りの命のひとつだ。
撮影現場で照明を担当する責任者が「撮影監督(Director of Photography)」と作品そのものの監督以外で唯一“監督“の名をつけて呼ばれるのも、その仕事が極めて重要なものだからだ。
ロロブリジーダは女優業をやめて写真家として活動していたこともあって、照明にこだわったのかもしれない。だが、撮影対象の彼女が、撮影のプロのわれわれに照明の指図をするのはあまり歓迎はされない。
しかし、それはスタジオでの単純なインタビューであり、照明はできるだけフラットに鮮明にするだけのもので、陰影や深みや色調その他を考慮し尽して映像を詩的に美しく作り上げようとするものではない。
だからわれわれはあまり怒ることもなくロロブリジーダの主張を受け入れた。彼女の注文は、初老の女優が肌や容貌の衰えを胡麻化したい一心で出しているもの、と僕の目には映った。
当時、目の前の女優の半分程度の年齢だった僕は苦笑した。隠しきれない老いを無理して隠そうとする彼女の姑息を、少し軽蔑する気分の思い上がりもまだ若かった僕の中にはあるいはあったかもしれない。
今、当時の女優とほぼ同じ年齢になって彼女の訃報に接したとき、僕は照明に注文をつけた彼女の心理を「日々是好日」という禅語にからめて感慨深く思った。
僕は学生時代に初めてその言葉を知って「毎日が晴れた良い天気だ」と勝手に理解し、これは愚かな衆生に向かって「たとえ雨が降っても風が吹いても晴れた良い天気と思い(こみ)なさい。そうすれば仏の慈悲によって救われる」という教えだと考えた。
まやかしと偽善の東洋的思想、日本的ものの見方がその言葉に集約されていると当時の僕は思った。僕は禅がまったく理解できなかった。しかも理解できないまま僕が思い込んでいる禅哲学を嫌った。
だが実は日々是好日とは、どんな天気であっても毎日が面白い趣のある時間だ、という意味である。
つまり雨の日は雨の日の、風の日は風の日の面白さがある。あるがままの姿の中に趣があり、美しさがあり、楽しさがある。だからそれを喜びなさい、という意味である。その真意に気づいたのはずっと後のことだ。
ジーナ・ロロブリジーダはインタビューされたとき、老いを受け止めて日々是好日と達観せず、若かりし頃の僕の解釈と同じように、悪い天気も良い天気と思い込みたがっていた。
老いから目をそらして、自分はまだ若く美しいと信じたがっていた。
その思い込みは老醜を安らげるどころか加速させるだけである。僕が当時彼女のこだわりに覚えた違和感もそこに根ざしていた。
彼女はその後、老いを受け入れて安らかに生きることができたのだろうか、と僕は女優の訃報を悲哀感とともにかみしめた。
追記:イタリア名のGina Lollobrigiidaを日本での通常表記であるジーナ・ロロブリジーダからイタリア語の発音に近い「ジーナ・ロッロブリジダ」と書き換えた。