【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2023年02月

舞い上がらない「舞いあがれ」を舞い上がらせたい

飛ぶ舞切り取り650

寂しい出来だったNHK朝ドラ「ちむどんどん」に続く「舞いあがれ」を欠かさず見ている。

ロンドン発の日本語放送が1日に5回も放送をする。そのうちの1回を録画予約しておき、空き時間にクレジットを速回しで飛ばして時間節約をしながら目を通す。

このやり方だとほぼ見逃すことがない。

存在自体があり得ないデタラメな登場人物・ニーニーが、ドラマをぶち壊しにした前作とは違い、「舞いあがれ」は落ち着いた雰囲気で安心して見ていられる作りになっている。

ところが今回作は、ドラマツルギー的には「ちむどんどん」よりもさらに悪い出来になりかねない展開になっている。

「舞いあがれ」はこれまでのところ、前半と後半が全く違う展開になっているのだ。そのままで終われば構成が破綻した話になるのが確実だ。

主人公の舞がパイロットになるため勉強に励む前半と、パイロットになる夢を捨てて町工場を立て直そうと奮闘する後半が分裂と形容しても構わないほどに互いに独立した内容になっている

ひとりの若者が夢を諦めてもう一つの人生を歩む、というのは世の中にいくらでもある話だ。従って主人公が家業を手伝う流れは自然に見える。

だがこのドラマの場合は、ひとりの女の子がパイロットになるという夢を抱いてまい進する様子が前半の核になっている。いや、物語の全てはそこに尽きている。

成長した主人公の舞は、大学を中退してまで航空学校に入学し、パイロットになる夢を追いかけて格闘する。その内容はきわめて濃密だ。

パイロット養成学校の内幕と人間模様を絡めつつ、「男社会のパイロット界で、女性が道を切り開いていくであろう未来を予想させながら、説得力のあるドラマが続く。

そこに父親の死と家業存続の危機が訪れる。舞はプロのパイロットになる直前で一時歩みを止めて、家業の手助けをする決心をする。

そこには時代の流れで、舞の就職先の航空会社が採用を先延ばしにする、というアクシデントが絡まる。だから話の推移は納得できる。

舞は一度立ち止まるが、どこかで再びパイロットになるために走り出すだろう、と誰もが思う。なぜならドラマは冒頭からそれを示唆する形で進んできたからだ。

ドラマの内容のみならず、「舞いあがれ」というタイトルも、紙飛行機が舞うクレジットのイラスト映像も、何もかもがそのことを雄弁に語っている。

ところがドラマは、町工場の再建悪戦苦闘する舞と家族の話に終始して、パイロットの話は一向に「舞いあがらない」。忘れ去られてしまう。

この先にそこへ向けてのどんでん返しがあることをひそかに期待しつつ、ドラマがこのまま「町工場周辺の話」で終わるなら、それはほとんど詐欺だとさえ言っておきたい。

ドラマツルギー的にも構成がデタラメな失敗作になる。

ところが― 矛盾するようだが ―パイロット養成学校とその周辺の成り行きが主体の前半と、町工場の建て直しがコアの後半の内容はそれぞれに面白い。

大問題は、しかし、このままの形で終わった場合、前半と後半が木に竹を接いだように異質で一貫性のないドラマになってしまうことだ。

朝ドラは前作の「ちむどんどん」を持ち出すまでもなく、細部の瑕疵が多い続き物だ。

物語が完結したときに、それらの瑕疵が結局全体としては問題にならない印象で落ち着くことが、つまり成功とも言える愉快なシリーズだ。

「ちむどんどん」はそうはならなかった。主人公の兄の人物像が理解不可能なほどにフェイクだったのが大きい。

「ちむどんどん」の大きな瑕疵はしかし、飽くまでも細部だった。話の本体は主人公暢子の成長物語である。

一方「舞いあがれ」がパイロットの物語を置き去りにして町工場周辺の話のみで完結した場合、それは細部ではなくストーリーの主体が破綻したまま終わることを意味する。

そうなればドラマツルギー的には呆れた駄作になること請け合いだ。

それとは別に個人的なことを言えば、パイロットの育成法や彼らのプロとしての生き様に強い関心を抱いている僕は、それらが中途半端にしか描かれないことにさらなる不満を抱く。

加えて女性パイロットが、いかにして「冷静沈着」な職業パイロットへと成長して男どもと対峙し、また理解し合い、飛行時の困難や危険を回避して「舞いつづける」かも見たかったので腹が立つ

今が旬のジェンダーギャップ問題にも大きな一石を投じる機会だったのに、と余計に残念だ。

「舞いあがれ」は複数の脚本家が担当しているという話を聞いた。そのせいで前半と後半のストーリーが違う、という言い訳もあるようだ。だがそれはおかしな主張だ。

構成が破綻した脚本を受け入れる演出家も、その成り行きを許すプロデュサーも理解しがたい。前作の「ちむどんどん」に関しても僕はほとんど同じ疑問を呈した。

NHKは大丈夫か?とさえ締めくくりたくなるが、流石にそれはできない。なぜならNHKのドラマ部門は、報道やドキュメンタリー部局に全く引けを取らない充実した作品を作り続けているからだ。

衛星放送のおかげで、外国に居住しながらNHKの番組を多くを見続けている僕はそのことを知悉している。

朝ドラの不出来は、やはり一本一本の瑕瑾と見なすべきものだ。

その伝で言えば「ちむどんどん」にはがっかりしたが、「舞いあがれ」は欲求不満でイラつくというふうである。

むろん、どんでん返しでパイロットのストーリーが展開されれば話はまた別、とあらかじめ言っておきたい。

だが、終盤が近い今の段階で展開が変わっても、尻切れトンボになる気配が濃厚であるように思う。

物語を元の軌道に戻すには町工場の話が長過ぎたと見える。それを力ずくで大団円に持ち込むことができるなら演出の力量はすばらしいものになる。

僕はここまでドラマツルギーと言い、構成と言い、一貫性や破綻などと言った。あるいは論理や方法論などを持ち出して批判することもある。だがそれらは飽くまでも傍観者の評論である。

論理や方法論で人を感動させることはできない。たとえそれらが破綻していても、視聴者を感動させ納得させることができればそれが優れたドラマだ。

朝ドラはよくそれをやってのける。

ここから終幕まで、演出のお手並み拝見、といきたい。




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令和の不惑は60歳がふさわしい

家込み黄バラ800

40歳をあらわす不惑という言葉には、周知のように人間の成熟は40歳で完結するという意味合いがある。

人は若年ゆえに悩み、惑い、経験不足ゆえに未熟な時間を経て40歳で自信に満ちた生活に入る、ということだ。

それは人生、つまり寿命が50年程度だった頃の道徳律、と解釈すれば分かりやすい。

つまり人は寿命の10年ほど前に人生の何たるかを理解し、実り豊かに時間を過ごしてやがて死んでいく、ということである。

不惑という概念はおよそ2600年前に孔子が編み出した。また60歳を表す還暦、70歳の古希、77歳を意味する喜寿なども中国由来の言葉だ。

一方で80歳をあらわす傘寿、88歳の米寿、90歳の卒寿etc..は日本独自の表現法とされる。だが根底にはやはり中国由来のコンセプトがあるのかもしれない。

昔は大ざっぱに言えば人生は50年程度だった、という日本人の固定観念は、織田信長由来のものである可能性が高い。

信長が好んだ幸若舞「敦盛」の一節の、“「人間50年 下(化)天のうちを比ぶれば 夢まぼろしのごとくなり~♪”が犯人のようだ。

そこでいう人間(じんかん)50年とは、人の平均寿命が50年という意味ではなく、人の命は宇宙の悠久に比べるとあっという間に終わるはかないものだ、という趣旨だ。

人の平均寿命は、実は昔は50年にも満たなかったと考えられている。

平均寿命が50歳ほどになったのは、明治時代になってからに過ぎない、とさえ言われる。人は長い間短命だったのである。

はかない命しか与えられていなかった古人は、不惑の次の50歳を死期に至った人間が寿命や宿命を悟る時期、という意味で「50歳にして天命を知る」すなわち“知命”と名づけた。

さらにその先の「還暦」の60歳は、死んでいてもおかしくない人間が生きている、要するにおまけの命だからもう暦をゼロに戻して、人生を新しく生きるということだ。

そんなふうに人間が短命だった頃の70歳なんてほぼ想定外の長生き、希(まれ)な出来事。だから前述したように古希。

さらに、88歳をあらわす「米寿」という言葉は、88歳などという長生きはある筈もないから、八十八を遊び心で組み立てて米という文字を作って、これを「米寿」と呼ぶという具合になった。

ただ時代も令和になって、これまでの年齢に対する定義は意味を成さなくなったように思う。

今このときの平均寿命のおよそ80歳が一気に大きく伸びるわけではないが、かくしゃくとした90歳や100歳の長寿者をいくらでも見かける。

もはや「‘人生100年’の時代がやって来た」と表現しても、それほど違和感を覚えない時世になった。

そんな訳で令和時代には、論語ほかの古典が出どころの、年代を表すあらゆる言葉の内容も、もはや違ってしかるべきと思う。

その筆頭が「不惑」である。

不惑は40歳などではなく、50歳もいっきに飛び越して60歳とするべきではないか。

40歳どころか60歳でも人は惑い悩みまくる。還暦を過ぎている今この時の自分が好例だ。60歳が不惑でもまだ若すぎるとさえ感じる。

その伝でいくと知命(50)が70歳。還暦は80歳。古希(70)が90歳となり喜寿(77)は97歳。かつて「想像を超える長生き」の意味があった米寿は108歳だ。

だが正直に言うと、人の寿命が伸びつづける今は108歳でさえ想像を超えた長生き、というふうには感じられない。

僕には想像を絶する長生きは108歳ではなく、またここイタリアのこれまでの長寿記録の最高齢である117歳でもなく、120歳をはるかに超える年齢というふうに感じられる。

「想像を超える」とは、実在するものを超越するコンセプトのことだから、ま、たとえば130歳あたりが令和の時代の米寿ではないか、とさえ思うのである。



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外国留学者は少数派だが大いなる特権派でもある

ずるい目つき切り取り610

岸田首相が自身の秘書官の「同性婚は見るのも嫌だ」と発言した差別問題に関連して、「私自身もニューヨークで少数派(マイノリティー)だった」と公言したことに違和感を覚えた。

どうやら差別問題の本質を理解しないらしい空疎な言葉には、さぞかし強いバッシングが沸き起こるだろうと思って見ていた。

だが僕が知る限り、批判らしい言説は何も起こっていない。そこで僕が自分で言っておくことにした。

まず総理大臣秘書官の愚かな発言は、それに先立って表明された岸田首相の「(同性婚を認めれば)社会が変わってしまう」という趣旨のこれまた歪つな発言に続いて出たものであることを確認しておきたい。

つまり秘書官の差別発言の元凶は岸田首相の中にある差別意識、という一面がある。

秘書官はボスの意に沿いたいという忖度からあの発言をした可能性がある。むろん、だからと言って彼自身の差別体質が許されるわけではない。

有体に言えば、岸田首相と秘書官は同じ穴のムジナである。

政権トップとその側近が同性愛者への強い差別意識を持っている事実は、日本国民の多くが同じ心的傾向を秘匿していると示唆している。

岸田首相の「私も少数派(マイノリティー)だった」発言を聞いて僕が即座に思ったのは、「やはりその程度の認識しか持てない人物かという妙な納得感を伴った感慨だった。

それはおそらく岸田首相が、虚言癖の強い歴史修正主義者だった安倍元首相と、言葉を知らない朴念仁の菅前首相に続いて出てきた、自らの言葉を持たない無個性の“アンドロイド宰相”であるという印象に僕が違和感を募らせたのが原因だろう。

日本人留学生は、国内に留まっている日本人から見れば少数派(マイノリティー)などではなく、言わばむしろ特権派だろう。日本を出て外国に学ぶことができる者は幸いだ。

留学生にとっては、渡航先の国で味わう少数派としての悲哀よりも、「幸運な特権派」としての歓喜のほうがはるかに大きい。

日本を飛び出して、貧しいながらも外国で学ぶ体験に恵まれた僕にはそれが実感として分かる。

外国で日本人留学生が受ける眼差しや待遇は、「多様性を体現する者」への暖かくて強い賛同に満ちたものである場合がほとんどだ。

一方、荒井勝喜前首相秘書官の差別発言は、国内の少数派に向けて投げつけられた蔑視のつぶてだ。

子供時代とはいえ、ニューヨークで勉学することができた岸田首相が「少数の日本人の1人」として特別視された、あるいは特別視されていると感じた事態とは意味が違う。

そうではあるものの、しかし、岸田首相が彼自身の言葉が示唆しているようにニューヨークで日本人として差別されたことがある、あるいは「差別されたと感じた」経験があるならば、それはそれで首相のまともな感覚の証だから喜ばしいことである。

それというのも外国、特に欧米諸国には白人至上主義者も少なからずいて、彼らは白人以外の人間を見下したり排斥したがったりする。そこには明確な差別の情動がある。

岸田首相はかつてそうした心情を持つ人々から差別されたのかもしれない。だが一方で岸田少年は、多様性を重んじる心を持つ人々の対応を“差別”と感じた可能性も高い。

多様性が尊重される欧米社会では、他とは“違う”ことこそ美しく価値あるコンセプトと見なされる。人々は日本からやって来た岸田少年を“違う”価値ある存在として特別視した可能性が大いにある。

ところが日本という画一主義的な社会で育った者には、“他と違う”ことそのものが恐怖となる。世間並みでいることが最も重要であり、同調圧力のない自由闊達な環境が彼にとっては重荷になるのだ。

岸田少年が、徹頭徹尾ポジティブなコンセプトである“多様性”を知らず、“違う者”として見られ、規定されたことに疎外感を感じた可能性は高い。

むろんそうではなく、先の白人至上主義者あるいは人種差別主義者らによって差別された可能性も否定はできない。

外国のそれらの差別主義者と日本国内の差別主義者は、どちらも汚れたネトウヨ・ヘイト系の群れである。だが両者の間には大きな違いもある。

欧米の差別主義者は明確な意志を持って対象を差別している。ところが日本の差別主義者は、自身が差別主義者であることに気づいていない場合も多い。

その証拠のひとつが、黄色人種でありながら白人至上主義者にへつらう一味の存在である。

白人至上主義者はむろん黄色人種の日本人も見下している。

だが表は黄色いのに中身が白くなってしまったバナナの日本人は、そのことに気づかない。気づいていても見えない振りをする。

差別されている差別主義者ほど醜く哀れなものはない。

同性愛者を差別し侮辱するのは、多くの場合自らを差別している差別者にさえ媚びるそれらのネトウヨ・ヘイト系の連中と、彼らに親和的なパラダイムを持つ国民である。

それらのうち最もたちが悪いのは、自らが他者を差別していることに気づかない差別者である。そしていわゆる先進国の中では、その類の差別主義者は圧倒的に日本に多い。

日本が差別大国である理由は、差別の存在にさえ気づかないそれら“無自覚”の差別主義者が少しも成長しないことなのである。

岸田首相は同性愛者を差別する国民を批判しようとして、「私もニューヨークで少数者(マノリティー)だった」と差別の本質に無知な本性をあらわにしてしまった。

外国に住まう日本人の中には、日本人として差別を受けたことはない、と断言する者もいる。

それが真実ならば、彼らは日本人を好きな外国人のみと付き合っていれば済む環境にいる者か、差別に気づかない鈍感且つ無知な人間か、もしくはバナナである。

バナナとは既述のように表が黄色く中身が白い日本人のこと。自らがアジア人であることを忘れてすっかり白人化してしまい、白人至上主義者とさえ手を結ぶ輩のことだ。

差別発言で更迭された荒井勝喜・前首相秘書官は十中八九そうした類の男だろう。そして僕は岸田首相も彼の秘書官に近い思想信条を持つ政治家ではないか、と強く疑っている。

日本国内における同性愛者への差別とは、日本人が同じ日本人に向けて投げつける憎しみのことだ。岸田首相はそれを是正するために動かなければならない。

ところが首相は自らの外国での体験を、気恥ずかしい誤解に基づいて引き合いに出しながら、あたかも問題の解決に腐心している風を装っている。

一国の宰相のそんな動きは、恥の上に恥の上塗りを重ねる浅はかな言動、と言っても過言ではないように思う





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同性愛は異性愛と同じ愛情表現である



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同性婚は「見るのも嫌だ」という荒井勝喜総理大臣秘書官の発言が、世界を震撼させている。

政権中枢にいる人間が、これだけあからさまな差別発言ができる日本は、本当に先進国なのだろうか?

ネトウヨヘイト系差別主義者らが主導するようにさえ見える、度し難い日本の未開性はひたすら悲しい。

赤裸々な差別感情を開示した秘書官は同姓婚が嫌いと言ったが、それはつまり同性愛また同性愛者を憎むということである。

同性愛者が差別されるのは、さまざまな理由によるように見えるが、実はその根は一つだ。

つまり、同性愛者のカップルには子供が生まれない。だから彼らは特にキリスト教社会で糾弾され、その影響も加わって世界中で差別されるようになった。

それはある意味理解できる思考回路である。

子孫を残さなければあらゆる種が絶滅する。自然は、あるいは神を信じる者にとっての神は、何よりも子孫を残すことを優先して全ての生物を造形した。

もちろんヒトも例外ではない。それは宗教上も理のあることとされ、人間の結婚は子孫を残すためのヒトの道として奨励され保護された。

だから子を成すことがない同性愛などもってのほか、ということになった。

しかし時は流れ、差別正当化の拠り所であった「同性愛者は子を成さない」という命題は、今や意味を持たずその正当性は崩れ去ってしまった。

なぜなら同性愛者の結婚が認められた段階で、ゲイの夫婦は子供を養子として迎えることができる。生物学的には子供を成さないかもしれないが、子供を持つことができるのだ。

同性愛者の結婚が認められる社会では、彼らは何も恐れるべきものはなく、宗教も彼らを差別するための都合の良いレッテルを貼る意味がなくなる。

同性愛者の皆さんは 大手を振り大威張りで前進すればいい。事実欧米諸国などでは同性愛者のそういう生き方は珍しくなくなった。

同性愛者を差別するのは理不尽なことであり100%間違っている、というのが僕の人間としてのまた政治的な主張である。

それでいながら僕は、ゲイの人たちが子供を成すこと、あるいは子供を持つことに少しの疑念を抱いていた時期もあった、と告白しなければならない。

彼らが子供を持つ場合には、親となるカップルの権利ばかりが重視されて、子供の権利が忘れ去られ ているようにも見える。僕はその点にかすかな不安を覚えた時期があった。

だが考えを進めるうちにその不安には根拠がないと悟った。

1人ひとりは弱い存在である人間は、集団として社会を作りそこで多様性を確保すればするほど環境の変化に対応できる。つまり生存の可能性が高まる。

同性愛者が子供を持つということは、人工的な手法で子を成すにしろ養子を取るにしろ、種の保存の仕方にもう一つ の形が加わる、つまり種の保存法の広がり、あるいは多様化に他ならない。

従って同性愛者の結婚は、ある意味で 自然の法則にも合致すると捉えることさえできる。否定する根拠も合理性もないのである。

それだけでは終わらない。

自然のままでは子を成さないカップルが、それでも子供が欲しいと願って実現する場合、彼らの子供に対する愛情は普通の夫婦のそれよりもはるかに強く 深いものになる可能性が高い。

またその大きな愛に包まれて育つ子供もその意味では幸せである。

しかし、同性愛者を否定し差別する者も少なくない社会の現状では、子供が心理的に大きく傷つき追い詰められて苦しむ懸念もまた強い。

ところがまさのそのネガティブな体験のおかげで、その同じ子供が他人の痛みに敏感な心優しい人間に成長する公算もまた非常に高い、とも考えられる。

要するに同姓愛者の結婚は、世の中が差別によって作り上げる同姓婚の負の側面を補って余りある、大きなポジティブな要素に満ちている。

さらに言いたい。

子供の有無には関わりなく、同性愛者同士の結婚は愛し合う男女の結婚と何も変わらない。

好きな相手と共に生きたいという当たり前の思いに始まって、究極には例えばパートナーが病気になったときには付き添いたい、片方が亡くなった場合は遺産を残したい等々の切実且つ普通の願望も背後にある。

つまり家族愛である。

同性愛者は差別によって彼らの恋愛を嘲笑されたり否定されたりするばかりではなく、そんな普通の家族愛までも無視される。

文明社会ではもはやそうした未開性は許されない。同性結婚は日本でもただちに全面的に認められるべきである。

荒井勝喜総理大臣秘書官の差別発言は、人類が長い時間をかけて理解し育んできた多様性という宝物に唾吐くものだ。彼が職を解かれたくらいで済まされるほど軽い事案ではないと考える。



拳銃を支配する

女にこやかピストル650

コロナ禍で中断していた射撃訓練を再開した。

再開した当日、自分の中の拳銃への恐怖心がほぼなくなっていることに気づいた。

うれしい誤算。

撃ち方を習うのは、身内に巣食っている銃への恐怖心を克服するのが目的である。

僕はその恐怖心を偶然に発見した。発見から20年ほど後に猟銃の扱い方を習得した。

次に拳銃の操作を習い始めた。

稽古を始めたのは2019年の9月。射撃場に10回前後通ったところでコロナパンデミックがやってきた。

ほとんどの公共施設と同様に射撃場も閉鎖された。2021年には条件付きで再開されたが、全く訪ねる気にならなかった。

2022年も同じ状況で過ごした。

銃を殺傷目的の武器として扱うのではなく、自分の中の嫌な恐怖心をなくすための実習であり訓練である。それでも銃撃方を習うのは心おどる作業ではない。

コロナ疲れもあったが、稽古を再開するのは気が重かった。

先日、ようやく踏ん切りがついてほぼ3年ぶりに射撃場に行った。

そこは世界的に有名なイタリアの銃器製造メーカー 「ベレッタ」の近くにある。わが家からは車で30分足らずの距離である。

前述の如く、練習を再開してすぐにうれしい発見をした。

てきぱきと銃を扱うところまでは行かないが、それを手にすることを恐れない自分がいた。

予想外の成り行きだった。

安全のための細心の注意をはらいながら、弾を込め、安全装置を解除して的に向けて射撃する。

終わると銃口をしっかりと前方に固定したまま弾倉をはずし、再び弾を装てんし、両手と指を決まったやり方で慎重に組み合わせ、制動しつつ撃つ。

その繰り返しが心穏やかにできるようになっていた。

それは楽しいとさえ感じられた。

射撃がスポーツと捉えられる意味も初めて腑に落ちた。

恐怖心の克服が成ったいま、射撃練習を続ける意味はない。が、せっかくなので的に撃ちこめるようになるまで続けようかとも考えている。

とはいうものの、習熟して射撃大会に参加するなどの気持ちにはなれない。

的確な銃撃のテクニックが役に立つことがあるとすれば、おそらくそれは家族と自分を守るために行動するときだろう。

そんな日は永遠に来ないことを願いつつ、醜いが目覚ましいほど機能的な奇妙な道具を、とことんまで制圧してやろうと思う。




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