【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2023年03月

高市早苗オヤジ型女性政治家はフェイクっぽい

安倍高市切り取り

「捏造でなければ辞職」と啖呵を切った、高市早苗経済安全保障担当相の驕りは、今に始まったことではないが相変わらず見苦しい

同じ穴のムジナだった安倍元首相に倣ったらしい宣言によって、彼女は思い上がりに思い上がってついに天井にぶつかり墜落す運命を選んだようにも見える。

ファシスト気質の高市氏は、性根が秘匿ファシストだった彼女のボスの安倍元首相よりもよりファシスト的というのが僕の見方だ。

だがジェンダーギャップの激しい日本で女性政治家が頑張る様子を、僕は政治的立場をさて置いてずっと応援する気持ちでいたことも告白しておきたい。

高市氏はここイタリアのジョルジャ・メローニ首相に似ているところがある。言うまでもなくファシスト的な気迫の政治スタンスやメンタリティーだ。

だが同時にふたりはかけ離れた右翼活動家でもある。ひとことで言えば、メローニ首相が明の右翼政治家、片や高市氏は陰にこもったキャラクターだ。

もっと言えば高市氏は自ら大いに右翼運動を担うのではなく、例えば安倍元首相に庇護されて四囲を睥睨したように威光を笠に着て凄むタイプ。

一方のメローニ氏は自ら激しく動いて道を切り開くタイプだ。

肩書きが人間を作る、というのは真実である。

イタリアで初の女性首相となったジョルジャ・メローニ氏は、ファシスト党の流れを汲む「イタリアの同胞」を率いて選挙を勝ち抜いた。

選挙中、彼女は右寄りの政策を声高に叫びつつ一つのスローガンをさらに大声で主張した。

いわく、「私はジョルジャだ。私は女性だ。私は母親だ。そして私はイタリア人だ」と。

「私はジョルジャだ」は自らが自立自尊の人格であることを、「私は女性だ」は女性であることを誇ると同時にジェンダー差別への抗議を、「私は母親だ 」は愛と寛容を、「私はイタリア人だ」は愛国の精神を象徴していると僕は見た。

メローニ氏はそうやって国民の支持を得て首相の座に上り詰めた。

上り詰めると同時に、彼女は激しい言葉を避け、険しい表情をゆるめ、女性また母親の本性があらわになった柔和な物腰にさえなった。

政治的にも極端な言動は鳴りをひそめ、対立する政治勢力を敵視するのではなく、意見の違う者として会話や説得を試みる姿勢が顕著になった。

彼女のそうした佇まいは国内の批判者の声をやわらげた。僕もその批判者のひとりだ。

また同氏に懐疑的なEUのリベラルな主勢力は、警戒心を抱きながらもメローニ首相を対話の可能な右派政治家、と規定して協力関係を構築し始めた。

ジョルジャ・メローニ首相は資質によってイタリア初の女性首相になったが、イタリアのトップという肩書きが彼女を大きく成長させているのも事実なのである。

高市大臣は、あるいは日本初の女性宰相となり、その肩書きによって人間的にも政治的にも成長するかもしれないと僕は秘かに考えていたが、少しバカらしくなってきた。

メローニ首相と同じ右翼政治家の高市大臣には、イタリアのトップに備わっている女性としての自立心や明朗な政治姿勢や誇りが感じられない。

その代わりに虎の威を借る狐の驕りや、男に遠慮する「女性オヤジ政治家」の悲哀ばかりが透けて見える。女性オヤジ政治家は旧態依然とした男性議員を真似るばかりで進取の気性がない。その典型が高市氏だ。

日本にはまた男に媚びる「ブリッコ・オバハン政治家」も多い。その典型は稲田朋美元防衛大臣だ。それらのブリッコ・オバハン政治家は人間としてのまた政治家としての在り様が不自然で主体性がない。

ブリッコ・オバハン政治家は女性オヤジ政治家の対極にあるようにも見える。だが彼女たちは“不自然で主体性がない“というまさにそのことによって、全員が女性オヤジ政治家に分類される存在でもある。

それらのタイプの政治家は実はイタリアにも多い。つまり「オヤジ型の女性政治家」が跋扈する社会現象は、まさにイタリアや日本などの「女性の社会進出が遅れている国」に特有のものなのである。

女性オヤジ政治家 は恐らく肩書きによっても変えられない存在だ。主体性と、そこから生まれるぶれない政治姿勢また真実が欠けているからだ。

肩書きによって作られる人格とはつまるところ、元々それらの特質を備えている人物が、責任ある地位に着くことでさらに磨かれていくことである。

メローニ首相は頑迷固陋なイタリア政界の壁を突き破って輝いた女性だ。

僕は彼女の政治姿勢には同調しないが、日本に似た男社会で見事に自己主張を貫き通す姿勢には拍手を送る。

拍手するその手を返して、高市早苗大臣の面前にかざしNOとひとこと言えればどんなにか胸がすくことだろう。




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舞い上がりそうな「舞いあがれ」かも、かい?

砂漠離陸650

いつまでも舞い上がらない朝ドラの「舞いあがれ」は、舞い上がらないままに面白くないこともないが、ドラマとしての連続性がないのがもどかしい。

だが主人公・舞の親友の久留美が、なぜか長崎の総合医療病院でフライトナースになるらしい展開は、主人公の舞がいよいよ「舞上がる」ための伏線、と読めないこともない。

つまり舞は、久留美を追いかけて長崎の島々を結ぶ医療関連の飛行機のパイロットになる、という話の流れではないか。

あるいは先日FB友の方がここのコメントで指摘されたように、五島などの離島に飛んでいる航空会社の飛行機を舞が作って且つそのパイロットになる、という筋書きかもしれない。

そうなれば舞がパイロットとして舞い上がる、というドラマの暗黙の約束が果たされることになる。

だが僕はそんな経過になっても不満である。なぜなら舞には多くの旅客を運ぶ飛行機のパイロットになってほしいからだ。

ドラマは初っ端、夢の中で旅客機の機長となった舞が機内アナウンスをするところから始まった。

続いて男尊女卑のパイロット界で女性飛行士の舞が奮闘するストーリーが強く示唆され続けた。

それなのに、主人公が町工場の改革者になったり、小型飛行機のパイロットに納まったりするのはちょっと物足りない。

脚本や演出にとっては、舞がジェンダーギャップを乗り越えて男社会で活躍していくストーリーは荷が重すぎたのだろうか?

ドラマはまだ終わっていないので詰めの展開は分からない。

僕はストーリーが最後には舞い上がるのかどうか、という興味もあって朝ドラを見続けている。







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流転変遷は人生の華

桜引き見上げ2016  800pic


流転変遷は人生の華である。


この世の中で変わらない者は、変わりたくても変われない死者があるばかりだ。


変わるのは生きているからである。


ならば流転変遷は、生きている証、ということである


死ねば変化は起きないのだ。


流転変遷の極みの加齢も変化である。


そして変化するのはやはり生きているからである。


生きているのなら、生きている証の変化を楽しまなければつまらない。


死ねば変化も楽しみも何もないのだから。


変化を楽しむとは言葉を替えれば、あるがままに、ということである。


なぜなら人はあるがままの形で変化していく存在だからである。


あるいは人は、変化するままにしか存在できない存在だからである。


あるがままに存在することを受け入れるとき、人は楽しむ。


楽しまなくとも、心は必ず安まるのである。




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