【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2023年04月

危ういのは神道ではなく国家神道である

伊勢内宮入口鳥居650

僕は2023年4月、神社仏閣を次々に訪問参拝しながら宗教と神社神道(以下:純粋神道と呼ぶ)と国家神道に思いを巡らしていた。すると僕の旅が終わってほぼ一週間後の4月21日、高市早苗経済安全保障担当大臣が靖国神社に参拝した。

その出来事は、神道にまつわる僕の物思いを象徴的に示す性格を持っている。そこで高市氏の動きに言及しつつ神道と国家神道について意見を述べておくことにした。

高市大臣は毎年、春と秋の例大祭の期間中や8月15日の「終戦の日」に、靖国神社に参拝するという。従って今回の動きもいつもの彼女の習いと捉えて聞き流すこともできる。

しかし彼女は不遜にも放送法を曲解して、自らと仲間に批判的なメディアを弾劾しようと企てた疑惑にまみれている人物だ。

批判が沸き起こっている今この時は、物議を醸すことの多い靖国参拝を控えるのがあるべき姿だと思うが、高市氏は相変わらずの“仁義なき戦い”精神で靖国神社を訪問した。

彼女はその理由を「国策に殉じた方々の御霊に尊崇の念をもって哀悼のまことをささげる」ため、と靖国を訪れる保守系政治家の常套句を用いて説明した。

戦争で斃れた人々に哀悼の意を表するのは、思想の左右には関係なく人として当たり前の行為だ。だが彼女は国務大臣である。国を代表する公人だ。公人は常に国益を念頭に置きつつ国際情勢にも配慮して行動しなければならない。

戦争犯罪者も祀る靖国神社への参拝は、軍国主義日本を想起させるとして周辺国の反発を呼び、且つ国際社会も眉をひそめることが多いネガティブな事案だ。つまり国益に反するのが実情である。

神社は古来の日本人の心の拠りどころとして人々に賛美され親しまれている分には、何も問題はない。それどころか美しい施設であり伝統であり理念である。

だが人々の敬仰心を利用して国粋主義を煽り、純粋神道を歪曲して国家神道と成し、天皇を隠れ蓑に暴威を振るった軍国主義者の末裔が存在する限り、危険な施設でもあり続ける。

日本ではついに第2次大戦の徹底総括が行われないまま長い時間が過ぎてしまった。そのため軍国主義の心根を秘匿した勢力が徐々に意を強くしつつある。一歩間違えば国家神道に類する欺瞞が再び席巻しかねない。

具体的にはネトウヨ系政治・文化・財界人や安倍元首相追随者群また極右主義者などが、かつては彼らの抑圧者だったアメリカが口をつぐみ勝ちなのを幸いに、俄然勢いを増しているのが日本の今の姿だ。

そこに最近、ロシアによるウクライナ侵略が想起させる中国の覇権主義の暴走と台湾有事の可能性への怖れ、という新たなトレンドが加わった。人々のその怖れは真っ当なものだ。

だが大戦への総括どころか、歴史修正主義者ばかりが勢いを増すようにさえ見える状況はやはり危なっかしい。そして高市早苗氏は歴史修正主義勢力の旗手だった安倍元首相の追随者だ。

彼女が世間の批判の嵐に抗う形で靖国参拝を強行したのは、右派の支持を集めて自らの政治家生命の危機を乗り越えたい思惑があるようにも見える。

だが同時にその行為は、ファシスト気質の彼女が秘匿ファシストまた民族主義者などの歴史修正主義者に、国家神道の正当性を訴え確認する意味合いがあると捉えることもできる。

繰り返しになるが、神社も神道も古来の人々の純真素朴な信仰心を受け止めてそこにある限り美しいコンセプトだ。その心情も、心情に裏打ちされた建築スタイルも、装飾も儀式も全て目覚ましい。

だがそれが軍国主義者やファシストやナショナリストらの尊崇施設になり思想の拠り所になったとたんに、大いにキナ臭くなるのもまた真実だ。

高市早苗経済安全保障担当大臣の靖国参拝は、そのほかの右派政治家の参拝と同様に、まさにその負の兆しが透けて見える象徴的な動きだった。

僕は先日、伊勢神宮、出雲大社、厳島神社、太宰府天満宮、伏見稲荷などの神殿を訪ね歩いた。

過去には靖国神社、明治神宮、金刀比羅宮なども参拝し、全国各地の神社や杜や祠堂や地蔵また御嶽、位牌堂 、御霊屋等々も訪ね歩いている。

僕がそこで敢えて見ようとするのは、主にキリスト教の対抗軸としての教義や思想や実存根拠、またその信義や哲学である。

僕はキリスト教徒ではないがイエス・キリストを尊崇し仏陀を敬仰する者だ。同時に国家神道ではない純粋神道や凡霊説、さらにはイスラム教やユダヤ教も尊重する。

僕はあらゆる宗教を受け入れる自らのその立ち位置を規定して、「仏教系の無神論者」と称している。言葉を替えれば、僕は「仏教系の無神論者」という宗教の信者なのである。

全ての宗教を善しとする立場は、ある限りの「宗門の信者」に拒絶される可能性がある。

なぜなら一神教にしても多神教にしても、自らの信ずるものが絶対の真実であり無謬の存在だと思い込めば、それを受容しない者は彼らにとっては全て無神論者だろうからだ。

ところでなぜ僕がキリスト教や神道系ではなく「仏教系の無神論者」なのかというと、僕自身の中に仏教的な思想や習慣や記憶や日々の動静の心因となるものなどが、他の教派のそれよりも深く存在している、と感じるからである。

さらに言えば、仏教にはドグマ(教義)が存在する分、思索の基準が明確になりやすい。

一方ドグマが存在せず、本殿のご神体を秘匿して信者の畏怖心を煽る神道の在り方は、神社そのものの構造と共に僕の中の疑心を呼び起こすことがないでもない。

それでも日本人としての僕は、本来の純粋神道の精神に親しみを覚え尊重する。同時にそれを歪曲して国家神道と成し、その周りで狡知にうごめいては国民を支配しようとする勢力を嫌悪し、それに抗う側に立つ。

換言すれば高市早苗氏は、僕と同じく純粋神道の伝統が充満する日本社会に生まれ育ちながら、それを全く違う解釈で規定し実践する類の人物と見える。

具体的に言えば高市氏は僕の目には、純真素朴な神道の精髄を曲げて国家神道に作り変え、危険な政治道具に祭り上げようとする勢力の指導者のひとりと映るのである。

2023年4月21日の高市早苗経済安全保障担当大臣の靖国神社参拝に先立って、多くの社殿を訪ね歩いていた僕の中に錯綜していたのは、純粋神道への郷愁と国家神道への嫌悪感だった。




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ジョルジャ・メローニの幸運

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メローニ首相に反ファシズム宣言をしろと呼びかける「元ファシスト」のジャンフランコ・フィニ氏

今日4月25日は、イタリアの終戦記念日である。ここでは解放記念日と呼ばれる。

イタリアの終戦はムッソリーニのファシズムとナチスドイツからの解放でもあった。だから終戦ではなく「解放」記念日なのである。

日独伊三国同盟で結ばれていたドイツとイタリアは大戦中の1943年に仲たがいした。日独伊3国同盟はその時点で事実上崩壊し、独伊は敵同士になった。

イタリアは日独と歩調を合わせて第2次世界大戦を戦ったが、途中で状況が変わってナチスドイツに立ち向かう勢力になったのである。

言葉を替えればイタリアは、開戦後しばらくはナチスと同じ穴のムジナだったが、途中でナチスの圧迫に苦しむ被害者になっていった。

ナチスドイツへの民衆の抵抗運動は、1943年から2年後の終戦まで激化の一途をたどり、それに伴ってナチスによるイタリア国民への弾圧も加速していった。

1945年4月、ドイツの傀儡政権・北イタリアのサロー共和国が崩壊。4月25日にはレジスタンスの拠点だったミラノも解放されて、イタリアはナチスドイツを放逐した。

日独伊三国同盟で破綻したイタリアが日独と違ったのは、民衆が蜂起してファシズムを倒したことだ。それは決して偶然ではない。

ローマ帝国を有し、その崩壊後は都市国家ごとの多様性を重視してきたイタリアの「民主主義」が勝利したのである。むろんそこには連合軍の後押しがあったのは言うまでもない。

イタリア共和国の最大最良の特徴は「多様性」である。

多様性は時には「混乱」や「不安定」と表裏一体のコンセプトだ。イタリアが第2次大戦中一貫して混乱の様相を呈しながらも、民衆の蜂起によってファシズムとナチズムを放逐したのはすばらしい歴史だ。

イタリアは大戦後、一貫してファシズムとナチズムからの「解放」の日を誇り盛大に祝ってきた。

ことしの終戦記念日は、しかし、いつもとは少し違う。極右とさえ呼ばれる政党が連立を組んで政権を維持しているからだ。

イタリア初の女性トップ・ジョルジャ・メローニ首相は、ファシスト党の流れを汲むイタリアの同胞の党首だ。

彼女は国内外のリベラル勢力からファシズムと完全決別するように迫られているが、未だに明確には声明を出していない。

それは危険な兆候に見えなくもない。だが僕は日本の右翼勢力ほどにはイタリアの右翼政権を危惧しない。なぜなら彼らは陰に籠った日本右翼とは違い自らの立ち位置を明確に示して政治活動を行うからだ。

またイタリアの政治状況は、第2次大戦の徹底総括をしないために戦争責任が曖昧になり、その結果過去の軍国主義の亡霊が跋扈してやまない日本とは大きく違う。

極右と呼ばれるイタリアの政治勢力は、危険ではあるもののただちにかつてのファシストと同じ存在、と決めつけることはできない。なぜなら彼らもファシトの悪を十分に知っているからだ。

だからこそ彼らは自身を極右と呼ぶことを避ける。極右はファシストに限りなく近いコンセプトだ。

第2次大戦の阿鼻地獄を知悉している彼らが、かつてのファシストやナチスや軍国主義日本などと同じ破滅への道程に、おいそれとはまり込むとは思えない。

だが、それらの政治勢力を放っておくとやがて拡大成長して社会に強い影響を及ぼす。あまつさえ人々を次々に取り込んでさらに膨張する。

膨張するのは、新規の同調者が増えると同時に、それまで潜行していた彼らの同類の者がカミングアウトしていくからである。

トランプ大統領が誕生したことによって、それまで秘匿されていたアメリカの反動右翼勢力が一気に姿を現したのが典型的な例だ。

彼らの思想行動が政治的奔流となった暁には、日独伊のかつての極右パワーがそうであったように急速に社会を押しつぶしていく。

そして奔流は世界の主流となってついには戦争へと突入する。そこに至るまでには、弾圧や暴力や破壊や混乱が跋扈するのはうまでもない。

したがって極右モメンタムは抑さえ込まれなければならない。激流となって制御不能になる前に、その芽が摘み取られるべきである。

イタリア初の女性首相メローニ氏は、ガラスの天井を打ち破った功績に続いて、イタリア右派がファシズムと決別する歴史的な宣言を出す機会も与えられている。

その幸運を捉え行使するかどうかで、彼女の歴史における立ち位置は大きく違うものになるだろう。



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菜園に爛漫の野菜草が輝く時

南窓開け庭650

日本から戻ると北イタリアも春爛漫の景色に変貌していた。

菜園にも命がみなぎっている。

命は野菜と雑草のせめぎあいである。

風が冷たかった3月、菜園の至るところにサラダ用野菜の混合種や春菊、またチンゲンサイや葱などの種をびっしりとまいた。

菜園は有機農法で耕しているため雑草が繁茂し虫がわく。

種下ろしをした野菜たちは根がおだやかで育ちやすく、しかも除去が簡単だ。

土中深くまで根を張るしつこい、処理に困る、つる草や宿根草などとは大違いである。

ことしは野菜作りが始まる3月から4月にかけて日本に帰るので、雑草抑えのつもりもあって前述の野菜たねを満遍なく播種したのだった。

雑草に勝って大きく伸びている野菜もあれば、怖れるように小さく芽を出し青草に辺りを覆われているものもある。

よく育っているものは収穫して食べていくが、雑草に圧されて萎縮している芽はと共に除き、跡に不断草に始まる温野菜用野菜や根菜、また果菜や花菜の苗を植えつける。

畑では種を蒔いて後は放っておいても最低限の作物が育つ。

文字通りの自然の恵みだ。

僕は菜園を細かく手入れする野菜作りではない。作業をしたいのは山々だが時間がない。除草などもほとんどしないまま放っておくことが多い。

雑草は取り除かないと次々に花をつけ種を撒き散らして大きくはびこる。

それは分かっているが、じっくりと土に向き合う時間がないので、ミニ耕運機をひんぱんに畑に入れて鋤いてしまうことが多い。

ことしは特に耕運機の出番が多くなりそうである。

それは栽培法や土作りという意味では邪道かもしれないが、それでけっこう除草がうまく行き作物も育つ。

自然は怠け者の野菜作りにも惜しみなく恵みを与える。

母なる大地の面目躍如である。



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宮島で祝う復活祭もまた良し

宮島4月10日大鳥居縦ヨリ650

イタリア語で言うパスクア(復活祭・イースター)を今年は宮島で過ごした。パスクアはイエス・キリストの復活を寿ぐキリスト教最大の祭りである。

カトリックの総本山を抱くイタリアでは特に盛大に祝う。

キリスト教の祭典としては、その賑やかさと、非キリスト教国を含む世界でも祝される祭礼、という意味で恐らくクリスマスが最大のものだろう。が、宗教的には復活祭が最も重要な行事である。

なぜならクリスマスはイエス・キリストの生誕を祝うイベントに過ぎないが、復活祭は磔(はりつけ)にされたキリストが、「死から甦る」奇跡を讃える日だからだ。

誕生は生あるものの誰にでも訪れる奇跡である。が、「死からの再生」という大奇跡は神の子であるキリストにしか起こり得ない。それを信じるか否かに関わらず、宗教的にどちらが重要な出来事であるかは明白である。

イエス・キリストの復活があったからこそキリスト教は完成した、とも言える。キリスト教をキリスト教たらしめているのが、復活祭なのである。

今回帰国では僕は神社仏閣を主に訪ね歩いている。

厳島神社で迎えた復活祭は感慨深かった、と言いたいところだが、僕は何事もなかったように時間を過ごした。実際に何事も起こらなかった。

仏教系無神論者」を自認する僕はあらゆる宗教を受け入れる。教会で合掌して祈ることもあれば、十字は切らないながらも寺でイエス・キリストを思うことも辞さない。無論神殿でも。

ことしの復活祭では僕はそれさえもしないで、厳島神社の明るい景色とスタイルと美意識に酔いしれた。

宗教についてあれこれ思いを巡らすよりも、日本独自の文化をありのままに享けとめ喜ぼうと努力したのである。

その努力は幸いに上手くいった。



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旅模様

永平寺格子越し650

東京から金沢に行き、日本海沿岸沿いに西に進んで下関から九州を一周する。次に博多から山陽道、京都を経由して東京へという旅の途中である。

ほぼ全線をJRで巡り、順不同だが計画通りに進んでいる。

東京の前に故郷の沖縄にも飛んだので、四国を除く東京以西のほぼ全土を訪ねていることになる。

四国、信越、北陸、東北なども過去に仕事で巡っている。従って僕が知らない日本は今のところ北海道だけになった。

今回は欧州でよくやるリーチ旅。換言すれば食べ歩きを兼ねた名所巡りのつもりだった。

そう言いつつ、しかし、神社訪問に主な関心を置きながら歩いている。

僕は自らを「仏教系の無神論者」と規定している。

そのことを再確認するのも今回旅の目的のひとつである。





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