【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2023年08月

女子サッカーに絡まるいつものミソジニー

万歳アメリカ650

女子サッカーのワールドカップが終わった。見ごたえのある試合が多かった。

女子サッカーのレベルは高く、しかも進化向上していくであろう糊しろが大きいと感じられるところが、さらにすばらしいと思った。

女子サッカーを評価しない人々の間には、女子のゲームには男子サッカーとは違うルールを導入したほうがいい、という意見が根強くある。

僕はその意見には2つの意味で反対である。

一つは、女子サッカーは今のルール、つまり男子と全く同じルールのままで十分に面白い。

女子選手の欠点と見られやすい部分は、むしろ女子の長所とさえなっていて好ましいと思う。

二つ目は、ルールを変えろと主張する人々の多くが密かに、だが断固として抱えている、ミソジニーへの強い不同意だ。

女子サッカー懐疑論者が言いたがる女子の試合の欠点とは、プレーが、従って試合展開が遅い、当たりに激しさがない、テクニックが男子に比べて低いなどだ。

だがそれらの論難は、ほとんど言いがかりと呼んでもいいものだ。

試合展開が遅いように見えるのは、女子のプレーがていねいだからだ。激しさがないのは、女子が暴力的な動きをしないからだ。言葉を替えればプレーに誤魔化しがないのだ。

テクニックが男子に比べて低いように見えるのは、動きが男子よりほんのわずかに遅い事実と、体当たりなどの粗暴なアクションの欠如が生み出すファントムである。

要するに批判者が言う、展開が遅い、当たりが激しくない、低テクニックなどとというのは、密かな女性蔑視に基づく主張なのである。

言葉を替えれば彼ら批判者は、女子と男子の「違い」を「優劣」と勘違いしている。

違いは断じて優劣ではない。違いとは、それぞれが美しい個性を発現して輝いているということだ。

女子サッカーが個性的で好ましい理由をさらに少し付け加えておきたい。

例えば批判者の言うスピード不足には、ほんの一瞬の時間のズレが有利に働いてプレーの詳細が鮮明に見える、という利点がある。

また女子選手も試合中は十分に激しく当たり合う。だが既述の如く男子並に「暴力的」にはならない。のみならず彼女たちは、暴力に頼らない分を巧みなテクニックでカバーしていると見える。

男子が往々にして見せる激しい当たりにこだわると、肝心のプレーテクニックがおろそかになる。そこで女子選手は腕力を避けて技に心血を注ぐのだ。むしろ好ましい現象である。

また女子のテクニックが男子に比べて低いというのは、前述のように多くの場合は誤解と偏見がからまった錯覚だ。

陸上、水泳、体操、スケートetc では、男女の違いが違いとして認識されていて、それぞれに面白い内容のゲームが繰り広げられる。

さらに言えばプロテニス、ゴルフ、バスケットなどにはルールに男女の隔たりはない。サッカーも同様に男女間で差のない現状のルールで十分に魅力的だと思う。

しかしながら、

それらのことをしっかりと認識した上で、男女間の「違い(優劣ではない!)」をさらに強調しての、ルールの変更はあり得るかも知れない。

ピッチを少し小さくし、その分ゴールも低く狭くすれば、今でも面白い女子サッカーに更なる個性が加わって魅力が増す、というのは考えられないことではない

バレーボールが参考になる。バレーボールではネットの高さが男女で少し違う。一般的に上背のある男子のネットが女子よりも高く設定されている。

その違いは男女のゲームに明確な差異をもたらし、試合内容が一層楽しいものなる。

ただでも強い男子のスパイクは、高いネット上から繰り出されることによって、いよいよスピードと破壊力が加わる。それが男子のゲームを面白くする。

一方少し低い地点から打ち込まれる女子のスパイクは、破壊力とスピードはやや劣るものの、相手側がそれを受け、トスし、打ち込み、こちらがそれを受けて連携する、というラリーが生まれやすくなる。

実際に女子のバレーボールは、華麗なテクニックから生まれるボールの激しいやり取りが大きな魅力になっている。

女子サッカーも、バレーボールに習ってゴールの大きさを変えプレー空間を縮小することで、更なる個性と魅力が加わる可能性がないとは言えない。

ミソジニーをかなぐり捨てて、当たり前のリスペクトに基づき女子の個性をうまく引き出せば、女子サッカーの人気は男子のそれに一気に近づくことも不可能ではないと思うのである。






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プーチンは❛歩く死体❜を❛ただの死体❜に変えて自身の死期をケムに巻いた

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ロシア非常事態省は8月23日、民間軍事会社ワグネルの創始者プリゴジン氏の自家用機が、モスクワの北西約300キロ地点で墜落し、乗員3人と乗客7人の計10人全員が死亡したと発表した。

プリジコジン氏は6月、プーチン大統領への反乱を起こした。それは失敗し彼は許されたように見えた。だが反乱後はプリジコジン氏が歩く死体であることは明らかだった。

そうではあるものの、彼がベラルーシ、アフリカ、ロシア間を自在に行き来しているらしい様子は、あるいはプーチン大統領の支配力が低下した証かも知れない、などの憶測ももたらした。

プーチン大統領はプリコジン氏を密かに消すのか、見せしめを兼ねて派手に殺るのかと僕は興味津に見ていたが、非情であり異様なスパイであるプーチン大統領は後者の方法を選んだ。

プーチン大統領の非情さは分かり切ったことだが、隠微を好む傾向があるスパイでありながら、プリコジン氏が乗ったジェットを爆破(撃墜という報も)し、ビデオ撮影させて世界中に発信した手法はラスボスらしい大胆さ。不気味でさえある。

また異様にも見えるのは、プーチン大統領が事件から24時間も経たないうちにテレビ演説で、「事故の犠牲者と家族に哀悼の意を表する」とヌケヌケと述べたことだ。ロシア国内での彼の力は弱まってなどいないことを如実に示すエピソードだった。

プーチン大統領は、今回のプリコジン氏を含め少なく見積もっても30人ほどの政敵や批判者を殺害した疑いがある。100人を超える、という主張さえある。だが、証拠は一切ない。心証はしかし、100%クロである。

プリコジン氏の乗った飛行機が、ロシア上空で爆破されてまっ逆さまに墜落したのと時を同じくして、アメリカではトランプ前大統領がジョージア州フルトン郡の拘置所に出頭し、逮捕された。

彼は続いて指紋を採取され、顔写真を撮られ、身長・体重などを記録された。その後、およそ20万ドル(約2900万円)の保証金を支払って釈放された。

前大統領の拘置所での登録番号は「P01135809」。いかにも凶状持ちという表号で彼にふさわしい。

トランプ前大統領が起訴されて出頭し、逮捕と保釈の一連の手続きを取ったのは、今年だけでなんと4回目だ。

こんな男が再び本当にアメリカ大統領になるのだろうか?彼が暗殺に手を染めていないのは、民主主義国家のトップという立場がもたらした僥倖に過ぎない。

トランプ前大統領が、彼の地金であるファシストの本領を発揮できる国家の指導者であったならば、彼はプーチン大統領に負けずとも劣らない独裁者となり、暗殺指示も朝飯前の暴君となることだろう。

プーチン大統領は、世界の多くの人々が願った権力喪失の罠にはどうやらはまっていないようだ。結果、圧制者としての彼の死期も見えない。

トランプ氏が来年大統領に返り咲けば、シューキンペー国家主席も加わって、世界はまたもや反民主主義勢力が跋扈する、暗殺陰謀フェイクニュース満載なんでもありの、タノシー世界になりそうである。



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令和5年8月15日に聞く東京だョおっ母さん&兵士葬送曲の危うさ


 河嶋靖国800

                               ©ザ・プランクス


島倉千代子が歌う、母を連れて戦死した兄を靖国神社に偲ぶ名歌、「東京だョおっ母さん」を聞くたびに僕は泣く。言葉の遊びではなく、お千代さんの泣き節の切ない優しさに包まれながら、東京での学生時代の出来事を思い出し、僕は文字通り涙ぐむのである。

僕は20歳を過ぎたばかりの学生時代に、今は亡き母と2人で靖国神社に参拝した。僕の靖国とは第一に母の記憶だ。そして母の靖国神社とは、ごく普通に「国に殉じた人々の霊魂が眠る神聖な場所」である。母の心の中には、戦犯も分祀も合祀も長州独裁も明治政府の欺瞞も、つまり靖国神社の成り立ちとその後の歴史や汚れた政治に関わる一切の知識も、従って感情もなかった。母は純粋に靖国神社を尊崇していた。

「東京だョおっ母さん」では戦死した兄が
優しかった兄さんが 桜の下でさぞかし待つだろうおっ母さん あれが あれが九段坂 逢ったら泣くでしょ 兄さんも♫
と切なく讃えられる。

歌を聞くたびに僕は泣かされる。靖国に祭られている優しい兄さんに、同じ神社に付き添って行った温和で情け深い母の記憶が重なるからである。

だが涙をぬぐったあとでは、僕の理性がいつもハタと目覚める。戦死した優しい兄さんは間違いなく優しい。だが同時に彼は凶暴な兵士でもあったのだ。

優しかった兄さんは、戦場では殺人鬼であり征服地の人々を苦しめる大凶だった。彼らは戦場で壊れて悪魔になった。歌からはその暗い真実がきれいさっぱり抜け落ちている。

日本人は自分の家族や友人である兵士は、自分の家族や友人であるが故に、慈悲や優しさや豊かな人間性を持つ兵士だと思い込みがちだ。

だが僕は歌を聞いて涙すると同時に、「壊れた日本人」の残虐性をも思わずにはいられない。

不幸中の幸いとも呼べる真実は、彼らが実は「壊れた」のではないということだ。彼らは国によって「壊された」のだった。

優しい心を壊された彼らは、戦場で悪鬼になった。敵を殺すだけではなく戦場や征服地の住民を殺し蹂躙し貶めた

兵士の本質を語るとムキになって反論する人々がいる。

兵士を美化したり感傷的に捉えたりするのは、日本人に特有の、危険な精神作用だ。

多くの場合それは、日本が先の大戦を「自らで」徹底的に総括しなかったことの悪影響である

兵士を賛美し正当化する人々はネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者である可能性が高い。

そうでないない場合は、先の大戦で兵士として死んだ父や祖父がいる者や、特攻隊員など国のために壮烈な死を遂げた若者を敬愛する者などが主体だ。

つまり言葉を替えれば、兵士の悲壮な側面に気を取られることが多い人々である。その気分は往々にして被害者意識を呼び込む。

兵士も兵士を思う自分も弱者であり犠牲者である。だから批判されるいわれはない。そこで彼らはこう主張する:

兵士は命令で泣く泣く出征していった彼らは普通の優しい父や兄だったウクライナで無辜な市民を殺すロシア兵も国に強制されてそうしている可哀そうな若者だ、云々。

そこには兵士に殺される被害者への思いが完全に欠落している。旧日本軍の兵士を称揚する者が危なっかしいのはそれが理由だ。

兵士の実態を見ずに彼の善良だけに固執する、感傷に満ちた歌が島倉千代子が歌う名曲「東京だョおっ母さん」なのである。

凶暴であることは兵士の義務だ。戦場では相手を殺す残虐な人間でなければ殺される。殺されたら負けだ。従って勝つために全ての兵士は凶暴にならなければならない。だが旧日本軍の兵士は、義務ではなく体質的本能的に凶暴残虐な者が多かったフシがある。彼らは戦場で狂おしく走って鬼になった。「人間として壊れた」彼らは、そのことを総括せずに戦後を生き続け多くが死んでいった。

日本人の中にある極めて優しい穏やかな性格と、それとは正反対の獣性むき出しの荒々しい体質。どちらも日本人の本性である。凶暴、残虐、勇猛等々はツワモノの、つまりサムライの性質。だがサムライは同時に「慎み」も持ち合わせていた。それを履き違えて、「慎み」をきれいさっぱり忘れたのが、無知で残忍な旧日本帝国の百姓兵士だった。

百姓兵の勇猛は、ヤクザの蛮勇や国粋主義者の排他差別思想や極右の野蛮な咆哮などと同根の、いつまでも残る戦争の負の遺産であり、アジア、特に中国韓国北朝鮮の人々が繰り返し糾弾する日本の過去そのものだ。アジアだけではない。日本と戦った欧米の人々の記憶の中にもなまなましく残る歴史事実。それを忘れて日本人が歴史修正主義に向かう時、人々は古くて常に新しいその記憶を刺激されて憤るのである。

百姓兵に欠如していた日本人のもう一つの真実、つまり温厚さは、侍の「慎み」に通ずるものであり、優しい兄さんを育む土壌である。それは世界の普遍的なコンセプトでもある。戦場での残虐非道な兵士が、家庭では優しい兄であり父であることは、どこの国のどんな民族にも当てはまるありふれた図式だ。しかし日本人の場合はその落差が激し過ぎる。「うち」と「そと」の顔があまりにも違い過ぎるのである。

その落差は日本人が日本国内だけに留まっている間は問題ではなかった。凶暴さも温厚さも同じ日本人に向かって表出されるものだったからだ。ところが戦争を通してそこに外国人が入ったときに問題が起こった。土着思想しか持ち合わせない多くの旧帝国軍人は、他民族を「同じ人間と見なす人間性」に欠け、他民族を殺戮することだけに全身全霊を傾ける非人間的な暴徒集団の構成員だった。

そしてもっと重大な問題は、戦後日本がそのことを総括し子供達に過ちを充分に教えてこなかった点だ。かつては兄や父であった彼らの祖父や大叔父たちが、壊れた人間でもあったことを若者達が知らずにいることが重大なのである。なぜなら知らない者たちはまた同じ過ちを犯す可能性が高まるからだ。

日本の豊かさに包まれて、今は「草食系男子」などと呼ばれる優しい若者達の中にも、日本人である限り日本人の獣性が密かに宿っている。時間の流れが変わり、日本が難しい局面に陥った時に、隠されていた獣性が噴出するかもしれない。いや、噴出しようとする日が必ずやって来る。

その時に理性を持って行動するためには、自らの中にある荒々しいものを知っておかなければならない。知っていればそれを抑制することが可能になる。われわれの父や祖父たちが、戦争で犯した過ちや犯罪を次世代の子供達にしっかりと教えることの意味は、まさにそこにある。

真の悪は、言うまでもなく兵士ではない。戦争を始める国家権力である。

先の大戦で多くの若い兵士を壊して、戦場で悪魔に仕立て上げた国家権力の内訳は、先ず昭和天皇であり、軍部でありそれを支える全ての国家機関だった。

兵士の悪の根源は天皇とその周辺に巣食う権力機構だったのである

彼らは、天皇を神と崇める古代精神の虜だった未熟な国民を、情報統制と恐怖政治で化かして縛り上げ、ついには破壊した。

それらの事実敗戦によって白日の下にさらされ、勝者の連合国側は彼らを処罰した。だが天皇は処罰されず多くの戦犯も難を逃れた。

そして最も重大な瑕疵は、日本国家とその主権者である国民が、大戦までの歴史と大戦そのものを、とことんまで総括する作業を怠ったことだ。

それが理由の一つになって、たとえば銃撃されて亡くなった安倍元首相のような歴史修正主義者が跋扈する社会が誕生した。

歴史修正主義者は兵士を礼賛する。兵士をひたすら被害者と見る感傷的な国民も彼らを称える。そこには兵士によって殺戮され蹂躙された被害者がいない。

また彼らは軍国主義日本が近隣諸国や世界に対して振るった暴力を認めず、従ってそのことを謝罪もしない。あるいは口先だけの謝罪をして心中でペロリと舌を出している。

そのことを知っている世界の人々は「謝れ」と日本に迫る。良識ある日本人も、謝らない国や同胞に「謝れ」と怒る

すると謝らない人々、つまり歴史修正主義者や民族主義者、またネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者らが即座に反論する。

曰く、もう何度も謝った。曰く、謝ればまた金を要求される。曰く、反日の自虐史観だ。曰く、当時は誰もが侵略し殺戮した、日本だけが悪いのではない云々。

「謝れ!」「謝らない!」という声だけが強調される喧々諤々の不毛な罵り合いは実は事態の本質を見えなくして結局「謝らない人々」を利している

なぜなら謝罪しないことが問題なのではない。日本がかつて犯した過ちを過ちとして認識できないそれらの人々の悲惨なまでの不識と傲岸が、真の問題なのである。

ところが罵り合いは、あたかも「謝らないこと」そのものが問題の本質であり錯誤の全てでもあるかのような錯覚をもたらしてしまう。

謝らない或いは謝るべきではない、と確信犯的に決めている人間性の皮相が、かつて国を誤った。そして彼らは今また国を誤るかもしれない道を辿ろうとしている。

その懸念を体現するもののひとつが、国民の批判も反論も憂慮も無視し法の支配さえ否定して、安倍元首相を国葬にした岸田政権のあり方だ。

歴史修正主義者だった安倍元首相を国葬にするとは、その汚点をなかったことにしその他多くの彼の罪や疑惑にも蓋をしようとする悪行である。

戦争でさえ美化し、あったことをなかったことにしようとする歴史修正主義者が、否定されても罵倒されても雲霞の如く次々に湧き出すのは、繰り返し何度でも言うが、日本が戦争を徹底総括していないからだ。

総括をして国家権力の間違いや悪を徹底して抉り出せば、日本の過去の過ちへの「真の反省」が生まれ民主主義が確固たるものになる。

そうなれば民主主義を愚弄するかのような安倍元首相の国葬などあり得ず、犠牲者だが同時に加害者でもある兵士を、一方的に称えるような国民の感傷的な物思いや謬見もなくなるだろう。

今のままでは、日本がいつか来た道をたどらないとは決して言えない。

拙速に安倍元首相の国葬を行った政府の存在や兵士を感傷的に捉えたがる国民の多い社会は、78回目の終戦記念日を迎えても依然として平穏な戦後とはほど遠い、と僕の目には映る。



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女子サッカーには未来がある

女子W杯50-PLAYERS650


女子サッカーW杯の準々決勝で、なでしこジャパンが負けてしまった。

そこまでの戦いぶりは、2011年のW杯で優勝した時よりも勢いのある進撃だったので、僕は密かに優勝を確信していた。

だが、やはり世界の壁は薄くはない。

僕が女子サッカーの魅力に気づいたのは― 恐らくたくさんのサッカーファンがそうであるように― 2011年のW杯を通してだった。

決勝戦で日本のエースの澤穂希選手が見せた絶妙のヒールキックに僕は呆気に取られた。

世界トップの男子プロ選手にも匹敵する彼女のテクニックは、僕の目のウロコを30枚ほどはがしてくれた。

だがそれ以後は女子サッカーに僕の関心が向かうことはなかった。2015年、2019年のW杯もほとんど記憶がない。

2015年には日本は準優勝したにも関わらずである。そのあたりに女子サッカーの人気の限界が垣間見えると言えそうだ。

ことしの大会も、快進撃するなでしこジャパンを英BBCが絶賛している報道を偶然目にして、はじめて大会を知り俄然興味を持ったという具合だった。

関心を抱いてからは、ハイライトシーンを主体に試合の模様を追いかけてきた。

そこには目の覚めるようなプレイの数々が提示されている。世界の女子サッカーのレベルは高いと思う。

女子サッカーを評価しない人々は、試合展開が遅い、激しさがない、テクニックが男子に比べて低いなどど口にする。

だが、ハイライトシーンを見る限りでは試合展開はスピーディーで、当たりも激しく、プレイの技術も十分に高いと感じる。

映像がハイライトシーンの連続、という事実を差し引いても見ごたえがあるのである。

女子サッカーは男子のそれとは違うルールにしたほうがいい、という声もある。

動きが遅く体力差もあるので、ピッチを小さくしそれに伴ってゴールも小さくする、というものである。

だが世界のトッププレーヤーが躍動するW杯を見ていけば、その必要はないという結論になる。

例えばゴルフの男子プロと女子プロのルールは全く同じだが、男子と女子では面白さが違う。人気も拮抗している。もしかすると女子プロの人気のほうが高いくらいだ。

女子サッカーも時間が経つに連れて、男子とは違う独自の面白さをもっとさらに発揮して行くと思う。

例えば批判者の言うスピード不足は、むしろほんの一瞬の時間のズレ故にプレイの詳細が鮮明に見える、という利点がある。

当たりの激しさがないという批判に至ってはほとんど言いがかりだ。選手たちは十分に激しく当たる。だが男子のように暴力的にはならない。

女子選手たちは暴力に頼らない分を、巧みなテクニックでカバーしていると見える。むしろ好ましい現象だ。

テクニックが男子に比べて低いというのは、男子とのスピードの違いや、粗暴な体当たりの欠如などが生み出す錯覚に過ぎない。

今この時の世界のトップ選手が活躍する女子W杯の内容は十分に豊かだ。しかも進化、向上していくであろう糊しろが非常に大きいと感じる。

今後プレー環境が改善されて競技人口のすそ野が広がれば、女子サッカーのレベルがさらに飛躍的に高まり、人気度も男子に拮抗するようになるかもしれない。

例えば女子ゴルフのように。

あるいは女子バレーボール並みに。

その他多くのスポーツ同様に。









知識ではなく情感を豊かにする作業が読書である

Tintom窓絵650

読書とは役に立たない本を読むことだ。経済本や金融本、各種のノウハウ、ハウツーもの、またうんちく、知見、学術、解説等々の本を読むのは読書ではない。それは単なる情報収集作業である。

実用が目的のそれらの本に詰まっている情報はむろん大切なものだ。すぐに役に立つそれらの消息は人の知識を豊富にしてくれる。大いなる学びともなる。

だがそれらの情報は、思索よりも情報自体の量とそれを収集する速さが重視される類の、心得や見識や聞き覚えであって、人間性を深める英知や教養ではない。

要するに読書とは、すぐには役に立たないが人の情感を揺さぶり、心や精神を豊かにし深化させてくれる小説、詩歌、随筆、エッセイ、ドキュメント等々に触れること。特に人間を描く小説が重要だ。

人は一つの人生しか生きられない。その一つの人生は、他者との関わり方によって豊かにもなれば貧しくもなる。そして他者と関わるとは、他者の人生を知るということである。

全ての他者にはそれぞれの人生がある。だがわれわれ一人ひとりは決して他者の人生を生きることはできない。つまり人が他者の人生を実地に知ることは不可能なのだ。

その一方で小説には、無数の他者の人生が描かれている。小説は他者の人生をわれわれに提示し疑似体験をさせてくれる。小説家が描く他者のその人生は、実は本物と同じである。

なぜなら永遠に他者の人生を生きることができないわれわれにとっては、他者の実際の人生は想像上でしか存在し得ない。つまり疑似人生。小説家が描く世界と同じなのである。

そこだけに留まらない。

優れた小説家が想像力と知識と人間観察力を縦横に駆使して創り上げた他者の疑似人生は、それを体験する者、つまり読者の心を揺り動かす。

読者が心を打たれるのはストーリーが真に迫っているからだ。そこに至って他者の擬似人生は、もはや疑似ではなくなり真実へと昇華する。

読書をすればするほど疑似体験は増え、真実も積み重なる。

人はそうやってより多くの他者の人生を知り、学ぶことで、依って自らの人生も学ぶ。そこに魂の豊穣また情緒の深化が醸成される。それが読書の冥利である。





アンチNHKまでは行かないが、辛いねNHK

parabola奥に雪山



1990年に放送を開始したNHK傘下のJSTV(ロンドン拠点)の必要性は、ネットをはじめとする各種媒体が隆盛する2023年の今は増々高まっている。決してその逆ではない。

時代の流れに逆行して日本語放送を停止するNHKの真意はどこにあるのだろう。NHKは世界から目を逸らしてドメスティックな思考に溺れているとしか思えない。

JSTVは欧州からアフリカを経て中近東までを包含し、ロシアを含む中央アジア全域に住まいまた滞在する日本人と、日本語を学ぶ外国人及び日本に興味を持つあらゆる人々の拠り所にもなっている媒体だ。

NHKJSTVを存続させて、ネットという便利だが危険性も高い媒体に対抗し、補正し、あるいは共生しつつ公に奉仕するべきではないか。後退ではなく前進するのが筋道と考える。

33年も続いたビジネスモデルを今になって突然捨てるとは、当初の成功がネットに押されて立ち行かなくなった、ということだろう。

NHKはネットに対抗する変革とビジネス努力をしっかりと行ってきたのだろうか。

ビジネスだからいくら努力をしてもうまくいかなかったということもあるだろう。それでも、あるいはだからこそ「公共放送」を自認するNHKは、傘下にあるJSTVを存続させる努力をするべきだ。

なぜなら ― 繰り返しになるが ― 33年前に必要とされた欧州・アフリカ・中東・ロシア&中央アジアをカバーする日本語放送は、2023年の今はもっとさらに必要とされているからだ。

ニーズは断じて減ってはいない。

時勢に逆行する施策にこだわるNHKは内向きになっている。昨今は日本中が内向きになりがちだ。従って世相から隔絶して存在することはできないメディアの、その一部であるNHKがトレンドに巻き込まれるのは分からないでもない。

だが同時に、NHKは日本のメディアを引っ張る最重要な機関でもある。内向きになり、心を閉ざし、排外差別的になりがちな風潮を矯正する力でもあるべきだ。

世界は日本ブームである。その大半は日本の漫画&アニメの力で引き起こされた。

世界中の多くの若者が日本の漫画&アニメを介して日本文化に興味を持ち、日本語を習い、日本を実際に訪ねたりしてさらに日本のファンになってくれている。

それらの若者がそれぞれの国で頼りにし、親しみ、勉強にも利用する媒体のひとつが日本語放送のJSTVだ。

日本の文化を愛し、日本語を話す外国人は、日本にとって極めて重要な人的リソースになる。

彼らは平時には日本の文化を世界に拡散する役割を担い、日本が窮地に陥る際には日本の味方となって動いてくれる可能性が高い。

ある言語を習得した者は、その言語の母国を憎めなくなる。ほとんどの場合はその言語の母国を愛し親しむ。日本語を習う外国人が、習得が進む毎にさらに日本好きになって行くのはそれが理由だ。

テレビに頼らなくてもむろん今の時代は情報収集には困らない。ネットにも情報があふれているからだ。

だがそこには残念ながら、欺瞞や曲解や嘘や偏見、また思い込みや極論に基づくフェイク情報なども多いのが現実だ。

そういう状況だからこそNHKは、踏ん張ってJSTVの放送を続けるべきだ。フェイクニュースやデマも多いインターネットに対抗できるのは、一次情報を豊富に有するNHKのような媒体だ。

膨大な一次情報を持つNHKの信条は、不偏不党と公平中立、また客観性の重視などに集約される。

個人的には僕は不偏不党の報道の存在には懐疑的だが、NHKがそこを「目指す」ことには大いに賛同する。

NHKの傘下にあるJSTVの哲学も、本体のNHKと同じである。特に報道番組の場合はNHKのそれが日本との同時放送で流れるから変りようもない。

その意味でもNHKJSTVの存続に力を注ぐのは、むしろ義務と言っても過言ではないと思う。

NHKが自ら報告する年次予算の決済はほぼ常に黒字だ。それを例年内部留保に回しているが、そのほんの一部を使ってJSTVを立て直すことも可能と見えるのにその努力をしない。

そうしない理由は明白だ。日本の政治と多くの企業がそうであるように、NHKも内向き志向の保守・民族主義勢力に支配されているからだ。

NHKにはむろん進歩的な国際派の職員もいる。だが彼らは多くの場合「平家・海軍・国際派」の箴言を地で行く存在だ。強い権力は持たない。

もしも彼ら、特に国際派の人々が権力の中枢にいるなら、NHKJSTVを見捨てないことの重要性を理解してその方向に動く筈だが、折悪しく状況は絶望的だ。



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