文学とは、文字を介して学ぶ芸術性の低い芸術である。
なぜ芸術性が低いのかと言うと、文学は文学を理解するために何よりも先ず文字という面倒なツールを学ばなければならない、迂遠でたるい仕組みだからだ。
片や絵画や音楽や彫刻や工芸その他の芸術は、見たり聞いたり触れたりするだけで芸術の真髄にたどり着ける。文字などという煩わしい道具はいらない。
文学以外の芸術(以下:鑑賞するのに何の装置も要らないという意味で純粋芸術と呼ぶ)は、それらを創作できること自体がすでに特殊能力である。
誰もが実践できるものではないのが純粋芸術だ。
一方で文章は、子供から大人まで誰でも書くことができる。文字を知らない者は日本ではほぼゼロだ。世界の趨勢もその方向に進んでいる。
おびただしい数の人々が多くの文章を書く。それはSNSへの投稿であり手紙であり日記であり葉書であり解答であり、はたまた課題であり企画であり回答でありメモなどである。
SNSでは、小説でさえ意識されることなく書かれている場合がある。そのつもりのない文章が面白い小説になっていたりするのだ。
膨大な数の文章は全て、文字を介してやり取りされ表現され読み込まれる知識、即ち文学だ。
あらゆる芸術は、そこに参画する人の数が多いほど、つまり裾野が広いほど質が向上する。参加者の切磋琢磨と競合がそれを可能にするのだ。
文学という芸術分野は裾野が巨大である分、そこから輩出する才能も大きく且つその数も多大である可能性が高い。
文学は、文字を知って初めて理解できるという点で回りくどい仕掛けだが、その分感動は深いとも言える。
誰でも実践できる「作文」と同じ手法で作品が成り立っているために、その中身が人々の人生の機微に重なりやすいからだ。
真の恐怖や怒りや悲哀や憎しみや歓喜などの「感情の嵐」の前では、人は言葉を失う。激情は言葉を拒否する。
強い感情の真っ只中にある者は、ただ叫び、吼え、泣き、歯ぎしりし、歓喜の雄たけびを上げ、感無量に雀躍するだけだ。
ところが人は、言葉にできないほどの激甚な感情の津波が去ると、それを言葉に表して他者に伝えようと行動しはじめる。
言葉にならない感情を言葉で伝える、という矛盾をものともせずに呻吟し、努力し、自身を鼓舞してついには表現を獲得する。
自らを他者に分からせたいという、人の根源的な渇望が万難を排して言葉を生み、選び、組み立てるのである。
絵画や音楽を始めとする純粋芸術の全ても、実は究極には言葉によってのみその本質が明らかにされる。
絵画や音楽に感動する者は、苛烈な感情に見舞われている人と同じで言葉を発しない。新鮮な感動に身を委ねているだけである。
感動が落ち着き、さてあの魂の震えの中身は何だっただろうか、と自らを振り返るとき、初めて言葉が必要になる。自身を納得させるにも、感銘の中身を他者に伝えるにも言葉がなくてはならない。
感動も、思考も、数式でさえも全て言葉である。あるいは言葉にすることによってのみその実体が明らかになるコンセプトだ。
文学そのものは言うまでもなく、これまで論じてきた「言葉ではない」あらゆる芸術も、全て言葉によってその意味が形作られ、理解され、伝達される。
言葉を介してしか存在し得ない文学は、たるい低級な芸術だが、文学以外の全ての芸術を包括する究極の芸術でもある、という多面的な装置だ。
文学は文字によって形成される。そして文字は誰でも知っている。文学は誰もが「文章を書くという創作」にひたることができる芸術である。
文学の実践には―創作するにしろ鑑賞するにせよ―絵心や音感やセンスという特殊能力はいらない。誰もが自在に書き、読むことができる。
書く行為には上手い下手はない。優劣のように見える形態はただの違いに過ぎない。そして違いとは、個性的ということにほかならない。
文字を知る者は誰もが創作でき、且つ誰もが他者の書いた文章、つまり作品を鑑賞することができる。作者と読者の間には、才能という不可思議な要素が作る壁がない。
文学の奥部はその意味では、絵画や音楽とは比べ物にならないほどに広く、めまいを誘うほどに深い。