【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2024年03月

ことしも復活祭のあやしい楽しみを楽しむとしよう

Agrgnt羽天使&うなだれヒキ800

FBに投稿をしたいが不具合が続いている。だがリンクはなぜが機能しているので、ここに書き貼付することにした。

今日は移動祝日の復活祭。英語のイースター。イタリア語ではパスクア。イエス・キリストが死後3日目に復活したことを祝う祭である。

キリスト教の祭典としては、非キリスト教国を含む世界中で祝される祭礼、という意味でクリスマスが最大のものだろう。だが、宗教的には復活祭が最も重要な行事だ。

クリスマスはイエス・キリストの生誕(誕生日ではない)を寿ぐ祭り。誕生は万人に訪れる奇跡だが、死からよみがえる大奇跡は神の子イエス・キリストにしか起こりえない。

宗教的にどちらが重要であるかは火を見るよりも明らかである。

復活祭では各家庭の食卓に多くの伝統料理が並ぶ。主役は「再生」を意味する卵と、「犠牲」を象徴する子羊である。子羊は子ヤギにも置き換えられる。

イエス・キリストは人類の罪をあがなうため磔(はりつけ)にされた。子羊はそのことを表わしている。

子羊また子ヤギ料理は近年、動物虐待だとしてアニマリストからの攻撃を受けることが多くなっている。彼らの気持ちは分かるが、子羊や子ヤギだけを憐れむ主張には違和感を覚える。

世界中で食肉処理されるおびただしい数の他の家畜はどうでもいいというのだろうか?

見た目が可愛いからというのが理由なら何をか言わんやだ。 子牛や子豚や若鶏もみな可愛い生き物だ。

世界中で人は、それらの肉もおおいに食らう。

人間が生きるとは「殺すこと」だ。人は人間以外の多くの生物を殺して食べている。

肉や魚を食べない菜食主義者でさえ、植物という生物を殺して食べて生命を保っている。

われわれ人間は、自らの体内で生きる糧を生み出す植物とは違い、他の生物を殺して食べることでしか生命を維持できない。

だから僕は子ヤやギ子羊を食べることを悪とは考えない。強いて言うならばそれは殺すことしかできない人間の「業」だ。

子ヤギを食らうのも野菜サラダを食べるのも同じ「業」なのである。

大切なことはその真実を真っ向から見据えることだ。

子羊や子ヤギを始めとする小動物を慈しむ心と、それを食肉処理して食らう性癖の間には何らの矛盾もない。

それを食らうも人間の正直であり、食わないと決意するのもまた人間の正直である。




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復活祭なのに復活しないFacebookは、ダメだ、こりゃ

Canpione800

さてまた復活祭である。

楽しみはいつものように子ヤギまたは子羊料理。

ことしはレストランではなく招待先で味わう。

動物愛護家の皆さんの嘆きにもかかわらず、一年に一度の子ヤギ料理を楽しむイタリア人は多い。僕も彼らにならう。

僕は犬猫をはじめとする動物が大好きだ。鉄砲も撃つが狩猟は一切しないし興味もない。

でも復活祭の子ヤギ料理には舌鼓をうつ。

人が生きるとは殺すことだ。人間は動物や植物を殺して食べて、おかげで生きている。

そのことをしっかりとかみしめつつおいしくいただこうと思う。

Facebookの不具合は続いている。

復活祭にも復活しないFacebookとダジャレを言いつつ、こんなふうならどこかのSNSに乗り換えようかと考え始めている。



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Facebookの窓口ってホントに存在するのだろうか?

館前庭縦800

Facebookに写真と記事を投稿すると写真だけが表示される不具合はまだ続いている。

Facebookに対応を促すメッセージを送ったのだが、一向に改善しない。

Facebookの窓口ってホントに存在するのだろうか?


ここにリンクすると写真と共にタイトルが表示されるので、投稿し、どなたかの救援を待つことにした。



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怪物ではないのに怪物的に強い尊富士は本物かも

尊富士vs大の里

2024年の大相撲春場所では、新入幕の尊富士が13勝2敗で優勝した。新入幕力士の優勝は110年振りのこと。

むろんすごい記録だが、それよりももっとすごいのは、大横綱の大鵬と同じ数字になった初日からの11連勝ではないか。

近年の日本出身の力士の中では将来が最も楽しみな存在だ。

今後大関、横綱へと出世して、且つ大横綱と呼ばれるような存在になるのではないか。

怪物と形容される力士ではないことが期待を高める。

図体のデカい怪物力士は、初めの頃こそ強く、異様に大きな体と合わせて怪物と呼ばれるが、大成しない場合がほとんどだ。

最近では逸ノ城や北青鵬がいる。

北青鵬は不祥事で引退した(させられた)が、棒立ちのまま体の巨大さだけで相手を無理やりねじ伏せる取り口は、研究されてほぼ行き詰まっていた。

たとえ相撲を続けても、その体並みに大きくなることはなかっただろう。

そういう意味では、このところ怪物と呼ばれることが多い大の里は、いまこの時は魅力的に映るが、将来はしぼむ可能性も高いように思う。

熱海富士も若く大きく、怪物系の力士だ。昨年は大活躍したがことしに入って影が薄い。どうもこのままずるずると低迷しそうな雰囲気も感じられる。

そうして見ると、「普通の体格」ながら「怪物的に」強い尊富士の本物ぶりが、ますます際立って見えるのである。




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コロナ犠牲者追悼記念日

湖壁レモン800

イタリア政府は先日、毎年3月18日をコロナ(犠牲者)追悼記念日と定めた。

2020年3月18日、おびただしい数の新型コロナの死者の棺を積んだ軍トラックが、隊列を組んで進む劇的な映像が世界を駆けめぐった。コロナ禍に苦しむイタリアを象徴する凄惨なシーンだった。

当時世界最悪とも言われたコロナ禍中のイタリアは、全土ロックダウンを導入し最終的には20万人近い犠牲者を出した。

イタリアはその頃、どこからの援助もない絶望的な状況の中で、誰を怨むこともなく且つ必死に悪魔のウイルスと格闘していた。

コロナ地獄が最も酷かったころには、医師不足を補うために300人の退職医師のボランティアをつのったところ、25倍以上にもなる8000人が、24時間以内に名乗りを挙げた。

周知のように新型コロナは高齢者を主に攻撃して殺害した。加えて当時のイタリアの医療の現場は酸鼻を極めていた。

患者が病院中にあふれかえり、医師とスタッフを守る医療器具はもちろんマスクや手袋さえ不足した。患者と競うように医療従事者がバタバタと斃れた。

8000人もの老医師はそれらを十分に承知のうえで、安穏な年金生活を捨て死の恐怖が渦巻くコロナ戦争の最前線へ行く、と果敢に立ち上がった。

退役医師のエピソードはほんの一例に過ぎなかった。

厳しく苦しいロックダウン生活の中で、多くのイタリア国民が救命隊員や救難・救護ボランティアを引き受け、困窮家庭への物資配達や救援また介護などでも活躍した。

イタリア最大の産業はボランティアである。

イタリア国民はボランティア活動に熱心だ。猫も杓子もせっせと社会奉仕活動にいそしむ。彼ら善男善女の無償行為を賃金に換算すれば、莫大な額になる。まさにイタリア最大の産業。

そのボランティア精神が、コロナ恐慌の中でも自在に発揮された。8000人もの老医師が、険しいコロナ戦線に向かう、と決死の覚悟をする心のあり方も、根っこは同じだ。

コロナ禍中のイタリア国民は誰もが苦しみ、疲れ果て、倒れ、それでも立ち上がってまたウイルスと闘う、ということを繰り返した。

パンデミックと向き合う彼らのストイックな奮闘は僕を深く感動させた。

逆境の中で毅然としているイタリア国民の強さと、犠牲を厭わない気高い精神の秘密は、国民の9割近くが信者ともいわれるカトリックの教義の中にある。

カトリック教は博愛と寛容と忍耐と勇気を説き、慈善活動を奨励し、他人を思い利他主義に徹しなさいと諭す。だが人は往々にしてそれらの精神とは真逆の行動に走る。

だからこそ教義はそれを戒める。戒めて逆の動きを鼓舞する。鼓舞されてその行動をし続けるうちに、そちらのほうが人の真実になっていく。





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コロナ犠牲者追悼記念日

棺運ぶ郡トラック切り取り656

イタリア政府は、毎年3月18日をコロナ(犠牲者)追悼記念日と定めた。

2020年3月18日、おびただしい数の新型コロナの死者の棺を積んだ軍トラックが、隊列を組んで進む劇的な映像が世界を駆けめぐった。コロナ禍に苦しむイタリアを象徴する凄惨なシーンだった。

当時世界最悪とも言われたコロナ禍中のイタリアは、全土ロックダウンを導入し最終的には20万人近い犠牲者を出した。

コロナパンデミックはイタリア人に対する僕の認識を大きく変えた。

僕はイタリアが好きでこの国に移り住んだが、コロナ禍を介して自身のイタリアへの好情は、いわば愛に変わったと考えている。

イタリアはその頃、どこからの援助もない絶望的な状況の中で、誰を怨むこともなく且つ必死に悪魔のウイルスと格闘していた。

コロナ地獄が最も酷かったころには、医師不足を補うために300人の退職医師のボランティアをつのったところ、25倍以上にもなる8000人が、24時間以内に名乗りを挙げた。

周知のように新型コロナは高齢者を主に攻撃して殺害した。加えて当時のイタリアの医療の現場は酸鼻を極めていた。

患者が病院中にあふれかえり、医師とスタッフを守る医療器具はもちろんマスクや手袋さえ不足した。患者と競うように医療従事者がバタバタと斃れた。

8000人もの老医師はそれらを十分に承知のうえで、安穏な年金生活を捨て死の恐怖が渦巻くコロナ戦争の最前線へ行く、と果敢に立ち上がった。

退役医師のエピソードはほんの一例に過ぎなかった。

長い厳しいロックダウン生活の中で、多くのイタリア国民が救命隊員や救難・救護ボランティアを引き受け、困窮家庭への物資配達や救援また介護などでも活躍した。

イタリア最大の産業はボランティアである。

イタリア国民はボランティア活動に熱心だ。猫も杓子もせっせと社会奉仕活動にいそしむ。彼ら善男善女の無償行為を賃金に換算すれば、莫大な額になる。まさにイタリア最大の産業だ。

そのボランティア精神が、コロナ恐慌の中でも自在に発揮された。8000人もの老医師が、険しいコロナ戦線に向かう、と決死の覚悟をする心のあり方も、根っこは同じだった。

コロナ禍中のイタリア国民は誰もが苦しみ、疲れ果て、倒れ、それでも立ち上がってまたウイルスと闘う、ということを繰り返した。

パンデミックと向き合う彼らのストイックな奮闘は僕を深く感動させた。

逆境の中で毅然としているイタリア国民の強さと、犠牲を厭わない気高い精神はいったいどこから来るのか、と僕はいぶかった。答えはすぐに見つかった。

国民の9割近くが信者ともいわれるカトリックの教義にその秘密がある。

カトリック教は博愛と寛容と忍耐と勇気を説き、慈善活動を奨励し、他人を思い利他主義に徹しなさいと諭す。だが人は往々にしてそれらの精神とは真逆の行動に走る。

だからこそ教義はそれを戒める。戒めて逆の動きを鼓舞する。鼓舞されてその行動をし続けるうちに、そちらのほうが人の真実になっていく。

いい加減で、時には嘘つきにさえ見えて、いかにも怠け者然としたゆるやかな生活が大好きな多くのイタリア国民は、まさにその通りでありながら、同時に寛容で忍耐強く底知れない胆力を内に秘めていた。

彼らの芯の強さと、恐れを知らないようにさえ見える腹の据わった態度に接して、僕はこの国に居を定めて以来はじめて、許されるならイタリア人になってもいい、と思ったりした。

周知のように日本人が他国籍を取得したいなら、日本国籍を捨てなければならない。僕は今のところは自国籍を放棄する気は毛頭ない。だから実現することはない。

だが、イタリア人になってもいいと信ずるほどに、イタリア国民をあらためて心底から尊敬するようになったのである。


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多様性信者を装うはねっ返りの痴態  

Jorit&Putin署名なし

イタリアの有名なストリートアーティスト・ジョリット(Jorit)が、ロシアのソフィで開かれた青少年フォーラム中にプーチン大統領と一緒に撮った写真が物議をかもしている。

ジョリットはフォーラム会場で突然立ち上がり、壇上にいるプーチン大統領に「あなたがわれわれと何も変わらない人間であることをイタリア人に知らせたい。なので一緒に写真を撮らせてほしい」と語りかけた。

プーチン大統領は気軽に要求に応じ、ジョリットの肩を抱いて嬉々としてカメラに収まった。

写真そのものも、明らかにプーチン大統領に媚びている発言も人々の肝をつぶした。イタリア中に大きな反響が起こった。そのほとんどがジョリットへの怒りの表明だった。

多くの人が、「プーチンのプロパガンダに乗った愚か者」「プーチンの宣伝傭兵」「金に転んでプーチンの役に立つことばかりをするバカ」などとジョリットを激しく指弾した。

イタリアは多様性に富む国だ。カトリックの教義に始まる強い保守性に縛られながらも、さまざまの考えや生き方や行動が認められ千姿万態が躍動する。

それは独立自尊の気風が強烈だったかつての都市国家の名残だ。外から見ると混乱に見えるイタリアの殷賑は、多様性のダイナミズムがもたらすイタリアの至宝なのである。

言うまでもなくそこには過激な思想も行動もパフォーマンスも多く見られる。ジョリットのアクションもそうした風潮のひとつだ。

多様性を信じる者はジョリットの行動も認めなければならない。彼の言動を多様性の一つと明確に認知した上で、自らの思想と情動と言葉によって、さらに鮮明に否定すればいい。

イタリアにはジョリットの仲間、つまりプーチン支持者やプーチン愛好家も多い。先日死亡したベルルスコーニ元首相がそうだし、イタリア副首相兼インフラ大臣のサルヴィ・ビーニ同盟党首などもそうだ。

隠れプーチン支持者を加えれば、イタリアには同盟ほかの政党支持者と同数程度のプーチンサポーターがいると見るべきだ。

プーチン大統領は、ジョリットの笑止なパフォーマンスを待つまでもなく人間である。だがまともな人間ではなく悪魔的な人間だ。

彼と同類の人間にはヒトラーがいる。だがヒトラーはヒトラーを知らなかった。ヒトラーはまだ歴史ではなかったからだ。

一方でプーチン大統領はヒトラーを知っている。それでも彼はヒトラーをも髣髴とさせる悪事を平然とやってのけてきた。

ヒトラーという歴史を知りつつそれを踏襲するとも見える悪事を働く彼は、ヒトラー以上に危険な存在という見方さえできる。

ヒトラーの譬えが誇大妄想的に聞こえるなら、もう一つの大きな命題持ち出そう。

欧州は紛争を軍事力で解決するのが当たり前の、野蛮で長い血みどろの歴史を持っている。そして血で血を洗う凄惨な時間の終わりに起きた、第1次、第2次大戦という巨大な殺戮合戦を経て、ようやく「対話&外交」重視の政治体制を確立した。

それは欧州が真に民主主義と自由主義を獲得し、「欧州の良心」に目覚める過程でもあった。

僕が規定する「欧州の良心」とは、欧州の過去の傲慢や偽善や悪行を認め、凝視し、反省してより良き道へ進もうとする“まともな”人々の心のことである。

その心は言論の自由に始まるあらゆる自由と民主主義を標榜し、人権を守り、法の下の平等を追求し、多様性や博愛を尊重する制度を生んだ。

良心に目覚めた欧州は、武器は捨てないものの“政治的妥協主義”の真髄に近づいて、武器を抑止力として利用することができるようになった。できるようになったと信じた。

欧州あるいは西側世界はかつて、プーチン大統領の狡猾と攻撃性を警戒しながらも、彼の開明と知略を認め、あまつさえ信用さえした。

言葉を替えれば西側世界は、性善説に基づいてプーチン大統領を判断し規定し続けた。

彼は西側の自由主義とは相容れない独裁者だが、西側の民主主義を理解し尊重する男だ、とも見なされたのだ。

しかし、西側のいわば希望的観測に基づくプーチン観はしばしば裏切られた。

その大きなものの一つが、2014年のロシアによるクリミア併合だ。それを機会にロシアを加えてG8に拡大していたG7は、ロシアを排除して、元の形に戻った。

それでもG7が主導する自由主義世界は、プーチン大統領への「好意的な見方」を完全には捨て切れなかった。

彼の行為を非難しながらも強い制裁や断絶を控えて、結局クリミア併合を「黙認」した。そうやって西側世界はプーチン大統領に蜜の味を味わわせてしまった。

西側はクリミア以後も、プーチン大統領への強い不信感は抱いたまま、性懲りもなく彼の知性や寛容を期待し続け、何よりも彼の「常識」を信じて疑わなかった。

「常識」の最たるものは、「欧州に於いては最早ある一国が他の主権国家を侵略するような未開性はあり得ない」ということだった。

プーチン・ロシアも血で血を洗う過去の悲惨な覇権主義とは決別していて、専制主義国家ながら自由と民主主義を旗印にする欧州の基本原則を理解し、たとえ脅しや嘘や化かしは用いても、“殺し合い”は避けるはずだ、と思い込んだ。

ところがどっこい、ロシアは202224日、主権国家のウクライナへの侵略を開始。ロシアはプーチン大統領という魔物に完全支配された、未開国であることが明らかになった。

プーチン大統領の悪の核心は、彼が歴史を逆回転させて大義の全くない侵略戦争を始め、ウクライナ国民を虐殺し続けていることに尽きる。

日本ではロシアにも一理がある、NATOの脅威がプーチンをウクライナ侵攻に駆り立てた、ウクライナは元々ロシアだった、などなどのこじつけや欺瞞に満ちた風説がまかり通っている。

東大の入学式では以前、名のあるドキュメンタリー制作者がロシアの肩を持つ演説をしたり、ロシアを悪魔視する風潮に疑問を呈する、という論考が新聞に堂々と掲載されたりした。

それらは日本の恥辱と呼んでもいいほどの低劣な、信じがたい言説だ。

そうしたトンデモ意見は、愚蒙な論者が偽善と欺瞞がてんこ盛りになった自らの考えを、“客観的”な立ち位置からの見方、と思い込んで吠え立てているだけのつまらない代物である。

それらと同程度の愚劣な大道芸が、イタリアのストリートアーチスト・ジョリットがやらかしたプーチン礼賛パフォーマンスなのである。




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名優アラン・ドロンの夢幻泡影

若老ドロン合成650

ランス映画の大スターアラン・ドロンが、自宅に隠し持っていた拳銃とライフルあわせて72丁と銃弾3000発余りを警察に押収された。

彼は無許可で大量の銃器を所有していたのだ。自宅には射撃場も密かに設置されていた。

ここイタリアを含む欧州には銃の愛好家が多い。アラン・ドロンはそのうちの一人に過ぎない。

公の射撃場も掃いて捨てるほどある。プライベートなものはさすがにあまり聞かないが、人里離れた広大な敷地の屋敷内ならあってもおかしくない。

スター俳優の住まいはまさしくそういう場所のようだ。

少しだけ不審に思ったのは、彼がなぜ銃所有許可を取らなかったのかという点だ。

大スターだから許可がなくても許されると考えたのなら、ただのたわけだろう。88歳の今日まで許可申請をしなかったのだからその可能性が高い。

若いころのアラン・ドロンは、のけぞるほどの美男子というだけのダイコン役者だったが、年を取るにつれて渋い名優へと変貌した。知性的でさえあった

それだけによけいに、銃所有許可証を持たないことが不思議に見える。

馬鹿げたニュースだが、僕は個人的に興味を覚えた。僕自身が最近銃に関わっているからだ。

20数年前、僕は自分の中にある拳銃への強い恐怖心を偶然発見した。

銃に無知というのが僕の恐怖心の原因だった。僕はその恐怖心を克服する決心をして、先ず猟銃の扱いを覚えた。

猟銃を扱えるようになると、拳銃への挑戦を開始した。

公の射撃場で武器を借りインストラクターの指導で銃撃を習う。その場合は的を射ることよりも、銃をいかに安全且つ冷静に扱うかが主目的になる。

まだ完全には習熟していないが、拳銃への僕の恐怖心はほぼなくなって、かなり冷静に銃器を扱うことができるようになっている。

するとスポーツとしての銃撃の面白さが見えてきた。今後はさらに訓練を重ねた上で、拳銃の取得も考えている。

大スターとは違って僕は銃保持の許可証はとうに取得している。

恐怖の克服が進み、次いでなぜ銃撃がスポーツであり得るかが分かりかけた時、僕はそれまでとは違う2つの目的も意識するようになった

ひとつは、自衛のための武器保持

僕は少し特殊な家に住んでいる。家の内実を知らない賊が、金目の物が詰まっていると誤解しかねない、落ちぶれ貴族の巨大なあばら家である。

イタリアにゴマンとあるそれらの家の住人はほぼ常に貧しい、ということを知らない阿呆な賊でも、賊は賊だ。彼らは大半が殺人者でもある。

僕は臆病な男だが、不運にもそういう手合いに遭遇した場合は、家族を守るために躊躇なく反撃をするであろうタイプの人間でもある。銃はそのとき大いに役立つに違いない。

ふたつ目はほとんど形而上学的な理由だ。

つまり将来僕が老いさらばえた状況で、死の自己決定権が法的にまた状況的に不可能に見えたとき、銃によって自ら生を終わらせる可能性。

むろんそれは夢物語にも似たコンセプトだ。だから形而上学的と言ってみた。

万にひとつも実現する可能性はないと思う。だが、想像を巡らすことはいくらでもできるのである。

閑話休題

冒頭で触れたようにヨーロッパには銃器の収集家がたくさんいる。

何人かは僕の周りにもいるし、古い邸宅に年代物の銃器を多く収蔵している家族もいくつか知っている。

ほとんどの古い銃は今も使用可能状態に保たれ且つ厳しく管理されている。それはどこでもどんな銃でも同じだ。

アラン・ドロンの銃のコレクションは、銃器を身近に感じることが少なくない欧米の文化に照らして見るべきである。

意匠が美しく怖いほど機能的で危険な銃器は人を惹きつける。

アラン・ドロンが、自身が演じた映画の小道具などを通して銃に惹かれていく過程が目に見えるようだ。

不法所持はむろんNGだが、彼には犯罪を犯しているという意識はなかったに違いない。

殺生をしないアラン・ドロンの銃は、欧州伝統の銃文化の枠内にあるいわば美術品のようなもの。

返す返すもそれらの所有申請を怠った大スターの膚浅が悔やまれる。





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文学あそびⅡ

則顔鼻毛イラスト650

もう少し文学にこだわる。

文学論争は数学や物理学とは違って、数式で割り切ったり論理的に答えを導き出せる分野ではない。「文学」自体の規定や概念さえ曖昧だ。それらを探る過程が即ち文学、とも言える。

曖昧な文学を語る文学論は「何でも可」である。従って論者それぞれの思考や主張や哲学は全てパイオニアとも言える。そこには白黒が歴然としている理系の平明はない。人間を語るからだ。だから結論が出ない。

文学とは要するに「文字の遊び「と考えれば、文字のあるとことろには悉く文学がある、ということもできる。

僕はここではそのコンセプトでSNSを捉えようとしている。

自分は文学を紙媒体によって学んできた古い世代の人間である。ところがSNSに接し、自らも投稿するようになり、さらに多くのSNS上の「文字」に出会ううちに、SNSには文学が充満していると気づいた。

その文学は、例えば僕が卒業論文に選んだ三島由紀夫や再三再四読み返している司馬遼太郎や藤沢周平や山本周五郎、また今このとき胸が騒ぐ桐野夏生や宮本輝、あるいは過去のバルザック、安部公房、ソルジェニーツィン、スタンダール、太宰治、フォーサイスetc,etcの僕が読み耽ってきた多くの「役に立たない本」に詰まっている文学とは毛並みが違う。

だが、巧まざるユーモアや介護の重圧や自分探しの旅や草花を愛でる言葉やペット愛や野菜つくりの悲喜こもごもやといった、尽きない話題が溢れ返るSNS劇場にはまさしく文学がある。

それらの文学は、短いものほど面白い。僕はツイッター(意味不明なマスク氏のXとはまだ呼べずにいる)をあまり利用しないが、 ツイッターがこの先、情報交換ツールから「文学遊び」ツールへと変化した場合は、特に日本で大発展するのでないかと思う。

なぜなら日本には短歌や俳句という偉大な短文文学の伝統があるからだ。もしかするともうそうなっているのかもしれないが、既述のように僕は ツイッターに登録はしているものの、ほとんど利用していない。

本が筆頭の紙媒体、ブログ、Facebook、テレビ、インターネット全般、とただでも忙しい日常にツイッターの慌しさを加える気が起きない。なのでツイッターの今この時の実態を知らない。

ブログもFacebookも短い文章ほど面白い。その点僕は冗漫な文章書きなので、長い文章を短くしようと日々悩んでいる。



文学論っぽい話は:

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52255786.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52255786.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52185388.html

等を参照していただきたい。




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