前記事で世界3大料理に言及したついでに、ここ20~30年来考えていることを書いておくことにした。
皇室では明治時代から今に至るまで外国からの賓客にはフランス料理を提供する。この奇怪でグロテスクな慣習はやめるべきだ。
かつて日本が世界の後進国だったころ、自身のあらゆるものに誇りが持てず、皇室でのもてなしの料理もあろうことか英王室を真似てフランス料理を採用した。
日本人は当時、自国料理は世界からみたら異質で且つフランス料理などに比べると貧弱だから、外国からの客人には提供できない。
調理法も味も変だ。箸で食べる習慣もナイフとフォークの作法に比べて難しい。食べ方も卑しい、などなど、当時としては仕方のないこととはいえあまりにも卑屈な心理が働いた。
時は過ぎ、人も過ぎ、世の中は変わる。日本は経済発展を遂げ第2次大戦などの失敗も経て生まれ変わった。結果、日本食も本来の姿が直視されるようになった。
いま流行りのネトウヨヘイト系白痴族の「日本ってすごい」合唱は愚劣だが、日本料理はすごい、という世界の評判は強い根拠に基づいている。
かつて日本人自身が見下した日本料理の特異性は誇るべきものだ。なぜなら料理は文化だ。そして文化の命はそれぞれの文化の特殊性の中にこそある。
文化の違いは優劣ではない。違いはそれぞれの文化が唯一独自のものであり、それぞれ対等であり、それぞれが誇るべきもの、という意味だ。
日本料理はむろんフランス料理に劣らない。文化だから対等なのだ。
そうではあるものの、だが僕は、自身の独断と偏見で考える日本料理は、フランス料理に比べて味もコンセプトも見た目も何もかも勝る、と思う。
またイギリス王室が、フランス料理を公式の晩餐会に採用したのは仕方のないことだった。なぜならイギリス料理は味も見た目もコンセプトも全てが貧しい。
日本がかつてイギリスを真似たのは、国力の貧しさゆえだった。国力がないから国力がある国のものは何でもすばらしく見えた。貧しい食卓しか持たない英王室の哀しい選択でさえも豊かに見えたのだ。
もうそんな時代は終わった。皇室は来賓のもてなしには日本料理を持ってするべきだ。
賓客に箸を押し付けるのは失礼、という思い込みは間違いだ。それが文化なのだから異なものは異のまま提供しても構わない。
でも、それではどうしても気が引けると感じるのなら、箸に添えてフォークも出せばいい。箸で食べられる食材は全てフォークでも食べることができる。
食材を突き刺しても構わないフォークのコンセプトは、むろん箸とそっくり同じではない。が、突き刺さなくても口に運べるように料理を工夫するのは、板前ならお手のものだろう。
また箸に添えるそのフォークは、金属製では違和感があるならば、木製か竹製などにすればいい。きめ細かな創作ができる日本の職人なら、青竹などで自然体の美しいフォークを編み出せるだろう。
しかし供される料理は基本的には和食の設えそのままで構わない。
その国の料理を食べるとは文化を味わうということだ。少々勝手が違っても、ありのままの形またコンセプトを楽しむのが、文化に接するということだ。だから畏れずに和食を提供するべきなのだ。
なによりも今は文明的に、従って文化的にも世界で最も優れていると自他共に認めるヨーロッパ人が、サル同様に手づかみで食事をしていたころ、中国では既に3000年、日本でさえ1500年前後にも渡って、人々は「上品に」箸で食事をしていた。
たかだか200年ほどの歴史しかないナイフ、フォークに比べたら、箸ははるかに開明的であり文明的なのである。それを引け目に感じるのはおかしい。長い優秀な箸のコンセプトを賓客、特に欧州人に教え諭すのは、むしろ日本人の義務でさえある。
フランス料理が宮中晩餐会にふさわしいと考えるのは、明治時代に始まった西欧礼賛思想の悪しき慣習だ。
フレンチに勝る日本食を持つ国が、いつまでもフレンチを崇め奉るのは愚の骨頂だ。皇室はつい先日、ようやく前菜に日本料理を取り入れたが、そこで留まらずに全コースをすぐにも和食に切り替えるべきである。
これは前述のネトウヨヘイト系白痴族の連中が「日本ってすごい」「和食ってすばらしい」と差別心を隠して叫ぶ痴態また恥態とは、まるで意味合いが違う主張であることは繰り返し確認しておきたい。