【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2024年06月

ヴァスコ・ダ・ガマより偉いクリロナ

合成C7デフォ

アラブ支配、大航海時代、エスタド・ノヴォ体制とサラザール独裁、カーネーション革命、そしてポルトガル料理を思いつつ、ポルトガル紀行を始めた。

基本的にはポルト、リスボン、ラゴス(最南端アルガルヴェ地方)と移動する旅。

ちょうどポルトからリスボンに入った日に、4年ごとに開催されるサッカーの欧州選手権が始まった。旅の興奮に紛れてそのことをすっかり忘れていた。

欧州選手権はW杯の中間年に行われるW杯に匹敵する大イベントだ。

W杯とは違って強豪の南米勢が出場しないが、サッカー後進地域のアジア、アフリカ、北米などが参加しない分、ワールドカップより面白いという考え方もある。

僕もややそれに近い見方だ。が同時に、ブラジルやアルゼンチンが参戦しないのはやはり少し物足りないとも感じる。そうはいうものの、強豪国がひしめく欧州杯はいつも見応えがある。

サッカーの戦い方には国柄や国民気質が如実に現れる。それを理解するには、経済や金融や医学や工業技術などの理屈が詰まった脳ではなく、感性や情動が必要だ。

感性また情動を頼りに各国の戦い方を見ると、サッカーのナショナルチームが国民性を如実に体現する文化や人々の生きざまを背負っていることが分かるのである。

例えばサッカーの日本代表は11人編成の軍隊を髣髴とさせる。そのミニ軍隊は日本人の思想や動きや情感や生きざまを背負ってピッチを駆け巡る。

そこに体現される日本人の思想とは、個よりも集団つまりチームを絶対と見なす全体主義である。

動きとは、プレーテクニックや戦術の劣勢を補おうとして、選手全員が脱兎の勢いで走り回ること。玉砕覚悟で、いわば竹槍攻撃を完遂する。つまり玉のように犬死にすることを至福とみなす精神の実践だ。

生きざまとは、あらゆる論理的な思考を排して、いわば国家神道に殉じて自裁するようなことである。日の丸を背負い一丸となって驀進する。まさに全体主義。日本サッカーの憂鬱と煩わしさである。

国民性は、そのように良くも悪くもナショナルチームのプレースタイルや戦術や気構えに如実に現れて、試合展開を面白くする。むろん逆の効果ももたらす。

もう少し煮詰めて、分かりやすい表現で言ってみる。

例えばドイツチームは個々人が組織のために動く。イタリアチームは個人が前面に出てその集合体が組織になる。

言い換えれば個人技に優れているといわれるイタリアはそれを生かしながら組織立てて戦略を練り、組織力に優れているといわれるドイツはそれを機軸にして個人技を生かす戦略を立てる。

1980年前後のドイツが、ずば抜けた力を持つストライカー、ルンメニゲを中心に破壊力を発揮していた頃、ドイツチームは「ルンメニゲと10人のロボット」の集団と言われた。

これはドイツチームへの悪口のように聞こえるが、ある意味では組織力に優れた正確無比な戦いぶりを讃えた言葉でもあると思う。

同じ意味合いで1982年のワールドカップを制したイタリアチームを表現すると、「ゴールキーパーのゾフと10人の野生児」の集団とでもいうところか。

独創性を重視する国柄であるイタリアと、秩序を重視する国民性のドイツ。サッカーの戦い方にはそれぞれの国民性がよく出るのだ。サッカーを観戦する醍醐味の一つはまさにそこにある。

さらに言えば、イングランド(英国)チームはサッカーを徹頭徹尾スポーツと捉えて馬鹿正直に直線的に動く。技術や戦略よりも身体的な強さや運動量に重きをおく、独特のプレースタイルだ。

彼らにとってはサッカーは飽くまでも「スポーツ」であり「ゲームや遊び」ではない。

しかし、世界で勝つためには運動能力はもちろん、やはり技術や戦略も重視し、且つ相手を出し抜くずるさ、つまり遊びやゲーム感覚を身につけることも大切だ。

イングランドサッカーが、欧州のラテン系の国々やドイツ、また南米のブラジルやアルゼンチンなどに較べて弱く、且つ退屈なのはそれが大きな理由だ。

もっとも時間の経過とともに各国の流儀は交錯し、融合して発展を遂げ、今ではあらゆるプレースタイルがどの国の動きにも見られるようになった。それでも最終的にはやはり各国独自の持ち味が強く滲み出て来るから不思議なものである。

閑話休題。

ここポルトガルの天才プレーヤー、クリスティアーノ・ロナウドが、まだ代表選手として活躍していることを、ポルトガル旅行中にテレビを介してはじめて知っておどろいた。

彼はマラドーナやペレ、また同時代人のメッシなどと並ぶ偉大な選手だが、欧州のチームを出てサウジアラビアに移籍した時点で、もうポルトガルの代表チームでプレーすることはない、と僕は思い込んでいた。

全盛期を過ぎた欧州や南米の選手が、主に金が目当てでアジアや中東のクラブに移籍することはよくあることだ。

欧州で1、2を争う強豪チームであるタリアは、そういう選手に極めて厳しく、アジアやアメリカあるいは中東などに移籍した選手がナショナルチームに召集されることはない。

キャリアの黄昏時にいる彼らは、レベルの低いそれらの地域のリーグでプレーすることで、力量がさらに落ちると判断されるのだ。

ロナウドは間もなく40歳。まだポルトガルチームの中心的存在でいられるのは、彼の力量がロートルになっても優れているからなのか、はたまたチームが弱いからなのか。その結果を見るのも楽しみだ。

サッカー嫌いや関心のない人には分からないだろうが、ロナウドはポルトガルを世界に知らしめたという意味では、同国の歴史的英雄であるヴァスコ・ダ・ガマを大きく凌ぐ存在である。その意味でも興味深い。

旅行中はなかなかテレビ観戦もできないが、イタリアに帰ったらロナウドにも注目しつつ選手権の展開を追いかけ、しばらくはサッカー漬けの時間を過ごそうと思う。




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欧州の極右がつるめば世界が危ない

タイトルなし

欧州議会選挙は大方の予想通り右派が勝利した。フランス、イタリア、オーストリアなどでは極右政党が躍進。

フランスではライバルのマリーヌ・ルペン氏の極右政党「国民連合」に大敗したマクロン大統領が、議会下院を解散して今月末に総選挙を行うと発表。世界を驚かせた。

極右のさらなる躍進を阻もうとする動きであることは明らかだが、裏目に出てマクロン大統領はいま以上の窮地に追い込まれる可能性も高い。

イタリアはメローニ首相率いる極右政党、イタリアの同胞」が勝利した。これも予測通りである。その他の国々でも極右と形容される政党の躍進が目立つ。

選挙直後から旅をしているここポルトガルも、右へならえ状態。カーネーション革命から50年の節目の年だが、極右への拒絶反応が薄まり欧州全体の右傾化の流れに吞み込まれた格好だ。

欧州の極右勢力は全体の2割程度にまで拡大している。それは言うまでもなく憂慮するべき事態だが、彼らはそれぞれが自国に閉じこもって勝手に主張しバラバラに行動することが少なくない。

その辺りがまさしく「極」の枕詞がつきやすい政治集団の限界である。街宣車でわめき散らす日本の極右などと同じで、彼らは蛮声をあげて威嚇を繰り返すばかりで他者を尊重しない。

従って相手の言い分を聞き、会話し、妥協して協力関係を築き上げる、という民主主義の原理原則が中々身につかない。

そのために彼らは欧州内にあってもそれぞれが孤立し、大きな政治の流れを生み出すには至らない場合が多かった。だが今後は団結する可能性も出てきた。

流れが変わって、過激政党がお互いに手を組み合うようになれば、欧州は危なくなる。欧州の極右の躍進は、11月の米選挙でのトランプ返り咲きを示唆しているようにも見えてうっとうしい。

一番気になるのは、ドイツ極右のAfDが度重なるスキャンダルを跳ね除けて勢力を伸ばしたことだ。欧州の極右政党の中で最も危険なのがAfDだ。

AfDはドイツ国民の過去への真摯なそして執拗とさえ見える頻度の謝罪と、全面的かつ徹底した総括を経た後に誕生した。

彼らはドイツの良心が煮詰まった挙句に生まれた醜悪な滓のようなものであり、極右思想やナチズムは決して死なないことを証明している。

だがそのAfDでさえも将来、万が一政権の一翼を担うことがあれば、たとえばイタリアの極右が政権を握って軟化したように穏健化する可能性が高い。

しかしながらそれは、ドイツ国内のEU懐疑主義への流れを加速させ、その結果欧州の結束が弱まる可能性が高い。それが最も憂うべきことだ。

人々の怒りをあおり、憎しみの火に油を注ぎ、不寛容の熾き火を焚きつけるのが得意な彼らの悪意は、易々と世の中を席巻する。歴史がそれを証明している。

従って彼らは拡大する前に抑え込まれたほうがいい。放っておくとかつてのヒトラーのNSDAP (国民社会主義ドイツ労働者党 )、つまりナチスのごとく一気に肥大し制御不能な暴力に発展しかねない。

とはいうものの、繰り返し強調しておきたい。欧州の今この時の極右勢力はヒトラーのナチズムやムッソリーニのファシズムと同じではない。

悪魔の危険を知り、悪魔ではないように慎重に行動しようとする悪魔が、現今の欧州の極右なのである。

そうはいうものの、狡猾な悪魔も悪魔には違いないのだから、極右モメンタムは抑さえ込まれたほうがいい。激流となって制御不能になる前に、その芽が摘み取られるべきである。




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「気まぐれな春」の贈り物

6月8日南西角方向800

北イタリアはことしも、4月の声を聞くと同時にふいに暑いほどの陽気になった。温暖化現象も考慮すれば、もはや夏到来か、と言いたくなるほどの気温だった。

ところが4月も後半になると一転してストーブをたく寒さが襲った。雪にはならないが雨も降り続いて、気温の低下につながった。菜園に植えた野菜の苗がかなり傷んだ。

写真は今朝、僕の書斎兼仕事場の窓から見たぶどう園と、6月とは思えないない暗い空。

4~6月のイタリアの気候は、実はいつも予測をすることが難しい。イタリア語には春から夏に向かう気象変化の激しさを韻を踏まえて簡潔に言い表したことわざがある。

いわく:

Aprile non ti scoprire ; maggio va adagio ; giugno apri il pugno ; Luglio poi fai quel che vuoi.

イタリア語を知らない人でも、アルファベットを「ローマ字」と呼ぶことを思い出して、ローマ字風にそのまま読んでみてほしい。そうすればほぼイタリア語の発音になる。

カタカナで表記すると:
『アプリィレ ノン ティ スコプリィレ;   マッジョ ヴァ アダァジョ;   ジューニョ アプリ イル プーニョ;  ルーリィョ ポイ ファイ クエル ケ ヴォイ』

となる。

直訳すると「4月に肌をさらすな。5月はゆっくり。6月にそっと拳を開け。7月は好きなようにしろ」。

その意味は「4月に早まって冬着をしまうな。5月も油断はできない。6月にようやく少し信用して、あわてることなくゆるりと衣替えの準備をしろ。7月は好きなように薄着をして夏を楽しみなさい」である。

気温の予測が難しい4月から6月の装い方を提案しているのがこの格言なのだ。

春から夏にかけての北部イタリアの天候は変わり目が速く男性的で荒々しい。暑くなったり寒くなったり荒れたり吹き付けたり不機嫌になったりと予測ができない。

すぐそこにそびえ連なっているアルプスの山々と、遠くないアフリカの、特にサハラ砂漠由来の熱気が生み出す、見ていて全く飽きがこない大自然の営みだ。

ことわざはイタリアの季節変化の気まぐれと躍動をうまく言い当てていると思う。

人間はことわざの教えのように衣服を着て突然襲う寒気を避けることができる。だが菜園の苗を含む農作物はそうはいかない。

人が手助けをするのも難しい。

そこがまた面白い。






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6月2日がまた巡り来た  

南庭額縁2024‐6‐2日(共和国記念日)800

 第2次対戦中の1945年4月25日、イタリアのレジスタンスはムッソーリーニとナチスを撃滅した

翌年の1946年6月2日、イタリアでは国民投票により王国が否定されて、現在の「イタリア共和国」が誕生した。

イタリアが真に近代国家に生まれ変わった日である。

世界の主な民主主義国は、日本やイギリスなどを除いて共和国体制を取っている。

民主主義国には共和制が最もふさわしい。だが共和制は民主主義と同様にベストの政治体制ではない。あくまでもベターな仕組みだ。

われわれは今のところ民主主義に勝る政治理念を知らない。同様にわれわれは共和制よりも良い政治システムもまた知らない。

ベストを知らない以上、ベターが即ちベストだ。

今この時のベストの政治体制とは、ここイタリアまたフランスの共和制のことであり、ドイツ連邦やアメリカ合衆国などの制度のことだ。

その制度は「全ての人間は平等に創られている」 という人間存在の真理の上に構築されている。

民主主義を標榜するするそれらの共和国では、主権は国民にあり、その国民によって選ばれた代表によって行使される政治体制が死守されている。

多くの場合、そこでは大統領が元首も兼ねる。

真の民主主義体制では、国家元首を含むあらゆる公職が主権を有する国民の選挙によって選ばれ決定されるべきだ。

つまり国のあらゆる権力や制度は、米独仏伊などのように国民の意志に基づいて創設されなければならない。

その意味では王を頂く英国と天皇制を維持する日本の民主主義は歪だ。

予め人の上に人を創出しているその仕組みは、いわば精神の解放を伴わない不熟な民主主義という見方もできる。

日本が共和国制の国になれば、いま日本を覆っているさまざまな反民主主義的な黒雲が吹き飛ぶだろう。なぜなら欧米風の民主主義共和国では、既述のごとく「人間は皆平等に創られている」という思想が血となり肉となって国民の全体に染み渡り国の礎となっている。

だが今この時も即座に天皇にひれ伏し、お上には盲目的に従順になる日本国民の「魂」がある限りそれはほぼ不可能なことだ。

ちなみに僕は平成の天皇(上皇)を心の底から尊崇する者である。平成の天皇と僕は同じ平等な人間として生まれたが、上皇は「人間として」僕などよりもはるかに大きな人格者と考えるからだ。

それは仏陀やイエス・キリストに対する僕の畏敬の念とそっくり同じものであり、その心は共和国制を支持する立場と矛盾しない。

参照:

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52331777.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52298622.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52326215.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52323856.html






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