少し前、東京の大学時代の友人4人が僕を訪ねてイタリアまで来てくれた。
わが家に泊まってもらい、飲み、食べ、語らい、笑いあった。
家はミラノとベニスを結ぶA4自動車道の途中にある。そこで自家を基点に2晩はベニスに遊び日帰りでミラノにも足を伸ばして楽しんた。
そこに至る前に実は僕は、4人の誰もが多忙な仕事生活を送っていることを承知で、彼らにイタリアに遊びに来いと言い続けた。
いわゆるフリーのドキュメンタンタリー監督である僕は、会社という後ろ盾がない分彼らの2倍も3倍も忙しいという自負があった。
その忙しい僕が会社員の皆に合わせて時間を取ろうというのだから、君らも何とかひまを見つけろ、と僕は若いころから偉そうに言い続けていた。
彼らは3年がかりで仕事のやりくりをしてスケジュールを組み、ついに4人が同じ時間に休暇を取ることに成功した。
ミラノ郊外の田園地帯にあるわが家の周りにはホテルも多くあるが、あえて自宅に泊まってもらったのには訳がある。
わが家は最も古い基礎部分が12世紀、つまり日本で言えば鎌倉時代に造られたとされる没落貴族の館である。そこにはヨーロッパの歴史が詰まっている。
めったに体験できないことだから、学生時代の昔に戻って、館内の空き部屋にごろ寝をするつもりで泊まってもらった。いわば歴史の勉強を兼ねた遊びのつもりだった。
それはうまく行って皆大いに楽しんでくれた。
見返りに僕も普段はできないことを満喫した。気兼ねなく好きなだけワインを飲んで酔いまくったのである。
酔っ払いが毛嫌いされるイタリアでは、へたに酔うわけにはいかないので僕はいつも及び腰で飲んでいて楽しまない。
ノンベエの友人4人とは思い切り酔っぱらい、互いに許しあって、腹の底から擬似青春を謳歌したのだった。
そんな時間の中で、誰かが次はファドを聴きにポルトガルへ行かないか、と言った。皆が賛成し、僕はイタリアからツアーに参加すると約束した。だがその旅は未だに実現していない。
ところがことし6月、僕は妻と2人でファドを聴きにポルトガルまで出かける機会を得た。
実のところそれは、ポルトガルの歴史文化や自然また人情や料理に出会うのが目的の旅だったが、僕の中には友と約束して未だ果たせないファド探訪への感慨があった。
友人らは癌で斃れたN君を除いて皆退職し、フリーランスとして人生の再出発を果たしたり、旅暮らしを始めたり、趣味にいそしんだりしながら元気でいる。
テレビ屋の僕は、小さな番組制作会社を畳んだあと、元の木阿弥の身ひとつの、しがないフリーランスのディレクターになった。
やがてテレビの仕事を徐々に減らし、コロナ禍を機についにロケには一切出なくなった。代わりに遊びと探索を兼ねた旅にひんぱんに出かけている。
これまででリサーチ、ロケハン、さらに実際のロケなど、数えきれないほどの旅を重ねてきた。が、それらは仕事の枠組みの中での動きだったために、物事を見るのにいわば色眼鏡をかけた視点での観察に終始していたことが分かった。
言葉を替えれば、仕事関連の事案に関しては深堀りもするが、それは飽くまでも限られた視界の中での深堀りに過ぎないということである。
色眼鏡を外して見ると視界がぐんと広がった。それは深い楽しみをともなう発見であり、気づきだった。
ポルトガル旅行もそんな道行きのひとつだったが、前述のように友人4人との約束事の代替のような気分もあって、普段とは違う色合いの船出になった。
ポルトガル北部のポルトから入って、国土を南北に縦断する形で旅をした。3泊4日滞在したリスボンでは、計画通りファドをじっくりと聴いた。
ファドはフランスのシャンソンやイタリアのカンツォーネに相当するポルトガルの民族歌謡だが、後者が共に「歌」という単純な意味であるのに対して、「運命」または「宿命」という深意を持つ。
そのことだけでファドは既に、哀切にじむ抒情的な庶民の心の叫び、という響きがある。そしてまさにその通りだが、巷の歌の常でむろん軽快な喜びのメロディーにもこと欠かない。
それでもファドの神髄は、やはり人生の哀愁の表出である。
それは敢えて言えば、日本の演歌の世界である。日本人が通常認識しているシャンソンやカンツォーネも、その見た目はともかく、センチメントは演歌とほぼ同じだ。
だがファドの場合、呼称自体が演歌の大好きなコンセプトである運命や宿命という意味を持つ分、シャンソンやカンツォーネよりもより演歌的な世界と見える。
学生時代の友人らが、シャンソンやカンツォーネを聴きに行く旅ではなく、あえて「ファドを聴きに行く旅」というコンセプトにこだわったのは、いわば知的気取りからくるポーズだった。
つまり誰もが知っていてまた憧れてもいるシャンソンやカンツォーネに比べると、ややマイナーで泥臭い風情もあるファドを敢えて懐抱する、という心意気がなせる業だったのである。
僕はリスボンで本場のファドを楽しんだ。再び「敢えて」ファドを聴くためだけにそこを訪れたいかとと問われれば疑問だが、友人らがその気になるならむろん喜び勇んで参加するつもりである。