【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2024年09月

ようやくプラハに来た

カレル橋アーチ込み俯瞰800

プラハにいる。この街を訪ねたいと強く思いつつ、仕事でもプライベートでも何かと障りがあって機会がなかった。ようやく来たという気分である。

予想をはるかに上回るフォトジェニックな街並みに三嘆しきり。

世界にはフォトジェニックな街や自然や史跡は多い。だがプラハほど写真に撮りたくなる風景が街全体に詰まっている場所はそう多くない。

ベニスとローマが辛うじて対抗できるかも、と考えてみるが怪しい。街全体が建築博物館と呼ばれているのもうなずける。

だが博物館は生活の場ではない。プラハの中心部には地元民が住んでいない雰囲気がある。

それは街がソビエト共産党の支配下にあった歴史と関係がありそうだ。

プラハでは旅の楽しみである料理はあまり期待していない。評判の高いビールを飲みまくってみる計画。

プラハからイタリアに戻ってすぐにギリシャに飛ぶ予定。

夏の観光シーズンのピークが去り人混みがゆるんで、のんびり安い静か、の3拍子がそろった旅を狙うのである。


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石破茂の誠実公正の限界

カメレオン可愛い650

自民党総裁選は石破さんの勝利で終わった。順当無難な結果である。

僕は9人の候補をドングリの背比べと見た。いずれもドングリならファシズム気質の高市さんの目もあっていい、とさえ思ったりした。

高市さん選出なら、少なくとも日本の諸悪の根源「男尊女卑」精神に一撃が加えられるからだ。それは、無いよりはあったほうが確実に日本のためになるイベントだ。

僕は石破さんには多くを期待しない。彼の口癖である 公正、誠実、且つ謙虚で丁寧な政治なるものが、薄っぺらなキャッチコピーに過ぎないことを知っているからだ。

石破さんは2018年、故安倍さんと戦った総裁選で、47都道府県に向けたビデオメッセージを作った。その中で「沖縄に基地が集中している理由について:

反米基地運動の拡大を恐れた日米両政府が1950年代、当時日本から切り離されていた沖縄に、山梨や岐阜にあった海兵隊司令部を含む海兵隊部隊を押し付けたからだ」と真実を語った。

国土の1%にも満たない小さな沖縄には、日本国全体の安全保障を担う米軍基地が全体のおよそ70%以上置かれ、地元は基地被害に苦しんでいる。

それは余りにも不公平だ。負担を減らして欲しいという沖縄のまっとうな訴えは、安全保障の意味も民主主義の精神もあずかり知らない国民の無関心によってひたすら否定される。

それはまたネトウヨヘイト系差別主義者らの「沖縄は補償金欲しさに基地反対を叫んでいる」という偽りの誹謗中傷まで呼んで、沖縄はいよいよ貶められ侮辱され続けている。

国民の気分を熟知している政府はそれを巧みに利用して、口先だけの基地負担軽減を言いながら、イスラエルによるガザ弾圧よろしく辺野古を蹂躙している。

いわゆる構造的沖縄差別である。

石破さんはかつて、政府の要人として初めて沖縄の米軍基地問題の核心を語り、総裁になった暁には是正に奔走すると示唆した。

だが彼は、沖縄を植民地状態のまま利用しようと企む自民党内の反動的な力に負けて、卑怯「不誠実」にもそのビデオメッセージをあっさりと削除しほっかむりを決め込んだ。

つまり彼の言う「公正 誠実、且つ謙虚で丁寧な政治」とは、飽くまでも多数派に向けてのスローガンであり、弱者は切り捨てても構わないという、強権指向に満ちた偽善と見えるのだ。

一事が万事である。

今このときは、とてもそんな男に期待する気にはなれない。


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高市早苗‘首相’の影と、影の中にあるかもしれない光

Japan-Sanae-Takaichi650

FB友のお1人から「高市早苗」候補には絶対に首相になってほしくない、という強い怒りのメッセージが届いた。似たような趣旨のコメントはほかにも多い。

高市早苗候補だけは決して日本のトップにしてはならない、とつい最近まで僕も考えそこかしこに書いてもきた。

今もそうだが、それでも総裁候補の顔ぶれを見ているうちに、毒を持って毒を制す、のような気分になっている。高市という猛毒をもって日本の男社会という毒に楔を打ち込む、という印象である。

ちなみに僕は上川さんに期待し、老害政界に風穴を穿て、と密かに進次郎候補を応援していた。

だが残念ながら上川さんの覇気のない常識路線と、進次郎候補の明るいウツケ振りに呆れて、それらは過去形になった。

代わりに猛毒の高市候補が日本初の女性首相になる手もあると考え出した。

❛高市首相❜もありかもと考える第1の、そして最大の理由は高市候補がオヤジよりもオヤジ的な政治家でありながら、それでも女性だという点だ。

首相になれば日本の諸悪の根源である男尊女卑メンタリティーにとりあえず一撃を見舞うことになる。それは、無いよりはあったほうが確実に日本のためになるイベントだ。

心優しい良い女性、すばらしい女性を待っていては日本には永久に女性首相は生まれない。女性首相の大きな条件の一つは「タフな女」であることだ。

サッチャーもメルケルもここイタリアのメローニ首相も男などにビビらないタフさがある。高市候補は権力者のオヤジらに媚びつつも、鉄面皮で傲岸なところがタフそのものに見える。

2つ目は、アメリカでカマラ・ハリス大統領が誕生すると想定しての強い興味だ。

トランプ氏再選なら、❛高市首相❜は彼女の神様である安倍元首相に倣って、ここイタリアで言うケツナメ(lecca culo)外交に徹するだけだろうが、ハリス大統領になった場合は遠慮し諭される状況もあり得る。

それは❛高市首相❜を変える可能性がある。むろん、それにはハリス大統領のリベラルとしての、有色人種としての、そして女性としての強さと見識と人間性の有無が重要になる。

今のところハリス候補にはその兆候はない。だが、彼女も大統領になって品格を備えるようになる可能性が高い。

肩書きや地位はただでも人を創りやすい。ましてや世界最強の権力者である米国大統領という地位が、人格に影響を及ぼさないと考えるなら、むしろそちらのほうが不自然だ。

3つ目は天皇との関係だ。人格者の上皇、つまり平成の天皇は静かに、だが断固として安倍路線を否定した。現天皇は今のところ海のものとも山のものともつかない。顔がまだ全く見えない。

❛高市首相❜が本性をあらわにファシスト街道を突っ走るとき、天皇がどう出るか、僕はとても興味がある。

天皇は政治に口出しをしないなどと考えてはならない。口は出さなくとも「天皇制」がある限り彼は大いなる政治的存在だ。それを踏まえて天皇は「態度」で政治を行う。

彼に徳が備わっていれば、という条件付きではあるが。

日本の政治と社会と国民性は、先の大戦を徹底総括しなかった、或いはできなかったことでがんじがらめに規定されている。

右翼の街宣車が公道で蛮声を挙げまくっても罪にならず、過去を無かったことにしようとする歴史修正主義者が雲霞のように次々に湧き出てくるのも、原因は全てそこにある。

ドイツが徹底しイタリアが明確に意識している過去の「罪人」を葬り去るには、再び戦争に負けるか、民衆による革命(支配層が主体だった明治維新ではなく)が起きなければならない。

しかし、そういう悲惨は決して招いてはならない。

極右で狡猾で危険な高市候補が首相になっても、おそらく戦争だけはしないだろう。だからチャンスがあれば、彼女にチャンスを与えても良いのではないか、とつらつら考えてみるのである

ちなみに今このとき僕が女性首相にしてみたいのは蓮舫氏。彼女が嫌いな日本人は、高市候補が嫌いな日本人とほぼ同数程度に存在していそうだが、僕は蓮舫氏をリベラルと見做して推す。

男では山本太郎氏だ。山本氏なら戦争総括に近いこともやりそうな雰囲気がある。自民党のオヤジ政治家群は、ほとんどが過去の総括の意味さえ知らないように見える。

それは国際社会では、中露北朝鮮を筆頭とする専制主義勢力と同じフェイク、民主主義の向こう側でしか生きられないカスな存在、と見做されることを意味する。




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君はプラハの春を愛(お)しんで憤死した青年を知っているか


右上から俯瞰中ヨリ800

1968年8月20日、ソ連はチェコスロバキアに軍事介入して民主化運動「プラハの春」を蹂躙した。

5ヵ月後の1969年1月19日、ソ連の蛮行に抗議して20歳のカレル大学学生のヤン・パラフが、プラハきっての繁華街ヴァーツラフ広場で焼身自殺した。

広場には彼の写真付きの記念碑とシンボリックな人型のモニュメントが設置されている。

地面に浮き彫りされた人型モニュメントには不思議なオーラがある。だが、道行く人のほとんどはそこに目を向けない。

中国による天安門事件、香港抑圧、ロシアのウクライナ侵略、イスラエルによるガザへ虐待など、世界にはプラハの春弾圧とそっくり同じ構図の事件が間断なく起きている。

プラハの人々は苦しい過去を語りたがらない。忘れたい思いとソ連が黒幕だった恐怖政治へのトラウマが未だに消えないからだ。

プラハの魅力に惹かれて街を訪れるおびただしい人群れもヤン・パラフのことなど知らない。

そうやって世界は、いつまでも愚劣で悲惨な歴史を繰り返す宿命から逃れられずにいる。



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高市早苗首相が生まれても別にいいんじゃないか、かもかい?

高市まとも顔

自民党総裁選レースを見るともなく眺めてきた。その過程で僕は、これまで強く批判してきた高市早苗候補への見方を変えつつある。

9人によるドングリの背比べレースを消去法でつづめると、彼女に日本初の女性首相という栄誉がもたらされてもいいのではないか、と考えるようになったのだ。ここ数日間での変心である。

きっかけはYouTubeチャンネルで偶然に見た高市候補のインタビュー映像だった。そこは高市候補に親和的な人物が管理しているらしいチャンネルで、彼女は終始リラックスした様子で自らの政治信条や政策や主張を語り続けた。

それらはきわめて明瞭な保守主義者の言説で、僕は心穏やかに耳を傾けた。

僕は自らの政治的スタンスをリベラル、また国際派の愛国者と規定する者だ。保守派の主張には賛成しないが、彼ら保守派が彼らなりの考え方で日本を良くしたいと願っていることを知っている。リベラルの僕も日本を愛する心情は彼らに引けをとらないつもりだ。

僕と彼らの違いは、「良き日本」という山の頂を目指して登る道程が同じではないというだけの話だ。保守は立派な政治思想であり、リベラルと同様に民主主義には欠かせない政治勢力だ。

一方で極右や極左と呼ばれる集団は、民主主義という道程を無視し破壊して、一息に頂上を目指そうとする。それはつまるところ過激主義であり、専制政治や独裁政治に至る危険な道だ。

僕はこれまで高市早苗氏を、安倍元首相の腰巾着であり、歴史修正主義義者であり、メディアを恫喝支配できると信じているらしい思い上がった思想の持ち主、とみなし批判してきた。

メディアの監視と批判に耐えられない政治家は首相になるべきではない。メディアを抑圧し制御できると考える政治家は、政治家でさえない。それは単なる独裁者だ。

高市候補にはそのように暗く危険なファシズム的気質がある。それはここイタリアのジョルジャメローに首相にも通底する個性だ。

高市候補は最初に見たYouTubeチャンネルインタビューの中で、総裁選に出馬し戦う動きの中では女性であることを意識しないとも強調した。彼女は選択的夫婦別姓制度にも反対だ。

だがそれではダメだ思う。彼女は女性であることを大いに意識し、彼女が日本初の女性首相になることは、日本の諸悪の根源である男尊女卑思想を一掃するための大いなる一歩、と位置づけて戦うべきだ。

高市候補がそうしないのは、彼女の岩盤支持者である保守強硬派の男らの反発を避けるのが狙いだろう。だが女性蔑視のメンタリティーが国の未来まで貶めることが確実な日本にあっては、女性であることを前面に押し出すことは重要だ。

高市候補に限らず、男に媚びることが多い日本の「オヤジ女性政治家」が、真に「男女を意識されない」一人の政治家と見なされるためには、女性であることに誇りを持ち、女性として自立し認められることが唯一の道である。

男を真似する「オヤジ女性政治家」は“フェイク”であることを、何よりもまず女性政治家自身が悟らなければならない。

僕は偶然に見たインタビュー番組に触発されて、総裁選レースを伝えるチャンネルを巡り高市候補の動静を追ってみた。

そこで発見したのは、どうやら彼女が危険な民族主義思想に凝り固まっただけの政治家ではないらしい、ということだった。

ネガティブな要素も多く抱えた高市候補だが、彼女は日本初の女性首相になるチャンスを与えられても良いのではないかと考え始めた。

それはここイタリアのメロ-ニ首相の例を思っての気持ちの変化だ。

メローニ首相は極右の「イタリアの同胞」を率いる右派の論客であり活動家だ。「イタリアの同胞はファシスト党の流れを汲み、党首のメローニ首相自身もネオファシストとのレッテルを貼られたりするほどの保守政治家である。

彼女は自らが2012年に立ち上げた小政党「イタリアの同胞」を率いて党勢を拡大させ、2022年総選挙で第一党に躍り出て、とうとう政権の座に就いた。

ところが彼女は首相に上り詰めると同時に激しいレトリックを封印し、険しい表情をゆるめ、女性また母親の本性があらわになった柔和な物腰にさえなった。

政治的にも極端な言動は鳴りをひそめ、対立する政治勢力を敵視するのではなく、意見の違う者として会話や説得を試みる姿勢が顕著になった。

彼女のそうしたたたずまいは国内の批判者の声をやわらげた。

高市候補はファシズム的な体質が似ている点を除けば、メーローニ首相とは似ても似つかない存在だ。メローニ首相が明なら彼女は陰、と形容しても良いほど印象が違う。

もっと言えば高市氏は、自ら率先して右翼運動を担うのではなく、例えば安倍元首相に庇護さて四囲を睥睨してきたように、威光を笠に着て凄むタイプだ。

一方のメローニ氏は自ら激しく動いて道を切り開くタイプの政治家である。

それでも高市候補は、日本初の女性宰相になれば、その肩書きに押されて人間的にも政治的にも成長するかもしれない。

ジョルジャ・メローニ首相がそうであるように。

ならば高市候補にもにチャンスが与えられていい。

実現すれば、アメリカに史上初の女性大統領が誕生するよりも早く、日本は女性首相を誕生させて新しい歴史を作ることになる。

それはちょっと心躍る想像だと言えなくもない。



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2024年、真夏がふいに冬になった

ミラノ滝雨650

 

真夏から真冬に突入、と言えば少し誇張が過ぎるかもしれないが、ここ北イタリアの季節真夏から一気に冬になだれこんだようである。

雨が降りつけ風が逆巻き気温が急激に下がって寒い。よほどストーブを焚こうかと思うが、そのうち晴天が来て気温も上がるだろうと楽観し着ぶくれただけで済ましている。

ことしは雨が多い。温暖化のせいだろう、雪は一切降らなかったが冬も盛んに雨が降った。

4月になると一息に気温が上がり、すわっ、早くも夏到来かと身構えた。だがすぐに風雨が襲って冬に逆戻り。菜園の野菜の新芽たちも大きくダメージを受けた。

7月から8月にかけてはまさしく温暖化を感じさせる猛暑日があった。そしてふいに悪天候になり気温が下がって今日になった。

イタリアの季節変化は常に荒々しい。最近は天気の躍動に拍車がかかった。

各地で起こる災害を別にすれば、豆台風が吹き募るような空模様の変転は、個人的には面白い。



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「情報はタダ 」意識の野蛮と革新 

スマホ指地球儀未来的650

インターネットの爆発的な普及以降、情報を巡る環境はある意味でインターネット以前の有様に戻るという皮肉が起きている。

オンラインで無償の情報がいくらでも入手できる今は、人々は有料の記事や文章には目もくれない。

日本人がソフトウエアの価値を知らなかった頃は、メディア人でさえ情報をタダだと無意識に思い込んでいた。情報で食べているNHKでさえそうだった。 他は推して知るべしである

例えばフリーランスのディレクターである僕は、自らの意思とコストで情報を集め、勉強し、ロケハンをし、企画書に仕上げてテレビ局や制作プロダクションまたスポンサーなどに持ち込む。

企画が採用されれば制作費が出て初めて収入になる。採用されなければ全ての出費はパーだ。それが番組作りのルールである。自分のリスクで金と時間と労力をつぎ込むのだ。

ところが情報はタダだと考えられた時代の残滓の中にいた日本のメディアはかつて、フリーランスの僕の事務所に、報酬を度外視してあれこれを調べてくれと涼しい顔で言ってきたものだ。

その上で番組が作れるなら金を払いましょう、という態度だった。情報そのもが既にコストだという意識が薄かったのだ。

日本のあらゆる産業分野はつい最近まで、今の中国のように平気で他国の製品をコピーし、パクリまくり、サル真似をして平然としていた。

形あるもの或いはハードウエアには金を払うが、ソフトウエアには支払わなかった。今から考えると信じがたいことだが、知的財産の意味も価値もあまり分かっていない者が多かった。

僕はアメリカで仕事をしたおかげで「情報は金と時間を費やして得る商品」と早くに徹底して思い知らされていた。そこで情報には金を払ってください、とあの手この手で主張した。

少しは日本のメディア人の意識改革に貢献したのでないかと自負している。

その後、日本も欧米の後を追いかけてソフトウエアの価値を知り、知的財産権の重大を学び、ハードウエアはソフトウエアがあって初めて製品化され、ソフトウエアによって機能化することを了得した。

だが、やがてインターネットの時代がやって来て、WEB上には持ち帰り自由の情報が溢れ返るようになった。すると人々は、まるで先祖返りをしたかのように情報はタダと思い込むようになった。

情報が万人に無料で行き渡る状況は、誰もが無償で教育を受けることができる社会と同じように大切なことだ。しかし、情報収集には莫大な費用が掛かっている。

その費用が公費でまかなわれない以上、誰かが支払わなければならない。その誰かとは明らかに情報の消費者であるネット住民だ。

歪な状況は将来必ず是正されるだろうが、紙媒体がネットに置き換えられるのは避けようがない未来に見える。

WEB上では執筆者にスズメの涙とさえ呼べない象徴的な金額を支払うサイトもあるが、ほとんどが無償だ。

僕はささやかな金額をいただくサイトにも書いていたが、今はそれさえ止めてフリーで情報発信をしている。運のいいことにそこで金を稼がなくても生きていけるからだ。

ネットでは無償の代わりにインタラクティブという仕組みが得られ、そこから何か生まれそうな気がしている。

読者が反応しコメントを書き込まなければ始まらないが、読者をその気にさせるのは書く側の力量だから、結構シビアな世界、と怖がりながら楽しんでいるのである。









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牙を剥かないトランプさんもやっぱり消えてほしい役者に見える

trump vs harris ヒキ650 sole24

イタリア時間の午前3時に始まったトランプvsハリスの討論会を生中継で観た。

トランプ候補は、相手や司会者の質問をはぐらかしながら自らの岩盤支持者が聴きたいことだけを集中してわめく、という自身が2016年の大統領選挙で発明した手法にこだわった。

だが、ハリス候補がそこに小さな風穴を開けて、トランプ候補を討論の本筋に引っ張りこむ場面があった分だけ、討論はハリス候補の勝ち、というふうに僕の目には映った。

トランプ候補は司会者が提示するほぼ全てのテーマで、当初はテーマに沿って話し出すものの、途中で脱線して移民問題を声高に論じることを繰り返した。

バイデン政権がメキシコ国境から入る多数の移民を受け入れ、それがアメリカを危険に陥れているという、 一貫した主張だ。

トランプ候補は排外差別主義者も多い彼の岩盤支持者層が、移民問題をもっとも重要なイシューと捉えることから、話をしつこくそこに持っていこうとするのである。

彼は反移民感情に支配されるあまり、移民ペットの犬や猫を食べているとさえ発言し、司会者がそれは真実ではないとたしなめる場面もあった。

トランプ候補は移民を憎む彼の支持者の受けを狙って、平気でそうした下劣な発言をすることがしばしばだ。

2016年の選挙戦以来つづく彼の憎しみを煽るレトリックは、アメリカ国民の半数にとってはもはや恥ずべきことなどではなく、ごく当たり前の手法になってしまった。

程度が低いと形容することさえはばかられるような、醜い主張を平然と口にできる男が、かつてアメリカ大統領であり、かつ再び大統領になろうとやっきになっている現実は見苦しい。

僕は高市早苗氏だけは断じて自民党の総裁になってはならないと考える者だが、それと同様にトランプ候補もけっして再び大統領にしてはならない、と腹から思う。

しかし、アメリカ国民の少なくとも3割強はトランプ候補と同じことを信じ込み、選挙になると彼らに同調する者が増えて、結果投票者のおよそ半分がトランプ主義者へと変貌することが明らかになっている。

そういう状況を踏まえれば、討論会でやや優勢だったハリス候補が最終的に勝利を収めるがどうかは、全く予断を許さない。

その根拠となるもう一つの要素を指摘しておきたい。

トランプ候補は過去の討論会では、相手への憎悪や怒りや悪口を狂犬のように吼えたてることも辞さなかった。

むしろその方法で隠れトランプ支持者とも呼ばれたネトウヨヘイト系差別排外主義者に近い人々を鼓舞して、彼らが闇から出て名乗りを上げるように仕向けた。

それは社会現象となり、彼らが団結してトランプ候補を第45代アメリカ合衆国大統領に押し上げた、と表現しても過言ではない状況になった。

それらのいわゆる岩盤支持者は今も変わらずにそこにいる。だが一方で、差別や憎しみや怒りを露わに他者を攻撃しても構わないという彼の行動規範は、多くの人々の反感も買っている。

トランプ候補は無党派層を始めとするそれらの反トランプ派の票を意識して、今回の討論会では汚い言葉や激しい表現で相手を罵倒するのを控えて「紳士」を装ったふしもある。

そして反トランプとまではいかなくとも、トランプ候補を支持するかどうか迷っている人々が、彼の「少しまともな」言動に好感を抱いて支持に回ることも十分にあり得る。

それは少数の有権者かもしれないが、あらゆる統計で僅差のレースが確実視されている厳しい戦いでは、そのわずかな数の票が決定的な影響を持つこともまた十分に考えられる。

結果11月の選挙の行方は、やはり五里霧中の探し物と言うにも相応しい極めて微妙なものになると思うのである。





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私、演歌の味方で、クラシックの下手の横好き者です 

岡田昌子ヒキ切り取り750
                岡田昌子サンドロ=イヴォ・バルトリ

僕のSNS記事を読んだ方から「イタリア在なのによく演歌を聴いたり歌ったりしているんですね」という便りが届いた。最近ファドにからめて演歌に言及することが多かったせいだ。

「記事にも書いたとおり演歌はそれほど聴きません。ほぼ全てNHKの歌番組で聞き、目にしたシーンです。またイタリアでは歌は唄いません。帰国する際に時たま行き合うカラオケの場で唄うだけです」と僕は正直に答えた。

すると「それではタリアでお聞きになる音楽は何ですか」と問われた。そこでこれまた正直に「そうですね、クラシックが多いですね」と答えると、がっかりしたような「あ、そうなんですね」という返信が来て、それっきりになった。

質問された方は演歌ファンなんだろうな、とこちらは推測している。

クラシック音楽を聞くことが多いのは事実だが、僕はそれを「積極的に」聴きに行くのではない。ここイタリアの僕の生活の中でより多く耳にし、また「聞かされる」音楽がクラシックなのである。

そして僕はクラシック音楽が演歌程度に好きであり、演歌程度に無関心である。あるいはクラシック音楽が結構周りにあふれているので、時々うるさく感じることがないでもない、というふうである。

僕の周囲にはクラシックのコンサートやライブやリサイタルが多い。それは古い貴族家である妻の実家から漏れ出る趣味、あるいは文化の流れの一端である。

妻の実家の伯爵家は、歴史的に音楽を含む多くの芸術にかかわってきた。プッチーニの後援者としても知られている。そこに知る人ぞ知るエピソードがある。

プッチーニの「蝶々夫人」はミラノのスカラ座の初演で大ブーイングを受けた。挫折感に打ちのめされていた彼に、伯爵家の人々は手直しをしてブレッシャの大劇場(Teatro Grande)で再演するよう強く後押しした。

伯爵家の当主のフェデリコは伯は当時、ブレシャの市長であり、大劇場の制作管理委員会(Deputazione)の重要メンバーでもあった。

プッチーニはもう2度とオペラは書かないと周囲に宣言するほどの失意の底にあったが、鼓舞されて作品を修正しブレッシャの大劇場に掛けた。それは成功し歓喜の喝采に包まれた。

そうやってわれわれがいま知る名作「蝶々夫人」が誕生し、確定された。

プッチーニは感謝の手紙を伯爵家に送った。だがその直筆の書簡は、研究者が借り受けたまま行方知れずになってしまった。24、5年前の話だ。

僕はその歴史的なエピソードをドキュメンタリーにしたく、手紙の行方を追っているが2024年現在、文書はまだ見つかっていない。

音楽好きの伯爵家の伝統に加えて、あらゆる方面からの慈善コンサートの誘いも僕らの元には来る。妻自身が主催者としてかかわるチャリティコンサートなどもある。

いうまでもなく僕はそれらの音楽会と無縁ではいられない。妻と連れ立って音楽会に顔を出したり、チャリティコンサートの手伝いなどもする。

クラシックの多くの傑作のうち、誰でも知っているような楽曲は僕も少しは知っていて、とても好きである。だがそれだけのことだ。

学生時代に夢中になったロックやフォークやジャズやシャンソンなどのように、僕自身が「積極的に」聴こうとすることはあまりない。

つまり僕とクラシックの関係は、僕と演歌の関係とほぼ同じである。いや、それどころか全てのジャンルの音楽と僕は同じ関係にある。

だが、クラシック音楽だけは、他のジャンルのそれとは違い僕の周りに満ち満ちていて、時には「無理やり聞かされる」こともある、という状況である。

むろん無理やりではない場合も少なくない。特に夏になると、休暇を兼ねて滞在する北イタリアのガルダ湖畔で開催される音楽会に接する機会が増える。

つい先日も、有名ピアニスト、サンドロ=イヴォ・バルトリのコンサートに招待されて顔を出した。

小劇場でバルトリのピアノに合わせて歌うソプラノの素晴らしさに驚かされた。しかもその歌手は、なんと日本人の岡田昌子さんだった。

音楽会直前に出演者の変更があり、パンフレットに彼女の紹介がなかった。そのため開演まで僕らは岡田さんの出演を知らなかった。

相手のテノールを圧倒する岡田さんの伸びのある歌声に会場中が興奮した。

クラシックの音楽会では、時にそんな美しい体験もする。

残念ながら演歌の場合は、歌手と近づきになるどころかライブで歌を聴く機会さえない。







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スパレッティ監督の猛省がイタリアサッカーを救うかも、かい?


イタリア5番Greizmanほかに囲まれる650
 

欧州ネーションズリーグで、イタリアは強豪フランスを3-1で下した。

親善試合ではないガチの勝負での勝利。

しかも試合開始直後の13秒で1失点という大逆風を押し返して、確実に得点を重ねた。

対仏戦でのイタリアの勝利は2008年以来16年ぶり、敵地内(アウェー)での勝利はなんと1954年以来、70年ぶりである。

イタリアサッカーは4度目のワールドカップを制した2006年以降、ずっと不調続きでいる。

イタリアは2012年、落ちた偶像の天才プレーヤー、マリオ・バロテッリがまだ輝いていた頃に欧州カップの決勝戦まで進んだ。だが、圧倒的強さを誇っていたスペインに4-0とコテンパンにやられた

屈辱的な敗北を喫したのは、負のスパイラルに入っていたイタリアが「まぐれ」で決勝まで進んだからだ、と僕は勝手に解釈した。

不調の波は寄せ続け、イタリアは2018年、2022年と2大会連続でワールドカップの出場権さえを逃した。

2021年にはコロナ禍で開催が1年遅れた欧州選手権を制した。だが、直後に同じ監督がほぼ似た布陣で戦ったワールドカップ予選でモタついた。

それはイタリアが、やはり絶不調の泥沼から抜け出していないことを示していた。

ことし6月のビッグイベント、再びの欧州選手権でイタリアはまたもや空中分解した。それを受けて、スパレッティ新監督は厳しい自責の念を繰り返し口にし自己総括を続けた。

そして最後には、選手は戦術の型に嵌められることなく自由でなければならない、とイタリアの伝統的なスキーム絶対論まで否定して昨晩の試合に臨んだ。そして見事に勝利した。

それがイタリアの復活の兆しなのかどうかは、ネーションズリーグでのイタリアの今後の戦いぶりを見なければならない。

だが誠実な言葉と行動でイタリアサッカーの歪みを指摘して、果敢に改造に乗り出そうとするスパレッティ監督の姿勢は大いに評価できる。

2020年(2021年開催)欧州カップで優勝したマンチーニ前監督も、精力的にチームの改造を進めた。だがそれは、いわば目の前の試合を制するためだけの改造に過ぎなかった。

片やスパレッティ監督は、大局的な立場でイタリアサッカーの抜本的な改革を目指しているように見える。頼もしい。

今後も紆余曲折はあるだろうが、イタリアサッカーは、かつての強豪チームに戻るべく確実な道を歩みだしているようにも見える。




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菜園に遊ぶ 

北東畝チンゲン菜、大根ヒキ800

野菜作りが趣味のFB友の方から「イタリアは、どんな気候で、どんな野菜が育てやすいのか? 」というメッセージをいただいた。

ここまでそのテーマではいろいろ書き散らしてきた。いい機会なので少しまとめておくことにした。

イタリアの季節はほぼ日本と同じだが、僕の住む北イタリアは空気が乾いていて春と秋が日本より1ヶ月づつ短く、その分だけ冬が長い、と言えば印象が一番近いように思う。

だがイタリアも日本同様に南北に長い国。地域によってかなり季節が違う。

イタリアには沖縄のように冬が極端に暖かい土地はないが、北と南ではずいぶん寒さの質が違う。それは野菜作りにもかなり影響する。

野菜の種類に関しては日本とイタリアでは多くの野菜が共通している。

そのうち僕が毎年菜園で育てるのは:

何よりも先ずラディッキオ(チコリの一種・菊苦菜)、ルコラ(ハーブの一種・ロケットサラダ)などを含む多種類のサラダ菜、トマト、ナス、ピーマン、ズッキーニ、キュウリ、フダン草、大葉、大根、(各種)ネギ、ラディッシュ、春菊など。

気が向けば育てるのが:

プチトマト、白菜、チンゲン菜、、ほうれん草、サントー白菜、ゴボウ、ブロッコリー、カリフラワーやキャベツなど。

イタリアでは白菜や大根また生姜などもスーパーで普通に売られている。だがそれらの野菜の種は販売されていない。

チンゲン菜、春菊、ゴボウ、サントー白菜、ゴボウ、各種ネギなど、その他の日本野菜の種も同様である。大葉に至っては野菜そのものが存在しないに等しい。

僕は生姜は栽培しないが、白菜、大根に始まる日本野菜は、帰国の度にせっせと種を購入してはイタリアの野菜(世界共通野菜?)と共に育てている。

僕が菜園を耕し始めたのは、アルプス山中に釣行した際に川で転倒し、左肩を脱臼したのがきっかけだった。

退屈をまぎらわそうとして、僕は右腕だけで土を掘り起こして遊ぶ野菜作りを始めた。以後、毎年変わらずに続けている。

30坪に足りないほどの菜園に多くの種類の野菜を育てる。食べることもそうだが観賞用、という意識もある。

例えば唐辛子は、真っ赤な色が好きで良く育てる。トマトもいろいろな種類があるので、育てて面白がっている。

カボチャも茎が菜園中ににょきにょき伸びる姿が面白くて時どき作る。作ると実が成るがあまり食べない。結局友人知己に裾分けする。

野菜作りは美味しい食料の調達という実利もさることながら、自然や命またそこにからまる人の生などについて考えるきっかけを与えてくれたりもする。

美味しく、得がたく、楽しい作業が野菜作りなのである。




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不偏不党というBBCの気骨と限界 

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在英ジャーナリストの小林恭子さんから新著「なぜBBCだけが伝えられるのか」のご恵贈にあずかった。BBCのことはこれ一冊で全て解る、と形容したいほどの素晴らしい内容である。

僕は英国在住時はもとよりそれ以後の長い時間もBBCのファンである。

ところが最近Brexit関連でBBCに失望し、次にはハマスをテロリストと呼ばないBBCの気骨に快哉を叫ぶなど、気持ちが揺れてきた。

それは今この時も変わらないが、小林さんの新著に接して改めてBBCの強さと弱さに思いを馳せている。

強さの大本は不偏不党というコンセプトだが、実はそれは大いなる弱さにつながることもある、というふうに僕は考えている。

なぜなら報道に於ける不偏不党とは、事実をありのままに伝える、ということでそれ以下でもそれ以上でもない。

例えばトランプ主義者らが得意とする明らかな事実曲解や嘘やこじつけや歪曲などを排して、事実そのものをできる限り客観的に記録し報告することだ。

それはBBCに限らず、NHKもここイタリアのRAIもアメリカの3大ネットワークも、要するにありとあらゆる世界の「まともな」報道機関が日々心がけ実践していることだ。

だが不偏不党というのは実は言葉の遊びである。なぜなら報道には必ずそれを行う者のバイアスがかかっている。事実を切り取ること自体が、既に偏りや思い込みの所産だ。

と言うのも事実を切り取るとは、「ある事実を取り上げてほかの事実を捨てる」つまり報道する事案と、しない事案を切り分けること、だからだ。それは偏向以外のなにものでもない。

少し具体的に言おう。例えば日本の大手メディアはアメリカの火山噴火や地震情報はふんだんに報道するが、南米などのそれには熱心ではない。

あるいはパリやロンドンでのテロについてはこれでもか、というほどに豊富に雄弁に語るが、中東やアフリカなどでのテロの情報はおざなりに流す。そんな例はほかにも無数にある。

そこには何が重要で何が重要ではないか、という報道機関の独善と偏向に基づく価値判断がはたらいている。決して不偏不党ではないのだ。

報道に際してバイアスを掛けてしまうのはいわばメディアの原罪だ。いかなる報道機関も原罪から自由でいることはできない。

だからこそ報道者は自らを戒めて不偏不党を目指さなければならない。「不偏不党は不可能だから初めからこれをあきらめる」というのは、自らの怠慢を隠ぺいしようとする欺瞞である。

自らの独断と偏見によって報道する事案を選り分けた報道機関は、事実を提示する際には最低限全き客観性を保たなければならない。

BBCが不偏不党を標榜するのは正しいことだ。それは「まともな報道機関」の取るべき態度である。だがBBCは不偏不党にこだわる余り、偽善に走ることもしばしばだ。

世論を2分するような重大な時節に、客観性や不偏不党を隠れ蓑に自らの立場を明らかにしないのは、卑怯のそしりを免れない。それどころか危険でさえある。

BBCは不偏不党を「めざす」客観的な報道を維持すると同時に、それらに基づいた自らの立ち位置も明確に示すべきだ。

例えばBBCBrexitに関しては、事実報道と共に自らの信条も主張するべきだったと思う。

それをしないことがBBCの自恃だとBBC自体は主張する。だがそれは欺瞞だ。

彼らは事と次第によっては時の政権を批判もすれば擁護もする。BBCが保守党と対立しがちな一方で、労働党と親和的であるケースが多いのがその証拠だ。

重ねて指摘しておきたい。BBCは飽くまでも不偏不党を追求しつつ、重大事案に関しては自らの立ち位置を明らかにすることもあって然るべきだ。

不偏不党の原理原則とその実践のバランスは至難だ。だが時代が大きく動くことが明らかな局面では、BBCは逃げるのではなく自らのプリンシプルに則ってしっかりと意見を述べるべきだ。

自らの主張を持たないジャーナリズムは、それが組織にしろ個人にしろ、無意味で無力で従って 無価値で無益な、まがいものの存在である可能性が高い。




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ファドと鳥羽節が好きです

美人歌手中ヨリ800

リスボンで聴いたファドは味わい深かった。それを聴きつつ演歌を思ったのは、両者には通底するものがある、と感じたからだ。

さて、ならば演歌は好きかと誰かに問われたなら、僕は「好きだが、多くの演歌は嫌い」というふうに答えるだろう。

嫌いというのは、積極的に嫌いというよりも、いわば「無関心である」ということだ。演歌はあまり聴くほうではない。聴きもしないのに嫌いにはなれない。

ところが、帰国した際に行合うカラオケの場では、どちらかと言えば演歌を多く歌う。なので、「じゃ、演歌好きじゃん」と言われても返す言葉はない。

演歌に接するときの僕の気持ちは複雑で態度はいつも煮え切らない。その屈折した心理は、かつてシャンソンの淡谷のり子とその仲間が唱えた、演歌見下し論にも似た心象風景のようだ。

淡谷のり子ほかの洋楽歌手が戦後、演歌の歌唱技術が西洋音楽のそれではないからといって毛嫌いし「演歌撲滅運動」まで言い立てたのは、行き過ぎを通り越してキ印沙汰だった。

歌は心が全てだ。歌唱技術を含むあらゆる方法論は、歌の心を支える道具に過ぎない。演歌の心を無視して技術論のみでこれを否定しようとするのは笑止だ。

筆者は演歌も「(自分が感じる)良い歌」は好きだ。むしろ大好きだ。

しかしそれはロックやジャズやポップスは言うまでもなく、クラシックや島唄や民謡に至るまでの全ての音楽に対する自分の立ち位置。

僕はあらゆるジャンルの音楽を聴く。そこには常に僕にとってのほんの一握りの面白い歌と膨大な数の退屈な楽曲が存在する。演歌の大半がつまらないのもそういう現実の一環である。

箸にも棒にも掛からない作品も少なくない膨大な量の演歌と演歌歌手のうち、数少ない僕の好みは何かと言えば、先ず鳥羽一郎だ。

僕が演歌を初めてしっかりと聴いたのは、鳥羽一郎が歌う「別れの一本杉」だった。少し大げさに言えば僕はその体験で演歌に目覚めた。

1992年、NHKが欧州で日本語放送JSTVを開始。それから数年後にJSTVで観た歌番組においてのことだった。

「別れの一本杉」のメロディーはなんとなく聞き知っていた。タイトルもうろ覚えに分かっていたようである。

それは船村徹作曲、春日八郎が歌う名作だが、番組で披露された鳥羽一郎の唄いは、完全に「鳥羽節」に昇華していて僕は軽い衝撃を受けた。

僕は時間節約のために歌番組を含むJSTVの多くの番組を録画して早回しで見たりする。たまたまその場面も録画していたのでイタリア人の妻に聞かせた。

妻も良い歌だと太鼓判を押した。以来彼女は、鳥羽一郎という名前はいつまでたっても覚えないのに、彼を「Il Pescatore(ザ漁師)」と呼んで面白がっている。

歌唱中は顔つきから心まで男一匹漁師になりきって、その純朴な心意気であらゆる歌を鳥羽節に染め抜く鳥羽一郎は、われわれ夫婦のアイドルなのである。

僕の好みでは鳥羽一郎のほかには北国の春 望郷酒場 の千昌夫、雪国 酒よ 酔歌などの吉幾三がいい。

少し若手では、恋の手本 スポットライト 唇スカーレットなどの山内惠介が好みだ。

亡くなった歌手では、天才で大御所の美空ひばりと、泣き節の島倉千代子、舟唄の八代亜紀がいい。

僕は東京ロマンチカの三条正人も好きだ。彼の絶叫調の泣き唱法は味わい深い三条節になっていると思う。だが残念ながら妻は、三条の歌声はキモイという意見である。





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