義母のロゼッタPはその昔、3歳の娘とともに嫁ぎ先の伯爵家から出奔した。男を追いかけての逃避行だった。当時3歳だった娘とは、今の僕の妻である。
ロゼッタPは間もなく男に捨てられ、子供とともに母親の元に身を寄せた。嫁ぎ先には、もう家には戻らないと通告した。戻れるわけなどないけれど。
離婚を申し出なかったのは、当時のイタリアではそれが不可能だったからだ。離婚は法律で厳しく禁止されていた。
武器製造で知られるトロンピア渓谷の一大資産家の出である義母は、後に北イタリア、エミリア・ロマーニャ州の首都ボローニャ市の旧市街の一等地に居を構えた。
義母は物腰も美的センスも閑雅な女性だった。
彼女は美食家でもあった。
特に肉が好きで野菜はほとんど食べず、生野菜に至っては全く口にしなかった。それでも彼女はほぼ92歳まで生きた。肉が彼女を長生きさせたのだと僕は思っている。
肉の中でも義母が特に好きだったのは、加熱処理や燻製処理を施さず塩だけで熟成させる生ハム、プロシュット・クルードだった。
「プロシュット(Prosciutto)」とは豚の腿肉で作られたイタリア産の生ハムの総称である。
それには2種類ある。加熱していない生ハムをいま触れた「プロシュット・クルード(生)」と呼び、加熱したハムを「プロシュット・コット(調理済み)」と言う。
2種のハムのうちもっとも食べられているのがプロシュット・クルード(生)である。イタリアには良く知られたものだけでも20種以上ある。
それらのうち欧州(EU)基準のPDO(原産地呼称保護)認証を与えられている プロシュット・クルード は:
パルマ、サンダニエーレ、モデナ、トスカーナ、ヴェネト、カルペーニャ、ジャンボン・デ・ボス 、クネオ、ネブローディ、チンタ セネーゼ、またプロシュット・クルード ではないが プロシュット・クルード にも勝る風味のクラテッロなどがある。
片やPGI(地理的表示保護)認証を与えられている製品はノルチャ、サウリス、アマトリチャーノ 等である。
それらの品とは別に、自家製の プロシュット・クルード もあるようだが、豚の腸などに袋詰めにされて熟成させるサラミなどとは違って製造が難しいため、数は少ないと考えられる。
プロシュットやサラミを始めとするサルーミ(加工肉)類が好きな僕は、仕事や休暇で訪れる各地の プロシュット・クルード をせっせと食べた。
気がつくと、PDOやPGIに認定されていないものを含むイタリアのほぼ全ての地域の プロシュット・クルード を食べてきたと分かった。
それに加えて、やはり仕事や休暇で行く欧州各国でも地域原産の生ハムを食べたから、僕はあるいは義母以上のプロシュット・クルード 好きと言えるかもしれない。
義母のロゼッタPは数あるプロシュット・クルード の中でもパルマハムをこよなく愛した。
嫁ぎ先の伯爵家を出奔した後に彼女が居を構えたボローニャは、エミリア・ロマーニャ州の首都である。一方、パルマハムの産地のパルマは同州3番目の都市。
パルマハムの最高級品は、パルマよりもボローニャに集積されるという説もある。
ボローニャはパルマに近い且つパルマよりも大きな州都だ。生パスタの特産地としても知られ、イタリア有数の食の街である。
鮮魚が港町から大都市に送られて集積するように、一級品のパルマハムもより大きな消費地のボローニャに送り込まれる、ということなのだろう。
そのボローニャの台所は、旧市街の中心広場の隣に広がる市場である。そこにはパルマハムの極上品を扱う店が幾つもある。
ロゼッタPは市場にある一軒の店が馴染みで、彼女の料理人は週に3日ほど店に通って最高級のパルマハムを購入した。
そのハムはティッシュペーパーのように薄切りで、口に入れると甘く、文字通り溶けて舌にからんだ。
彼女は当初、市場から遠くない旧市街の一等地に住んだ。だが後にはそこを売却して、郊外にある英国様式の広い庭園のある館を購入し移り住んだ。
引っ越してからも、ボローニャ中心街のプロシュット専門店にこだわり続け、料理人は街中に住んでいた時と変わらずに、週に3度パルマハムを買いにバスで街に出た。
僕は義母の家で頻繁にパルマハムを食べた。彼女が庭園のある館に移った後、5年ほどは家族共々そこに同居さえした。ボローニャはかつて僕の地元でもあったのだ。
僕は仕事でイタリア中を旅した。既述のように行き先ではよく プロシュット・クルード も食べた。
また長いイタリア生活の合間には多くの国も旅した。プライベートは言うまでもなく、仕事の場合も手を抜かずにきっちりと食事をし生ハムにも親しんだ。
仕事はスタッフを伴ってのロケがほとんどなので、体力維持のための食事が欠かせなかった。スタッフにきちんと食事をさせるのもドキュメンタリー監督の仕事である。あらゆる国でよく食べた。
そんなふうに食事にかこつけては、イタリアを含むあらゆる場所で欧州中の生ハムを食べた。
だが、未だに義母の家で食べた
プロシュット・クルード に勝る味には出会っていない。
それでもイタリアの プロシュット・クルード に匹敵する美味い生ハムにはいくつか出会った。特筆したいのはスペインのハモンセラーノとハモンイベリコである。
ハモンセラーノはイタリアの プロシュット・クルード に匹敵する。プロシュット・クルード よりもやや塩気が強いが、それが独特の風味にもなっている。
片やハモンイベリコは、個人的にはパルマハムに勝るとも劣らない美味しさだと思う。だが、両者に優劣をつけるのは無意味だ。2つの製品は全く違う風味のいずれ劣らぬ名品である。
両者の違いは、好みと風流と品格がもたらす微妙な色合い、あるいはグラデーションのようなものだ。
口に入れればたちまち至福感に満たされる、という意味ではむしろ、同一の極上品と形容するほうが相応しい。