【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2024年12月

独裁者アサドに言い寄ったジョルジャ・メローニの拙い賭け  

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2022年10月に政権の座に就いたイタリアのジョルジャ・メローニ首相は、極右と規定され政敵からはネオファシストとさえ呼ばれたりする存在である。

彼女は政権奪取につながった2022年の総選挙の戦いでは、ファシスト党の流れを汲む極右の顔を隠さず反移民とEU懐疑思想を旗印に激しい選挙戦を繰り広げた。

ところが政権を握るとほぼ同時に彼女は、選挙戦中の極端な主張を引っ込めて、より「穏健な極右」あるいは「急進的な右派」政治家へと変貌した。

イタリアの政治土壌にある多様性が彼女を必然的にそう仕向けた。

反移民を声高に主張してきた彼女は、移民の受け入れを問答無用に否定しているのではないことも徐々に明らかになった。

メローニ首相はイタリアの人口が急速に減少を続け、2050年には人口の3分の1を超える国民が65歳以上の高齢者になることを誰よりもよく知っている。

観光から製造業や建設業、さらには農業に至るあらゆる産業が、若い労働力を痛切に必要としている。

メローニ首相は、EU各国の経済にとって合法的移民の割り当てが大きく寄与することを認め、そう発言しまたそのように動いている。

うむを言わさぬ移民排斥ではなく、必要な移民を合法的に受け入れるとする彼女の政策は、政権内の連立相手である同盟に弱腰と非難されたりもするほどだ。

その一方でメローニ首相はことし7月、G7構成国は言うまでもなく欧州の主要国としても初めて、13年間に渡って国民を弾圧し国際社会から孤立しているシリアのアサド大統領に接近した。

彼女が持ち掛けたのは、キリスト教徒の保護とシリア難民の帰還をアサド政権側が受け入れる代わりに、独裁政権との外交正常化を促進するというものだった。

ところが隠密裏に話し合いが進んできた12月8日、アサド政権は突然崩壊した。メローニ首相は独自路線を貫こうとした賭けに負けたのである。

アサド独裁政権にアプローチするとは、アメリカや欧州諸国と距離を取ることであり、アサド政権の後ろ盾であるロシアにも接近することを意味していた。

メローニ首相はウクライナ戦争に関しては明確に反ロシアの立場を貫いている。ところがシリアを通してまさにそのロシアとも近づきになろうと画策したようなのである。

したたかな外交戦略とも言えるが、同時にメローニ首相は、トランプ次期大統領やフランスのルペン氏などとも気脈を通じている。

イーロン・マスク氏に至っては恋愛関係があるのではないか、とさえ疑われたほどの親しい間柄だ。移民排斥の急先鋒でEUの問題児とも呼ばれるハンガリーのオルバン首相も彼女の友人である。

それらの事実は、彼女が懸命に秘匿しようとし、ある程度は成功してもいるネオファシストとも規定される極右の顔をいやでも思い起こさせる。

メローニ首相の脱悪魔化が本物かどうか僕はずっと気をつけて見てきた。

そしてためらいながらも ― 先に触れたように ― 彼女はより「穏健な極右」あるいは「急進的な右派」政治家へと変貌を遂げたと考えるようにさえなった。

だが、やはり、特にアサド独裁政権に歩み寄ろうとした失策を見ると、彼女に対しては厳重な監視が続けられるべき、というのが今この時の思いである。




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茶室とキリスト教 

謙虚の門広告削除716

今日12月26日は、キリストの死後に犠牲になった聖ステファノの祝日である。聖ステファノはキリスト教における最初の殉教者と規定される。

イエスキリストの生誕を祝う12月25日は言うまでもないが、カトリックではクリスマスの翌日の今日も重要な祝祭日。むろん旗日である。

若いころに住んだ英米を中心とするプロテスタント国では、ボクシングデイと呼ばれる12月26日よりも、クリスマスイブの24日を盛んに祝う印象があった。

だがそれは、若者同士が集って盛り上がったイブの印象が強烈な反面、裕福な家の者がクリスマスの翌日に、働き手や奉公人に感謝の意をこめて贈り物をする習慣を知らなかっただけ、と今なら分かる。

昨日はクリスマス恒例のミサに家族と出かけた。普段住まっているフランチャコルタではなくガルダ湖畔の教会である。

親しくさせてもらっている神父の説教の中で、ベツレヘムの聖誕教会の謙虚の門の話が出た。彼が若い頃にそこを訪ねた際の印象を信者に語ったのだ。

謙虚の門は、あたかも茶室の掟のごとく、権力者も中に入る際には頭を下げて、控え目 にふるまうことを強いているかのように見える。

謙虚であることはイエスキリストの本性である。従ってその意義が込められていても不思議ではない。だが一方で、十字軍の荒武者らが敵の侵入を防ぐために門を狭く低くした、という説もある。

日本文化とは違い、謙譲の美と威厳の表出を同じ程度に重視する西洋世界の心柄では、あるいは謙虚の門は茶室のにじり口とはちがうのではないか、と僕はミサの後で神父に問いかけた。

彼は茶の湯にも興味を持っていて、僕の指摘に驚きつつ、「あるいはそうかもしれない。しかし私は謙虚の門と茶室の入口には同じ意味もあると信じたい」と丁重に答えた。

僕は即座に彼自身の謙虚と誠実は信疑う余地がないと判断した。





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老人屠殺試案「Plan75」は日本でなら実際に起こり得る未来を描いたホラー映画だ

老婆手650

先日、安楽死がテーマの日本映画「Plan75」をネット配信で見た。

安楽死についてはいろいろ調べ少しは情報に通じているつもりだったが、 Plan75のことは知らなかった。

11月末に英国下院が安楽死法案を可決させた。それを受け改めて安楽死についての資料を探し検証するうちにPlan75のことを知った。

映画は2022年に公開された。コロナ禍が収まって世界中が喜びに沸いたころだ。僕もそこかしこに旅をしたりしてパンデミックから開放された喜びをかみしめていた。

そんな状況だったので、安楽死を扱ったPlan75の公開情報を見逃してしまっていた。

Plan75の舞台は、少子高齢化がさらに進んだ未来の日本である。そこでは75歳以上の高齢者に「死を選ぶ権利を認め」支援する制度Plan75が導入される。

あたかも社会福祉のように装われた制度は、今最もホットな論題の一つである終末期の患者が安楽死を選ぶ権利を有するかどうか」を問う法闘争とは全く意味合いが違う。

Plan75とは「老人抹殺」スキームでのことなのである。

美辞麗句を並べて実行される高齢者屠殺プランは、おぞましくも滑稽だが世界中でただ一箇所、つまり日本でなら実際に起こりうるかもしれない、と思わせるところが不気味だ。

日本的な安楽死論争の危うさは、ヒツジのように主体性のない多くの国民が、事実上「安楽死の強制」であるPlan 75が導入されても反乱を起こさず、唯々諾々と従うところにある。

当事者の老人たちは状況をただ悲しむだけで怒りを表さない。若者らも制度に違和感を持ったリ悩んだりする“素振り”は見せるものの、結局事態を受け入れる方向に流れるだけだ。

彼らも権威に従順な家畜であり、その他のあらゆる草食動物にも例えて語られるべき自我の希薄な無感動な人々だ。

彼らは死に行こうとする高齢者と接触するうちに少しの心の揺れは見せる。だが非情なシステムへの激しい怒りはない。飽くまでも従順なのだ。それが自我の欠如と僕の目には映る。

日本では未だに自我を徹底して伸ばす教育をしない。なぜなら自我を全面に出さないことが日本社会では美徳だからだ。だから自我が抑えられる。

そうやって自己主張を控える無個性の、小心翼々とした巨大なヒツジの群れが形成される。そこが日本社会の弱点だ。

牽強付会にも聞こえかねないことを承知で敢えて言えば、僕はそれらの若者のあり方に、民主主義を理解できない故に政治に関心を抱かず、従って投票にも行かない愚民そのものを見る。

曲がりなりにも 民主主義を謳う一国の政府は国民の映しえである。先ず国民ありきで政府があるのだ。

無自我でのっぺらぼうなぬえのような若者群と、その他の同様の心魂の国民が創り出したのが、因業悲惨政府でありPlan75である。

高齢者をまとめて屠殺場に送る社会は、いわば石が浮かんで木の葉が沈むようなシュールな世界だが、その 非現実が現実であってもおかしくない、と思わせるところが絶望的なのである。舞台が日本以外の国なら決してあり得ない現象だ。

例えばここイタリアでなら、カトリック教会が先ず立ち上がって待ったをかけ、国民が怒り、若者が暴動を起こすだろう。なぜなら彼らはPlan75が彼ら自身をも殺す施策であることをたちどころに理解するからだ。

安楽死は耐え難い苦痛に苛まれた終末期の患者が、自らの意志によって死を選ぶことであり、老人のみを死に追いやることではない。

むろん多くの日本人はそのことも知悉している。

だが主体的に思考し行動する「当たり前」の国民が、社会の大半を占めて民意が形成されるようにならない限り、Plan75の恐怖ワールドが現実になる可能性は決してなくならない。






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死の自己決定権をめぐる英国下院の一家言


英国安楽死賛成デモ大ロング800

英国下院は11月29日、遅ればせながら終末期にある成人の幇助自死を認める法案を可決した。

なぜ遅ればせながらかと言うと、幇助自死つまり医師が患者に致死薬を投与したり、患者の自殺に関与したりする作為を認めている国は、欧州を筆頭に世界に少なからず存在するからだ。

幇助自死を認めるとは言葉を替えれば、終末期患者が安楽死を選ぶ権利を認める、ということである。

それについてはスペインやイタリアまた南米のコロンビアなど、自殺を厳しく戒めるカトリック教国でさえ紆余曲折を経て黙認あるいは明確に法制化している。

プロテスタントの国のイギリスが遅れているのは、敢えて言えば、同国が民主主義国家でありながら王を戴く似非民主主義国家、つまり超保守国家だからという見方もできるかもしれない。

しかし、英国下院の取り組み方にはさすがと思わせる点がある。

それは安楽死をめぐる議題が、政治的な問題ではなく道徳的な問題と特定され、採決は各議員が所属政党の党議縛られない自由投票で行われたことである。

つまり一人ひとりの議員は、それぞれの良心と誠心また価値観等、要するにあるがままの自分の考え方に従って行動することを求められた。

安楽死は、国家権力が決めるものではなく、国民一人ひとりが能動的に関与するべき事案だ。なぜならそれは自らの生と死にかかわる生涯最大の課題だからである

英国下院はそのことをしっかりと認識していた。

だからこそ議員の一人ひとりは、党員あるいは選挙で選ばれた特殊な存在、つまり特権を持つ代議士としてではなく、飽くまでも赤肌の個人として課題に向き合い、熟考した後に投票することを求められたのである。

繰り返しになるが、安楽死はお上から下賜されるものではなく、必ず個々人が決意し選択し勝ち取るべきものだ。

そのあり方は、たとえば安楽死を描いた日本映画、Plan75に提示された日本人や日本的エトスとは大きく違う。

Plan75では、安楽死を「政府が75歳以上の高齢者に死を選ぶ権利を“認め支援する制度」

国が生死の選択権を“与える制度」などと表現される。

また予告編やキャッチコピー、あるいは映画レビューや解説文等でも「75歳以上の高齢者の「死ぬ権利」を“認めた日本」「果たして《死ぬ権利》は“認められるべきなのか?」

などなど、政府が国民に一方的に安楽死また安楽死の制度を押し付けるのが当たり前、というニュアンスの文言が巷にあふれた。

映画そのものも、安楽死を「認められる」つまり強制されても仕方がないものとして無意識のうちに了解しているのが垣間見える手法で描いている。そこが極めて日本的なのである。

高齢者も若者も健康な者も病人もなにもない。誰も彼もが政府の押し付けに唯々諾々と従う。日本国民は怒り、立ち上がり、叫び、殺気立って暴動に走ったりはしない。

75歳になったら死を選ぶ権利を獲得するとは、年金また社会福祉制度が破綻しつつあると喧伝され、且つ同調圧力が強烈な日本においては「強制」とほぼ同義語である。

日本的安楽死論の怖さは、高齢になれば政府に安楽死を強制されても仕方がないという諦観に基づく感情、言葉を替えれば従順なヒツジ的根性に支配された、飽くまでも受動的な民心の中にこそある。

片や英国下院の動きに象徴される英国的エトスあるいは民意とは、何よりも先ず個人個人の意思を最重視し、その後でのみ立法を探ることを許すというものであり、日本の民心とは対極にあるコンセプトだ。

僕は安楽死に賛成の立場だが、これまで「先ず安楽死ありき」で考察を進める傾向があった。だがそれは危険な態度だと最近は考えるようになっている。

安楽死は厳しい規制を掛けた上で本人が希望するなら必ず認められるべきだ。

だがその議論の前には、飽くまでも安楽死に反対して生命維持装置を外さず、医療も果ての果てまで続けてほしい、という人々の当たり前の願いだけが真っ先に、必ずかなえられるべきだ。

その後でのみ、ようやく僕のような安楽死賛成論者の言い分が考慮されるべきである。

つまり患者を徹頭徹尾「生かす」ことが第一義であり、安楽死賛成論は二の次の事案であるべき、と考えるのである。

英国下院の思慮深い動きは、僕の今の心境とも符丁が合う取り組みであり、僕はそのことをとても心強く感じた。



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ついにシリアの独裁者アサドに鉄槌が下った


バシャー挟んでアスマ&女王握手650
 

毎年めぐってくる12月7日はミラノ・スカラ座の開演初日と決まっている。

スカラ座の開演の翌日、つまり今日8日はジョン・レノンの命日だ。偉大なアーチストは44年前の12月8日、ニューヨークで銃弾に斃れた。

そんな特別な日に、記憶に刻むべき新たな歴史が作られた。

2024年12月8日、シリアの独裁者バッシャール・アサド大統領がついに権力の座から引きずりおろされたのだ。

2011年にチュニジアで火が点いたアラブの春は、リビア、エジプトを巻き込みシリアにも飛び火した。

だがアラブの春を呼んだ業火はバッシャール・アサドを焼き殺さなかった。

国民を毒ガスで殺すことも辞さなかった彼は生き残った。例によってロシア、イラン、中国などの閉じたナショナリズムに毒された国々が独裁者を助けた。

2011年から2024年までのアサドの圧政下では、毒ガスによるものを含め 50人以上が殺害され、600万人が国外難民となった。

2024年現在、ロシアはウクライナ戦争で疲弊し、アサド政権を支えてきたイランの代替勢力ヒズボラは、イスラエルに激しく叩かれて弱体化した。中国はロシアやイランほどの目立つ動きには出ていない。

アサド独裁政権が孤立しているのを見たイスラム武装組織HTSが主導する反政府勢は、2024年11月27日、電光石火にシリア第2の都市アレッポを制圧。

すぐに南進してダマスカスに至る都市や地域をほぼ一週間で手中に収めた。そして12月7日~8日未明、ついに、ダマスカスを攻略した。

アサド大統領は逃亡してロシアに入ったとも、イランにかくまわれたとも言われている。逃走の途中で飛行機が墜落して死亡したという情報もある。

アサド政権の終焉は朗報だが、しかし、それをアラブの春の成就とはとても呼べない。

なぜなら彼を排除したイスラム武装組織HTSは、過激派と見なされている。アメリカと多くの西側諸国、国連、トルコなどは、彼らをテロ組織に指定しているほどだ

シリアの民主化は恐らく遠い先の話だろう。それどころか同国を含むアラブ世界が、真に民主主義を導入する日はあるいは永遠に来ないのかもしれない。

アラブの春が始まった2011年以降、僕はアサド独裁政権の崩壊を祈りつつ幾つもの記事を書いた。

独裁者のアサド大統領はいうまでもなく、彼に付き添って多くの話題を振りまいた妻のアスマ氏の動静にも注目した。

「砂漠の薔薇」とも「中東のダイアナ妃」とも称えられた彼女は、シリア危機が深まるに連れて化けの皮を剥がされ「ヒジャブを被らない蒙昧なアラブ女性」に過ぎないことが明らかになった。

僕はそうなる前から、彼女にまとわりついていた「悲哀感」が気になって仕方がなかった。




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息子を恩赦したバイデンはトランプとどっこいどっこいの史上最低の米大統領かもしれない

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バイデン大統領は退任も間近になった121日、有罪評決を受けた次男ハンター氏を恩赦すると、突然発表した。

バイデン大統領はそれまで、何があっても息子を恩赦することはない、と繰り返し述べていた。

彼もまた人の親である。気持ちは理解できる。

だが、彼はこの世の最高権力者である米大統領だ。法の下の平等という民主主義の根幹を歪める行為は厳に慎むべきだ。

もっとも米大統領の正義や良心などというものは、カスでまやかしに過ぎない、とトランプ前大統領が世界に向けて堂々と示して以降は、彼らの愚劣さにはもはや誰も驚かなくなったが。

バイデン大統領の次男ハンター氏は、薬物依存を隠して不法に銃を購入した罪と、脱税の2つの罪でそれぞれ最長17年と25年の禁錮刑を科される可能性があった。

それらの罪の判決が出る前に、父親が全てチャラにする、と宣言したのである。

バイデン氏は前任者のトランプ大統領が恩赦を発表する度に、自分とは違い法の支配を軽視する言動をしていると繰り返し批判した。

例えば2019年、いわく:

「トランプ大統領は法の支配、米国を特別なものにしているわれわれの価値観、そして名誉ある軍服を着た男女の国民を裏切った」

トランプ大統領がRストーン氏を減刑にした2020年、いわく:

「トランプ大統領は現代アメリカ史上最も腐敗した大統領だ」

また2020年の選挙運動中、トランプ大統領が司法長官職を政治利用しているとしていわく:

「司法長官は大統領の弁護士ではなく国民の弁護士だ。今のような司法長官職の売春行為はかつて存在しなかった」

云々。

一方でバイデン大統領は次男のハンター氏の問題では、先に触れたように「司法判断を尊重する。息子は決して恩赦しない」と明言してきた

ところがふいに方向転換し、大統領権限を使って「国や司法よりも家族が大事」と、驚愕の判断を下したのである。

バイデン氏の名誉のために付け加えておけば、米大統領が家族や自らのスタッフ、また支持者などを免責するのはよくあることで珍しくもなんともない。

最近の例で家族に限って言えば2001年、退任直前のクリントン大統領が有罪判決を受けていた異母兄弟を恩赦した。
また2020年にはトランプ前大統領が、義理の息子クシュナー氏の父親を恩赦で免責にした。

だがどの大統領も、バイデン氏のように「恩赦は断じてしない」と繰り返し正義をふりかざした挙句に、豹変する醜態はさらさなかった。

バイデン大統領は、司法制度が万人に公平であり平等あるという法の支配の大原則に逆らって、家族を優遇し個人の利益を優先させた。

それは彼がトランプ前大統領に投げつけた「現代アメリカ史上最も腐敗した大統領」という言葉が、ブーメランとなって自身に襲い掛かることを意味している。

まもなく退任する彼は、驚きも喧騒も喜悦も殷賑ももたらさない陳腐な米大統領だった。

だが彼は、トランプ前大統領が破壊した欧州やアジアの同盟国との信頼関係を取り戻し、ロシアに蹂躙されるウクライナを徹底して支援するという重要な役割も果たした。

直近では米国提供のミサイルでロシア本土を攻撃してもよい、という許可をウクライナに与えて紛争の激化を招きかねないと非難もされた。が、少なくともそれには、北朝鮮軍を抑制するという大義名分があった。

それらの得点は、バイデン氏が息子を恩赦したことで帳消しとなり、あまつさえその行為によって、自身がトランプ前大統領とどっこいどっこいの史上最低の米大統領かもしれない、と世界に向けて高らかに宣言することにもなった。




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