【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2025年04月

死してなお民衆とともに生きる教皇フランシスコ

接写経て650

4月26日、第266代ローマ教皇フランシスコの葬儀が執り行われた。

キリスト教徒ではない僕は、教皇の就任式や葬儀、また彼らの普段の在り方等々に接する場合、ほぼ常に天皇と比較して見、考える癖がある。

今回も同じだったが、偉大な人物だったフランシスコ教皇の前には、彼に勝るとも劣らない先達がいたことを、先ず書いておくことにした。

「(移民を拒む)壁を作るな。橋を架けなさい」とトランプ大統領を諭したフランシスコ教皇の葬儀は適度に荘厳なものだった。

適度に荘厳とは、例えば2005年に行われた第264代教皇ヨハネパウロ2世や、3年前に死去したエリザベス英国女王の絢爛豪華な葬儀などに比べれば質素、という意味である。

儀式全体の慎ましさはフランシスコ教皇の遺志によるものだった。僕はそこに、いかにも清貧を重んじたフランシスコ教皇の弔いらしさを見て心を打たれた。

葬礼はバチカンの伝統に則って執り行われた。従って威風堂々たるものだった。だが参加者の顔ぶれや人数や式次第などは、前述の2人の葬儀に比較すると見劣りがした。

それはフランシス教皇自身が、華美を徹底的に排した式次第を生前に言い渡し、信徒に向けては私の葬儀に出席するのは止めてその分の費用を貧しい人に与えてください、と遺言していたことなどが影響したと考えられる。

また棺が従来よりも簡素なものになり、葬儀のあり方自体も徹底して絢爛が払拭された。埋葬そのものでさえ平易化 された。

埋葬場所がサンピエトロ寺院からサンタマリアマッジョーレ大聖堂に変更され、埋葬自体も教皇の家族のみで行わた。墓には簡潔にFrancescus(フランシスコ)とのみ刻まれた。

それらは全てフランシスコ教皇の遺言によって実行されたものである

「貧しい人々と弱者に寄り添え」と言い続けた教皇は、ただそう主張するだけではなく、実際に清貧のうちに生きて自らを律した。死して後も虚飾を否定して、真に民衆と共に歩む姿勢を明確に示した。

その哲学は独自のものだったが、同時に先達もいた。

彼の生き様は、歴代の教皇のうち、善良な魂を持つ少なくない数の教皇らの足跡をたどったものでもあった。

例えば素朴な羊飼いの杖が、時間経過と共に変遷進化して十字架の形をした笏杖(しゃくじょう)になり、十字に3本の横棒が付いたものは教皇だけが使用できる特別な用具になった。

第262代教皇パオロ6世は、それを教皇の権威の象徴であり思い上がりだと非難して、3本の横棒の付いた笏杖を廃止し十字架のキリスト像を導入した

十字架の笏杖は、着座33日で死去したヨハネ・パウロ1世を経て、パウロ6世を事実上引き継いだヨハネ・パウロ2世によって最大限に活用された。

ヨハネパウロ2世は26年余に渡って教皇の座に居た。彼は多くの功績を残したが、最も重要な仕事は故国ポーランドの民主化運動を支持し、鼓舞して影響力を行使。ついにはベルリンの壁の崩壊までもたらしたことである。

さらに彼は敵対してきたユダヤ教徒と和解し、イスラム教徒に対話を呼びかけ、アジア・アフリカなどに足を運んでは貧困にあえぐ人々を支えた。同時に自らの出身地の東欧の人々に「勇気を持て」と諭して、既述のようについにはベルリンの壁を倒潰させたと言われている。

ヨハネ・パウロ2世は単なるキリスト教徒の枠を超えて、宗教のみならず、政治的にもまた道徳的にも人道的にも巨大な足跡を残した人物だった。

ヨハネパウロ2世が好んで用いたのが十字架上のキリストをあしらった笏杖である。彼は笏杖を捧げ持ち頭を垂れて沈思黙考し、あるいは沈痛な面持ちで神に祈る構えの写真を多く撮られている。

それは彼自身とバチカンの戦略であり、同時にメディアが仕組んだ構図だとも考えられる。

その絵はヨハネパウロ2世の功績にぴたりとマッチするものだった。彼は民衆に寄り添うと同時に権威も兼ね備えた完璧な存在だった。

世界各地の問題に真摯に立ち向かいつつ、強者には歯向かう恐れを知らぬ勇者だった。強さと謙虚と慈悲心に満ちた偉大な宗教者であり人格であったのがヨハネパウロ2世だ。

人々は彼がひんぱんに捧げ持つ笏杖は、宗教的存在としての彼の手引きであり、人間存在としての彼の誠心の象徴だと捉えた。

今般亡くなったフランシスコ教皇は、ヨハネパウロ2世によって枢機卿に叙任された。そのことからも分かるように彼は終生ヨハネパウロ2世を崇敬しその足跡をたどった。

同時に彼独自のスタイルも編み出し堅持した。

ひと言で表せばそれは清貧である。彼は徹底して貧者と弱者に寄り添う道を行った。彼にとってはヨハネパウロ2世の笏杖でさえあるいは奢侈に見えた。だからめったにそれを手にしなかったのではないか。

彼の師であり憧れだったヨハネパウロ2世も、むろん弱者に目を向け貧者を救う行動を多くした。同時に彼は巧まざる権威とカリスマ性にも満ちた稀有な存在だった。

フランシスコ教皇は自らを「弟子」と形容することがよくあった。それは言うまでもなくイエス・キリストの弟子であり、民衆に仕える謙虚な僧侶また修道士という意味の弟子であると考えられる。

同時にそこには自らをヨハネパウロ2世の弟子と規定する意味もあったのではないか、と僕は推察するのである。

フランシスコ教皇の葬儀は、彼の死生観と生前に発意した質素な内容の式次第に沿って進行し、見ていて清々しいものだった。

そこには眼を見張るほどの荘重さはなかったが、故人の生き様を表象する清廉さに満ちていた。

フランシスコ教皇は質朴に生き、弱者に寄り添い、強者に立ち向かう一点において、ついに彼の師であり憧憬でもあったヨハネパオロ2世を超えてはるかな高みに至り、輝いていると思う。



facebook:masanorinakasone












訂正&お詫び

則顔鼻毛イラスト650

415日記事「生の入相に遊ぶ島の春やイタリアの春」で、アーティストのPranks を学生時代の友人と書きましたが、正確にはPranksとは友人と女性の「男女二人のユニット」であるとの指摘を受けました。


ユニットを友人であるPranksと写真家、と私が思い込んでしまったのが間違いのもとでした。


訂正して深くお詫び申し上げます。


人間力で世界を魅了した教皇フランシスコ

Papa-Francesco-notte-di-Natale-Dio-arriva-gratis_opengraph

フランシスコ第266代ローマ教皇が死去した。

世界約14億人のカトリック信者の心の拠り所であるバチカンは、かつて大ヨハネ・パウロ2世の力で前進した。

だがバチカンは、彼の後任のベネディクト16世時代に後退、あるいは停滞した。

2013年、バチカンはフランシスコ教皇の誕生によって再び希望の光を見出し、前進を始めた。

フランシスコ教皇は徹底して弱者に寄り添う「貧者の教会」の主として、疎外され虐げられた人々を助け、同性愛者や破綻した信者夫婦の苦悩を受け留め、勇気を持って忠実に普遍的な愛に生きよ、と人々を鼓舞し続けた。

2019年には来日して、「核兵器の保有は倫理に反する」と呼びかけ核抑止論を真っ向から否定した。

彼はまたキューバとアメリカの関係改善に尽力し、バチカン自身と中国との和解劇も演出した。

同時にバチカンの改革も積極的に推進。シリア内戦に始まる世界紛争の終結を目指した活動にも余念がなかった。

フランシスコ教皇は、宗教的また政治的にも大きな存在だった。

だがそれよりも彼は、人間として偉大な人物だった。

清貧の象徴であるイタリア・アッシジの聖人フランチェスコの名を史上初めて自らの教皇名とした彼は、その名の通り飾らない性格と質素な生活ぶりで信徒は言うまでもなく異教徒にさえ愛され、尊敬された。

ローマ教皇という巨大な肩書きではなく、人格によって人々を平伏させたのがフランシスコ教皇だった。

それは現上皇である平成の天皇が、天皇という地位ではなく、人間力によって日本人と世界世論の深い尊敬を集めた事実とも重なる。





facebook:masanorinakasone





生の入相に遊ぶ島の春やイタリアの春

喜平表650

3月末、島の海開きは寒くて浜に下りられなかったという知らせを那覇の栄町市場の飲み屋で聞き、4月2日から一週間、東京で花見をし、飲み、食べ遊んだ後、香港経由でイタリアに戻った。

イタリアも春である。

だが同じ春でも空気の芯に暑気が潜む島の春とは違う。

いわば冬を打ち負かした暖気が、じわじわと辺りの環境に染みこんで充満していくような、本来の春らしい空気感である。

菜園には雑草が生い茂っている。

まずチビ耕運機を駆って土を起こし、各種サラダ菜の種を撒き、トマトやピーマンやナスまたズッキーニなどの果菜類の苗を買って植え付けて行く計画。

日本からの戻りが遅かったので少し動きが鈍くなるが、これからでも野菜たちは十分に育ってくれるだろう。

東京では学生時代の友人のPranks(ペンネーム)君にも会った。

彼はほぼ60歳になろうとする頃ふいにイラストを描きはじめた。

10年ほど前の話だ。

還暦まで自らの絵描きの才能に気づかなかったという男は不思議だが現実だ。

数千枚が仕上がった時に展覧会や出版を行った。僕の記事にも幾つか使わせてもらった。

人生を振り返る年代になっても描き続ける彼の姿は、驚きと勇気と元気を辺りに振りまく。

僕を含む同年代の最早若くない者たちをも鼓舞して、頑張ろうという気にさせてくれる。

来し方を見返すのもいいが、人生は常に勝負と捉え心して進むべし、という生き方もまたありだろう。

テレビ屋の僕は、コロナ禍を機にもうロケには出ないと腹を決めたが、飽きが来ない限りは執筆に力を入れようなどと思っている。

執筆と旅と野菜作りが今の僕の日々である。

そこにはワインとビールと少しの日本酒などが彩りを添える




facebook:masanorinakasone





南の島も時には寒かったりもする

トブゥリへの道と海800


3月末の島の海開き(浜下り)は、ぶるぶる震える寒さだったため誰も海には出ず、各家で名ばかりのビーチパーティを開いた、という知らせがあった。

島の春は急ピッチで暖かいが、時として寒い。

寒さの元凶は風である。

気温がそれほど下がらなくても、風が吹けば体感温度がぐんと下がる。

そして島はひんぱんに強い風に見舞われる。

加えて島の家々の暖房設備は手薄だ。

かくして島では風が吹きまくる外も、冷えるにまかせた家の内も寒い。

むろんそれは時たまに起こる現象である。

南の島の春は基本的に早く、暑気をはらんだ温もりに満ちている。

寒気はまれなのである。 


facebook:masanorinakasone


記事検索
月別アーカイブ
プロフィール

なかそね則

カテゴリ別アーカイブ
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ