【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2025年05月

一つ屋根の下の捕食者一家に萌えとろける

一羽(2025)800

小型の鷹あるいは隼ハヤブサらしい鳥が、初めてわが家の軒下に巣を作ったのは2019年の初夏である。

自家はイタリアのシャンパン、「スプマンテ」の里として知られるフランチャコルタにある。

家の周囲には有機農法で耕やされる広大なぶどう畑が連なっている。上空には多くの鳥が舞う。

ぶどうが有機栽培なので昆虫などの生き物が増え、それを狙う動物も目立つようになった。

それらを追うらしい猛禽類も盛んに滑空する。夕刻と早朝には小型のフクロウの姿も目撃できる。

ぶどう園にはネズミなどのげっ歯類も多く生息している。野兎さえ目撃されることがある。

中世風の高い石壁を隔てて、ぶどう園につながっている完全有機栽培の僕の菜園にも多くの命が湧く。虫も雑草も思いきりはびこっている。むろん鳥類も多い。小さなトカゲもにぎやかに遊び騒ぐ。 ヘビもハリネズミもいる。

ハリネズミは石壁の隙間や2ヵ所の腐葉土作り場、また菜園まわりに生いしげる雑草の中にまぎれ込んでいたりする。

ヘビは毒ヘビのVipera(鎖蛇)ではないことが分かっているので放っておく。が、出遭うのはぞっとしない。僕はへびが死ぬほど好きというタイプの人間ではない。

どうやらそれは向こうも同じらしい。なぜなら簡単には姿を見せようとしない。

ここ数年は顔を合わせていないが、脱皮した残りの皮が石壁や野菜の茎などにひっかかっていて、ギョッとさせられる。

ヘビは僕と遭遇する一匹か、命をつないだ別の固体が、今日もその辺に隠れているにちがいない。

猛禽類の隼(と呼ぶことにする)は、にぎやかな下界の様子に誘われてわが家の軒下に営巣を決め込んだ。

というのは言葉の遊びだが、餌となる生き物が多く生き騒ぐから、それらの近くに巣を作ったということなのだろう。

落ちぶれ貴族の膨大なボロ家であるわが家の屋根は高い。広大な屋根裏は倉庫になっていて、全体に通風孔がうがたれている。

2019年、隼は通風孔の一つに設置された照明の裏側に営巣して子育てをした。僕は屋根裏からそっと近づいては写真を撮っていたが、一度母鳥に気づかれて大騒ぎになった。

母鳥は爪を立てて恐ろしい形相で僕に襲い掛かろうとした。だが鳩の侵入をふせぐために設えられている金網に阻まれた。隼は激しく羽を逆立ててその金網をつかみ鬼の爆発顔で必死に僕を威嚇した。

それに懲りて僕は撮影に慎重になった。懲りたとは、母鳥が怖いというのではなく、逆に僕が彼女を恐怖させることに懲りた、という意味だ。

危険を感じて、母鳥が雛を見捨てるなどしたら僕の責任は重大だと気をもんだ。

遠くから観察して分かったのだが、母鳥は子供がごく小さいときは片時も巣を留守にしない。隼や鷹はつがいで子育てをする。父鳥が獲物を運んで母子を養う。

ことしは撮影の難しい昨年と同じ場所に巣が作られた。雛が幼い間は母鳥はずっと子供のそばにいて、どんなに息を殺して近づいても気づかれてしまう。

母鳥(同じ個体かどうかは分からないが)は、2019年に僕が不注意に巣に近づいて鬼の形相になった時とは違い、遠くの僕に気づくと立ち上がって雛から離れ、それでも飛び去ることはできず不安げな横目でこちらをちらちら見ている。

そのたたずまいがあまりにも切ないので、僕はそっと体を引き息を殺して立ち去ることしかできない。

だが母鳥がいないときは、雛を怖がらせないように細心の注意を払いつつ消音モードのスマホで写真を撮っている。

昨年はポルトガル旅行で留守にしていた間に雛は大きく育ち、帰って見ると5羽いたうちの2羽だけが残っていた。後の3羽は巣立ちしたのか死んだのか分からなかった。

早く大きくなった雛は、生存をかけて兄弟雛を殺したりもするらしい。ここでもそんな命のドラマがあったのかもしれない。

そう考えると、自然の摂理とはいえ、少し胸が痛んだりもする。

ことしも卵は5個だが、1個だけ離れた場所に寄せられていた。親鳥はどうやってそれを抱くのだろうと訝る前に、彼らは鋭い本能で卵が死んでいるのを悟るのだと気づいた。

その卵は、4羽の雛が孵化した後もしばらく巣の脇に残されていた。それを見て僕はふと「死児(しじ)の齢(よわい)を数える親」と言う言葉を想った。
卵は、しかし、いつしか巣から消えた。親鳥が片づけたようには見えない。

雛たちが餌を前に騒いだり遊んだりしているうちに蹴落としたのだろうか。





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向かうところ敵なしの大の里の退屈

大の里650

大相撲5月場所は大関大の里の優勝で幕を閉じた。

全勝優勝も期待されたが、結果は14勝1敗。それでもりっぱな成績だ。

2場所連続の優勝で横綱昇進も確実にした。

怪物とも呼ばれてきた大の里は、横綱昇進までにかかった場所数が伝説の輪島を抜くなど、大物ぶりが目立つ力士だ。

だが彼の相撲には、磐石と形容できるほどの強さはまだない、と僕は見る。

夏場所5日目、強力な押し相撲の玉鷲を一気に寄り切った相撲を見たときは、強さは本物だと実感した。

その後も大の里は勝ち続けた。だが玉鷲戦で見たいわば不動の強さのようなものは、僕の目には再びは映らなかった。

その理由ははっきりしている。

大の里はパワーだけで相手を圧倒していて、四つ相撲の型がない。

彼の得意な戦い方は、右差し左おっつけでがむしゃらに前に出る形だ。そこで巨体と馬力とスピードが合わさって相手を圧倒する。

四つ相撲が好きな僕にはそこが物足りない。

いまこの時面白いのはウクライナ出身の若武者安青錦と若隆景だ。

巨人の大の里に比較すると小兵にさえ見える彼らのほうが、技能的で味わい深い相撲を取っている。

綱を張る大の里には、巨体を繰り出してのぶちのめしばかりではなく、技能相手を翻弄する四つ相撲もぜひ身につけてほしい。



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教皇レオ14世就任式(ミサ)外伝

王族出席者650

日本政府代表として新ローマ教皇就任式(ミサ)に出席した麻生太郎自民党最高顧問は、各国のロイヤルや権門またセレブなどの影に隠れて姿が見えなかった。

イタリアほか世界中のメディアは、残念ながら麻生さんには全く興味がなかったから彼の姿をカメラで捉えることはなかった。

ネットを巡って、やっとこさで日本人が撮ったと思われる写真にたどり着いた。見ると彼は、やっぱり得意のボルサリーノ帽子姿だった。

似合わないし粋でもない、というのは僕の個人的な見解だから脇に置くとしても、浮いている、という意味でやっぱり滑稽だと思った。

英国のエドワード王子もパナマ帽っぽい伝統的なハット姿だったが、こちらは着こなしがさりげないため粋に見える。

目立ちたがりの装いが一番ダサイのだが、麻生さんはどうしてそんなシンプルな不文律が分からないのだろう。

彼は放言失言無神経の目立つ政治家だが、人間的には憎めないところもある人物、と僕は個人的には考えているので少し残念だ。

麻生さんの組長ファッションは、ま、ご愛嬌だとは思うのだが、日本政府代表というのは国民の名代でもあるのだから、日本国民のひとりとしてはどうしても、なんだかなぁ、という思いが拭えない。

それとは別に僕の気を引いたのは、就任式に出席した米バンス副大統領が「レオ14世をホワイトハウスに招待したい」旨のトランプ大統領からの手紙を教皇に手渡したというニュース。

むろんそこには、レオ14世が史上初の米国出身ローマ教皇という事情もあるが、トランプ大統領はバチカンと教皇が世界に及ぼす影響力の大きさを熟知しているふしがある。

トランプ大統領は既に、レオ14世がウクライナとロシアの仲を取り持って、戦争を終結できるかもしれないと期待する旨の発言をしたりしている。

大統領に返り咲いたらウクライナ戦争を1日で止めさせる、と豪語していた彼の仲立ちは暗礁に乗り上げて、仲介行為から手を引くと匂わす発言をするなど、大統領就任前の大風呂敷の空しさを露呈しまくっている。

そんな状況もあって、彼はレオ14世に終戦に向けての取り持ちを期待しているのだろう。そしてレオ14世は、トランプ大統領に頼まれなくても、必ず平和へ向けての行動を取るに違いない。

だがそれはトランプ政権への彼の好意を意味しない。レオ14世はトランプ大統領への外交辞令は欠かさないだろうが、政権への批判も隠さないだろう。隠さないことを期待したい。

トランプ岩盤支持者のうち、スティーヴ・バノン氏などグローバル政治に少しは通じている者は、レオ14世はアメリカ出身ながらトランプ政権に否定的と見做して早くも批判を強めている。

トランプ大統領がレオ14世の立ち位置を知らないわけはないが、彼は何とかして教皇の心をつかみたいとひそかに画策しているようにも見える。

トランプ唯我独尊大統領は、そういうところはなかなかしたたかなのである。




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麻生太郎最高顧問は得意の組長ファッションでレオ14世就任式に出席するのだろうか

マフィアとサメの脳みそ

明日5月18日に行われる新ローマ教皇レオ14世の就任式には、世界各国から国家元首やら首脳やらを始めとする要人が多数出席することになっている。

その顔ぶれの多くは、欧米やアフリカを中心に4月21日に亡くなったフランシスコ教皇の葬儀出席者に重なる。

欧米の何人かをピックアップすれば、例えば当事国イタリアのマタレッラ大統領とメローニ首相、英国からはウイリアム王子に代わるエドワード王子とスターマー首相、フランスのマクロン大統領、ドイツのメルツ首相、フォン・デア・ライエン欧州委員会委員長などである。

またアメリカからは、トランプ大統領の危なっかしいイデオローグでカトリック教徒のバンス副大統領と、同じくカトリック教徒のルビオ国務長官が出席する。

ウクライナのゼレンスキー大統領も顔を出す予定だ。

わが日本は誰が出席するのかと見てみれば、なんと麻生太郎自民党最高顧問だそうだ。

麻生氏はカトリック教徒だから妥当な人選という見方もあるだろうが、噴飯ものの組長ファッションで教皇就任を祝うバチカンのミサに出席するかも、と考えると個人的にはちょっとコワイような、でも見てみたいような。

だが冗談はさておき、ここはやはり皇室の誰かが出席したほうが、世界の評判的には格段に良かったのではないかと思う。

ちなみに主だった世界の王室関連の出席者は、ベルギーのフィリップ国王、前述のイギリス・エドワード王子、 モナコ公アルベール2世、 オランダのマクシマ王妃、スペインのェリペ国王とレティシア王妃など、など。

天皇皇后の出席が無理なら、せめて秋篠宮など重みのある皇室の一員が顔を出せば、日本の面目が大いに立つのに、と僕は思う。

存在そのものがジョークにも見える麻生太郎最高顧問を地上の大舞台である教皇就任式に送り込むのは、情誼外交の重大を理解しない日本政府の、相も変わらぬ世間知らずの現れだとしか僕には思えない。



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新ローマ教皇レオ14世が図らずも成し遂げた大事業

ルイ14世初顔出し650

新ローマ教皇レオ14世が誕生して一週間が過ぎた。

新教皇が生まれる時はいつもそうであるように、イタリアはまだまだ祝賀ムード一色に染まっている、と言いたいところだが、2013年のフランシスコ教皇誕生時とは違って興奮は急速に収まった。

ウクライナ戦争終結を目指してトランプ米大統領が中東入りすることや、プーチン大統領がトルコに出向く、いや出向かないなど、戦争をめぐる大きな動きがメディアの最大の関心事になって、新教皇関連のニュースは二の次になっている。

レオ14世はウクライナとガザの2つの戦争を念頭に、選出以来あらゆる機会を捉えて平和の重要性を指摘し停戦を呼びかけている。当然のことである。

新教皇へのイタリア人の、そして世界のカトリック教徒の暖かい声援は尽きない。それは初々しい教皇に対する人々のごく普通の反応だが、今回は少し違う。

教皇が史上初のアメリカ出身という事実が後押しして、アメリカ国民の関心が異様に高くなっている。バチカンや教皇とは何ぞや、ということを初めて知った人々も多いに違いない。

それらの人々が無邪気に喜ぶさまが、欧州や当のアメリカのメディア上で躍っている。

それは先月、教皇フランシスコの死去に伴って、新教皇選びの秘密選挙・コンクラーベが開かれることになり、タイミング良く公開された映画「コンクラーベ・教皇選挙」の視聴者が、米国内で爆発的に増えた現象に続く目覚しい事態だ。

トランプ大統領がアメリカ人教皇の誕生を大いに喜び、国にとって極めて名誉なことだと表明したことが象徴的に示すように、普段はバチカンや教皇に関心のないアメリカ人が手放しで浮かれる様子はとても興味深い。

そうした朴直な大衆は、ヨハネ・パウロ2世の出身国のポーランド、次のベネディクト16世のドイツ、そして前教皇フランシスコの母国のアルゼンチンなどでも雲霞の勢いで出現した

つまりメリカで、大量のアメリカ人教皇ファンが増えていること自体は何も特別なことではないのである。それがアメリカであることが印象的なのだ。

アメリカは今、トランプ政権のけたたましい反民主主義的、あるいはファシズム的でさえある政策や思想信条に席巻されている。それはバチカンが伝統的に否定し対峙してきた政治体勢である。

アメリカ国民の半数近くはバチカン思想信条と親和的だろう。だが半数以上の国民は、バチカンのスタンスとは相容れないトランプ主義の支持者でありそれの容認者だ。

片や、彼らと同じアメリカ人のレオ14世は、民主主義の信奉者であると同時にフランシスコ教皇の足跡をたどって弱者に寄り添い、慎ましさを武器に強者にも立ち向かっていくことが期待されている力だ。

トランプ主義を容認する国民のうちの何割かがこの先、レオ14世に感化されて転向すれば、トランプ政権は行き詰まる。あるいは4年後の選挙で瓦解する可能性が高くなる。

それは荒唐無稽な話ではない。過去にはローマ教皇をめぐってもっと大きな歴史的事件も多く起きている。

例えば2005年に亡くなった第264代教皇ヨハネ・パウロ2世は1980年代、、故国ポーランドの民主化運動を支持し、「勇気を持て」鼓舞して同国に民主化の大波を発生させた。

その大波はやがて東欧各地に伝播して、ついにはベルリンの壁を崩壊させる原動力になった、とも評価される

教皇ヨハネ・パウロ2世の当時の敵は共産主義だった。

レオ14世が真にフランシスコ教皇の足跡を辿るなら、彼の敵の一つは必ずファシズムまがいのトランプ主義だろう。

トランプ主義を打倒するのは、気の遠くなるような壮大な事業だった共産主義破壊活動に比べれば、何ほどのこともない。やすやすと達成が可能な政治目標のようにも見える。

だがその前に新教皇は―再び言う ― トランプ大統領を含む膨大な数のアメリカ国民の目を彼自身とバチカンに引き付ける、という大事業を軽々と成し遂げた.

今後のレオ14世の活躍がとても楽しみである。




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新教皇レオ14世は彼が何者かではなく「何を為すか」で歴史の審判を受ける

新教皇システィーナ礼拝堂凱旋(天井画全込み)650

アメリカ出身のローマ教皇が誕生した。

5月8日、予想よりも短い時間で教皇選出の秘密選挙・コンクラーベが終わって、予想外の男が世界14億の信徒を導く最高位司教の座に就いた。

予想外の男という印象を与えるのは、心魂を司るのが王道の宗教組織のトップが、金と欲と争いにまみれた俗世の物質文明に君臨するアメリカ出自の者であってはならない、という考えがバチカンの底流にあったからである。

アメリカ出自の教皇を阻止するいわばファイアーウォールが、ローマ教会に存在するのは公然の秘密だった。

それは、自国中心主義を掲げて世界を絶望の淵に落としている、ファシスト気質のトランプ政権が居すわる昨今は、特に重要だと見られていた。

ところがこともあろうに今この瞬間に、出自故にトランプ政権に親和的であっても不思議ではないはずの教皇が出現したのである。

それは不吉な出来事にも見える。余りにも出来過ぎた符号は、あるいはトランプ大統領がコンクラーベに裏から手を回して操作したのではないか、という荒唐無稽な憶測さえ呼んだ。

なにしろトランプ大統領はコンクラーベに際して、次期教皇に相応しい枢機卿がニューヨークにいる、などとうそぶいていた事実もあるのだ。

一方で新教皇レオ14世は、トランプ政権に対しては批判的であったことが知られている。特に政権の移民排除策に関しては、「壁ではなく橋を作れ」と異見したフランシスコ教皇に倣う立場だと見られている。

アメリカ出身のレオ14世が、自国の強権力者のトランプ大統領に歯向かうのか擦り寄るのか。それはレオ14世の正体が見える試金石になるだろう。

レオ14世とバチカン司教団は、「われわれはトランプ大統領の対抗勢力ではない」という趣旨の声明を出している。それが真実であるか外交辞令であるかは、遠くない将来に明らかになるはずだ。

言葉を替えればレオ14世は、今この時の世界不安の元凶であるトランプ大統領に、前教皇フランシスコが示したような、穏やかだが断固とした態度で立ち向かえるのかどうかを試されることになる。

個人的には僕は、レオ14世はトランプ主義に異を唱えるバチカンの良心になる、と少しのポジショントークをまじえながら考えている。

その理由は彼がコンクラーベにおいて、「予想外」の速いスピードで教皇に選出された事実である。

120~135人ほどの枢機卿が互選で教皇を選出するコンクラーベは紛糾することが多い。そこには様々な政治的駆け引きが展開される。いつのコンクラーベでも改革派と守旧派が勢力を競い合う。

そしてバチカンは、多くの宗教組織がそうであるように、守旧派が強い力を持つ。そこにはクーリアと呼ばれる官僚組織があり、彼らがコンクラーベにも隠然たる影響を及ぼす。対立は分断を呼んで選挙が複雑になり長引く傾向がある。

今回のコンクラーベは特にその傾向が強くなると考えられた。理由は次の如くだ。

フランシスコ教皇は、信者の多いアジア、アフリカを始めとする地域に多くの枢機卿を任命して、欧州偏重から多様性へとシフトする政策を続けた。

それを受けて、世界71国から投票資格を持つ枢機卿が集まったため、意見が錯綜して余計に選挙が長引くと見られていた。

レオ14世は枢機卿時代、フランシスコ教皇の改革運動を支持する進歩派の内のやや中道寄り、というスタンス見られていた。やや中道寄りと言うのは、例えば彼は同性愛者などに対して、フランシスコ教皇ほど好意的ではなかったからだ。

だが彼の保守性は、フランシスコ教皇が率いる改革派に属しながら、守旧派の賛同も得やすいという効用ももたらした。

そうした状況が、出自が多彩な、従って意見の相違も大きいフランシスコ教皇派の枢機卿団と、保守派の意見の一致を速やかに演出して、結果素早い教皇選出になった。

彼は改革派と保守派また世界の分断にも橋を架ける能力のある人物、と選挙人である双方の枢機卿団が判断し、レオ14世に票が集まった、という理屈である。

ではなぜそうなったかと考えるとき、そこには故フランシスコ教皇の強い遺志が影響してしたのではないか、と僕は考えている。

清貧と弱者への奉仕を最大の義務と定めて、信徒の熱い信望を一身に集めたフランシスコ教皇は晩年、病と闘う日々の中で自らの葬儀を簡略にするためあらゆる改革を実行した。のみならず遺言にも残した。

死して後も、信者と共に謙虚と誠心の中に生きようとした教皇は― 先に触れたように― 在任中にアジア、アフリカまた中南米など、欧州を凌駕して信者が増え続ける地域で、教皇選出権を持つ枢機卿を多く任命した。

フランシスコ教皇は、死期が近づき病と闘う時間が重なった頃、自らが見出してその思想信念を教え諭した枢機卿らに、彼の死後のコンクラーベでは誰に投票するべきか、あるいは誰に投票して欲しいかを言い残していた可能性がある。

言葉を替えれば、教会の分断を解消し対立に橋を渡して信徒を救い、同時に世界にも貢献できるローマ教会の指導者は誰であるべきかを、「示唆」し続けた可能性が高い。

それゆえにコンクラーベでは、自分を含む大方の予想を裏切って迅速な結果が出たのではないか、と僕は推察するのである。

何はともあれ新教皇レオ14世は、世界14億のカトリック教徒とその共鳴者や友人、またその逆の人々までもが注視する唯一至高の聖職首座に就いた。

彼は「何者か」になったのである。

選ばれた「何者か」は、彼が誰であるのかではなく、「彼が何を為すのか」によって歴史の審判を受ける。

彼の前任である偉大な教皇フランシスコ、またその2代前のヨハネパウロ2世を含む、過去266人の全てのローマ教皇がそうであったように。

あるいは平成の天皇である明仁上皇が、 戦前、戦中における日本の過ちを直視し、自らの良心と倫理観に従って事あるごとに謝罪と反省の心を示し、戦場を訪問してはひたすら頭を垂れ続けて世界を感服させたように。





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 コンクラーベを横目に見ながら

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ローマ教皇を決める選挙・コンクラーベが5月7日の午後から開催されている。

133人の枢機卿がバチカンのシスティーナ礼拝堂に籠もって互選の投票を行う。

投票は一日に4回。午前と午後にそれぞれ2回づつ行われる。

結果は投票用紙を燃やして煙突から煙を上げることで外界に知らされる。

当選者が出ると白煙、出ない場合は黒煙が上がる。

投票初日の昨日は当選者は出なかった。2日目の今日も午前中2回の投票が不発に終わって黒煙が上げられた。

午後の結果はまだ分からない。

コンクラーベの様子はイタリアのメディアはいうまでもなく、欧州中また世界中のテレビやネットで生中継されている。

僕は仕事と菜園作りの合間に、イタリアのテレビと欧州の他の国際放送をザッピンしながら横目で追いかけている。

いくつものチャンネルを回し見るのは、コンクラーベがカトリック教の域を超えて、世界中の人々の注目イベントであり続けているのを確かめたい思いからだ。

僕はキリスト教徒ではないが、多くの非キリスト教徒のイタリア人や、キリスト教徒だが熱心な信徒ではない人々と同様に、強い関心を畏敬のオブラートで包んで静かにイベントを見守っている。

畏敬の念は、バチカンが多くの醜聞や問題に見舞われながらも、良心と誠心に沿って信徒を導き世界の不正や暴虐に立ち向かおうとする強い教皇を排出することが多いからだ。

最近では4月21日に亡くなったフランシスコ教皇や、2005年に逝去した教皇ヨハネパウロ2世などがその典型だ。

世界には多くの宗教がある。カトリックはその中でも最大のものだ。

その最大の宗教を率いる者が、フランシスコ教皇やヨハネパウロ2世のような優れた人格者であり指導者であることを僕は願う。

だからコンクラーベの行方が気にかかる。




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映画「コンクラーベ」と「真正コンクラーベ」を較べて見れば

仕切り役650

4月初旬、映画Conclaveを日本からイタリアに飛ぶ便の中で観た。映画の日本語タイトルが「教皇選挙」であることは後にネットで知った。

内容は「新しい映画とは何か」という問いに十分に答え得るもので、そのことについて書こうと思っていた矢先、フランシスコ教皇が亡くなってリアルな教皇選挙、コンクラーベが開催されることになった。

僕はフランシスコ教皇が選出された2013年のコンクラーベの際に少し勉強して、秘密選挙であるコンクラーベについてある程度の知識を得ていた。それなので映画の内容がすんなりと腑に落ちた。

腑に落ちたというのは、リアルなコンクラーベの詳細を知った上で、フィクションである映画Conclaveのメッセージに納得したという意味である。

ローマ教皇は世界におよそ14億人いるカトリック教会の最高指導者。「イエス・キリストの代理人」とも位置づけられて信者の道徳的規範を体現する大きな存在である。

彼は同時にバチカンの国家元首として司法、立法、行政の全権も行使する。コンクラーベはそのローマ教皇を決める選挙である。選ぶのは教皇を補佐するバチカンの枢機卿団。

選挙人数は80歳以下の枢機卿120人とされる。だが一定ではない。今回のコンクラーベでは135名の枢機卿が投票資格を持つが、うち2人が病気で参加できないため133人が集って秘密選挙を行うと見られている

なぜ秘密選挙なのかというと、世界中から結集した枢機卿はバチカンのシスティーナ礼拝堂に籠もって、外界との接触を完全に絶った状況で選挙に臨むからだ。

電話やメールを始めとする通信手段はいうまでもなく、外部の人間との接触も一切許されない。メディアや政治家また権力者などの俗界の力が、選挙に影響を及ぼすことを避けるためだ。

選挙方法は枢機卿の互選による投票で、誰かが全体の3分の2以上の票を獲得するまで続けられる。第1回目の投票は5月7日の午後に行われ、そこで当選者が出ない場合は翌日から午前2回と午後の2回づつ毎日投票が実施される。

権力者を決める重大な選挙であるため、枢機卿の間では駆け引きと権謀術数と裏切りと嘘、また陣営間の切り崩しや脅しや足の引っ張り合いが展開されるであろうことは想像に難くない。

そこにはしたたかな選挙戦が進む過程で、最も職責にふさわしい人物が絞り込まれていく、という効用もある。

映画Conclaveは、現実のコンクラーベでは伺い知ることのできないそうした内実を描いている。無論フィクションだが、選挙にまつわる清濁の思惑、特に濁の魂胆が激しく錯綜する極めて世俗的な政治ショーを余すところなく見せる

映画の新しさとは、表現法や視点の面白さと、それを実現するに足る斬新な撮影テクニックの存在、中身に時代の息吹が塗り込められていることなどがある。

例えば1950年に発表された黒澤明の「羅生門」は、複数の人間が同じ事件を自身のエゴに即して全く違う視点で見、語るという表現法が先ず斬新だった。

さらに太陽にカメラのレンズを向けるというタブーを犯して暑さを表現したこと、移動レールに乗ってカメラが藪の中を疾駆するとき、木の枝がレンズにぶつかってはじける臨場感満載のシーン、殺し合う2人の男が怒りと恐怖で疲労困憊しながら獣の如く戦いのたうち回るリアリズムなど、思いつくだけでも数多い。

また「用心棒の」冒頭で斬り落とされた人間の腕を咥えた犬が走るカット、ラストで血が爆発的に噴き出す斬撃シーン、「蜘蛛の巣城」で弓矢が銃弾さながら激しく降り突き刺さるシーン、影武者の戦陣シーンで部隊の動きを長回しのカメラが流暢に追いかける計算されつくした構成、などなど数え上げれば切りがない。

それらは例えばクエンティン・タランティーノの「パルプフィクション」で死者がふいに起き上がるシーンや、「キルビル」で主人公が地中の棺桶から出て地上に這い上がる場面などにも通底する発明であり、発見であり、エンターテイメントだ。優れた映画、ヒットした映画、面白い映画には必ずそうした驚きがちりばめられている。

映画Conclaveには撮影テクニックや表現法などの新しい発明はない。その部分ではむしろ陳腐だ。だが今の時代の息吹を取り込んでいるという新しさがある。それがイスラム過激派のテロとLGBTQ+だ。

映画では人間のどろどろした動きが丹念に描かれるが、選挙の結論は中々出ない。行き詰まったかに見えたとき、イスラム過激派による爆破事件が起こり投票所(システィーナ礼拝堂を暗示する)の窓も破壊される。

すると保守派の有力候補が、イスラム教への憎悪をむき出しにして宗教戦争だ、彼らを殲滅するべきと叫ぶ。

それに対して1人の候補が「戦争ではキリスト教徒もイスラム教徒も同様に苦しみ、死ぬ。我らと彼らの区別はない。戦争は憎しみの連鎖を呼ぶだけだ」と説く。

その言葉が切り札となって、次の投票では彼に票が集まり、結局その候補が新教皇に選出される。

そして実は新教皇に選ばれたその人は「インターセックス」という性を持つ人物であることが、伏線からの流れで無理なく明らかにされる。

イスラム過激派のテロとLGBTQ+という、いま最もホットな事案のひとつをさり気なくドラマに取り込むことで、映画Conclaveは黴臭い古いコンクラーベを描きつつ新しさを提示している。

映画での新教皇の演説は、亡くなったフランシスコ教皇が2013年のコンクラーベで「内にこもって権力争いに明け暮れるのではなく、外に出て地理的また心理的辺境にまで布教するべき」という熱いスピーチを行って票を集めた史実を踏襲している。

またフランシス教皇が保守派の強い抵抗に遭いながらも、LGBTQ+の人々に寄り添う努力をした事実などもドラマの底流を成している。

2025年4月21日に亡くなったフランシスコ教皇の後継者を決める秘密選挙・コンクラーベは、間もなく蓋を開ける。

そこではフランシスコ教皇の改革路線を継承する人物が選ばれるかどうかが焦点になるだろう。

世界中に14億人前後いると見られるカトリック教徒のうち、約8割は南米を筆頭に北米やアフリカやオセアニアなど、ヨーロッパ以外の地域に住んでいる。

ところが聖ペドロ以来265人いたローマ教皇の中で、ヨーロッパ人以外の人間がその地位に就いたことはなかった。

内訳は254人がヨーロッパ人、残る11人が古代ローマ帝国の版図内にいた地中海域人だが、彼らも白人なのであり、現在の感覚で言えば全てヨーロッパ人と見なして構わないだろう。

ところが2013年、ついにその伝統が途絶えた。

南米アルゼンチン出身のフランシスコ教皇が誕生したのだ。先日亡くなったフランシス教皇その人が、史上初めて欧州以外の国から出た教皇だったのである

フランシスコ教皇は、教会の公平と枢機卿の出自の多様化を目指して改革を推し進め、アジア、アフリカを中心に多くの枢機卿を任命した。

5月7日から始まるコンクラーベで投票権を持つ135人のうち108人は、フランシスコ教皇が任命した枢機卿だ。出身国は71カ国に及び、ヨーロッパ中心主義が薄れている。

このうちアジア系とアフリカ系は41人。ラテンアメリカ系は21人いる。ヨーロッパ系は53人いて依然として最多ではあるが、かつてのようにコンクラーベを支配する勢いはない。

バチカンの行く末は、信徒の分布の広がりを反映した多様性以外にはあり得ない。それに対応して、将来はヨーロッパ以外の地域が出自の教皇も多く生まれるだろう。

フランシスコ教皇はアルゼンチンの出身だが、先祖はイタリア系の移民だ。つまり彼もまたヨーロッパの血を引いていた。

だがそうではない純粋のアジア、アフリカ系の教皇の出現も間近いだろう。あるいは今回のコンクラーベで実現するかもしれない。

その場合、アジアのフランシスコとも呼ばれるフィリピンのルイス・アントニオ・タグレ枢機卿などが、もっとも可能性があると考えられる。

そうはいうものの、しかし、下馬評の高かった候補が選ばれにくいのが、コンクラーベの特徴でもある。5月7日が待ち遠しい。









フランシスコ教皇の唯一の失策は中国との関係改善かもしれない

Pope-Francis-and-Xi-Jinping-

フランシスコ教皇の葬儀が無事に終わり、バチカンは次の教皇を選ぶ選挙、コンクラーベの日取りを5月7日開始と定めた。

世界中から集まる133名の枢機卿が、バチカンのシスティーナ礼拝堂に籠もって秘密選挙を行う。

清貧を力に教会を改革し世界14億人の信徒の敬愛を一身に集めた第266代フランシスコ教皇に一点の曇りがあるとするなら、それは彼が長く対立していたバチカンと中国の和解を実現させたことだろう。

中国はカトリック教徒を弾圧していて国が認めた教会以外での礼拝を禁じている。

バチカンはそのことなどを主な理由に1951年から中国と国交を断絶している。

フランシスコ教皇は就任以来、その状態を改めて関係を修復しようと努めた。

そして2018年、司教の任命はバチカンと中国政府がそれぞれの関与を認め合う、という形で合意し和解した。

それはフランシスコ教皇が、中国に約1000万人いるとされる信者との結びつきを回復したいと願ったからである。

そうすることは教会の分断を食い止めるという信仰上の大義にも叶った。

だが信徒が共産党の権威に挑戦するのを防ぐため、「宗教の中国化」を掲げてカトリックへの締め付けをエスカレートさせる、習近平指導部と折れ合うことへの批判もバチカン内には強かった。

しかし対立よりも協調を重視しようとする教皇の強い意志によって、最終的には和解が成立した。

中国との関係では、フランシスコ教皇のロールモデルとも言える旧東欧出身のヨハネ・パウロ二世が、中国共産党を決して信用せず同国に厳しい態度で臨み続けたことと対照的である。

僕はその件に関してはどっちつかずの感慨を抱いている。

唯我独尊、反民主主義の独裁政権はおぞましいが、その悪とさえ対話し協調しようとする態度は千金に値する。

僕にはどちらの教皇の判断も正しいように見えるのである。



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