【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2025年06月

気長に回復を待つことにした

カモーリの画像のようです

「眼窩脂肪ヘルニア」 の手術を受けたが術後の経過が良くない。

手術した左目の様子を写真に撮るとエグいが、病気のこと、手術のこと、さらに経過報告など、医療情報として役立つ内容もあると思うので、少し辛いが発信を続けることにする。

なお絶不調な目の絵はここまでに掲載したものを見ていただきたい。今朝の様子はこれまでの重い充血に加えて、瞼がさらに腫れ上がている状態。

いわば「お岩さん目」が、さらに怨みが募っていよいよお化けになった、というふうである。

病院でのチェックは納得のいくものだったが、一夜明けた今朝の目の状態は、より悪化しているとしか言いようがない。

腫れと充血は予期されたことで問題はない。ただ充血が普通よりも重篤に見えるなのは、2019年からずっと服用してる狭心症の薬の影響らしい。回復が遅れるが問題はない。

視界がややかすむのが気になるが、それもおそらく腫れが引き充血が収まるのと平行して元に戻るはずだ。

要約すればそれが病院での検査結果である。

検査の途中では、僕に手術を受ける決心をさせたアンドレアC教授とも面談した。ちなみに彼は正確には眼科医ではなく顎顔面が専門の外科医である。

「手術日が2度に渡って延期されたのはなぜですか」僕は教授に訊いた。

「こちらの準備とスタッフ(執刀医?)の調整がつかなかったからです」

「あなたが執刀してくださるものとばかり思っていました」

「執刀した者は、この手術が得意な経験豊富な外科医です」

なぜ教授が執刀しなかったのか、という質問の核ははぐらされた格好だが、僕はそれ以上追及しなかった。無意味だと思ったからだ。

大学医学部とも密接に繋がっている病院は規模が大きく、各部局に多くの医師と医療スタッフがいる。特別な状況でもない限り患者が執刀医を選ぶことはできない。

そしてもしもこの先、たとえ手術が失敗だったと分かっても、教授も執刀医も誰も責任など取らないであろうことは火を見るりも明らかだ。医療ミスをおいそれと認める病院や医師はいない。

だが今のところ病院やイタリア医療への僕の信頼はまだ根底から揺らいだわけではない。

気長に経過を見ていくことにした。



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目の手術はあるいは失敗かもしれないという不安と信望のはざ間で

深い充血切り取り

目の中に脂肪の固まりが突出する「眼窩脂肪ヘルニア」の手術を受けてほぼ一週間が過ぎた。

手術日は2度に渡って変更され、最終的には当初の4月末から6月12日に変わった。

初診は有能な外科医として知られるアンドレアC教授に当たった。僕は彼のことを全く知らないが、同伴した妻が医師の高い評判を聞き知っていた。

教授は揺るぎない自信と誠実さにあふれた言動で、目にメスを入れるというおぞましい光景に震えている僕の気持ちを動かし、納得させ、手術に踏み切らせた。

2回に渡った手術日変更の知らせは、最初がC教授の秘書、2度目は手術日の前日、教授自身が直接電話をしてきた。

直前の変更は不審だったが、僕の病気は深刻なものではないこと、執刀医の教授自身が連絡をくれた事実などで疑念はすぐに晴れた。

ところが手術直前になって執刀医は教授ではないこと、手術は局部麻酔ではなく全身麻酔を行うことが明らかになった。

あまり愉快ではなかったが、僕はそれらを問題にすることなく予定通り医療スタッフに身を任せた。

僕は過去に受けたいくつかの手術とその他多くの受診経験を通して、イタリア北部の、特に僕の住まう地域の医療体制に絶対の信頼を抱いている。

手術前の厳重なチェックと周到な準備作業等は今回も全く変わらず、何の不安もなかった。

できれば有能な外科医とされるC教授の執刀にあづかりたかった、とチラと思わないでもなかったが、彼が選んだのであろうやや若い執刀医も全面的に信用した。

案の定オペは順調(恐らく)に進み、僕は全身麻酔から目覚めた。ほとんど快適な気分だった。病室に移動し、起き上がれる状態になったとき手洗いで鏡を覗いた。左目は何事もなかったかのようにこちらを見返していた。

本当に眼中にメスが入ったのか?と疑いたくなるほど完璧だった。視力も視界も手術前と同じに感じた。充血も腫れもなかった。

腫れは術後しばらくして起きるものという認識があったので、そのことに関しては身構える気分はあったが、視力も視界も完璧で充血もない事実が僕をすっかり安心させた。

ところが自宅療養が始まった翌日の夕方ごろから異変が始まった。目が充血し腫れが始まった。

その症状は少しづつ悪化して、充血は深く黒ずみ鏡に映る目の全体が闇の中にある穴のように見えることさえあった。目蓋が開けずらい違和感も出た。

目の全体がゆらぐようなかすかなめまいも感じるようになった。だがそれは服用している抗生物質のせいではないか、と自分に言い聞かせた。

今、もっとも気がかりなのは視界がかすむことである。どす黒く見える眼中の深い充血とともにそれは少なからぬ不安を呼ぶ

7月初めに予定されている術後の経過検査を前倒ししてくれるよう病院に掛け合った。

それは受けいれられ、まもなく病院に向かう。




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お岩さん目にオサラバした

お岩くっきり大切り取り拡大

目の中に脂肪の固まりが突出する病気、「眼窩脂肪ヘルニア」の手術を受けた。

僕の場合は痛みもなく、かゆみも何もなく、視力や視界にも支障がなかった。

少しの難点は鏡を覗くとき、脂肪の飛び出た左目がお岩さんみたいでコワイ、という程度だった。

だが、なかなか治る気配がないので検査を受けた。

何の支障もないのになぜそうしたかというと、母方の血筋で僕は目が弱い。なにかというと目が充血したり、かゆみが出たり、乾いたりする。

最も重要なものは緑内障のDNAを受け継いでいるらしいことだ。母も緑内障を発症し、姉妹にも伝えられて苦しんでいる。

僕にはまだその症状はないが、1年に1度の検査を欠かさず、2人の息子にもそうさせている。

手術を受けた左目は冷たい風に当たったり、少しこすったりすると簡単に充血する。脂肪の突起が出たのもそういう軽い面倒のひとつだろうと当初は思った。

だが緑内障の気がかりもあって、ついに検査を受けることにした。

緑内障そのものを疑ったわけではないが、目の腺病質に引きずられた格好だ。

有能な外科医としても知られるアンドレアC教授は、診て、すぐに摘出しましょうと言った。僕が不安な顔になったのだろう、その後すぐに「大丈夫ですよ。あなたをCECO(チェコ・盲目にしたりはしません」と笑って続けた。

医師の言い方と表情には、僕の病気が深刻ではないこと、深刻ではないが将来の悪化の芽を摘み取っておきましょう。私が120%の確立でそれをやります。。とでもいうような圧倒的な自信と気遣いと誠意が感じられた。

僕はすぐに彼を信用した。

その後、日にちを分けて入院前の検査があった。そして居部麻酔で施術するということに決まった。

ところが、朝6時から始まった手術当日の面談や最終検査を経て、いざ麻酔を施す段階になった時に、医師が「全身麻酔で行きます同意なさいますか」と訊いてきた。

臆病な僕は以前の検査で、できれば眠ったまま手術を受けたいと要望し、彼らはそれに反して局部麻酔を主張していた。それにもかかわらず今は全身麻酔に変わった。

「なぜ全身麻酔なのですか」僕は訊いた。

「脂肪の根が大きく、当初より深くメスを入れなければなりません。局所麻酔では痛みを起こす可能性があります」

全身麻酔に同意されますか、と医師はたたみかけた。

実は手術日は2度に渡って変更され、最終的には当初の4月末から6月12日に変わった。

手術日が延びたために病気が悪化したのではないか、と僕は内心で自問したが、それは口に出さず、

「皆さんがそう判断されたのなら従います。僕はまな板の上の鯉の気分ですから」

と答えたら、執刀医も麻酔医も助手も皆が声に出して笑った。

麻酔から覚めてみると、手術後の左目にはほとんど何の支障もなく、その後時間が過ぎて、麻酔が完全に切れた頃になっても痛みはなかった。

ベットから起きだして鏡を覗いても左目は充血さえしていなかった。

夕方、医師が回診に来て、帰宅したいならそうして構いませんと告げた。帰りたいと答えると、書類を準備すると言って去った。

そのほぼ一時間後、今後の自宅ケアの注意点と経過検査の日にちを聞かされて病院を後にした。

翌日、手術した眼がかなり充血しているが、痛みはほとんどない。

ただまばたきをしたり、視線を移動させると、眼球あたりにかすかなひっかかりがある。なのでしばらく眼帯ふうのガーゼを貼って過ごすことにした。

眼帯は病院が処方したものではなく、自分で勝手に購入し勝手に貼ったり剥がしたりしている。

そこからも分かるとおり、医師もまた本人も手術は成功し経過も問題なしと納得している。






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隼ハヤブサ家族を慈しむ

鷹赤ちゃん格子薄く込み800

2019年からわが家の軒下で子育てを続けている鳥は、どうやら隼ハヤブサの仲間の長元坊チョウゲンボウのようだ。

そう判断するのは羽と体の全体が明るい茶色をしていることと、卵をほぼ常に4~5個産むからである。

イタリア語では鷹や隼ハヤブサのことを総じてFalco(ファルコ)、そのうちの小型のものを一律にFalchetto(ファルケット)と呼ぶ。そしてFalchettoは日本語では隼ハヤブサと訳されることが多いようだ。

そこで僕も“同じ屋根の下に住む”猛禽類の家族を、まとめて隼ハヤブサと呼ぶことにしている。

僕の感覚では隼ハヤブサも鷹の一種だが、学術的には隼ハヤブサは鷹ではなく、ハヤブサ目ハヤブサ科に属する猛禽類である。

猛鳥は2019年以来ずっとわが家の軒下で巣作りをしている。家は落ちぶれ貴族の古い大きな館である。巣までの高さは10メートル近くある。

館の屋根裏は広い倉庫になっていて、周囲に20あまりの通風孔がうがたれている。隼ハヤブサ当初、そのうちの一つの照明が設置されている孔に巣を作った。

2020年から2023年にかけては、コロナ禍もあって僕の気持ちはあまり鳥の巣に向かわなかった。心も体もコロナ禍疲れをしているというふうだった。

それでも2023年、隼ハヤブサが南屋根の通風孔から東屋根の孔の一つに移動して、巣作りをしていることを確認した。

2024年には少し撮影もした。

そして猛禽はことしも同じ通風孔に巣を構えた。

それとは別に僕は大きな発見をした。

かつて通風孔のほとんど全てで鳩が営巣をしていた。それが一羽も見えないのである。明らかに隼ハヤブサの存在が鳩を遠ざけている。それはありがたいことである。

鳩は通風孔を塞いで営巣するばかりではなく、屋根裏にまで侵入して飛び騒ぎ、糞を撒き散らし、羽毛を散乱させて倉庫全体を汚しまくる。

それを防ぐために通風孔には金網か掛けられているが、鳩はその金網さえ器用に避け、押し入り、飛び越え、ついには破壊さえして闖入する。

僕は糞害にはじまる鳩の迷惑行為に悩まされ続けてきた。ところが2025年現在、鳩は一切通風孔に巣を作らなくなった。明らかに猛禽のおかげだ。僕はますます隼ハヤブサが可愛くなった。

ほぼ一週間前つまり2025年6月3日の朝、3羽の雛のうち2羽が一つ隣の通風孔に移動しているのを見た。屋根裏から確認した後、外からも実見した。孔から孔へ飛び移ったのだと驚嘆した。

さらにその翌日、飛び移ったらしい2羽がそこの孔からいなくなり、元の巣孔に残された一羽だけが心細そうに外を眺めていた。

急いで屋根裏に回りスマホのレンズを向けた。大きくなった、だがまだ飛べないらしい雛が、じっと目を合わせてきた。シャッターを切って、そっとそこを離れた。

その翌日、屋根裏に行くと雛は巣立っていた。巣のあった孔もその隣の空間も空だった。

ところが話はそこでは終わらなかった。

なんと家周りの別の軒下を3羽の雛が歩き回っているのだ。彼らは飛び去ったのではなく、歩いて通風孔から通風孔へと移動していたのである。

それでも巣のあった孔から別の場所に移転しているのだから、それはやはり巣立ちと呼ぶべきなのだろう。

雛たちが今後どうなるのか興味津々だったが、その前に親鳥が餌を運び来るのかどうか、僕は少し気が気ではない思いでいた。

それも杞憂だった。親鳥は雛たちの側まで飛来して3匹を見守る。餌を与えているかどうかは確認できないが、恐らくそうしているのだろう。

6月9日現在、雛も親鳥も飛び去った。しかし、ぶどう園からわが家にかけての上空には隼ハヤブサ家族らしい鳥影がひんぱんに見える。

屋根の上に立てられたテレビアンテナに3羽が休んでいる姿さえ目視した。

そのうち遠くに飛ぶのだろうが、今のところ彼らは明らかにこの一帯を棲み処にして命をつないでいることが分かる。



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僕の長島愛は永遠です

切り取り578

ミスター・プロ野球・長島茂雄が亡くなった。彼とは一度だけ行き逢った。

巨人・大鵬・卵焼き好き少年を地で行き、やがて圧倒的に長島ファンになった僕は、ずっと後にアンチ巨人になった。

巨人軍の渡部恒夫オーナーが、日本プロ野球選手会会長の古田敦也に「たかが選手が無礼な事を言うな。分をわきまえろ」と罵ったという傲慢発言に反発して、巨人を応援するのが嫌になったのだ。

渡辺氏は内閣総理大臣の靖国神社参拝に反対し旧日本軍の戦争行為を厳しく糾弾。また昭和天皇の戦争責任を認めるなど、僕が賛同する点も多い。

特に日本の戦争責任を追求して「戦争責任検証委員会」を立ち上げ、『戦争責任を検証する』という本まで出版したことには深く頭をたれる思いだ。

だがそのころは渡辺氏の傲慢発言-実は誤報らしい-に強い反感を抱いた。

アンチ巨人になっても、しかし、僕の長島茂雄への思いのたけは変わらなかった。

長島さんと顔を合わせたのは、確か大学4年の時である。

当時僕は表参道にあるコープオリンピアでアルバイトをしていた。駐車場の管理が僕の仕事で徹夜番が多かった。真夜中過ぎになるとほとんどやることもないので、僕は卒業論文もそこで書き上げた。

1964年の東京オリンピックの翌年に誕生したコープオリンピアは、日本における高級マンションのはしりとされ、各界の有名人が住んだ。

僕がアルバイトとをしていた頃、読売巨人軍のアメリカ人助っ人クラウド・ライト投手もそこに暮らしていた。彼は試合中にキレることが多く、よく「クレージー・ライト」と揶揄された。

ある日、巨人軍監督だった長島さんが彼を訪ねた。僕はそこに居合わせたのである。

現役は引退しているが、長島さんのオーラはすさまじく顔の輪郭がぼやけているように見えた。

テレビ屋の僕は、仕事の性質上有名人と会う機会が多い。長島さんと並ぶ人気者、王貞治さんとも仕事で出会った。

が、実は僕は、テレビ屋になる以前から、何かとセレブに行き逢う悪運の強い男だった。

長島さんもそのうちの一人だった。

ただ僕の長島さんへの変わらぬ愛は、彼と偶然顔を合わせたからではなく、純粋に野球選手として敬慕していたからである。



合掌



追伸:仕事で出会った多くのセレブ、またそれ以外の機会に行き合った有名人などについては、いわば時代を映す鏡、また僕自身のささやかな自叙伝のうちのカラフルなエピソードとして、ぼちぼち書いて行こうかと思う。





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イタリアが再生した記念日にまた思うドイツの危うさ

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昨日、6月2日はイタリア共和国記念日。旗日で休みだった。

第2次大戦末期の1945年4月25日、イタリアはナチスドイツとファシズムを駆逐して終戦を迎えた。

それは解放記念日とばれやはり祝日である。

日本人の多くが、日独伊三国同盟の史実にひきずられて、イタリアを日本とドイツと同列に並べ一律に第2次大戦の敗戦国と考えがちだ。

イタリアはむろん敗戦国だが、イタリア自身のいわば生い立ちあるいは因縁、などという観点から見れば戦勝国でもある。

なぜならイタリアは、ナチズムに席巻された状況で終戦を迎えたドイツや、軍国主義に呑み込まれたまま天皇を筆頭とする戦犯さえ処罰できなかった日本とは違い、民衆の蜂起によってファシズムとナチズムを排撃したからだ。

枢軸協定で結ばれていたイタリアとドイツは、大戦の真っ最中の1943年に仲たがいした。

それは戦況の変化や政治的な利害など複合的な要素が絡んだものだったが、ムッソリーニが失脚したことも大きな原因だった。

最終的にはイタリアはドイツと敵対関係になってナチスと激しく戦い、やがて連合軍に降伏。ドイツも完全敗北した。

終戦からほぼ一年後の1946年6月2日、イタリアは国民投票によって王制を排し共和国になった。

イタリアはそこに至って真の民主主義国へと生まれ変わった。

イタリアは日独と歩調を合わせて第2次世界大戦を戦ったが、途中で状況が変わってナチスドイツに立ち向かう勢力になった。

言葉を替えればイタリアは、開戦後しばらくはナチスと同じ穴のムジナだったが、途中でナチスの圧迫に苦しむ被害者になっていったのである。

戦後、イタリアが一貫してチスに蹂躙され抑圧された他の欧州諸国と同じ警戒感や不信感を秘めて同国に対しているのは、第2次大戦におけるそういういきさつがあるからである。

ドイツは戦後、真摯な反省を繰り返すことによって過去の大罪を許された。だが人々は彼らの悪行を忘れてなどいない。

ところが当のドイツはそのことを忘れつつある。だから極右のAfDが台頭した。

AfDは何もないところから突然発芽したのではない。ドイツ国民の密かな驕りと油断を糧にして、じわじわと増殖しているのだ。

僕はイタリアの解放記念日や共和国記念日には、過去の歴史に鑑みて、あらためてドイツの潜在的な危険を思わずにはいられない。




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