【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2025年09月

イタリア、ドイツはパレスチナ国家承認せず。なぜだ?

メロメルツがキス?

G7構成国のうち英仏カナダがそろってパレスチナ国家を正式承認した。

背景にあるのは、イスラエルとアメリカによる極悪非道のガザ攻撃だ。

一方で― 悪行の実行犯のアメリカは当たり前として―日独伊3国も承認を拒んだ。

偶然にもこちらも、かつての3国同盟、悪の不始末枢軸3大国だ。

このうち日本は、承認しない理由を「国家承認はパレスチナ情勢の進展には繋がらない」としゃーしゃーとのたまった。

それは単にトランプ大統領を怖れ、おののき、ひたすら拝跪するだけの恥ずかしい心根から出た言葉だ。

例によって、独立不羈の行動哲学など逆立ちしても見えない。

ドイツは、国家承認はイスラエルとパレスチナの交渉合意の末に行う、と同国の根本方針を繰り返した。

ドイツはホロコーストへの巨大な贖罪感に縛られて、イスラエル批判にはほぼ常に二の足を踏む。それは理解できることだ。

しかし、イスラエルのガザへの蛮行を糾弾することと、ホロコーストへの怖れと反省は別物であるべきだ。

パレスチナ国家を承認することで、イスラエルの今現在の悪行にNOを突き付けるのは、反ユダヤ主義ではない。それは飽くまでもネタニヤフ政権への断罪だ。

ドイツが真にユダヤ人への贖罪を志向継続するのなら、ガザへの惨たらしい攻撃を続けることで、心ある多くのユダヤ人を貶めているネタニヤフ首相を糾弾するべきだ。

片やイタリアのメローニ首相は、パレスチナの建国を強く支持する」とした上で、「国家の樹立前に承認することはできない」と笑い話も真っ青の主張をしている。

国家の樹立ができないから、敢えて道徳的な後押しをするためにパレスチナ国家を承認するのだ。

それは飽くまでもイスラエルとアメリカへの抗議の意志表示だ。

むろん、だからこそメローニ首相は、英仏カナダと足並みを揃えることができない。

なぜならメローニ首相は、トランプ主義と親和的な政治信条を持つ極右政治家だからだ。

彼女はトランプ大統領自身とも親密な関係だ。友を裏切ることはできないのだろう。




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イギリスの遅過ぎたパレスチナ国家承認

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9月22日、イギリスがパレスチナ国家を正式に承認した。

イギリスの前にはカナダとオーストラリア、またすぐ後にはポルトガルもパレスチナを国家承認した。

さらにフランスも一日遅れでそれらの国々に続いた。

イギリスは2000年以上続くユダヤ・パレスチナ問題を近代になって複雑化させた張本人だ。

同国は第一次大戦中にそれぞれが矛盾する3つの狡猾因業な秘密協定を結んだ。

そのうちの一つはアラブ人に独立国家を認め、もう一つの協定ではユダヤ人国家を認めるとした。後者はユダヤ人の金を横取りするのが主な目的だった。

第1次大戦が終わるとパレスチナはイギリスの委任統治領となった。するとユダヤ人との秘密協定に沿ってパレスチナにユダヤ人が移住し始めた。

当初ユダヤ人は先住のアラブ人と平和共存していた。だが入植者は増え、金にあかせて土地を買いまくってはアラブ人を圧迫排除する動きに出た。

ユダヤ人入植者は第2次大戦とホロコーストを経てさらに増え続け、対立はますます激しくなった。イギリスは大戦後の1948年、パレスチナの統治を諦めて国際連合に問題を丸投げした。

つまり世界中でしばしばやってきたように、散々甘い汁を吸った後、無責任に問題を放置してトンずらしたのだ。

それから77年後の先日、パレスチナ人を虫けら同然に見なすトランプ大統領を、チャールズ英国王はまるで聖人君子をもてなすようにもてなした。

相変わらずパレスチナ人民を貶めて平然としていると僕の目には映った。

英仏の2大国がアメリカの意向に逆らってパレスチナを国家承認したが、実のところそれは象徴的なアクションに過ぎず、ガザでの殺戮も終わらなければパレスチナ国家の独立も起こりえない。

アメリカがイスラエルを抑えてパレスチナの国家樹立を認めない限り、現状は決して変わることはないのだ。

ましてや飽くまでもイスラエルの蛮行を支持し、パレスチナ人を殲滅して彼らの土地をリゾートに造り変える、と本気で考えているトランプ大統領という人非人の心を持つ男が、アメリカを「独裁統治」している限り哀れなパレスチナには明日はない。

そうではあるが、しかし、イギリスが今この時トランプ大統領の顔を潰してまでパレスチナを承認したことは、「欧州の良心」の発露のひとつで道徳的に大きな意義がある。

トランプ大統領の顔色を窺い忖度に終始し、「現時点での承認は停戦や中東和平の実現には繋がらない」 と岩屋外務大臣の声を使って痴ほうじみた声明を出した日本政府の姿勢は無残だ。

国家承認はパレスチナ情勢の進展には資さない、という日本政府得意の姑息な建前レトリックが、トランプ大統領を怖れる卑怯者の本音隠匿術であることを世界は知らないとでも思っているのだろうか。



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叶わなかったフェレとのコラボ

デブ目立つ625

ミラノコレクション取材の仕事は数年間続き、僕はジャンフランコ・フェレを追いかけるドキュメンタリーを撮る、という約束をデザイナー本人と交わすなどした。

フェレは当時 、先日91歳で他界したアルマーニまたヴェルサーチとともに、ミラノモードの3Gと称えられたレジェンドである。

建築家でもあったフェレの作品には、ベルサーチの才気やアルマーニの優美とは違う何か確固としたものが底流にあった。

建築設計の技術や見識が、ファッションデザイナーとしての彼の創造性を支えている、とでもいうような強い何かである。僕はそのことと彼のキャラクターにドキュメンタリー監督として魅力を感じた。

巨大な肥満体を持て余して、いつもはにかんでいるみたいな雰囲気があった彼は、自らの作品の強さとは裏腹にとことん静かな優しい人で、ファッション音痴の僕が繰り出すバカな質問にもいやな顔一つせずに答えてくれた。

雑音の激しいオープンスタジオからテレビの生中継をした際、「少し大き目の声でしゃべって下さい」と僕が頼むと、彼は「分かりました」と蚊の鳴くような声で答えた。が、結局しゃべっている間はずっと蚊の鳴くような声だった。

高慢や軽薄や尊大とは無縁だった大アーティストを取り上げる番組を僕は考え、生中継の仕事の後で彼に提案をすると、デザイナーが出演を快諾してくれたのだった

だがその企画は実現しなかった。僕自身が他の仕事にかまけきっている間にどんどん時が過ぎて、とうとうカリスマデザイナーが亡くなってしまった。2007年のことだ。

僕が多忙だったのは事実だが、本当のことを言えば、撮影開始に至らなかったのはもっとほかにも理由がある。

僕は有名デザイナーのジャンフランコ・フェレを、どうすれば僕の制作スタイルのドキュメンタリーの枠内にはめ込めるかの道筋がつかめず、呻吟するうちに時間が過ぎ去ったのだ。

僕の作るドキュメンタリー番組は、市井の人々を取り上げるのがほとんどだ。有名人は追いかけないし、あまり興味もない。いや、興味がないわけではないが、市井の人のほうにより強い興味を覚える。

フェレとのコラボを考えている間にも、僕はシエナの市中競馬の話やらシチリア島の突きんぼ漁譚やらオリーブ物語やらスローフード発祥ルポ等々、多くの長短物のドキュメントや報道物を制作していたが、そのほとんども市井の人が話の中心にいた。

この世の中に存在する一人一人の人間の生きざまは全て劇的だ。それが僕の持論だ。従ってあらゆる人々の人生はドキュメンタリーになり得る。

だが同時に、喜び、怒り、悲しみ、親しみ、憎み、家族を愛し、家族に苦しみetcという全ての人間の人生は似通ってもいる。

似通っているが一つ一つの人生は、しかし、同時にそれぞれ違う。その違いを際立たせることが即ち人間を描くドキュメンタリーの真髄だ。

人は生涯でたった一つの人生しか生きられない。つまり人は、自分自身の人生以外の他者の生についてはその実態を知らない。

知っていると感じるのは、家族だったり友人知己だったり、あるいはどこかで見たり聞いたりした他人の人生の物語に触れた経験があるからだ。しかしそれは単なる「知識」であり「情報」である。

人が自らの人生を生きつつ他者の人生を生きることは、永遠に不可能なのである。

従って他者の人生は全て珍しい特異な事象だ。それだけでも興味深いものになるはずだが、それだけでは足りない。アクセントがほしい。

そのアクセントが取り上げる人物の仕事であり、考え方であり、特殊能力であり、人となりやあるいはキャラクターである。

そこに人物の日常を彩る例えば家族や友人や同僚などの人間の輪がからむ。その人間の輪は隣近所や村や町の共同体へと広がる。

共同体には祭りやイベントや寄り合いや、式典見せ物や年中行事等々の盛りだくさんの文化と、それが織りなす歴史が満ち満ちている。

主人公はそれらと共存し、時には格闘し、悩み、喜びながら成長していく。その過程を網羅し描ききることによって、主人公となる人物あるいは人物群が躍動し、輝き、存在感を増していく。

どこにでもいる「普通の人」が特別な「何者か」になりドラマチックに変貌する瞬間だ。それを見ている視聴者は自分とあまり変わらない人物が輝きを放つことに共感を覚える。

普遍が特殊化するときに、市井の人の人生のドラマが完成するのである。

それを紡ぎだすのがドキュメンタリー監督の仕事だ。もっと言えば、視聴者が納得し感情移入できる人物像の造形が、つまるところドキュメンタリー制作者の使命なのである。

さて、

僕が取り上げようと考えたジャンフランコ・フェレは普通の人ではない。セレブである。有名デザイナーのジャンフランコ・フェレの日々は、市井の人々のそれよりも既に激しく劇的だ。

でもそれはいわば劇場劇とも言える特殊な劇で、劇場の外の広い巷間に展開される劇とは違うものである。有名人という名の劇場劇と市中劇とは違うのだ。

僕が有名人を単に有名人という理由だけで追いかけるドキュメンタリーに興味がないのはそれが理由である。

デザイナーとしてのフェレをそのまま追いかければ、何もしなくても既にドラマチックだ。視聴率も稼げるだろう。そういう形のドキュメンタリーはごまんとある。

だが僕が知りたいのは、つまり描きたいのは、デザイナーである以前のフェレである。言葉を替えれば仕事師のフェレではなく、人間フェレなのだ。

ここでは市井の人を追うドキュメンタリーとは逆に、既に特別な存在であるジャンフランコ・フェレを世間並みの存在に変貌させなければならない。特殊を普遍化するのだ。

視聴者が同じ人間としてエンパシーを感じたとき、主人公は人として輝く。

それを成すためには僕はもっとデザイナーと付き合い、信頼関係を築き、本音で語り合える環境を作り上げなければならない。

僕が追及したいと願う人間」を描くドキュメンタリーは、 市井の人であれ有名人であれ、撮影する側とされる側の間に人としての信頼関係があってはじめて成り立つ。

そしてその人間関係とは、監督である僕自身と撮影される側の人々とが結ぶ友誼 であり精神的絆だ。

僕はその部分に一番エネルギーを注ぐ。だからいつも一つの作品を作る前に長い準備期間を持つ。何度も足を運んではこちらの意図を説明して人々に納得してもらう。

それがうまくいった時だけ、まがりなりにも見るに耐えるだけの作品ができる。

お互いに多忙な中で僕は機会を探し、待った。だがそれさえ構築できないうちに彼は他界した。

彼よりひと回り若い僕は少しのんびりしすぎたかもしれないが、もう後の祭りだった。

実は僕はフェレの場合ととそっくりの経験をもうひとつしている。

1994年夏、僕はシチリアのリパリ島で天才シンガーソングライターのルーチョ・ダッラに会った

マグロを追いかけるドキュメンタリーの撮影中のことだった。

僕はシチリア本島のメッシーナから遠出をした猟師たちと共に船で寝泊りをして、連日マグロ漁の撮影をしていた。

ルーチョはリパリ島で船上のバカンスを過ごしていて、港で一緒になった。

彼は僕が行動を共にしている猟師たちと友だちで、よくこちらの漁船にやって来ては夕食を一緒に食べた。

カジキマグロを中心にした猟師料理は抜群の美味しさで、彼はリパリ島にいるときはひんぱんに猟師の船に招かれて食事をするのだった。

ルーチョはシンプル且つ自然体の男だった。僕はそこで彼と親しくなり、いつか一緒にドキュメンタりー番組を作りましょうと話した。ルーチョは快くOKしてくれた。

その機会はないまま時間は過ぎた。そして2012年3月に彼が亡くなって、こちらも幻の企画になってしまった。







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 嘘かまことかうつつか夢か

鮮明白人前面650


《加筆再録》

ファッションショーを取材する時には、僕はいつも相反する二つの感慨に襲われる。それを強く称賛する気持ちと、軽侮とまでは言わないものの、粘性の違和感が交錯して我ながら戸惑ってしまうのである。

称賛するのはデザイナーたちの創造性と、ビジネスとしてのファッション及びファッションショーの重さである。

次々に新しいファッションを創り出していくミラノのデザイナーたちは、疑いもなく秀れた才能に恵まれた、かつ厳しいプロフェッショナルの集団である。彼らはたとえば画家や作家や音楽家が創作に没頭するように、新しい流行を求めて服のデザインに没頭する。

そうやって彼らが生み出すファッションは、どれもこれも一級の芸術品だが、流行に左右される消費財であるために、作った先から消えていくような短い命しか持ち得ない。

それでも彼らが創造するデザインの芸術的価値は、他のいかなる分野のアートに比べても少しも遜色はないと思う。咲いてすぐに散ってしまう桜の花の価値が、命の長い他の花々と比べて少しも遜色がないように。

むしろ存在が儚いために一段と輝きを増すという一面の真実もある。

デザイナーは次の季節の流行をにらんで髪を振り乱して創作をする。この時彼は画家や小説家や作曲家と同じ一人の孤独なクリエイターである。無から何かを作り出す苦しみも喜びも、彼はすべて1人で味わう。

その後、彼の作品はファッションショーで発表される。画家の絵が展覧会で披露され、小説家の作品が出版され、作曲家の曲がコンサートで演奏されるのと同じことである。

それらのクリエイターは誰もが、発表の場においてある時は称賛され、ある時はブーイングを受ける。つまりそれは誰にとっても「テスト」の場である。

それでいながらファッションデザイナーの立場は、他のクリエイターたちのそれとは全く違う。

なぜならデザイナーは、前述の三つの芸術分野に即して言えば、クリエイターであると同時に画廊を持つ画商であり、出版社のオーナーであり、コンサートホールの所有者兼指揮者でもある場合が多いからである。

つまりデザイナーという1人のクリエイターは、同時に彼の名を冠したブランドでもあるケースが一般的なのである。たとえばアルマーニとかフェレ、はたまたヴェルサーチやミッソーニやモスキーノetcのように。

従ってファッションショーは、デザイナーという1人の秀れたクリエイターの作品が評価される場所であるだけではなく、デザイナーの会社(ブランド)の浮沈を賭けた販売戦略そのものでもある。

同時にファッションショーには、華やかで楽しいだけの「見世物」の軽さも必ず付いて回る。舞台上で時々ポロリとこぼれ出るモデルたちのたおやかなオッパイみたいに。

ファッションの世界にはそんな具合に僕を当惑させる二面性がいつもついて回っている。しかしそれは僕にとっては、どちらかというとファッション界の魅力になっているものであり、決して否定的な要素ではない。

二面性とは「虚と実」である。「虚」は言うまでもなくファッションショーとその回りに展開される華々しい世界で、「実」はデザイナーの創造性と裏方の世界、つまりデザイナーがデザインした服を生産管理し、販売していく巨大なビジネスネットワークのことである。

虚と実がないまぜになったファッションの世界は、僕が生きているテレビ・映画の世界と良く似ている。

テレビ画面やスクリーンで展開される華々しい世界は「虚」のファッションショーで、それを作り出したり、放送したり、スポンサーを抱きこんだりしていく大きな裏方の世界は、「実」であるファッションビジネスの巨大ネットワークの部分にあたる。

そして虚の部分にひっぱられて実が虚じみて見えたり(あるいは実際に虚になってしまったり)、その逆のことが起こったりするところも、2つの世界はまた良く似ている。

そんな訳で僕は、ファッションの世界にたくさんある虚の部分を茶化したり、やや軽侮したりしながらも、全体としてはそれに一目置いている。

僕の泳ぎ回っているテレビや映画などの映像の世界も、見栄や虚飾やカッコ付けの多い軽薄な分野だが、僕はそこが好きだし自分なりに真剣に仕事をしてもいる。

だからきっとファッションの世界に生きている人たちも同じなんだろうな、と僕なりに納得したりするのである。



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ファッションモデルのオッパイは粋なオッパイかも。かい?

雰囲気良多人数650

《加筆再録》


44歳の若さで亡くなったミラノの偉大なデザイナー・モスキーノが語ったようにファッションショーはデザイナーたちの真剣な戦いの場である。

ミラノコレクションのショー会場では、華やかな衣装を身にまとったトップモデルたちが、音楽に合わせて舞台の上を行進する。

舞台の周りには世界中のファッション関係者やバイヤーが陣取って、彼女たちのきらびやかな服に熱い視線を送る。

そこには必ず世界の有名スターやスポーツ選手やミュージシャンなどが顔を出して(招待されて)いて、ショーにさらなる華を添える仕組みになっている。

ファッションショーはカッコ良くてエレガントで胸がわくわくするような楽しい催し物である。  

同時にファッションショーは変である。

何が変だと言って、たとえばモデルたちの歩き方ほど変なものはない。

ショーの舞台には出たものの、彼女たちは歌を歌ったり踊りを披露したりする訳ではないから、仕方がない、とばかりに見せるために歩き方に精いっぱい工夫をこらす。

ニコヤカに笑いながら尻をふりふり背筋を伸ばし、前後左右縦横上下、斜曲正面背面東海道中膝栗毛、東西南北向こう三軒両隣の右や左の旦那様、とありとあらゆる方角に忙しく体を揺すりながら、彼女たちは舞台の上をかっぽする。

そういう歩き方が、最も優雅で洗練された女性の歩行術、という暗黙の了解がファッションショーにはある。

しかしそれは、誰かが「イカレ者か宇宙人でもない限り人類は街なかでそんな歩き方はしない」と茶々を入れてもおかしくないような、不思議な歩き方でもある。

モデルたちはにぎやかに歩行をくり返しながら、時々ポロリとオッパイをこぼす。これはジョークではなく、茶化しでもない。

どう考えても「こぼれた」としか形容の仕方のない閑雅な現われ方で、モデルたちのきれいなバストがファッションショーではしばしば露出するのである。

もちろんそれは着ている服が非常にゆるやかなデザインだったり、ふわりと体にかぶさるだけの形になっていたりするときに起きる。むろん大揺れに揺れる、揺さぶり歩行の影響も大きい。

そういう予期しない事件が起きたときに当のモデルはどうするかというと、実は何もしない。知らんぷりを決め込んで堂々と歩行を続ける。

恥じらいもなければ臆することもなく、怒りも何もない。まるでこれは他人(ひと)様のオッパイです、とでも言わんばかりの態度である。

それではこれを見ている観客はどうするか。彼らも実は何もしない。口笛も吹かなければ拍手もしない。

モデルにとっても観客にとっても、この際はファッションだけが重要なのである。だからたまたまこぼれ出たオッパイは無き物に等しい。

従って全員が、イチ、ニの、サン!でこれを無視するのである。モッタイナイなどと言ってはいけない。

モデルたちの覚悟ある身ごなしも、それに共振する観客の佇まいも、見事な粋の骨頂だ。言葉を換えれば全体が都会的に洗練されている。徹頭徹尾文明的なのだ

人の振りを見て、さりげなく見ない振りができるのは、文明人の文明人たるゆえんの一である。

見て見ぬ振りは、“無関心”というマザーテレサが悲しんだネガティブな立ち居を示す場合もある。悪や不正義を見逃したり見過ごしたりする隠微態度につながることもある。

だがそれには、他人のちょっとした失敗や無粋を目くじらを立てて責めない。さりげなく許すという意味合いもある。

見知らぬ者の野暮に遭遇した都会人はそっと身を引く。見て見ぬ振りをする。それは都会人の、いわば秘すれば花のゆかしいエートスでありルールだ。

他者のしくじりを容赦なく攻撃するのはムラの住人の慣習で、見知らぬ者のマナー違反を正面切って指摘するのはマナー違反だ。

そこで見て見ぬ振りをするのが洗練なのである。

こぼれ出た自らのバストを気にしない。あるいは気にはしても、身に纏ったデザイナーの新作の服を引き立てるための動きを断固として優先させる、というモデルの気迫はあっぱれだ。プロの心意気である。

また露出した美しい胸を見て「お!」「あ!」「ヤバい!」などと一瞬思っても、見て見ぬ振りでやり過ごす観衆の料簡は粋の極みだ。

要するにファッションショーの会場には、デザイナーとモデルと観衆が醸し出す粋と洗練と文化の香気が満ち満ちている。

そうしてみると、洗練と文明がいきれるほどに詰まった広いショー会場にいる者のうちの最大の野暮天は、見て見ぬ振りができないまま―カメラマンにカットの指示をすることも忘れて― モデルの美しいオッパイにポカンと見とれているこの僕なのだった。




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小さなミラノの底力

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《加筆再録》

アルマーニが亡くなり一時代が終わったという実感をかみしめつつ、もう少しファッションにこだわっておくことにした。

ミラノコレクションを取材したのは80年代後半~90年代初め頃のことである。

この仕事をしたことで、僕はそれまで無視あるいは軽視していたファッションとファッションビジネスを見直した。よくあることだ。

実は僕はファッションを無視あるいは軽視していたのではなく、無知ゆえに何も見えなかっただけの話だった。

ドキュメンタリーまた報道取材に関わっていると、時としてそういう僥倖に行き逢う。

ミラノでファッションショーを取材する時にいつも感じたことがある。

それは、なぜこの小さな街がロンドンやパリやニューヨークや東京などの巨大都市と対抗して、あるいはそれ以上の力強さで、世界をリードするファッションやデザインを発信して行けるのだろうか、ということだ。 

ロンドンとパリは都市圏の人口がそれぞれ約1400万人と1200万人、ニューヨークは2000万人もいる。東京の都市圏の人口3700余万人には及ばな いにしても、巨大な都会であることに変わりはない。

それらの大都市に対してミラノ市の人口はおよそ140万人、その周辺部を含めた都市圏でもわずか390万人余りに過ぎない。

もちろん人口数が全てではないが、人が多く寄ればそれだけ多くの才能が集まるのが普通だから、小さなミラノがファッションの世界で多くの巨大都市に負けない力を発揮しているのはやはり稀有なことである。

それは多分ミラノが、都市国家の伝統を持つ自治体として機能し、完結したひとつの小宇宙を作って独立国家にも匹敵する特性を持っているからではないか、と考えられる。

つまり、ニューヨークやパリやロンドンが飽くまでも国家の中の一都市に過ぎないのに対して、ミラノは街そのものが一国なのである。

都市と国が相対するのだから、ミラノが世界の大都市と競合できたとしても何の不思議もないわけだ。

言葉を換えれば、都市国家メンタリティーをルーツにするイタリアの多様性の良さが、最も先鋭的に表れているのがミラノのファッション界ではないか、と思うのである。




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モスキーノを偲ぶ

モデル合成650

《加筆再録》

ミラノファッションの大御所、アルマーニが亡くなって一時代が終わったことを実感すると同時に、ファッションに完全無知だった自分が、ミラノコレクションの取材をするようになったいきさつをあらためて考えたりしている。

フリーランスのテレビ屋である僕は、番組を制作する場合、簡単に言えば、企画書をテレビ局やプロダクションやスポンサーなどに提出して、OKをもらい制作費を得る。

企画書を出すまでには情報を収集し、テーマを決め、リサーチを徹底し、ロケハンを重ね、アイデアを文章にまとめて反復推敲し、受け入れ側あるいは資金提供者と折衝を繰り返す。それは僕の場合ほぼ100%がテレビ局だ

僕が追及したいと願う人間」を描くドキュメンタリーでは、 撮影する側とされる側の間に、人としての信頼関係があってはじめて番組、つまり自分の考えるドラマが成立する。

そしてその人間関係とは、プロデューサーでもカメラマンでも音声マンでもなく、監督である僕自身と撮影される側の人々との信頼関係である。

僕はその部分に一番エネルギーを注ぐ。だからいつも一つの作品を作る前に長い準備期間を持つ。何度も足を運んではこちらの意図を説明して人々に納得してもらう。

それがうまくいった時だけ、まがりなりにも見るに耐えるだけの作品ができる。

こちらから積極的に働きかける仕事のほかに、向こうから依頼が舞い込むこともある。

ミラノコレクション(ファッションショー)の撮影取材は、NHKパリ総局の要請で始まった。だが、言いだしっぺは自分だったかもしれない。衛星放送の黎明期で僕の拙い企画もよく通った。

その仕事自体は、撮影素材とそれに伴う情報だけをNHKパリ総局に送り、彼らが編集仕上げをして電波に乗せる、という形だった。

それは僕自身が企画を出してOKをもらい、制作費を得て取材から編集仕上げまでを責任を持って遂行する仕事とは大きく違う。

有体に言えば、企画から最終仕上げまでを一括して請け負う番組作りに比べると、リラックスしたものだった。だが、言うまでもなくそれは、「手抜き」してもいいという意味ではない。

一度でもそういうことをすれば、しがないフリーランスのディレクターの自分には、翌日から一切の仕事が来なくなるだろう。

フリーランスは、組織の歯車に組み込まれないという自由奔放な良さがある反面、一度でもしくじれば仕事を干されるという怖さがある。

僕はファッションには全く無知でほとんど興味もなかったが、フリーランスの立場では仕事は断れない。また断ってはならない、というのが若い頃の信条であり身上だった。

そういう場合の常で、僕は仕事を請けると同時に大急ぎでミラノコレクションについて情報を集め懸命に勉強して取材を開始した。

僕はそうやってミラノの3Gと称えられたアルマーニ、フェレ、ヴェルサーチを筆頭にするイタリアの有名デザイナーたちと知り合う機会を得た。

言うまでもなくミラノは、ニューヨークやパリやロンドンなどと並ぶ世界のファッションの流行発信地である。そのミラノの中でも最も重要な、いわば流行発信の震源地、とも呼べるのがファッションショーの会場である。

ミラノコレクションでは、イタリアのトップデザイナーたちが作った服を、世界中から集められたこれまたトップの中のトップモデルたちが美しく、優雅に、そして華麗に着こなして舞台の上を練り歩く。

テレビカメラが回りつづけ、写真のフラッシュがひっきりなしにたかれる中で、観客は舞台上のモデルたちを見上げながら、称賛し、ため息をつき、あるいは拍手を送ったりしてショーを盛り上げる。華やかで胸が躍る色彩と光と夢に満ちあふれた催し物である

秀れた才能に恵まれたミラノのファッションデザイナーたちが、新しい流行を求めて生み出す服のデザインは、まぎれもなく一級の芸術作品だ。

しかしその芸術作品は、どんなに素晴らしい傑作であっても、たとえば絵画や小説や音楽のように長く人々に楽しまれることはない。

言うまでもなくファッショ ンが、流行によって推移していく消費財だからである。

ファッションデザイナーたちは、一瞬だけ光芒を放つ秀れた作品を作るために、絶え間なく努力をつづけていかなければならない。

なにしろファッション ショーは、1年間に女物が2回、男物が2回の計4回行なわれる。彼らはその度に、日々の制作とは別に、多くの新しい作品を作り上げていく。

アイデアをひねり 出すだけでも、大変な才能と精進が必要であることは火を見るよりも明らかである。

20世紀も終盤に入った頃、44歳の若さで亡くなった偉大なデザイナー、フランコ・モスキーノが、かつてファッションショーで語ってくれた内容を、僕は決して忘れることができない。

モスキーノは当時のミラノのファッション界では、3Gなどと並び称される大物デザイナーだった。

同時に彼らとは一線を画す、カ ラフルで斬新で遊び心の強い作品を魔法のように次々に生み出すことで知られていた。

彼のファッションショーも、作り出された服と同じでいつもハチャメチャ に明るく賑やかで、舞台劇を見るような楽しさにあふれていた。

ある日彼のショーを取材した後の雑談の中で、ファッションショーの度に次から次へとアイデアが出るのには感心する、というような月並みな賛辞を僕はモスキーノに投げかけた。するとデザイナーが答えた。

「ファッションショーは一つ一つが生きのびるか死ぬかを賭けたテストなんだ。この間何かの雑誌で読んだけど、日本の大学の入学試験はものすごく厳しいらしいじゃないか。

ファッションショーもそれと同じだよ。しかも僕らの入学試験は、仕事を続ける限り毎年毎年4回、敢えて言えば 3ヶ月に1度の割合いで繰り返されていく。ときどき辛く て泣きそうになる・・・」

駆け出しのデザイナーならともかく、一流のデザイナーとして既に揺るぎない評価を得ているモスキーノが、一つ一つのファッションショーを「生きのびるか否かのテストだ」と言ったのが僕にはすごく新鮮に聞こえた。

季節ごとに一新される各デザイナーの作品(コレクション)は、必ずファッションショーで発表される。そしてそのショーの成否は服の売り上げに如実に反映される。モスキーノはそのことを指して、ファッションショーを生きのびるか否かを賭けたテストだと言ったのである。

ファッションは創作と販売が分かち難くからみついている珍しい芸術分野である。創作がそのまま販売を左右する。モスキーノが、ファッションショーを生死を賭けたテスト、と言ったのは極めて適切な表現だった思う

ミラノには日夜髪を振り乱して創作にまい進する多くのモスキーノたちがいる。その頂点に君臨し続けたのが、数日前に91歳で亡くなったジョルジョ・アルマーニだった。

アルマーニの死とともにひとつの時代が終わり、新しい時代が始まった。

だがそこを支え続けて行くのもまた、多くの優れたモスキーノたちであることは疑う余地がない。



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アルマーニは気さくなセレブだった

Armaniソフィアローレンと

偉大なジョルジョ・アルマーニが亡くなった。
NHKの衛星放送の黎明期、定期的にミラノコレクション(ファッションショー)の取材をした。仕事なら何でも請けていた頃だ。
アルマーニのショーも多く撮影した。アルマーニはデザイナーが一堂に会してショーを展開するフィエラという会場ではなく、彼自身が所有するビルの中で季節ごとのショーを開催した。
一度ショーの撮影許可だけを取り、スタッフを伴って建物に入ったときアルマーニ自身と行き逢った。僕は彼に、ショーの後でインタビューをさせてくれ、と直接声をかけた。
彼は気軽に「いいよ」と請け負ってくれた。
これが大きな問題になった。ショーの取材を取り仕切っているスタッフのトップが、勝手なことをするな、と激怒したのだ。
デザイナーのインタビューは事前に申し入れて許可を取るのが常識だった。僕はそのことを熟知していた。アルマーニ以外の多くのデザイナーに許可を取ってインタビューもしていた。
ところがその時は、アルマーニの自然体の動きや笑顔につられて僕は何気なく声をかけた。少しの慣れと驕りと若さがからみあって、ルールを無視してしまったのである。
前述の広報のトップの女性は、ショーの撮影も拒否しかねないほど怒っていたが、アルマーニ自身がなだめて事なきを得た。
彼女は自分の権限を無視されたと感じて怒りまくったのだと分かった。僕は失策を謝りインタビューの要請も取り下げた。
当時も今も並ぶ者のない大物だったアルマーニが、僕の突然のインタビュー要請を気安くOKし、続いて怒りまくる自身のスタッフを静めてくれたことが強く印象に残った。
合掌

日本の解放記念日まで


日本ゲシュタポ憲兵隊650

今日9月2日は、世界の大半(特にアメリカ)が規定する第2次世界大戦の終結日である。つまり日本の敗戦記念日だ。

天皇を中心に物事を考え引きずり回すことが得意な旧弊族が、未だに社会を支配しがちな日本では、昭和天皇がラジオで国民に終戦を伝えた日、すなわち8月15日にこだわる。

あまつさえ彼の声を玉音と呼んでひれ伏したりもする。だが、善悪混交する戦中と戦後の彼の評判はさておき、昭和天皇はまぎれもなく先の大戦の最大の戦犯であることは疑いようがない。

僕は日本の敗戦日をここイタリアに倣って「解放記念日」と呼んでみたい。イタリアでは民衆がムッソリーニを処刑しファシズムを撃破したので、終戦の日を「解放記念日」と呼ぶのである。

しかし日本の場合は、戦争が終わっても戦犯の昭和天皇&軍部が徹底処罰されなかった無念の歴史があるため、とても「解放記念日」とは規定できない

日本は他者、つまりかつては占領軍による断罪、今日なら例えば世界世論などの“外圧”による指弾ではなく、日本国民自身が自主的に戦争を徹底総括する過程を経なければ決して生まれ変わることはできない。

それをしない限り、日本は将来必ずまた戦争を始めるだろう。

戦前を懐古するのみならず、日本社会を再び天皇中心の狂った仕組み、あるいは全体主義に作り変えようとするカルト的勢力が、急激に台頭しているのがそのだ。

戦犯の昭和天皇はもはや存在しない。だからといって彼の極大の罪がなくなるわけではない。

それでも彼の罪は、明仁上皇つまり平成の天皇の人徳と行動とによって、ある程度は軽減されたと考えることができるかもしれない。

平成の天皇は、 戦前、戦中における日本の過ちを直視し、自らの良心と倫理観に従って事あるごとに謝罪と反省の心を示し続けた。

さらに彼は、被害国と戦場を訪問してはひたすら頭を垂れて贖罪し、平和への歩みをたゆみなく続けた。その事実によって少なくとも「天皇家の罪」は浄化されたと個人的には考えたい

それはひとえに明仁上皇の、軍国主義日本による被害国への謝罪行脚と、誠実な人柄を尊崇しての思いである。

当代の徳仁天皇は、罪人の昭和天皇といわば聖人の明仁上皇の、それぞれの「負の遺産」と「業績」を継承したが、彼は断じて彼が天皇、つまり“何者であるか”によって評価されるべきではない。

そうではなく、彼は“何を成すか”によって評価されるべき存在だ。言葉を換えれば彼は、天皇としてではなく、人としてどう動くか、によって歴史の審判を受けるのである。

僕は徳仁天皇の同時代人として、彼が先の大戦の徹底総括に向けて「何かを成すこと」を期待する。

だが、言うまでもなくそれは、天皇よりもまずわれわれ国民が先鞭をつけるべき事案であり義務である。





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