【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2025年10月

高市早苗はおそらくジョルジャ・メローニになれない

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高市早苗首相は、たとえ逆さに吊るして振り回しても“極右”という毒素しかこぼれ出ない政治家だが日本のトップに押し上げられることで政治的にも人間的にも成長するのではないか、と僕は密かに応援する気持ちも抱いたりした。

しかし、ネトウヨヘイト系差別主義者の国民や自民党安倍礼拝(らいはい)族、また日本会議や祭祀機関などの興奮を自らも共に露骨に身にまとって、来日したトランプ大統領に対し安倍元首相を上回るほどの阿諛外交を展開する姿にすっかり気が重くなっ

その気分は、高市総理がかつて、先の大戦は日本の侵略戦争ではなかったし誰にも謝る必要は無い、などという趣旨の発言を国会でくり返した記憶を呼び起こし、彼女は飽くまでも歴史修正主義者の危険な政治家なのだとあらためて確信に変わった。

高市首相は、自らの強い意志で保守主義を標榜し政治闘争を繰り広げるここイタリアのメローニ首相とはやはり違う。男に媚びあらゆる極右勢力の意向に従順なだけの危うい存在、という実体が徐々に明らかになって行くように見える。


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大相撲ロンドン公演のがっかりと、まっ、いいかと

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大相撲のロンドン公演をテレビ観戦(YouTube)した。

もう少しまともな取り組みかと思ったが、子供だましの闘いの連続だったのでがっかりした。

ケガでもしたら割りに合わないとでも思うのだろう、立ち合いのぶちかましはほとんどなく、示し合わせた動きにさえ見える立ち合いに終始した。

物言いを含む本場所での全ての要素と動きとルールを紹介するのが主目的の公演だから、取り組みの本気度は二の次なのだろうが、本場所の迫力を知る者には物足りなかった。

もっとはっきり言えば立ち合いは全て茶番にしか見えなかった。

それでも過去の海外公演や巡業に比べたらまだ見るに堪えるものだった。

いつの、どの海外公演か巡業かは記憶が判然としないが、土俵上で恥ずかしげもなく飛んだり跳ねたりする取り組みを見た覚えがある。

明らかにプロレスを意識したパフォーマンスだったから、ラスベガスかニューヨーク、あるいはハワイなど、アメリカでの猿芝居だったと思う。

取り組みそのものはそんな具合に残念な内容ではあるものの、しかし、力士、行司、審判などの多くのスタッフと、重さ6トン余りの屋形まで持ちこんでの公演は外観上は充分に見応えがあった。

BBCがインターネットで公演をライブ配信し約2万7千枚のチケットも完売。会場となった有名演劇場「ロイヤル・アルバート・ホール」には連日「満員御礼」の垂れ幕が下がった。

大相撲の宣伝を兼ねた「海外ショー」と考えれば取り組みが真剣味に欠けたものであっても仕方がないのかもしれない。

が、宣伝だからこそ大相撲の神髄である取り組みは飽くまでも真剣であるべき、という考えもある。僕は後者の立場だ。

大相撲の弟子集めが狙いなら、取り組みは否応なく真剣にならざるを得ない。

大相撲に入門する若者はハングリー精神に満ちている。ハングリー精神が旺盛でなければそもそも大相撲などに入らない。

欧州の裕福な国々の若者は、ケツ丸出しの褌が仕事着である大相撲などには気を惹かれない。英仏独伊を始めとする欧州のリッチな国出身の力士はいない。

大相撲に入ってくるのは、欧米では経済的に貧しい国や地域の出身者だ。つまり、例えばロシアやブルガリアやジョージア、また今が旬の安青錦 を輩出したウクライナなどの若者だ。

それらの国や地域で大相撲公演をする場合は必ず真剣勝負になる。

一方で大相撲の喧伝が主な目的ならショーの側面を強調するのは正しい。なぜならBBCを始めとする世界のトップメディアを抱える英国のPR発信力はすさまじい。

取り組みを見世物に仕立てて多くの人の目を惹きつけたほうが得策だ。

僕はロンドン場所の取り組みを見ながら、多くの観客に真剣な闘いを見せれば、大相撲の喧伝と同時に入門者の促進にも資することになるだろうに、もったいない、などとも考え続けた。







高市であろうがなかろうが日本極右は欧州極右よりずっと危険だ

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公明党が連立離脱というニュースが駆け巡っている。自民党の高市新総裁がほぼ自動的に首相になるどころか、誰が次の総理大臣になるのか見通せない、混とんとした状況になった。

どの党が連立に加わっても、また自民党が政権を掌握できなくても、極右化する日本の政治の危険度に変わりはないので❝高市政権が発足したなら❞という前提で意見を述べておくことにした。

高市早苗自民党総裁誕生に関する直近記事に多くの方からコメントやメッセージが寄せられた。

最も多かったのが記事の終わり:「高市政権は船出と同時により右カーブではなく左カーブ、即ち中道寄りへと政策も心情もシフトしていく」に対する疑問や反論である。

多くの方が、高市政権は左寄りにシフトする、と僕が主張したと誤解しているようだ。

極右の高市政権がリベラルになる訳がない。そうではなく、ファシスト気質の高市政権は船出と同時に❝現実路線❞を取るだろう、というのが僕の言いたいところだ。

それをしないなら、少し大げさに言えば、中国・韓国・北朝鮮と戦火を交えない限り、彼女の極端な超国家主義者魂の立つ瀬がないだろう。

だがさすがの高市ちゃぶ台返しオヤジ首相でも、隣国と火ぶたを切るほどの狂気はまだ持ち合わせていないだろうから、とりあえずはファシストの正体を秘していわば脱悪魔化をはかる。

要するに現実路線に立ち返る、と考えたのである。

だが全く違う結果も考えられる。

高市首相は日本独特の右翼カルト暴風に吹き巻かれて、ますます右へと突き進みついには政治的に自爆死するかもしれない。

それはここ欧州の極右にはあり得ないことだ。

欧州にも右傾化の強風が吹き荒れている。

欧州に於ける極右の台頭はリベラル勢力の驕りに対する民衆の怒りもあるが、最大の要因は強い反移民感情である。増えすぎた移民に欧州の人々はいら立ち、右派はその不満を利用して勢力を伸ばしている。

だが欧州には「欧州の良心」がある。そのため各国政府による移民排斥の動きには一定のブレーキがかかる。

僕が規定する欧州の良心とは、欧州の過去の傲慢や偽善や悪行を認め、凝視し、反省してより良き道へ進もうとする“まともな”人々の心のことだ。

欧州は世界各地を侵略し殺戮をくり返し、域内の紛争も軍事力で解決するのが当たり前の、野蛮で長い血みどろの歴史を持っている。そして血で血を洗う凄惨な時間の終わりに起きた、第1次、第2次大戦という巨大な殺戮合戦を経て、ようやく「対話&外交」重視の政治体制を確立した。

それは欧州が真に民主主義と自由主義を獲得し、「欧州の良心」に目覚める過程でもあった。

欧州の良心はキリスト教の博愛の精神によって補強されより寛大な方向に展伸するが、第2次大戦後にさらに拍車がかかった。

つまりドイツ国民のナチズムへの徹底総括と深い反省、またイタリア国民の強力な反ファシズム感情がヨーロッパ中に大きな影響を与えて欧州の良心はいよいよ強固になった。

欧州に於ける政治の右傾化、また民衆の反移民感情は欧州の良心と並存している。

政治の右傾化や反移民感情は多分に感情的だが、欧州の良心には理がある。その理が政治の右傾化を監視し反移民感情に待ったをかける。制御心が働くのだ。

その情動には極右も無縁ではあり得ない。

例えば移民排斥を叫んで支持を広げ、ついには政権の座にまで就いたここイタリアのジョルジャ・メローニ首相がその好例だ。

メローニ首相は、ファシスト党の流れを汲む「イタリアの同胞」(党)を率いて反移民感情を人々の間に搔き立てては支持を伸ばし、ついには首相にまで上り詰めた。

昇りつめると彼女は政権公約を果たすべく移民規制に乗り出したが、思うようには進んでいない。いや、思うように進んでいないのではなく、彼女には移民を無慈悲に徹底的に排斥する意思はないのだ。

不法移民を規制する方向には動くものの、彼女の中にある欧州の良心がそれを抑制する。ましてや彼女は難民移民の徹底保護を主張してやまないローマ教会の信者だ。

彼女と同じ感情は欧州の右派に多かれ少なかれ宿っている。そして彼らは反移民レトリックを用いて民衆を主導し勢力を伸ばし続けている。

同時に彼らは政権の座に就くと常識的になるだろう。不法移民、悪意ある外国人は厳しく取り締まるとしつつも、欧州の良心に促されて彼らを平等に扱おうとする情動が働くのだ。

彼らは極右らしく暴力的だが、かつてのナチスのように非情な人種差別意識をむき出しにして人々に牙を剥くことはあり得ない。

欧州の今この時の極右勢力はかつてのナチスやファシストではない。

ヒトラーはヒトラーを知らなかった。だがいま欧州で最も大きな脅威と見られているドイツの極右Afdはヒトラーを知悉している。だから彼らはヒトラーの轍は踏まない。

同様にムッソリーニはムッソリーニを認識できなかったが、ムッソリーニを良く知るイタリアの同胞は、メローニ首相をより穏健な極右、あるいは中道寄りに向かう急進右派たる存在に造り変えた。

日本ではあたかも欧州の極右のように反移民をあおる参政党が躍進した。各野党もそれに近い主張をした。自民党の総裁選では高市早苗候補が外国人差別を煽る動きにさえ出た。

だが世界の国々に比較すると日本の移民の数などたかが知れたものだ。ところが参政党を筆頭にする右派は、アメリカや欧州の真似をして選挙で反移民キャンペーンを張った。つまり彼らは例によって欧米の物真似をしたのである。

そうであれば可愛いもので取るに足らない。

しかしながら、その中身は日本独特の天皇崇拝・靖国偏執跪拝・国家神道狂信・日本会議及び安倍憑依教団等々が一体になったカルトの顕れである恐れがある。

一見すると、右傾化という世界共通の現象の中にあるようだが、実はそこには属さずに孤立し鬱屈して牙を研いでいる、デモーニッシュななにかのように見えるのだ。

極右の流れが本流となり、さらに激流となって世の中を席巻するのは、中道や左派の主要政党が彼らの真似をして国民の関心を買おうと考える時だ。そうなると極右モメンタムは制御不能となって爆発する

欧州の極右の動きには因果があり筋道がある。熱に浮かされて天皇崇拝や靖国遥拝や国家神道などを叫ぶ神懸かり的な精神論が入る余地はない。

ところが日本の場合はそうした理や制御心が働かないように映るのだ。いわゆる先進国のうちでは圧倒的に少ない移民に対して、既述のように参政党が突然憎悪を爆発させ、他の保守勢力が追随する。政権党の自民党も例外ではない。

繰り返しになるが、欧米を含む世界の流行が日本で根拠なくコピーされるパターンである。だがその流行は歌やファッションの流行りではない。偏見差別と、究極には殺戮行為にまで簡単に進みかねない反移民運動の流行なのである。

それはやはり日本カルトの顕現としか形容の仕様がない異様な光景だ。カミカゼ的サイコパス政治勢力が何の障りもなく、誰にも阻止されずに当たり前に存在する、世界の中の異形の土地の恐怖だ。

異形の土地は天皇を神と崇める旧人魂と過去の対戦を総括できなかった無念の歴史事実とに守られて厳然として残った。

それに乗っかった日本極右の危険度は、ドイツAfdやイタリアの同胞、またその他多くの欧州極右とは比べものにならないほど高いのである。





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女性姿のオヤジ首相が向かう先

高市国旗

高市早苗氏が自民党総裁に選出され、ほぼ確実に次期首相になるという見方が広がっている。

僕は彼女を深い懐疑の目で観察しながら淡い期待も抱いている。

その複雑な思いは、2024年の総裁選時を始めとして自身のブログに全て書き込んだ。

その主旨をまとめると次の如くだ。

僕は高市早苗候補だけは決して日本のトップにしてはならない、と考え、つい最近までそこかしこにそう書いてもきた。

今もそうだが、それでも2度に渡って総裁候補の顔ぶれを見ているうちに、毒を持って毒を制す、のような気分にもなった。

高市という猛毒をもって日本の男社会という毒に楔を打ち込む、という印象である。

つまり、猛毒の高市候補が日本初の女性首相になる手もあるのではないかと考え出したのだ。

❛高市首相❜もありかもと考える第1の、そして最大の理由は高市候補がオヤジよりもオヤジ的な政治家でありながら、それでも女性だという点だ。

首相になれば日本の諸悪の根源である男尊女卑メンタリティーにとりあえず一撃を見舞うことになる。それは、無いよりはあったほうが確実に日本のためになるイベントだ。

心優しい良い女性、すばらしい女性を待っていては日本には永久に女性首相は生まれない。女性首相の大きな条件の一つは「タフな女」であることだ。

サッチャー元首相もメルケル元首相も、またここイタリアのメローニ首相も男などにビビらないタフさがある。高市候補は権力者のオヤジらに媚びつつも、鉄面皮で傲岸なところがタフそのものに見える。

2つ目は肩書の奇跡だ。

肩書きが人間を作る、というのは真実である。

一つ例を挙げる。

イタリアで初の女性首相となったジョルジャ・メローニ氏は、ファシスト党の流れを汲む「イタリアの同胞」を率いて選挙を勝ち抜いた。

選挙中、彼女は右寄りの政策を声高に叫びつつ一つのスローガンをさらに大声で主張した。

いわく、「私はジョルジャだ。私は女性だ。私は母親だ。そして私はイタリア人だ」と。

「私はジョルジャだ」は自らが自立自尊の人格であることを、「私は女性だ」は女性であることを誇ると同時にジェンダー差別への抗議を、「私は母親だ 」は愛と寛容を、「私はイタリア人だ」は愛国の精神を象徴していると僕は見た。

メローニ氏はそうやって国民の支持を得て首相の座に上り詰めた。

ところがメローニ氏は、首相になるとと同時に激しい言葉使いを避け、険しい表情をゆるめ、女性また母親の本性があらわになった柔和な物腰にさえなった。

政治的にも極端な言動は鳴りをひそめ、対立する政治勢力を敵視するのではなく、意見の違う者として会話や説得を試みる姿勢が顕著になった。

彼女のそうした佇まいは国内の批判者の声をやわらげた。僕もその批判者のひとりだ。

また同氏に懐疑的なEUのリベラルな主勢力は、警戒心を抱きながらもメローニ首相を対話の可能な右派政治家、と規定して協力関係を構築し始めた。

ジョルジャ・メローニ首相は資質によってイタリア初の女性首相になったが、イタリアのトップという肩書きが彼女を大きく成長させているのも事実なのである。

高市自民党新総裁は、あるいは日本初の女性宰相となり、その肩書きによって人間的にも政治的にも成長するかもしれないと僕は秘かに考えているが、大きな問題ある。

つまりメローニ首相と同じ右翼政治家の高市氏には、イタリアのトップに備わっている女性としての自立心や明朗な政治姿勢や誇りが感じられない。

その代わりに虎の威を借る狐の驕りや、男に遠慮する「女性オヤジ政治家」の悲哀ばかりが透けて見える。女性オヤジ政治家は旧態依然とした男性議員を真似るばかりで進取の気性がない。その典型が高市氏だ。

3つ目は天皇との関係だ。人格者の上皇、つまり平成の天皇は静かに、だが断固として安倍路線を否定した。現天皇は今のところ海のものとも山のものともつかない。顔がまだ全く見えない。

❛高市首相❜が本性をあらわにファシスト街道を突っ走るとき、天皇がどう出るか、僕はとても興味がある。

天皇は政治に口出しをしないなどと考えてはならない。口は出さなくとも「天皇制」がある限り彼は大いなる政治的存在だ。それを踏まえて天皇は「態度」で政治を行う。

彼に徳が備わっていれば、という条件付きではあるが。

日本の政治と社会と国民性は、先の大戦を徹底総括しなかった、或いはできなかったことでがんじがらめに規定されている。

右翼の街宣車が公道で蛮声を挙げまくっても罪にならず、過去を無かったことにしようとする歴史修正主義者が雲霞のように次々に湧き出てくるのも、原因は全てそこにある。

ドイツが徹底しイタリアが明確に意識している過去の「罪人」を葬り去るには、再び戦争に負けるか、民衆による革命(支配層が革命の主体だった明治維新ではなく)が起きなければならない。

しかし、そういう悲惨は決して招いてはならない。

僕はこれまで高市早苗氏を、安倍元首相の腰巾着であり、歴史修正主義義者であり、メディアを恫喝支配できると信じているらしい思い上がった思想の持ち主、とみなし批判してきた。

彼女が総務相時代の20016年、放送局が政府の気に入らない放送を繰り返したら電波停止を命じる、と示唆した発言はあまりにも重大だ。

メディアの監視と批判に耐えられない政治家は首相になるべきではない。メディアを抑圧し制御できると考える政治家は、政治家でさえない。それは単なる独裁者だ。

高市候補にはそのように暗く危険なファシズム的気質がある。それはここイタリアのジョルジャメローに首相にも通底する個性だ。

高市候補は2度に渡って総裁選に出馬し戦う動きの中では、女性であることを意識しないと強調した。彼女は選択的夫婦別姓制度にも反対だ。

だがそれではダメだ思う。彼女は女性であることを大いに意識し、彼女が日本初の女性首相になることは、日本の諸悪の根源である男尊女卑思想を一掃するための大いなる一歩、と位置づけ闘っていくべきだ。

高市氏がここまでそうしないのは、彼女の岩盤支持者である保守強硬派の男らの反発を避けるのが狙いだろう。だが女性蔑視のメンタリティーが国の未来まで貶めることが確実な日本にあっては、女性であることを前面に押し出すことは重要だ。

高市候補に限らず、男に媚びることが多い日本の「オヤジ女性政治家」が、真に「男女を意識されない」一人の政治家と見なされるためには、闘う本人が先ず女性であることに誇りを持ち、女性として自立し認められることが重要だ。

男を真似する「オヤジ女性政治家」は“フェイク”であることを、何よりもまず女性政治家自身が悟らなければならない。

ネガティブな要素も多く抱えた高市自民党新総裁は、日本初の女性首相になる機会を得た。ならばチャンスを活かして生まれ変わってほしい。

女性であることにこだわるメローニ首相はまた、トランプファシズム気質大統領と親和的な関係でもある。同時に彼とは1対1の対等な立ち位置もしっかりと保って動いている。

片や高市新総裁はどうだろうか。首相になって米大統領と対等な関係を構築できるだろうか。それは恐らくないものねだりに終わるだろう。

彼女は安倍元首相を神とも崇めひれ伏す存在だ。その安倍氏はトランプ氏を勝手に友と呼ぶだけの大統領の忠犬だった。

忠犬の忠犬である未来の高市首相に、トランプ大統領にNOと言える器量を期待するのは無理だろう。

自らをバカに見せる狡智も備えているらしいトランプ大統領は、総裁選に勝った高市氏を「知恵と強さを持った人物」とSNSで評価した。ところがその際には高市氏の名前には言及しなかった。

そのあたりに日本と日本のトップを見下しているトランプ大統領の本音が透けて見える。同時に彼の本音に何らかの形で一撃を加える女っぷりなどなさそうな高市氏の正体も。

なにしろ女の姿をしただけの❛オヤジ気質の首相❜なのだから。

高市新総裁はファシズム的な体質が似ている点を除けば、イタリアのメーローニ首相とは似ても似つかない存在だ。メローニ首相が明なら彼女は陰、と形容しても良いほど印象が違う。

もっと言えば高市氏は、自ら率先して右翼運動を担うのではなく、例えば安倍元首相に庇護されて四囲を睥睨してきたように、威光を笠に着て凄むタイプだ。

一方のメローニ氏は自ら激しく動いて道を切り開くタイプの政治家である。

それでも高市新総裁は、日本初の女性宰相になれば、その肩書きに押されて人間的にも政治的にも成長するかもしれない。

最後に、高市政権は船出と同時により右カーブではなく左カーブ、即ち中道寄りへと政策も心情もシフトしていくと僕は予想する。

日本は孤立した国だがひとりで生きているのではなく、近隣国があり世界世論の影響を大きく受けて存在している。それらに圧されて❛高市首相❜は必ず穏健路線に向かうだろう。

もしそうならなかった場合は、世界を席巻している右傾化の潮流は実は日本には届かず、天皇崇拝や靖国的神懸かりカルトが「日本右傾化」の本質ということが明らかになって、高市政権の危険度は一気に高まるだろう。



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エーゲ海のあっと驚くタメゴローな開放感に魅せられて

下降滑空800

リゾート感覚のイタリアよりももっとさらにリゾートなエーゲ海にいる。

イタリアは敢えてその気になって見れば、国全体がリゾート地と呼べるほどに楽しく美しい国である。

そのイタリアに住む僕が、呆れて絶句するほどただひたすらに輝くリゾート地が、エーゲ海とそこに浮かぶ島々だ。

そのエーゲ海にことしも無事に立つことができた。

正確にはクレタ島のビーチ。エーゲ海の最南端。クレタ海と呼ばれることもある碧海である。

地中海は東に行くほどに空気が乾き気温も高くなる。

イタリアよりも東にあるギリシャの乾いた空気は、白く輝き圧倒的な開放感を呼ぶ。

雨が全くと言ってもいいほど降らず、雲一つないぬけるような青空がどこまでも高く広がる。

碧空を裂いて白光が一閃する。エーゲ海特有の強風❝メルテミ❞を捉えたカモメが滑空し遊ぶ姿だ。

スピードに乗り動きが直線的なために航跡が白く結んで輝く光芒となる。

およそ2500の島々が浮かぶエーゲ海は西洋文明の揺籃の地である。

そのうちの最南端のクレタ島は、古代ギリシャ文明に先立つミノア文明を生み出した奇跡の大地だ。

島の中心都市ヘラクリオンにあるクノッソス宮殿がその象徴である。

広島県ほどの大きさに過ぎない島が、西洋文明の原点ある古代ギリシャの、そのさらに揺りかごだったという歴史事実は、目のくらむような感慨を呼び覚まさずにはいられない。

だがミノア文明とは、今からおよそ5000年も前に興隆した青銅器文明のこと。リゾート化した21世紀の島で、常にそのことを意識しつづけるのは難しい。

クレタ島は長い歴史の間には、ローマ帝国やアラブやビザンツ帝国 の支配下に入り、やがてヴェネツィアまたオスマン帝国に侵略されるなど、恒常的に厳しい環境に置かれた。

第二次大戦でもドイツ軍に蹂躙されたが、ギリシャ共和国の一部として復興。やがて欧州に始まった観光ブームによって今の発展を手に入れた。

2008年頃、僕は10年ほどをかけて中東や北アフリカを含む地中海域を旅するという計画を立てた。

ヨーロッパを少し知り、そこに住み、ヨーロッパに散々世話になってきた僕は、これから先じっくりと時間をかけて地中海域を旅し、その原型を見直してさらに学んでみたいと考えたのだ。

ただし、その旅はできれば堅苦しい「勉強」一辺倒の道行きではなく、遊びを基本にして自由気ままに、のんびりと行動する中で見えてくるものを見、見えないものは見えないままにやり過ごす、というふうな余裕のある動きにしたいと願った。

テレビドキュメンタリーや報道番組に長く関わってきた僕は、何事につけ新しく見聞するものを「もしかするとテレビ番組にできないか?」と、いつも自分の商売に結び付けてスケベな態度で見る癖がついてしまっている。

つまり、いやらしく緊張しながら物事を見ているのである。

僕はそのしがらみを捨てて、本当の意味で「のんびり」しながら地中海世界を巡りたい。

そうすることで、これまで知識として僕の頭の中に刷り込まれている地中海、つまり古代ギリシャ文明や古代ローマ帝国やキリスト教など、西洋文明の揺籃となった輝やかしい世界を、ゆるい、軽い、自在な目で見つめてみたい。

それができれば、仕事にからめて緊張しながら見る時とは違う何かが見えてくるのではないか、と考えた。

基本的なプランは次のようである。

イタリアを基点にアドリア海の東岸を南下しながらバルカン半島の国々を巡り、ギリシャ、トルコを経てシリアやイスラエルなどの中東各国を訪ね、エジプトからアフリカ北岸を回って、スペイン、ポルトガル、フランスなどをぐるりと踏破する。

中でもギリシャに重きをおいて旅をする。また訪問先の順番にはこだわらず、その時どきの状況に合わせて柔軟に旅程を決めていくという計画。

だが僕のそのプランは、アラブの春や立て続けに起きるイスラム過激派のテロのおかげであえなく頓挫した。

僕は命知らずの勇敢な男ではないので、テロや誘拐や暴力の絶えない地域を旅するのはまっぴら御免だ。

そこに新型コロナが追い打ちをかけた。パンデミックの衝撃は気持ちを挫き状況がますます悪くなった。

そこで僕は、アラブまた北アフリカの国々は「将来世情が落ち着いた場合のみ訪ね歩く」ときっぱり割り切って、地中海紀行はギリシャを中心に欧州各地を巡る形に変えた。

そんなわけでエーゲ海を良く訪れる。6月には2500の島々の内の幾つか。9月から10月はクレタ島のビーチ、というのが基本の考えだが、あまりこだわらない。

7月と8月の観光シーズンのピークを避けて費用を抑え、のんびり、楽しく、食い気満々の旅である。




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