【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2025年12月

高市早苗という国難を一刻も早く排除するべき

メローニ高市650

自身へのけじめを込めて年が変わる前に書いておくことにした。

僕は高市早苗氏が、日本初の女性首相になることにより極右スタンスの政治姿勢を改めて、より穏健な右派政治家に生まれ変わることを期待した。

それは言葉を替えれば、現実路線に舵を切って日本国のトップらしい主体的で思慮深く、人間的に磨かれたリーダーに生まれ変わることを意味した。

彼女はかつて次のようなおぞましい言動を重ねた。

1.議員一年生の1994年10月12日、国会で村山富市首相に「過去の戦争に関して周辺国に勝手に謝罪をするな」と言。

2.1995年3月16日、「私自身は、戦争の当事者とは言えない世代だから、反省なんかしていないし、反省を求められるいわれもない」と衆議院外務委員会で言明

3.2016年2月8日、気に入らないテレビ局の「電波を停めてやる」主旨の傲慢極まる発言もした。

ファシストやナチでさえ真っ青になりそうな呆れた発言を知りつつ、僕は彼女が首相になって変貌することをほんの束の間だけ思い描いたのである。

それはここイタリアのメローニ首相を念頭に置いての、無いものねだりの期待であり希望だった。

ジョルジャ・メローニ首相は、極右という形容は当たり前、政敵からはネオファシスト(新ファシスト)とさえ指弾されたりする存在である。

彼女は2012年にファシスト党の流れを組む右派政党「イタリアの同胞(FdI)」を結成した。

以来、泡沫政党「イタリアの同胞」の党首として、烈烈たる情緒と確固たる信念を胸に活動を続けた。

10年後の2022年、彼女は激しい選挙戦を闘い抜いてついに政権を奪取した。

選挙運動では声高に、過激に右派の主張を展開。その期間中は顔つきがほとんど狂暴にさえ見えた。

ところが彼女は首相になると同時に険しい極右の言動を控えて、いわば強硬右派とも形容されるべき穏健な道を歩みだした。顔つきまで変わった。

見苦しい激甚な表情が母親のように優しくなった。

極右政治家のメローニ首相が、政権奪取後には中道寄りへと舵を切るであろうことを僕は予想し何度もそう書いた

彼女はその通りの道を歩んでいる。

高市首相は、メローニ首相と同じファシスト気質の政治信条を持つばかりではなく、イタリア同様に圧倒的に男性優位の政治体制を持つ国で初の女性首相になった。

しかし彼女は日本国の首相として現実路線にシフトするどころか、政権の座に就いて間もない2025年11月7日、衆議院予算委員会で、「台湾有事は日本存立危機事態になり得る」と極右きわめ付きの発言をした。

僕はその時点で彼女の「化け」をあり得ないことと判断した。

彼女の台湾有事発言は、自らが師と仰ぐ安倍元首相の「戦略的曖昧さ」を否定して、その遺志を「国策」として具体化しようとする明確な信念の顕れとの意見もあるが、笑止千万だ。

彼女に戦略的な思惑があったとは考えにくい。

そうではなく、発言は彼女がネトウヨヘイト系差別主義教団カルトの仲間内で気勢を上げるノリで、つい言ってみた、というのが真実だろう。

彼女は、イタリアの過去、特にファシズムを明確に否定して国の舵を取る右派政治家のメローニ首相とは似ても似つかない。

このデタラメな政治家が、日本のトップであり続けてはならない。

僕はほんの一時はいえ、彼女が化けてメローニ首相のように周囲から尊重される存在になるかもしれない、と考えた自らの不明を恥じる。

と同時にそうした方向の発言の一切を撤回する。彼女の本性はもはや隠しようがない。

彼女は戦略的な思考ができない分、安倍元首相よりも危険な歴史修正主義者であり超国家主義者である。

取り返しのつかない事態が起こらないよう一刻も早く排除されるべきだ。




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クリスマスは文明にまで昇華した化け物である

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ここイタリアを含む欧米諸国や世界中のキリスト教国では、人々がクリスマスをにぎやかに且つ厳かに寿ぐ。

同時にキリスト教国以外の世界の多くの国々でも、人々はクリスマスを大いに楽しみ祝う。

むろん日本を典型とする非キリスト教国国々で祝されるのは、宗教としての定式や教義や規律や哲学や典儀を伴う「宗教儀式」ではない。

単なる遊びであり祭りでありショーでありエンターテインメントである。

そうなった背景には西洋文明という巨大な力がある。

クリスマスは文明ではない。それは宗教にまつわる文化だ。

文化とは地域や民族から派生する、祭礼や教養や習慣や言語や美術や知恵等々の精神活動と生活全般のことだ。

それは一つ一つが特殊なものであり、多くの場合は閉鎖的でもあり、時にはその文化圏外の人間には理解不可能な「化け物」ようなものでさえある。

だからこそそれは「化け物の文(知性)」、つまり文化と呼称されるのだろう。

文化がなぜ化け物なのかというと、文化がその文化を共有する人々以外の人間にとっては、異(い)なるものであり、不可解なものであり、時には怖いものでさえあるからだ。

そして人がある一つの文化を怖いと感じるのは、その人が対象になっている文化を知らないか、理解しようとしないか、あるいは理解できないからである。

だから文化は容易に偏見や差別を呼び、その温床にもなる。

ところが文化の価値とはまさに、偏見や恐怖や差別さえ招いてしまう、それぞれの文化の特殊性そのものの中にある。

特殊であることが文化の命なのである。

従ってそれぞれの文化の間には優劣はない。あるのは違いだけだ。

そう考えてみると、地球上に文字通り無数にある文化のうちの、クリスマスという特殊な一文化が世界中に広まり、受け入れられ、楽しまれているのは稀有なことだ。

それはたとえば、キリスト教国のクリスマスに匹敵する日本の宗教文化「盆」が、欧米やアフリカの国々でも祝福され、その時期になると盆踊りがパリやロンドンやニューヨークの広場で開かれて、世界中の人々が浴衣を着て大いに踊り、楽しむ、というくらいのもの凄い出来事である。

でもこれまでのところ、世界はそんなふうにはならず、キリスト教のクリスマスだけが一方的に日本にも、アジアにも、その他の国々にも受け入れられていった。なぜか。

それはクリスマスという文化が、世界を席巻した「西洋文明」という巨大津波に乗って地球上に広がっていったからである。

文明とは字義通り「明るい文(知性)」のことであり、特殊性が命の文化とは対極にある普遍的なコンセプトである。言葉を替えれば、普遍性が文明の命だ。

誰もが希求するもの、便利なもの、喜ばしいもの、楽しい明るいものが文明である。

それは自動車や飛行機や電気やコンピュターなどのテクノロジーのことであり、利便のことであり、誰の役にも立ち、誰もが好きになる物事のことだ。そして世界を席巻している西洋文明とは、まさにそういうものである。

一つ一つが特殊で、一つ一つが価値あるものである文化とは違って、文明には優劣がある。だから優れた文明には誰もが引き付けられ、これを取り入れようとする。

より多くの人々が欲しがるものほど優れた文明である

優れた文明は多くの場合、その文明を生み出した国や地域の文化も伴なって世界に展延していく。そのために便利な文明を手に入れた人々は、その文明に連れてやって来た、文明を生み出した国や地域の文化もまた優れたものとして、容易に受け入れる傾向がある。

たとえば日本人は「ザンギリ頭を叩いてみれば文明開化の音がする」と言われた時代から、必死になって西洋文明を見習い、模倣し、ほぼ自家薬籠中のものにしてき。

その日本人が、仏教文化や神道文化に照らし合わせると異なものであり、不可解なものであるクリスマスを受け入れて、今や当たり前に祝うようになったのは一つの典型である。

西洋文明の恩恵にあずかった、日本以外の非キリスト教世界の人々も同じ道を辿った。彼らは優れた文明と共にやって来た、優劣では測れないクリスマスという「特殊な」文化もまた優れている、と自動的に見なした。あるいはそう錯覚した。

そうやってクリスマスは、無神論者を含む世界中の多くの人が祝い楽しむ行事になっていった。

今日はキリスト教国のみならず、日本でも中国でもインドでもタイでもアラブの国々でもクリスマスが祝される。イスラエルにさえそれを祝う多くの人々がいる。

むろんそれらの国々の民衆が祝うのは、冒頭で述べたように宗教儀式としてのクリスマスではなく、飽くまでも遊びやショーやエンターテイメントとしてのクリスマスである。

換言すれば日本式クリスマスが、ほぼ全ての非キリスト教国におけるクリスマスである。

世界中が喜び希求する楽しい文化というのは言葉の矛盾だ。従ってクリスマスはもはや文化ではなく、文明に昇華したイベント、と表現したほうが適切かもしれない。

「化け物なのだから何にでも化ける」と考えれば、じゃやっぱり文化じゃん、ということになるのだけれど。












円と共にどこまでも日本国が沈みゆく

沈み行く手


さて、今日はクリスマスイブである。

クリスマスでホップ、正月はステップ、2月にジャンプして東京まで飛ぶが、今回は桜開花までの飛距離は出そうにないな、などとつぶやきつつ帰国準備中。

楽しみは冬のない南の島の海と、大阪と東京での居酒屋巡りである。

先日、帰国がらみにユーロで円を買って、円の弱体ぶりにたまげた。

ためしに今日のレートは?と調べてみると、円はさらに安くなって、1ユーロがなんと約184円だ。要するに今日なら“たった”5435ユーロほどが100万円に相当することになる。

僕は5500ユーロで100万円を手にした。ちょうど一週間前の話だ。

つまり、もしも今日ユーロで円を買っていれば、僕は黙っていても約1万2千円を余計に手に入れることができた。

日本の輸出大企業とインバウンドの外国人観光客ばかりが得をし、日本国民の大半が物価高に苦しむ円安のカラクリだ。

高市首相に言いたい。

台湾有事・日本存立危機発言をさっさと撤回して、異様な円安対策に本腰を入れたほうがいい。

そうすれば、日本初の女性首相の経歴には少し箔がついて、サッチャー英首相やメルケル独首相の域にまでは無理でも、ここイタリアのメローニ首相の足元あたりまでの評価は得るかもしれない

そうしておいて退陣すれば、日本の未来にほのかに明かりがともらないとも限らない。





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日本が文明国なら難民は全て歓迎し移民は条件付きで歓迎するべきだ

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日本では「移民や外国人を何でもいいから分け隔てなく受け入れよう」という意見と、逆に「何でもいいから移民や外国人は去れ」という人々の主張が激しく対立しているように見える。

そこで明らかなのは、日本人が難民と移民をごっちゃにしていることだ。

難民は先進国なら特に、必ず受け入れるべき義務だ。片や移民は-むろん経済的に困窮している外国人に救いの手を差し伸べるという人道的な側面は常について回るが-その国と国民の自由裁量による選択だ。

受け入れてもいいし受け入れなくてもいい。

また移民として受け入れる場合は、当の人材の技能や人格や思想信条等を識別しても一向に構わない。むしろそうやって移民を選別するのが理想的だ。

それは断じて差別ではなく、受け入れる日本国と移民との間の契約事項の一に過ぎない。

何でもいいから外国人を受け入れろ、差別するな、と叫ぶのも思い込んだら百年目の迷妄だ。むろん差別は指弾されるべきだが、包摂と日本国&移民の契約関係は別物だ。

移民を受け入れる日本は、国内法に始まる受け入れの条件やルールを明確に、堂々と、包み隠さずに示しそれに同意してもらう。

移民は約束に従って日本人となり、やがて時間とともに日本生まれの日本人と寸分違わない日本人になっていく。

だが彼また彼女は、生まれ育った国の文化も纏った新しい日本人だ。そこには多様性の萌芽がある。

今この時の日本では、日本人ファーストと叫ぶネトウヨヘイト系人士や、安倍高市歴史修正主義カルト礼拝所あたりで叫ばれる、汚濁言論ばかりが目立っている。

彼らは欧州の状況を表面的に見て、移民が欧州社会を破壊している。欧州の二の舞になってはならない、などと知ったかぶりに主張したがる。

だがそうではない。

欧州には9割以上のまともな、良い移民市民がいる。彼らは欧州社会に溶け込み仕事をし移住先の国の子供たちと同様に自らの子供に教育を受けさせ、税金を払い選挙で投票もする。

しかしごく一部の移民や移民の子孫は、移住先国の社会に溶け込めず、差別されていとある時は正当に感じ、ある時は誤解と被害者意識に支配されてテロに走ったりもする。

それは「事件」だから世界中に報道され、従って日本のネトウヨヘイト系紳士淑女がわが意を得たりと「だから外国人は危険だ、日本に来るな」と叫ぶ元本を提供してしまう。

そうではあるが、しかし、移民の一部が問題を起こすのも厳然たる事実だ。

それは欧州が過去に世界各地を侵略・直民地化して、住民を虐殺し続けた悪行への反省から「欧州の良心」を獲得し、世界中から難民のほぼ全てと移民の多くを受け入れた歴史によっている。

日本の反移民過激派が指摘したがる「欧州の問題」の背景には、日本人が全く思いもよらない欧州の寛大な深い懐がある。

それはトランプ反動大統領が誕生するまでのアメリカにも歴然としてあった、欧米の美点の一つだ。

島国の洞窟に住み、世界に背を向け、壁に向かって「日本人ファースト!外国人来るな!」と怨嗟し吼える未開の民とは人間の格が違うのである。

日本人は移民受け入れを考える場合、欧米の過去の成功例と失敗例を詳細に見、研究しあるいは手本とし、あるいは他山の石として移民対策を考えれば良い。

人権と包摂の心を忘れず、且ついよいよ移民を受けいれる際には、彼らを基本的に日本人として認め、従って日本の法律をそのまま適用し、既述のように日本が独自に決定施行する規則や習いや掟も守ってもらう、と恐れずに表明すればいい。

その場合には日本が世界の手本になるつもりで、時には厳しい規則も含めて正面から堂々と示し、賛成する人だけ日本に来てください。反対の方は日本に来ないでください、と穏やかに、平明に、且つ論理的に言い続ければ良い。

それは移民ばかりではなく、最近数が爆発的に増えたインバウンドの観光客に対しても定型化していいコンセプトだ。

そこには必ず横暴だ非民主的な手法だ、などの批判も起こるだろう。だがそれは日本が身を挺して打ち立てるオーバーツーリズム対策だとわきまえて、堂々とく突き進めばいい。

それは観光公害に悩む世界が、将来はグローバル規格として取り入れる可能性もある重要な先例になるだろう。

繰り返すが、日本が受け入れる移民に関して最重要なことは、彼らを移民として明確に認定し、そのように扱うことだ。

言葉を換えれば移民を日本人として受け入れ、日本生まれの日本人と全く同様に扱う。彼らは国民だから自由に仕事をし、子供に教育を受けさせ、税金を払い、選挙に参加する。

むろん不良移民など問題外だ。性質たちの悪い移民は、犯罪者の日本人と同じように厳しく取り締まればいい。外国人だからという視点で移民を区別し差別するから問題が起きる。

日本人がきっちりと規則を決めて明確な基準で彼らを受け入れ、さらに平等に扱い続ければ、ほぼ100%の移民が日本社会に貢献するだろう。

安倍俳外差別主義政権が行った「移民政策はとらない」としつつ「特定技能」制度などの狡猾な手段で移民に門戸を開放し、しかも日本側の利便に基づき働かせておいて用済みになったらさっさと帰国してもらう、という姑息な考えは断じて世界に通用しない

外国人労働者とか移住労働者、あるいは出稼ぎ労働者、技能実習生、一時就労者、季節労働者など、など、と都合の良いように名前を変えてみても、彼らが移民であることの実態は変わらない。

日本的あいまいさが最大の癌だ。日本は早く国民的議論を喚起して移民を受け入れるのか否かの最大の、且つ根本的な立ち位置を明確にするべきだ。

受け入れないならそれでよし。世界で孤立しやがて国自体が消滅することを潔く認め覚悟して、ゆるりと死にゆけばいい。

逆に受け入れると決意するならば、ここまで述べたような具体的で公明正大な受け入れ条件を掲げて、移民政策を推し進めればいいのである。





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円安の憂愁

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やがて帰国する際に、事情があって少し多めに現金が必要になった。銀行に円調達を頼んでおいたら、たったの5500ユーロが100万円に化けた。

5500ユーロは僕にとっては大金である。100万円はもっとさらに大金だ。

その100万円に比べると5500ユーロはかなり小額に感じる。だから“たったの”5500ユーロと言ってみた

円安は度が過ぎていないか

高市首相は台湾有事が日本存立危機事態と大失言をかまして、撤回するどころか糊塗に全力を注いでいる。

首相のその態度自体がよっぽど日本存立危機事態だが、円安もそれに劣らず日本の危機の域にまで達しているように見える。

高市首相のアイドルの安倍元首相が、ナントカの一つ覚えに円安誘導を仕掛けたツケを払っているのは日本国民だ。

恩恵を受けているのはインバウンドの観光客。

日本国民でありながらイタリアに暮らす僕も、帰国で外国人並に円安の余得を受けた訳だが心は少しも楽しまない。

円安は日本沈下の象徴であり、インバウンド増による観光公害のさらなる悪化のサインでもある。

しかも日本の舵を取る高市首相は、ネトウヨヘイト系排外差別カルト集団の支持を受けて、「そんなことより」中国を威嚇し開戦も辞さないふうの愚かな火遊びに狂奔している。

そうした時世に強いユーロで円を買って得をした、などと喜ぶ気にはとうていなれない。



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イタリアのフェミサイド(女性殺害)は「アモーレ(愛情)過多が原因」というたわけ

薄闇の中両手で防御する女性

イタリアは先月、欧州主要国の中で初めて、女性が女性であるという理由だけで殺害される、いわゆるフェミサイドを独立した犯罪と定めた。

有罪になると自動的に終身刑に処される。死刑のないイタリアでは最も重い仕置きである。

世界の殺人事件の被害者は、およそ8割が男性である。そのため一般的ではない女性被害者にことさらに焦点を当てる、フェミサイド論争はおかしいという見解も根強くある。

しかしフェミサイドの根底にあるのは、深い女性差別の心理であり、男による女性支配願望である。それは家父長制社会の特徴でもある。

そんなメンタリティーが支配する状況では、女性はただ「女性である」という理由で殺される。フェミサイドの被害者にとっては、家の中が最も危険、という容認しがたい環境があるのだ。

そんな理不尽は必ず是正されなければならない。

世界的に認められたフェミサイドの定義はない。だがそれは世界中で頻繁に起きる。人口比率で見ると世界の発生率はアフリカが最も高い。次いで南北アメリカオセアニアアジアヨーロッパの順になる。

発生件数で見ると、世界全体では毎年6万6千人前後の女性がフェミサイドで殺害される。最も多いのは中南米の国々。

またインドやアラブ諸国も多く、米国では1日に平均4人の女性がフェミサイドに遭う。

ちなみに欧州で発生率が高いのはバルト3国次いでクロアチア、オーストリアが高い。その逆にスウェーデン、イタリア、ギリシャ、スペインなどが低い。

ただし発生件数を絶対数で見ると、人口の多いドイツ、フランスでの犠牲者数が多く、イタリアも同様である。

英国は特殊なデータ収集法を用いていて、比較がさらに難しいが、2022年の統計ではフェミサイドと見られる殺人の犠牲者は121人。

このうち12人が息子によって殺されている。英国では2009年から2024年の15年間で170人あまりの母親が息子に殺された。

母親殺しは英国が突出して多いようだ。いわゆるラテン文化の伊仏葡西を少し知る僕には、英国の事情には思い当たるフシがある。

ちなみに2024年のフェミサイドの犠牲者数は、イタリアが116人、フランス107人、ドイツ191人、英国ではおよそ80人という数字が出ている。

しかし、同国では平均して3日に1人の女性が男性によって殺害されているという統計もある。全体では約120人となり、他の主要国に近い数字で納得しやすい。

イタリアのフェミニサイド発生率は前述のように際立って高い訳ではない。英独仏スペインなどとほぼ同程度である。

イタリアは女性の権利意識や社会進出、またジェンダー事案全体の開明性という点などでは、英独仏等に遅れを取りがちだ。

イタリアは現在、世界男女格差指数で85位と、EU加盟国の中でほぼ最下位に位置している。およそ150カ国中で毎年120位前後が定位置の日本ほどではないにせよ、ホントに欧州の国かと疑いたくなるほどの寂しい数字である。

さらに言えば、イタリアにおける
女性の就業率は50%強にとどまるなど、課題は少なくない。

そのイタリアがフェミサイドを重要犯罪と位置づけて特別扱いし、有罪の場合は自動的に終身刑にするとした進歩性を見せた。なぜか。そこにはイタリアならではの事情がある。

イタリアの年間の犠牲者数は記述のように取り立てて高い訳ではない。英独などに比べるとむしろ少ないと見たほうがいい。

イタリアではかつて、フェミサイドの被害者が1年に平均171人もいた。ほぼ2日に1人のペースである。

幸い数字は年々減る傾向にあり、2023年は120人、2024年は既述のように116人、2025年は11月末現在106人。

件数は減り続けているが、それでも毎年100人を優に超す人数の女性がフェミサイドに遭っている。

イタリアの特異さは、フェミサイドが軽視される傾向にあることである。男が主として愛情のもつれから女性を殺害するのは、「相手女性を愛し過ぎているから」という暗黙の了解が厳然としてある。

いわゆる痴話喧嘩の極端なケースがフェミサイドである。そして痴話喧嘩は極めて個人的な事案であり、痴話喧嘩には他人は口を出すべきではない、という心理がイタリア人には強く働く。

まさにアモーレ(愛)の国ならではの在りようだが、被害者になる女性はたまったものではない。だからこそイタリアでも、女性に対する暴力を何とかしなければならない、という気運が高まった。

イタリアでは、女性の殺害には至らないものの、顔や体に大きな損傷を受ける酸攻撃の被害者なども少なくない。

たとえば先年、ジェシカ・ノターロさん(27)が元恋人の男に酸を浴びせられて顔を大きく損傷した。ノターロさんはミスユニバースのイタリア代表選で最終選考まで残り、歌手としても知られた存在。

彼女は事件から2ヶ月後に敢えてテレビ出演をして、破壊された顔を画面にさらし「私をこんな姿にしたのは断じてアモーレ(愛)などではない」と訴えて、視聴者の心を震撼させた。

女性の権利意識が高い欧州の中で、イタリアはどちらかというと後進地域の一つであり続けている。そこには保守傾向が強いバチカンを抱えた特殊な事情等がある。

だがそのイタリアに於いてさえ、「愛にかこつけた女性への暴力」の愚劣を根絶しよう、という動きが高まって、ついに欧州でも先進的な・画期的な法律が成立した。

他の国々も続くと見られている

続くべきである。





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死が観念からうつつになる時

子供墓の天使像切り取り930

死を語ることは常に観念的である。なぜなら死の実際を語れるのは死者だけだからだ。しかし死者は無言だ。

生者が語る死は全て推知であり嘘である。

生きているわれわれが実況を語れるのは生のみだ。その生は死がなければ完結しない。つまり生は死を内包していると気づくときだけ、死を語ることに何らかの意味が発生する。

それでも生者が語る死はやはり観念的であることからは逃れられない。

ところがその死は、尊厳死また安楽死という言葉に移し変えられると、ふいに観念から実景へと変化する。

そこに法がからまるからだ。つまり強制性が加わる。その場合の強制性とは、ひとことで言えば殺人のことだ。

尊厳死は命の炎が燃え尽きていくままに任せることだが、病院で行われる場合は、医療行為をほぼ停止するという意味で、殺人と言えないこともない。

片や安楽死は、死にゆく本人または他者が意図的に命を絶つ行為である。特に後者は、他者が他者の命を絶つのだから明らかな殺人だ。

だがそれらの行為の前には、死に行く人自身による明確な死の選択がなければならない。

尊厳死も安楽死も回復不可能な病や耐え難い苦痛にさらされた不運な人々が、「自らの明確な意志」に基づいて死を願い、それをはっきりと表明し、そのあとに自殺または自殺幇助による死を実行する状況が訪れた時に遂行される。

そのときにもっとも重要なことは、患者による死への揺るぎない渇求が繰り返し確認されることである。

それでなければ「自らの明確な意志」を示すことができない者、たとえば認知症患者や意識不明者あるいは知的障害者などを、本人の同意がないままに死に至らしめることになりかねない。

そうした場合には、介護拒否や介護疲れ、経済問題、人間関係のもつれ等々の理由で行われる「殺人」になる可能性がある。

親や肉親の財産あるいは金ほしさに安楽死を画策するようなことも必ず起こるだろう。

あってはならない事態を限りなくゼロにする方策を模索しながら、生をまっとうすることが困難な状況に陥った不運な人々が、「自らの明確な意志」に基づいて死を願うならば、これを認めるべきである。

それを拒むのは、僭越であるばかりではなく、当人の苦しみを助長させる残酷な行為である可能性が高い。

生は必ず尊重され、飽くまでも生き延びることが人の存在意義でなければならない。

従って、たとえ何があっても、人は生きられるところまで生き、医学は人の「生きたい」という意思に寄りそって、延命措置を含むあらゆる手段をつくして人命を救うべきである。

その原理原則を医療の中心に「断断固として」すえ置いた上で、患者による死への揺るぎない渇求がくり返し確認された場合は、尊厳死、安楽死は認められるべきと考える。

だが実を言えば、安楽死や尊厳死というものは存在しない。死は死にゆく者にとっても家族にとっても常に苦痛であり、悲しみであり、ネガティブなものだ。

あるべき生は誇りある生、つまり「尊厳生」と幸福な生、つまり「安楽生」である。

不治の病や限度を超えた苦痛などの不幸に見舞われ、且つ人間としての尊厳をまっとうできない生は、つまるところ「尊厳生」と「安楽生」の対極にある状態である。

人は「尊厳生」または 「安楽生」を取り戻す権利がある。

それを取り戻す唯一の方法が死であるならば、人はそれを受け入れても非難されるべきではない。



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