【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2026年03月

多様性の深いふところ~政治3流、経済4流のイタリアが、政治5流、経済2流の日本のロールモデルになり得る理由(わけ)

両手ピースの馬鹿市

日伊のファシスト気質政権

高市政権がトランプ米政権と親しいのは、両者が正真正銘の極右権力機構だからである。

彼らの前には安倍極右体制があった。

ここイタリアでは高市政権以前の2022年9月、極右政党が主導する政権が誕生した。主導するのはファシスト党の流れを汲む「イタリアの同胞」。

党首のジョルジャ・メローニ氏がイタリア初の女性首相になった。

ファシスト紛いの集団が政権党と聞けば、以前なら思わずぎょっとなるところだが、ファナティストで専制君主のトランプ氏が、2017年にアメリカ大統領に就任して以降はどうということもなくなった。

2025年10月 、世界の政治潮流の残響をたどりながら誕生した高市早苗首相率いる極右政権は、名実ともに安倍政権に続くファシスト気質の極右権力機構だ。 

今や世界にはファシスト気質の政治家や政権が溢れている。

英リフォームUK 党のファラージ氏とブレグジッド派勢力、フランスのルペン国民連合党首、チリのカスト大統領ほかの南米またアジア・アフリカの指導者、などなど。

それらの政治家や政治勢力は、強権的という意味でプーチン大統領や習近平国家主席、また金正恩総書記などにも似ている。彼らのうちの多くは実際にお互いに友誼を結んでいる関係でもある。

慣れの功罪

首相就任から4年目に入るイタリアの同胞のジョルジャ・メローニ党首は、いま述べた世界のファシスト気質の政治家の中でも最もファシストに近い指導者とされてきた。

だが彼女は、政権奪取と同時に現実路線に舵を切り、欧州でも強い影響力を持つ保守政治家へと変貌を遂げた。

今では極右と呼ばれる勢力が政権を握ることは、かつてそうであったほどの脅威にはならない。イタリアを含む世界は既述のファシスト的性向の指導者や政権に慣れて来ている。

慣れは油断につながり、権力の暴走を許す可能性がある。同時に、対抗政治勢力と国民が、それら危険な権力への対処法を学ぶ原動力にもなる。

極左と極右は同じ穴のムジナ

イタリアではメローニ以前の2018年、極左と極右と定義されることも多い「五つ星運動」と「同盟」が政権を樹立する事態になった。それは欧州を震撼させたが、イタリア共和国は2党がかねてから主張する脱EUには向かわなかった。

ポピュリスト政権は、EUの意向に反してバラマキ政策を敢行した。と同時にEUとの共存の道も模索し続けた。やがて同盟が離反すると、 五つ星運動はEUと親和的な民主党と連立を組み直して、政権はより穏健になった。

そしてついに2022年、正真正銘の極右政党、イタリアの同胞が議会第1党になったのである。

それが他の主要民主主義国で起これば一大事だが―そしてむろんイタリアでも強く懸念されてはいたが―この国の核を成している多様性が担保して、極右はやや中道寄りの現実主義的保守へと骨抜きにされるだろうと僕は予測した。

そして政権は僕の予測した方向に進んでいる。

イタリアでは政治制度として、対抗権力のバランスが最優先され憲法で保障されている。そのため権力が一箇所に集中しない、あるいはしにくい。

その制度は、かつてファシスト党とムッソリーニに権力が集中した苦い体験から導き出されたものである。

それは同時に政治混乱を次々にもたらすが、たとえ極左や極右が政権を担っても、彼らの思惑通りには事が運ばれない、という効果も生む。

過激勢力が一党で過半数を握れば危険だが、イタリアではそれはほとんど起こりえない。再び政治制度が単独政党の突出を抑える力を持つからだ。

多様性が極論を抑える

イタリアが過激論者に乗っ取られにくいのは、いま触れた政治制度そのものの効用のほかに、イタリア社会がかつての都市国家メンタリティーを強く残しながら存在しているのが理由だ。

都市国家メンタリティーとは、換言すれば多様性の尊重ということである。

イタリア共和国は精神的にもまた実態も、かつての自由都市国家の集合体である。

そして各都市国家の末裔たちは、それぞれが互いの存在を尊重し盛り立てつつ、常にライバルとして覇を競う存在でもある。そこに強い多様性が生まれる。

多様性にはカオスに似た殷賑が付き物だ。

都市国家メンタリティーが担保する多様性重視の社会では、誰もが自説を曲げずに独自の道を行こうと頑張る。その結果、カラフルで雑多な行動様式と、あっとおどろくような 独創的なアイデアがそこらじゅうにあふれる。

多様性を重視するイタリア社会は、平時においては極めて美しく頼もしくさえある。だがそれには、前述のカオスにも似た殷賑が付いて回る。

多様性を否定したい人々はそこを殊更に重視する。そして多様性に伴う殷賑あるいはカオスを、アナーキズムと曲解して多様性を指弾したりもする。

言うまでもなく彼らは間違っている。彼らは千差万別、多彩、人それぞれ、 百人百様、十人十色、 多種多様、、蓼食う虫も好き好き 、など、など、人の寛容と友誼と共存意識の源となる美しいコンセプトを理解しない。

多様性というのはあくまでも絶対善である。絶対とはこの場合「完璧」という意味ではなく、欠点もありながら、しかし、あくまでも善であるという意味だ。例えば民主主義と同じなのである。

多様性と民主主義

民主主義はさまざまな問題を内包しながらも、われわれが「今のところ」それに勝る政治体系や構造や仕組みや哲学を知らない、という意味で最善の政治体制だ。

また民主主義は、より良い民主主義の在り方を求めて人々が試行錯誤を続けることを受容する、という意味でもやはり最善の政治システムである。

言葉を変えれば、理想の在り方を目指して「永遠に自己改革をしていく政体」こそが民主主義、とも言える。

多様性も同じだ。飽きることなく「違うことの良さ」を追求し歓迎し認容することが、即ち多様性だ。多様性を尊重すればカオスにも似た殷賑が生まれる。だがその殷賑は多様性を否定しなければならないほどの混乱悪ではない。

なぜならそれは、多様性が内包するところの疑似カオス、つまり先に触れた個性が思い思いに息づく殷賑に過ぎないからである。再び言葉を変えて言えば、カオス風の賑わいがない多様性はありえない。

多様性の対義概念は幾つかある。全体主義、絶対論、専制主義、統制経済、侵略主義、軍国主義、民族主義、選民主義、チキンゲーム、干渉主義、デスポティズムetc。日本社会に特有の画一主義または大勢順応主義などもその典型だ。

僕はネトウヨ・ヘイト系排外差別主義と極端な保守主義、またそれを無意識のうちに遂行している人々も、多様性の対極にあると考えている。

なぜならそれらの人々には、彼らのみが正義で他は全て悪と見做す視野狭窄の性癖がある。つまり彼らは極論者であり過激派だ。むろんその意味では左派の極論者も同じ穴のムジナである。

多様性は敵も抱擁する

だが多様性を信奉する立場の者は、彼らを排除したりはしない。 ネトウヨ・ヘイト系排外差別主義や極右は危険だが、同時にそれは多様性の一環でもある、と考えるのである。

多様性の精神は、「それらの人々のおかげで、寛容や友愛や共存や思いやりや友誼、つまり“多様性”がいかに大切なものであるかが、さらに明確になる」と捉えて、彼らはむしろ“必要悪”であるとさえ結論付ける。

例えば政治危機のような非常時には、平時の心構えが大きく作用する。つまり、多様性のある社会では、政治が一方に偏り過ぎるときは、多様性自体が画一主義に陥り全体主義に走ろうとする力を抑える働きをする。

一方でネトネトウヨ・ヘイト系排外差別主義がはびこる世界では、その力が働かない。それどころか彼らの平時の在り方が一気に加速して、ヘイトと不寛容と差別が横行する社会が出現してしまう。

ここイタリアには、冒頭で触れたように、戦後の紆余曲折を経て極右政党が主導権を握る政権が誕生した。

その政権には保守主義を逸脱して、ファシズムへ傾こうとするモメンタムが働くことが十分に予想された。

だが再び既述のように、イタリア社会に息づく多様性の精神が危険なその動きにブレーキを掛けて、ファシズムは遠ざかり穏健な右派勢力となった。

一方、日本の政治状況は安倍一強から高市極右政権へと変わったが、実は権力機構のファシズム気質の本性は全く変わっていない。

その意味では、国全体が多様性どころか画一的且つ閉鎖的なメンタリティーに支配されがちな日本に於ける、高市一強政権の危険度はあまりにも高いと言わざるを得ない。




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限りなくママゴトに近い高市外交

米国会議事堂?ではしゃぐ高市661

イタリア戻りの直前、渋谷か羽田で強烈なウイルスの洗礼を受けた。高熱、激しい咳寝返りも打てないほどの重度の腰痛から一週間振りに生還した。

ベッドで朦朧としながらも、必死で這い出して19日のトランプvs高市の会談の模様をネットで見た。

世界が見ている中で、戦争犯罪者そのもののトランプ大統領に、「あなただけが世界平和を実現できる」と臆面もなく持ち上げた高市首相の感覚にのけぞった。

それは2016年、安倍元首相がトランプタワーに馳せ参じて、大統領就任前のトランプ氏を信頼できる指導者、と誉めそやした「事件」を彷彿とさせる。

なんらの批判精神もなく、ひたすらトランプ大統領に擦り寄るだけの属国外交は、安倍政権で完全無欠になった。

それをひたすら踏襲しているのが高市首相だ。

同時に彼女は、意識するしないとに関わりなく、女性であることを武器にして思い切り媚を売る体勢で強者に接し続けている。それがさらに見苦しい。

そうは言うものの、しかし、そのことをさておけば、トランプ大統領との邂逅は予想を裏切る幸運に満ちたものだった。

言うことがくるくると変わるご都合主義そのもののトランプ大統領が、恐らく欧州各国の強い反発もあって、ホルムズ海峡に艦船の派遣を要請しない、と豹変した事実に助けられて難を避けたのは、タナボタの幸運だった。

その言わば偶然の僥倖を外交的成果と主張するのは、「世界の真ん中で咲き誇る日本また高市外交」とおだを上げる態度とまったく同じ空虚な主張だ。

見方によっては、明るい率直な態度とも評価される高市首相の動きやパフォーマンスが、僕には常にママゴトに見えて仕方がない。

このことは高市首相が米艦船上で就任直後にトランプ大統領と腕を組んではぴょんぴょん跳ねたり、イタリアのメローに首相を招いて お遊びふうの歓迎式典を開いたり した時にも書いた。

日本初の女性首相を、必要以上に女性という属性を強調してフィルターにかけ、語ることは、秘めた女性差別の顕現とも見られかねないことを承知で敢えて言う。

僕には彼女のアクションのことごとくが幼く、やはりどうしてもおふざけそのものに見えてしまうのだ。

ところがそのママごとの主体は確信犯的な歴史修正主義であり、天皇制ファシズム容認であり、戦前戦中への回帰願望などという恐るべき超保守主義体質であることが不気味だ。

そんな高市早苗氏は、首相に成り上がったことがいつまで経っても嬉しくて嬉しくて仕方がない。

だからぴょんぴょん跳ね、にこにこ笑いを絶やさず、嬌声を上げ、相方を敢えて名前で「ドナルド」「ジョルジャ」などとと呼び、媚態と期待とお仕着せの上目誘いで見続ける。

見続けるのみならず、一国のトップにあるまじき動きで相手の腕を取り、ぴたりと寄り添い体を押し付ける。公の場でないならば、今にも衣装を脱ぎ捨てて相手を誘いかねないような恥ずかしい動きだ。

女は愛嬌、という言葉には女性の明るさがもたらす平穏と平和と希望と慈愛の温かみがこもっている。僕は女は愛嬌という言葉を耳にするとき、個人的には僕の母を思う。

母が備えていた優しさの中のたくまざるユーモアを思う。母は飽くまでも優しく、深い慈愛に満ちた笑顔で、かつ光のように常に明るかった。

高市首相の存在自体にはそれに似たオーラがないわけではない。だが彼女は、やはり日本国のトップである。

悪のカタマリのネタニヤフと組んで自らの魔性を最大限に発揮しては自在に戦争を始めるトランプ大統領に対し

「ドナルド、あなただけが世界中に平和と繁栄をもたらすことができる」

などと臆面もなく言えるのは、狂気と形容しても構わないほどの異様な動きだ。

世界中がそれを見ていたことを思えば、日本の恥辱ここに極まる、というほどの失態ではないか。

それは外交や政治をママゴト的感覚でしか捉えられない幼稚な精神のなせる業である。

女は愛嬌だが、一国の首相たる者は愛嬌以上に重大なミッションを背中に負っている。

高市首相はそのことをまるきり理解していないように見える。




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ヤッタレきりしま

中国風子供調整切り

大関に再昇進した霧島が好きだ。

霧島の本名は:ビャンブチュルン・ハグワスレン・ナニダキシメトルンヤ・ワレ(だったかな?)。

ハグしっぱなしのような名前どおり、フンドシ、じゃなくて、マワシを掴むと相手にピタリと肌を寄せてしつこくまとわりつく取り口がいい。愛情いっぱいだ。

その調子であらゆるデブ、もとへ、力士にしがみついて、ついには綱も張ってほしい。が、しかし、あまりにも強く抱きつく気持ちの優しさに負けて、すぐにも再び大関から陥落しそうなひ弱な顔つきが心配だ。






トランプとネタニヤフも邪悪だがハメネイも褒められたものじゃない

109を窓から見る夜800

悪の双璧トランプ&ネタニヤフが、ハメネイというガチガチの独裁的教条主義者を圧殺。

イランは彼よりもさらなる強硬派とされる息子のモジタバ・ハメネイ師を後継者に選んだ云々、の情報をメディアやネットで追いかけつつ、沖縄、関西、東京回遊の旅の終わりにいる。

日本のメディアやSNSなどでの印象は、アメリカの犬である高市政権の基本姿勢「トランプ擁護&イラン批判」とは違い、イラン擁護派が多数を占めているように見える。

ハメネイ師が家族もろとも殺害されたことへの同情心が強いのだろうか。

トランプ&ネタニヤフがハメネイ・イランを攻撃したのはむろん悪であり国際法違反である。だが、反政府運動を激しく弾圧し続けたハメネイ師もその政権も負けず劣らずに邪悪

ハメネイ師はイラン正規軍よりも強いとされるイスラム革命防衛隊の武力を背景に、約37年もの長きにわたって強大な独裁権力を振るった。

彼の統治期間中は言論の自由が厳しく規制され、ジャーナリストや人権活動家などの拘束が常態化した。

大統領選への抗議デモや「女性、命、自由」運動などへの弾圧も続き、昨年末からことし初めの反政府デモでは、3000~5000人の国民が殺害されたとされる。正確な数字は未だに分からない。

ハメネイ師はレバノンのヒズボラやガザのハマスまたイエメンのフーシ派など、反イスラエル・反米を掲げる中東各地の武装組織ネットワーク、 いわゆる「抵抗の枢軸(Axis of Resistance)」を支援しづけた。

支持者には、1979年のイラン革命の精神を継承してイスラムの価値を守り、西側の搾取やイスラエル+米国の横暴に対抗する英雄として称えられる一面もあった。

が反政府活動家を拘束し自国民を殺害する指導者など、所詮魔物だ。

後継者の息子モジタバ・ハメネイ師はまだ表舞台には現れず、従って憶測の域は出ないものの、父親のハメネイ師よりもさらに強硬なイスラム原理主義者ではないか、と見られている。

抑圧的なイラン体制が一気に変わるとは到底考えられない。

トランプ・ネタニヤフの悪党コンビの行為を国際法違反と糾弾する人々がいる。それは正論中の正論だが、虚しい指摘でもある。

日本では、攻撃を受けたイランへの同情心が、国際法を犯したトランプ・ネタニヤフ批判を凌駕しているようにも見える。

日本独特の❝判官びいき❞心情だろうが、曖昧模糊とした感情が理性を蹴散らしてしまう、まさしく日本的風景である。

それは極右歴史修正主義者の高市首相を無批判に持ち上げる情動にも通底する心理で、危険極まりない。

米・イスラエル軍によるイラン攻撃は、悪が悪に襲いかかったものでどっちもどっちだ。

だが、イランの国の在り方はイラン国民が決めるべきものであって、トランプ・ネタニヤフが首を突っ込むべきではない、という意味では進撃はむろん指弾されるべきだ。

しかし、繰り返しになるが、ハメネイ師という独裁者もまた、ならず者の抑圧者という観点で糾弾されるべき存在だった。

攻撃は国際法違反であるから即刻止めろという主張も日本には多い。それは正論だが、残念ながらほとんど意味をなさない叫びだ。

国際法はいわばザル法である。法的信念は有するものの慣習に基づく国際合意であり、道徳にも近い一規範である。だから今回のイラン攻撃のように強者によってた易く踏みにじられる。

踏みにじられても、国内法のような強制的な罰則機関がないため、国家間の法的拘束力を持つとされながらも非力なのだ。

世界の多くのまともな国は、「国際法違反」というレッテルを張られることを恐れて行動を慎む。従ってそれが実質的な拘束力を持つ、という意味では重要なものだ。

しかしながら前述のように、トランプ的横暴、あるいは弱肉強食の前では頼りない法則なのである。

だからこそ国際法が重要になるのだが、トランプやネタニヤフのようなならず者がこれを犯せば、世界は手をこまねいてみているしかない、という憂鬱な現実がある。

世界にはその2人のならず者のほかにも、プーチン、習近平、金正恩などの大物、またオルバンほかの小物のならず者も、アフリカ中東などを中心にひしめいている。

それらのならず者は国際法など意に介さない。

だからこそ彼ら蛮人に国際法を順守させるためにも、世界中の自由主義者は戦いを強め、声を挙げ続けなければならないのである。




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そっけない大阪人はナポリ人なんかじゃない


大阪城全身650

隠し砦の3悪人、トランプ・ネタニヤフ・ハメネイの戦いと後日談をネットで追いかけつつ、沖縄-大阪-京都-東京回遊の旅を続けている。

ここ大阪では、これまでなぜか訪ねる機会がなかった大阪城だけを観光し、残りの時間は京都に出てあちこち動き回り、夕方は大阪に戻って居酒屋を巡る、という基本スケジュール。

大阪の食べ物が美味いのは相変わらずだが、ちょっと意外な体験もしている。大阪人のイメージが自分の記憶と違うと感じるのだ。

大阪人はジョークが好き。

大阪人はゆるい。

大阪人は友好的。

つまり大阪人は日本のナポリ人。

等々という決めつけ、あるいは一般論は、むろん常に危険である。

なぜなら一般論だからだ。

だが、一般論には永遠に一抹の真実もある。

一般論を、あえて僕の縄張りであるテレビや映像の世界に引き込んで例えると、それはいわゆる「絵葉書カット」である。

絵葉書カットとは、絵葉書に刷り込まれる写真のように誰もが知っている有名な絵という意味だ。

言葉を替えれば、絵葉書カットは当たり前過ぎる。独創性がない。要するにつまらない絵、という意味である。

大阪人は友好的で楽しいが軽い、というニュアンスの一般論は危険でつまらないが、そこはかとない真実も含む。

それは僕の過去の大阪体験にも当てはまるようである。

だか今回は違う。居酒屋の女性店員はシリアスで強く、ホテルの受付嬢は笑わず、軽便寿司屋(回転寿司ではない)の板前は、厳しい顔で客をたしなめるような言葉遣いまた態度を崩さない。

え?ええええ?となりつつ、僕は大阪の居酒屋街を妻と共に探索している。

大阪人は人見知りをする。

あるいは、大阪の皆さんは普通に日本人で、几帳面で真面目で繊細で、一見の客や見知らぬ者にはジョークなど言わない。

僕のオヤジぎゃくへの愛想笑いも一切なし。

大阪人は反権力。というのもどうやら怪しい。

政権与党の日本維新の会への支持も強く、高市首相への支持率も高い、とされている。

日本の危機はつづく。



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中国ゴミは不合理ながら島の未来を救うかもしれない

三ツ瀬ごみ浜UP650

南西諸島に中国ルーツのプラスチックゴミが押し寄せるのは、海流と季節風の影響が大きい。

ゴミは黒潮によって島々の近海に運ばれ、冬場の季節風によって海岸に打ち上げられる。

それは沖縄から北海道まで全国共通のメカニズムだが、南の島々のゴミは陸地が小さい分だけ目立ちやすい。

島々のプラスチックゴミは中国起源ミがほとんどだ。だが公平を期して言うと、膨大なプラスチックゴミを生み出しているのは日本も、また欧米等も同じである。

のみならず世界中の国が多かれ少なかれプラスチックゴミを生み出してしている。

中国は世界最大の海洋プラスチックごみ排出国と見られていて、国を挙げての処理施設の貧困に加え、ポイ捨てなども多い。また意図的な海洋投棄も行われているとされる。

そうはいうものの、しかし、太平洋上に漂う日本の国土面積の4倍もの広大なゴミの塊り、いわゆる太平洋ゴミベルトを調べると、製造国が分かったもののうちでは日本製が最も多かったという統計もある。

東日本大震災によって日本製の大量のプラスチックゴミが押し流されたという事情もあるが、日本もプラスチックゴミ排出の最大の犯人の一であることに変わりはない。

ゴミの放棄は言語道断だが、それの元になるペットボトルを始めとするプラスチック製品の使用を、ドラスティックに減らすことが求められるのは言うまでもない。

島だけに関して言えば、僕は個人的に自己チューな思いも抱いている。

つまり美しいビーチに押し寄せる膨大な中国ゴミを、わざとそのまま放置するのだ。

するとその醜さと苛立ちが、もしかすると観光客の増大を抑え、島を昔ながらの静かな環境に保つのではないか、と考えたりするのだ。

島に住む人々は、観光客を誘致して仕事を得たい、豊かになりたい、と切実に願っている。

僕の考え方は彼らに憎まれるだろう。

だが、イタリアの大観光地や京都をはじめとする日本の有名観光地のオーバーツーリズムの惨憺たる状況を見るにつけ、無節操な観光客誘致には懐疑的にならざるを得ないのである。



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