【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

2026年05月

Afdはナチスにならないしヒトラーも作り出さない

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直近の記事を捉えて「日独伊の極右のうちでは日本極右が最も危険とあなたは言うが、極右が政権を握ってもここまでは無事なイタリアはさておき、ドイツのAfdはどうだ。Afdは危険ではないのか」

という主旨のメッセージをドイツ在住の日本人からいただいた。

そこで僕は持論で回答した。

ヒトラーはヒトラーを知らなかった。だがドイツAfdはヒトラーを知悉している。

ムッソリーニはムッソリーニを知らなかった。だがイタリアの極右「イタリアの同胞」も「同盟」もムッソリーニを知りつくしている。

だからAfdはヒトラーにはならないしヒトラーを誕生させない。同様にイタリア極右もムッソリーニにはならないしムッソリーニも生み出さない。

片や安倍・高市路線に代表される日本極右は、昭和天皇・軍部・岸信介ほかの戦犯がうず高く積み上げた悪逆非道な罪過を知らない

あるいは、さらに悪いことには、それを全て知りながら確信犯的策略で知らない振りを装いこれを否定して、あまつさえ賞賛している可能性がある。

そこが日本極右の異様な実体であり、ファシズムを忌諱する世界の良心に真っ向から歯向かう、危険極まりない在り方だ。過去を見つめようとしない彼らはまた同じ轍を踏もうとしている。

それどころか、彼らと彼らの支持勢力である日本会議、靖国カルト、神社本庁、統一教会、そして何よりも日本の加害も天皇制ファシズムの無残もあずかり知らない羊の如き無為な国民。

それらの全てが手を取り合い自死を目指して総出で崖に向けて突っ走りつつある。

日本は戦争の徹底総括をせず、従って昭和天皇以下の戦犯を仕置きすることもなく、ゆえに啓蒙進歩的な国民的合意もない。

結果、将来を担う子供たちに日本の過ちを伝える正直な教育が実行されないまま、安倍に始まり高市で完成されつつある天皇制ファシズムへの回帰がいとも簡単に実現されようとしている。

ここイタリアで政権を握っている極右「イタリアの同胞」党首のメローニ首相は、ムッソリーニになるどころかファシズムを公に繰り返し批判し否定している。、

彼女は敵視してきたEU(欧州連合)とも協調的なスタンスを取っている。あまつさえ彼女は、今やEUを牽引する強力な保守派リーダーとして欠かせない存在になった。

イタリアの同胞とメローニ首相がファシズムに走らないのは、政治感覚の鋭いメローニ首相が現実路線に舵を切って、且つ支持母体の極右勢力を制御しているからである。

それが可能になるのは、首相の力量もさることながら、イタリア共和国の神髄にある多様性だ。イタリア社会の底に連綿と流れ広がる多様性のパラダイムが極右や極左の暴走を阻止するのだ。

イタリアは各地方が都市国家のメンタリティーに満ちあふれた国だ。かつての独立国家群、つまり都市国家とそれに準る自由自治体が蝟集してイタリア共和国を形成している。

ヴェネツィア、ジェノバ、ピサ、アマルフィなどの海洋共和国、フィレンツェやミラノに代表される自由都市・共和政自治体、公国や専制君主国家、王国や教皇の主権下にあった都市国群、いわゆる教皇領などの独立国が統一国家の中身だ

言い換えれば旧独立小国家群の国土と精神を内包して一つの国を作っているのがイタリア共和国なのだ。だから中央政府は常に強い中央集権体制に固執する。

もしもそうしなければ、イタリア共和国が明日にでもバラバラに崩壊しかねない危険性を秘めているからである。

各独立都市国家の末裔たちは、それぞれの存在を尊重し盛り立てつつ、常にライバルとして覇を競う存在でもある。

そこに強い多様性が生まれる。

そして多様性は政治の過激化を抑制する。多様性が息づくイタリアのような社会では政治勢力が四分五裂して存在するそこでは、極論者や過激派が生まれやすい。

ところがそれらの極論者や過激派は、多くの対抗勢力を取り込もうとして、より過激に走るのではなく、逆により穏健で現実的になる傾向が強い。

2018年に船出した極右同盟と極左五つ星運動による連立政権は、政治的過激派が政権を握っても、彼らの日頃の主張がただちに国の行く末を決定付けることはない、ということを示した。

多様性の大きな効能である。

そして2022年に成立した極右イタリアの同胞が主導する右派3党の連立政権は、既述したようにメローニ首相の強いリーダーシップによって、極右的な過激道を走らずに穏健な現実的政策を進めている。

ドイツAfdも政権を取れば必ずイタリアの同胞に似た道を歩む。むろんAfdは強い右派色の政策を推し進め、結果不寛容で息苦しい社会が立ち現れるだろう。

だが、Afdはナチス(NSDAP)にはならないしヒトラーも生みださない。なぜそうなるかにはいくつかの理由がある。

1.ここまで述べたようにヒトラーの巨大な悪を知っている彼らはヒトラーになることを避けようとする。

2.Afd単独で政権を確立するのは現代ドイツではほぼ不可能だから、彼らはイタリアの現政権と同様に複数の政党と連立を組む。連立だから彼らは単独で政権を運営する場合とは違い妥協しながら進むことになる。つまりそこで極右的なひいてはナチス的な先鋭な要素が削がれる。

3.彼らの対極にあるリベラル勢力が、ドイツのみならず欧州全体からどっと圧力を掛ける。そこでもナチ的政策は強く抑制される。

要するに長い血みどろの戦いを経て育まれた「欧州の良心」がナチズムを阻む。彼らは必ず中道よりにシフトする。イタリアの極右政権がそうであるように。

しかし間違ってはならない。

それらの政治勢力を放っておくとやがて拡大成長して社会に強い影響を及ぼす。あまつさえ人々を次々に取り込んでさらに膨張する。

膨張するのは、新規の同調者が増えると同時に、それまで潜行していた彼らの同類の者がカミングアウトしていくからである。

トランプ大統領が誕生したことによって、それまで秘匿されていたアメリカの反動右翼勢力が一気に姿を現したのが典型的な例だ。

彼らの思想行動が政治的奔流となった暁には、日独伊のかつての極右パワーがそうであったように急速に社会を押しつぶしていく。

そして奔流は世界の主流となってついには戦争へと突入する。そこに至るまでには、弾圧や暴力や破壊や混乱が跋扈するのはうまでもない。

したがって極右モメンタムは抑さえ込まれなければならない。激流となって制御不能になる前に、その芽が摘み取られるべきである。




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高市人気とメローニ人気

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憲法改悪の可能性、治安維持法まがいのスパイ防止法、まやかしの消費減税主張など、問題政策の多い高市政権は、首相自身の生来の凶才と政治信条の危険さが相まって常に重い空気を醸し出している。

だが、いまこの時の乱流は、昨年の自民党総裁選や2月の衆院選で、高市首相と取り巻きが対立候補や中道改革連合の候補者を誹謗中傷した動画を拡散した疑惑である。 

同じ時間にここイタリアではジョルジャ・メローニ首相がFacebookのリールやストーリーズをはじめとするSNSに頻繁に登場する異変が起きている。

僕はメローニ首相を描いた動画には興味がなく、それをクリックした覚えもない。

従ってアルゴリズムにひっかかって次々に登場しているのではなく、彼女をめぐる投稿が多いために、僕のFB画面にも立て続けに表示されるということだ。

証拠が二つある。

一つは動画が英語、イタリア語、日本語を中心に多岐に渡ること。

二つ目は、確認のために表示される動画を幾つか最後まで見て、情報として保存するとすぐに、同種の動画の表示が一気に増えたことだ。

あきらかにアルゴリズムの網に絡めとられたのである。

そこで使われている動画は実写が多いが、紛れもなくAI仕様とわかるものも少なくない。

イタリア初の女性首相であるメローニ首相は、政治的なスタンスを極右から現実路線の中道右派態様へとシフトして、欧州のみならず世界中の関心を集めている。

視覚的にインパクトがあるメローニ首相の力強い演説や、国際舞台での鮮やかな動きなどが、SNSで多く拡散されているのだ。

加えて彼女自身も、日常生活や海外時訪問時の各国首脳とのやり取りなどの情報を、人柄がにじみ出た親しみやすい動画を織り交ぜて発信し、それらが世界的に好評を博している

メローニ首相と高市首相には多くの共通点がある。

1.双方ともにそれぞれの国の初の女性首相であること。

2.両者は極右とも規定される右派政治家であること。

3.悪の枢軸・日独伊三国同盟の国のトップであること。

4.それぞれがイタリアファシズムと天皇制ファシズムに親和的であること。ただしメローニ首相は政権を奪取して以来、ファシズムを繰り返し否定している。

5.米トランプ大統領と親しいこと。ただしここでもメローニ首相は、トランプ大統領の腰巾着に徹する高市首相とは逆に、彼の独壇場であるイラン戦争に反対して仲違いするなどしている。

要するにメローニ首相は、高市首相とは違って自主独立路線を貫く強い意志を持った政治家であることが分かる。

それらはさておき、両者の最大重要な相違は、高市首相が彼女の師の安倍元首相に追随する危険な歴史修正主義者であるのに対して、メローニ首相が戦争を徹底総括したドイツに倣い、歴史解釈の見直しには賛同しない立場であることだ。

日独伊の極右のうち最も危険なのは日本極右である。戦争の総括をせず、薩長主体だった古い天皇制ファシズムを、今この時も現人神のごとく信奉している点が危い。

多様性がイタリア共和国の三色旗を着て歩いているのでもあるかのようなイタリア人は、バチカンの教えもあってファシズムを骨の髄まで忌諱する精神を獲得している。

ナチズムを忌み嫌うドイツ人もそうだが、実は彼らの中のある者は、ヒトラーの優性思想の残滓を体の奥深くに密かに抱え込んでいる。

それは天皇制ファシズム信仰にからめとられている日本人と同程度に危険だが、日本の「思い込んだら100年目」国民の数に比べると、信者が圧倒的に少ないのが救いだ。

イタリアのファシズムは過去の亡霊である。、ドイツのナチズムは過去の記憶である。だが天皇制ファシズムは、高市首相自身が信者であることからも分かるように現実の脅威なのである。




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元貴景勝、湊川親方の過剰な丁寧さはうるさくないこともない

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史上最弱とは言わないが、弱いゆえにつまらない横綱の豊昇龍と、個人的には史上最も魅力のない横綱である大の里に加えて、 一刻も早く大関から陥落して出直してほしい大関琴桜、また様子が良く分からない大関安青錦が 休場している夏場所を、NHKが委託するTooberという得体の知れない有料チャンネルで見ている。

Tooberは良く分からないチャンネルだが、ロンドン発のNHK傘下放送局JSTVが2023年に放送を打ち切って以降、大相撲をほぼ実況中継で見ることができる唯一のサイトなので欠かさずに見ている。

14日目のの解説者は元貴景勝の湊川親方だった。

懇切丁寧で力士へのリスペクトにあふれた湊川親方の解説は、押し相撲正攻法のひたむきな取り口が素晴らしく、強くもあった彼の現役時代の姿を髣髴とさせて大いに好感が持てる。

だが、一点重大な欠陥がある。

それは彼が全ての力士をいちいち~関と敬称を付けて解説を語る点だ。

日本人は最近、敬意や丁寧さを過剰に意識するあまり、例えば「ご遺体」やご人数 」「ご覧になられる」こちらがメニューのほうになります」「お召し上がりになられます」などなど不要な場面で「ご」や「お」を付けたり、二重敬語になったり、責任逃れを隠したりする表現を多用する傾向が強い。

湊川親方の過剰な丁寧さは、相手を立てようとする意識が強すぎるために、逆に言葉本来の意味や品格を失ってしまう風潮に通底する表現で、滑稽且つうるさいと感じる。

湊川親方らしい力士への敬意に満ちた表現であるのは分かるが、彼が尊敬するべき相手はテレビの視聴者であって“演技者”の力士ではない。

解説者は客観的でなければならない、という意味でも敬称付きの彼の表現はおかしい、とどうしても残念に感じてしまうのは僕だけだろうか。





高市首相はメローニ首相よりサルヴィーニ伊副首相と気が合いそうだ。な。かい?かも?

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5月16日、イタリア北部のモデナ市で車が歩行者に突っ込み、8人が重軽傷を負った。被害者の一人の女性は事件後に両足を切断される悲劇に見舞われた。

事件の容疑者、サリム・エル・クゥドリはモロッコにルーツを持つ移民2世で「統合失調質パーソナリティ障害」 患っていることが明らかになった。

モデナの検察当局は被告に対し、人種差別的動機やテロ行為を量刑加重事由として訴追しない とした。

イタリアにも他の欧州国で頻発する本格的な過激派のテロが伝播かと懸念されたが、容疑者と過激派組織とのつながりはないと判明した。

副首相兼運輸大臣のマッテオ・サルヴィーニ同盟党首は、クゥドリ容疑者がイタリア国民であるにもかかわらず、ルーツがモロッコという彼の出自を取り上げて襲撃事件を移民問題と結びつけ、「(移民)二世犯罪者」だと非難している。

サルヴィーニ副首相はメローニ首相と同様に右派の政治家。彼が率いる同盟はこれまたメローニ首相率いるイタリアの同胞と同じく極右政党である。

彼はかねてからイタリア首相になることを夢見ているが、今回のように移民排撃また差別感情が激しく、そのあたりがメローニ首相とは違って器が小さいという見方が強い。





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ヴァンス副大統領なら習主席をぎゃふんと言わせたかも

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トランプ大統領はイーロン・マスク氏などの大物ビジネスマンを引き連れて北京に乗り込んだ。しかし、ビジネスディールも政治的成果もほとんど得ることなく帰国した

片や習近平国家主席は、米中首脳会談で多くの政略的得点を重ねた。

中でも 新興強国と既存覇権大国の衝突を示唆する「トゥキディデスの罠」論に言及して、中国がアメリカと対等の国であることをトランプ大統領と世界に向けて静かに高らかに宣言した政治的メリットは大きい。

習近平主席は過去には、「トゥキディデスの罠」論を中国がアメリカに楯突くと考えるべきではなく、協調や相互尊重の道を探るべき、とアメリカにややへりくだるニュアンスで語ってきた。

だが、2026年5月のトランプ大統領との会談では、両国が完全に対等であると暗に示唆する文脈で、米中は対立を避けるべきと語った。

トランプ大統領と閣僚らが習主席の暗喩を理解したかどうかは疑わしい。

トランプ大統領自身は過去にもその言葉を聞いているはずだが、反応は鈍く習主席の指摘を重大視しているようには見えなかった。

もしもその場にヴァンス副大統領が同席していれば、あるいは彼は即座に習主席に反論してアメリカの面子を保ったかもしれない

彼はローマ教皇がイラン戦争にからめてトランプ大統領を名指しで批判した際は、「教皇は1000年以上にも渡るカトリックの正戦論を思い出すべきだ」と言下に反論してボスのトランプ大統領を擁護した。

トランプ政権のイデオローグとして一目置かれるヴァンス大統領は、中国に対するアメリカの優位性を習主席にピシャリと言い返した可能性がある。

たとえば習主席の「トゥキディデスの罠」は「蟷螂(とうろう)の斧 」であるなどと。

そういうやり取りを見たかった気が少ししないでもない。





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習近平にからめとられたトランプ大王

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トランプ大統領と習主席の米中首脳会談は、すこし拍子抜けな結果にも見えるが、中国のひとり勝ちと捉えたほうが正確だろう。

イラン戦争が勃発するまでは、2人の会談は世界を2分割、あるいはプーチン・ロシアを引き込んで世界を3分割して支配する構想を、トランプ大統領が密かに持ちかけるのではないか、という事態さえ考えられた。

トランプ大統領がイラン戦争までは、向かうところ全く敵なしの世界帝王に見えていたからだ。

だが彼はイラン戦争で味噌をつけ、秋の中間選挙に向けて中国の助けを借りたいのが見え見えの動きに徹した。

トランプ大統領は習主席をほめそやし、中国は美しい、すばらしい、と何度も持ち上げ、相方との友情を強調しまくった。

そのうえでいつものように嘘か真かわからない会談の成果を言いふらした。だがそこにはほとんど彼の得分はなかった。中国のワンサイドゲームだったのだ。

中国の最大のゲインは、トランプ大統領になんらの言質も取られることなく、台湾問題に鼻を突っ込むなと釘を刺し、新興勢力が既成勢力に挑む「トゥキュディデスの罠」論を持ち出すことで、中国がアメリカと対等な存在であり一歩も引かない大国である、ということを堂々と主張したことだ。

イラン戦争を起こして危機に陥っているトランプ大統領は大人しいばかりで、自らを「予測不能な、とんでもない行動も辞さない危険人物」に見せることで相手を恐れさせ、交渉で譲歩を引き出す外交術 、いわゆる“狂人理論”を行使する余裕もまたその理由もなかった。

片や中国は、トランプ大統領が危機に瀕している、まさにその原因のイラン戦争は、断じて起こるべきではなかったとも主張して、ここでも外交戦略上の勝利を収めた。

またアメリカは、中国が「イランは決して核兵器をもつべきではない」と主張したとも言ったが、中国はかねてよりイランの核兵器保有には反対の立場ながら、首脳会談で習主席が改めてそう言明したかどうかについては、中国側からの正式な確認はない。

トランプ大統領は、イラン攻撃の最大の理由は同国の核兵器開発と所有だとわめいているから、中国の介添えが喉から手が出るほどほしかったがそこでもコケた。

アメリカと堂々と渡り合う中国を見下している高市首相は、トランプの腰巾着でいることを止めて一刻も早く自主独立路線に舵を切るべきだ。

それはトランプ大統領とも仲良くしつつ中国との友誼も模索しろということだ。それが国益だ。戦争に備えることではなく、戦争を避ける努力こそが最大の国防であり安全保障だからである。




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北イタリアの花冷えは5月がふさわしい

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北イタリアの春は花風あり、暑気あり、雨あり、嵐あり、寒あり、時には降雪さえあり、とめまぐるしく変わる。

非日常という意味で、台風や野分や嵐などの荒々しい天色が好きな僕は、北イタリアの気まぐれな春の雲行きにも強く惹かれる。

この国には春の変わりやすい空模様を衣替えに託して戒める諺語もある。

即ち「4月に肌をさらすな。5月はゆっくり。6月にそっと拳を開け。7月は好きなようにしろ」である。

その意味は「4月に早まって冬着をしまうな。5月も油断はできない。6月にようやく少し信用して、あわてることなくゆるりと衣替えの準備をしろ。7月は好きなように薄着をして夏を楽しみなさい」ということである。

要するに北イタリアの春は変幻自在ということだが、春爛漫の状況に慣れている日本人の目には結局、イタリアの春は全体的には寒いという印象が強い。

そんなわけでここ最近も僕は、日本から持ち込んでいる綿入れを着て書斎にいたり、Tシャツの軽装でウォーキングに出たり、ストーブを焚いたり、菜園でのごく軽い作業で大汗をかいたり、と全く落ち着きがない。

菜園での動きは特に悩ましい。暖かい陽気に浮かれて野菜苗を定植するとたちまち寒気が襲って苗を傷めつける。それを恐れてさらなる好天を待ち過ぎると、発育が遅れて凶作に陥ったりする。

ことしは3月まで日本に帰っていた。そのためにプランターでの苗作りのタイミングが遅れた。園芸ショップでいつもよりも多くの苗を買い、定植のタイミングを見計らっているうちに、水遣りを間違えて多くを枯らしてしまった。

それもこれも結局、北イタリアの千変万化する春の陽気のなせる業なのである。

北部イタリアの春が男性的で荒々しいのは、すぐそこにそびえ連なっているアルプスの山々の冷気と、遠くないアフリカの、特にサハラ砂漠由来の熱気のぶつかり合いが生み出す大自然の営みである。


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還暦と古希の気は心


合成老穏やか

101歳で逝った父が、確か86歳か87歳のころ、回転座椅子からやっとこさで立ち上がり、しみじみとつぶやいた

「ああ・・・60代は青年だったなぁ」

父ははっきりと「青年」と言った。それは若いという意味にほかならない。大正生まれで軍人だった父はよくそういう言い回しをした。青年という言葉が好きな人だった。

僕は60代を抜けたばかりでまだ70代の喜怒哀楽は知らない。だが今この時の70代とは、ひどく憂鬱で迷惑至極な年代であり存在である気がしないでもない。

それというのも古希とは、現下世界を揺るがしている、魂まで嘘にまみれて知のからくりが歪み情動が憤怒と憎しみと冷酷に支配されてでもいるようなトランプ大統領と、同期とは言えないまでもほぼ似た同じ七十路ということだから、ひどく陰鬱な気分がしないでもないのだ。

僕は南方辺境の離島群の中でもさらに辺鄙な離島に生まれ育った。13歳で故郷を離れて転々と島々を渡り暮らした。

故郷の島から少し大きな島に出て中学に学び、高校時代はそこよりもっと大きな島で過ごして、大学時代は東京で暮らした。つまり本州という日本最大の島に住んだのだ。

あらゆる土地を「島」と考えるのが僕の普段の腹構えである

「島」とは、例えば僕の生まれた極小辺鄙の南の島であり、それより少し大きな観光盛んな島々であり列島群である。

島はまたやや大きな九州島でもあり本州島でもある。さらにそれは一段と大きな日本という島(国)になり、ついには「大陸」と称される世界の島々にまで広がる。

面積がオーストラリア島以上の陸地を「大陸」と呼ぶのはただの方便で、地球上のどの陸地も実は全て日本国と同じ島なのである。日本を含むそれらの島は、やがて地球という島になる。

さらに、地球島というのは太陽系という海に浮かぶ島であり、太陽系はそれより大きな銀河系の中の一つの島、さらにさらに、銀河系も宇宙の広がりの中の一つの島で・・というふうに果てしもなく広がって行くのが、僕が考える「島」だ。

要するに僕の故郷の絶海の孤島も宇宙も等しく同じ島なのだ。なにも怖れることはないのである。

島から島へと渡り歩いた僕は各島々に友人がいる。その数は、生まれた土地で成長し、学び、仕事をして死んでいく者に比べたら、桁違いと形容しても言い過ぎではない大きな数字だ。

友人が多いから楽しみも多いが、悲しみの数もまた尋常ではない。

60代終わりまでの間には、それぞれの島の友人たちの幾人かが逝った。島の数が多い分亡くなった友人の数も半端ではない。

それは生まれ育ったのがほぼ一箇所の都市である僕と同い年の妻の、死亡した友人と比べ見るだけても歴然としている。

さて

70代に突入したとたんに、ここイタリアで2歳と3歳上の友人ふたりが亡くなり、3人が不治の病と宣告された。

日本を含む世界中の他の「島々」でも似たようなことが起こっている。

60歳代までの死は「早死に」と呼べるが、70歳代以降の死は事故や不慮の出来事を除けば、いわば日常茶飯だ。それは寿命であり自然死なのである。

古希70歳は本厄、73歳は八方塞がりの厄年とされる。バタバタと逝った友人らはすると八方塞がりの厄に中(あ)てられたということだろう。

中国が発祥の厄年の観念だが、どうやらイタリア人にも当てはまるらしい。

80代後半にいた父が、隣の70代をぴょんと飛んでスルーして、なぜ「60代は青年」と言ったのかは分からない。あるいは真正老人の彼にとっても、70代はもはや老人、という思い込みがあってのつぶやきだったのだろうか。

僕は70代に突入したばかりで、60代との肉体的また精神的な違いはまだ実感できないでいる。だが心理的には大きく老いの側に引き込まれた感覚がある。

先述の如く、60代までは死ぬのは稀だが70代以降は普通の景色、と感じるのだ。

なぜそうなのかは、おそらくここから先のいつか、自分が死ぬときに瞬時に理解するのではないかと思ったりしているのである。




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