もはや旧聞に属する話だが、イタリア・アッシジのサンフランチェスコ教会の鐘の音を合図に、世界8ヶ国を衛星生中継で結んで、正月コンサートをしようというNHKの番組があった。

指揮者の小澤征爾さんが、イタリアの教会の12時丁度の鐘の音を合図に日本でタクトを振ると、中国、アメリカ、ドイツ、セネガル、イスラエル等の国々の楽団が一斉に演奏を始める。この時小澤さんのいる日本は午後8時、セネガルは午前11時、イスラエルは午後2時、ボストンは午前6時などと時差があるが、一斉に演奏を始めるタイミングはイタリア時間の昼の12時きっかりの鐘の音。

アッシジの中継現場にいた僕は、12時きっかりに合図を出して鐘を打たせる役割を担っていた。そこで1時間ほど前からリハーサルを繰りかえした。生中継でもリハーサルは欠かせないのである。いや、むしろ生中継だからこそ、リハーサルは普通の番組作りよりももっと重要になる。

合図で鐘がうまく鳴り出すようになったのが本番20分ほど前。そこで世界各地を結んで時刻合わせをした。ところがイタリアの時間だけが53秒ずれている。慌てて言わばNTTの117にあたるここの標準時報台に連絡した。するとそこもやはり53秒遅れていた。まさかと思って何度も確認するが結果は同じ。

衛星信号を経由するパリと東京に連絡を取った。2国はぴったりと時間が合っている。他の国々も同じ。つまりその年、1995年1月1日のイタリア時間は、グリニッジ世界標準時から、53秒ズレて動いていたのである!

僕はイタリア時刻を無視して、パリと東京がそれぞれ12時と20時を打った瞬間に鐘にゴーサインを出した。そうやってコンサートは無事に始まり、番組も無難に終わった。もしあの時イタリア時間に合わせて鐘を打っていたら・・と考えると、今でもぞっとする。


それは少し極端な例ではあったが、イタリア人は良く言われるように時間に対してけっこうアバウトな感覚を持っている。彼らが5分待ってくれと言えばそれは20分とか30分であり、1分待ってくれと言えばそれもやっぱり20分とか30分である場合がほとんどだ。


どこかの家に夕食を招待されたりする時も、言われた時間より遅れて行くのが礼儀、という考え方さえある。要するに招待する側もされる側も、あくせく時間にこだわらない、という暗黙の了解があってそういうルールができているのである。


招待された側が時間通りにきちんと現れれば、招待した側はこれに応えるためにあくせく準備作業に精を出さなければならない。逆に招待する側が時間に厳しくこだわれば、招かれた側は万難を排して、急いで準備をし行動を起こして訪問先に姿を現わさなければならない。


イタリア人はそういうきっちりとした動きに余り価値を見出さないところがある。のんびりやろうよ、というのがそういう場合の彼らのキーワードである。それってけっこう沖縄あたりのいい加減な島タイムの感覚に近い。


そう、時間に対するラテン民族の大らかさは、テーゲー(大概、アバウト、いい加減)な南の島の時間感覚に似ているのである。


しかし、島時間がいかにトボけたいい加減なものであっても、公共の時報が1分近くも遅れるなんてあり得ない。


そうして見ると、イタリア時間こそ究極の本物・大物のテーゲーなのかもしれない。