日曜日(3月13日)もずっとNHKの地震関連ニュースを見て過ごした。
午前11時(日本時間19時)のNHK7時のニュースから、報道の様子ががらりと変わった。被災現場にカメラが入り、いったん津波に飲み込まれながら難を逃れて、九死に一生を得た人々の生の声が電波に乗り始めたのだ。
最初は宮城県名取市の自宅で、津波に巻き込まれた石川竜郎さんという男性だった。津波が名取市の全てを飲み込んで膨れ上がっていく恐ろしい姿は、空撮カメラで克明に捉えられて、それまで何度も繰り返し放映されてきたが、石川さんは、まさにその地獄絵のただ中にいたのだった。
自宅2階にいた彼は突然巨大な濁流に飲み込まれ、水中に引きずり込まれ、死を覚悟して、それでも懸命に足掻(あが)くうちに奇跡的に助かった。顔にたくさんの傷を負った石川さんが語る生々しい恐怖体験は、それまでのあらゆる驚愕映像が語り得なかったものを語り始めた。
それをきっかけにして、NHKのカメラは被災現場の詳細を舐めるように映し出し、石川さんに続く「地獄からの生還者」も少しづつ紹介していった。
そこまでの報道はいわばロング(引き)の報告だった。実況報告の中心は、地震と津波の破壊の模様を遠くから見たいわば大局的なものだった。2次災害、3次災害の危険のある被災地では、空撮やロングの絵を駆使した報道になるのは仕方のないことだった。
ところがこの7時のニュースからはアップ(拡大、接写、寄り)の報道に変わった。一つ一つの絵の多くが、対象の「今現在」のクローズアップになったのだ。九死に一生を得た石川さんのような人たちが見つかり、津波の心配が低くなった被災現場にカメラが入って、あらゆる事象に密着し、生々しい映像が多く出始めたのである。
被災地に襲い掛かる巨大地震や津波をロングで捉えたそれまでの映像は、言うまでもなく十分に恐ろしいものだったが、カメラが対象に密着してアップで捉えることができるようになったそれ以後の報告は、ロングの絵をはるかに上回る圧倒的なインパクトを持っていた。
同時にそれは、被災地の惨状に激しく胸を揺さぶられ、同情し、悲しみながらも、結局何をすることもできず、遠い安全な場所で事態を眺めているに過ぎない自分に対する嫌悪感のようなものももたらした。僕は故国の途方もない悲運をただ苦しく見つめているだけの、無用で無力な情けない存在でしかないというような・・
自分の言葉の全てが空しく、何かを言うことはただの偽善にしか思えないような、被災者の圧倒的な不運、悲しみ、苦悩・・・
それは13時(日本時間21時)から始まったNHKスペシャルでさらに深められた。
被害の実相が徐々に明らかになっていくに連れて、NHKの検証も次第に重くなっていく。それと正比例して自分の言葉が果てしもなく軽くなっていくように感じる。ここからは少し言葉を慎もう。しばらく黙って、圧倒的な不運に襲われた人々に心だけをそっと寄り添わせて見守って行こう・・・
と思う先から、地震と津波に続いて発生した原発問題に対する強い不信感が湧き上がって、微小微力の自分なりにやはり何かを語らなければならないとも考える。
天災は、悔しいが、仕方がない。人災の原発は許せない。許してはならない。
原発の危険がこのまま回避されることを祈りつつ、僕はそれを取り巻く不透明な現象にはしっかりと目を留めておきたいと思う。
原発問題に関しては、日本の報道と世界の報道との間にギャップがあるのだ。そこには単純な善し悪しでは測れない理由があり原因がある。
そのことについてはどこかで必ず検証したいと思う。ただそれは僕だけの問題ではなく、日本人のひとりひとり全てが、それぞれの立場で検証をし、結論を出し、議論をくり返して、将来の道筋を決めていくべき巨大なテーマであるように思う。