小田原の皆さんがわが家を訪ねてくれたことを機に、大震災を忘れるわけではないが、心の中で少し距離をおいて前に進もうと心に決めた。が、それはまだ無理だと分かった。

 

昨夜、被災地の子供たちを取り上げたNHKの「クローズアップ現代」を見た。とつぜん親や家族を奪われ、家をなくし、自身も津波の恐怖を体験した子供たちの心の闇を思って暗澹(あんたん)とした。僕はまた泣いた。

 

いったいなぜこんな酷いことが起こるのか。何度も何度も繰り返した自問を胸中でふたたびつぶやき、無力感と苦しく対峙しつづけた。

 

NHKは震災二日後の19時のニュース以来、渾身の力で被災地に密着した報道を続けている。僕がイタリアで追いかけているCNN、BBC、アルジャジーラなどの衛星局も、NHKに遅れて取材クルーを被災地に送り込んで見ごたえのある報道を続けた。今は原発事故にしぼってニュースとして触れることがほとんどで、現場に入り込んでの報告はぐんと少なくなった。それでもアルジャジーラは、今朝も現場からの特派員レポートを流した。

 

被災地のさまざまな問題や苦しみや痛み、そしてわずかばかりだが灯りだした希望の光、といった情報を現地の皆さんに密着してきめ細かく伝えるのはNHKだが、国外メディアも依然として頑張っている。

 

心の中で少し距離をおこうと考えた土曜日とは逆に、今日は無理に大震災から目をそらすのはやめた方がいいのではないか、と感じはじめている。我ながら落ち着きのない心理状態がつづく。

 

そうやって自分の気持ちが揺れ動くのは、まだまだ続く被災地の業苦と平穏な自らの日常を比較して、心中に強い負い目がわき起こるからである。

 

それは嘘でも偽善でもない。日本人としての、あるいは人間としての心の揺れである。

 

もどかしいが、しばらくは一方に決め付けることをやめて、震災にも正面から向かい合い、自らの日常にもありのままに対峙していくべきなのだろう。


昨夜、被災地の子供たちに泣かされて、今朝は7時前に起きだして、自宅の2回にある書斎兼仕事場に入った。

そこからはブドウ園の広がりが見渡せる。急速に春めいていく畑地には、緑が芽吹いてすがすがしい。

 

ふと窓に寄って下を見た。ブドウ園の端の草地で2匹のウサギが戯れている。白と灰色に近い茶色の毛の子ウサギである。

 

近くの農夫が、食用に飼っていたものを放し飼いにさせてくれと頼んできた。わけを聞くと、2匹は体が小さく、兄弟ウサギに食料を横取りされてこのままでは育たない。だから、ブドウ園においてくれと言う。

 

一も二もなくオーケーしたのが一週間ほど前。

2匹は食べたいだけ草を食べて元気に遊んでいる。僕はときどき2匹に近づいたり、今のように窓から見下ろしたりしてひどく癒やされている・・・

 

僕の前にある平穏で美しくさえある日常。そして遠い故国には地獄のような被災地の日常がある。

 

これはいったい何を意味するのだろうか。世界はなぜ酷薄な不条理を体現して、平然とそこに広がっているのだろうか。

 

僕は考えても答えの得られるはずのない疑問を、また考えずにはいられない・・・