コンサートの一番の目玉は言うまでもなく出演者と演目である。現在はコンサートの趣旨に賛同して、協力してくれるアーチストの人選を進めているところ。出演者が決まれば演目も自ずと決まってくるだろう。

 

昨年の自宅での慈善コンサートの構成は、フルート、オーボエ、クラリネット、ピアノの4楽器だった。抜群の出来でクラシック音楽オンチの僕でさえ本当に楽しんだ。できれば3~4種類の楽器は欲しいと素人なりに考えているが・・

 

実はコンサートの開催を決めたとき、僕は早速4人のアーチストに連絡を取った。このうち日本人ピアニストの吉川隆弘さんからはOKをもらったが、スカラ楽団員の3人は無理らしいことが分かってきた。

 

フルート担当で友人でもあるマウリツオ・シメオリを通して連絡を取っているのだが、マウリツィオを含む3人のアーチストは全員が、5月から6月にかけてスペインでのコンサート活動で忙しいらしい。残念だが諦めざるを得ない。

 

しかし、ミラノの友人たちが技量抜群のギタリストの出演OKをもらった。この先、もう一人か二人、聴衆を楽しませてくれる優秀でしかも篤志家のアーチストが現れることを期待したい。イタリアには素晴らしい音楽家が世界中から集まってきているのだから、きっと大丈夫だろう。

今回の場合は、二番目に重要なのがコンサート会場である。舞台になるわが家は田園地帯の中にある古い屋敷。国の史跡に指定されている妻の実家・本家の建物ほど重要ではないが、ここも文化財監督局の管轄下にある歴史的な建築物である。妻の実家の伯爵家が昔、このあたりの、ま、いわばお殿様のような存在の家と婚姻関係によって合体して、ここも伯爵家の持ち家になった。伯爵家の中では傍系の、いわば分家のような立場だが、ブドウ園と古い城壁に囲まれた美しい場所である。

 

コンサートの聴衆は、普段は立ち入れない私邸の会場に遠慮なく入ることができる。それもアトラクションの一つになる。わが家でコンサートをする意味はまさにそこにある。

 

自宅で開催される慈善コンサートでは、イベント終了後に茶菓や軽食や飲み物などを提供するのが習わしである。これはこの家での催し物に限らず、多くの場合は同じような形を取るのが普通らしい。

 

最低でも生ハムやサラミを中心にした軽食とスイート、それにワインぐらいは供したい。ワインは今回はスプマンテ(イタリア・シャンパン)になるだろう。自宅はイタリア一番のスプマンテの産地、フランチャコルタの中にある。スプマンテも少しはイベントの助けになるだろう。

 

あとは僕とミラノの友人、さらに妻が関係する慈善ボランティア団体の友人たちの働き。僕ら日本人はイベント開催では素人だが、協力してくれる「マトグロッソ」という大きな慈善団体に所属するイタリアの友人たちは、その道のプロだからいろいろと助けになってくれるに違いない。僕はグループのリーダーのブルーノと連絡を取って、オーガナイズの仕方に始まるさまざまなノウハウを懸命に習っている。

 

理想は一切のものを無料で、つまり寄付や義捐や協賛の形で提供してもらうことである。できる限り出費を抑えなければ、被災地への最終的な義援金が減ってしまって余り意味がない。「マトグロッソ」のブルーノの話では、去年のコンサートの場合、彼らの実費負担はピアノの貸し出しと調律と運搬設定の全てを引き受けてくれた、地方の楽器店への少額の支払いだけだった。

楽器店はトラックをレンタルしたり、設定や後片付けに人を派遣したりして大変だったために、さすがに全て無料とはいかず、トラック代などの実費を支払ったのだという。

それ以外は人件費はもちろん、全てが個人や法人や役場などの篤志によってまかなわれた。僕ももちろんそういうイベントを目指している。

少し気がかりがある。というか、一番の心配点がある。果たしてどれだけの聴衆が集まってくれるのだろうか、ということ。

日本への支援、というのがどれくらいの人に説得力を持つのかが分からない。というのも、日本は豊かな国、という思い込みが人々にはある。また実際に豊かであることには変わりがないから、人が集まりにくいのではないか、と不安になるのだ。

 

イタリアはもちろん、欧米には数え切れないほどの慈善団体がある。それらは、アフリカやアジアや南米などを中心とする、貧しい国々を援助する目的で作られている場合が多い。たとえば僕の妻は二つの大きな慈善団体に所属し、それよりも小さいもう一つの慈善団体ともかかわっているが、そのうちの二つはアフリカ支援を主に行う団体であり、もう一つは主に南米支援を行っている。そのほかにも個人的に世界の貧しい子供たちを助ける活動もしている。

 

妻の例からも分かるように、欧米人は世界の貧しい国や人々への援助には積極的である。そして慈善事業にも慣れている。しかし、豊かな国日本に対してはどうだろうか。東日本大震災の惨劇のことは誰でも知っているが、日本の被災者は彼らの支援が無くても立ち上がるし、復興していくだろう、と人々が考えてしまうと集まりが悪くなってしまうかもしれない。

 

欧米を始めとする世界中の人々は、阪神淡路大震災の廃墟から速やかに復興した日本を賞賛のまなざしで見た。人々にはまだその記憶が鮮明に残っている。だから今回も大丈夫、と考えてしまうかもしれない。それが僕は少し心配である。ここはやはり、できるだけ多くのイタリア在住の日本人にも声をかけるべきだろう・・