4月24日の日曜日は復活祭(伊語パスクア、英語イースター)である。十字架にかけられて死んだイエス・キリストが、三日目に復活したことを祝う祭り。

 

復活祭の僕の楽しみは、招かれて行く妻の実家で必ず食卓に出るやぎ料理である。

 

イタリアのやぎ料理には、やぎ独特の強烈なにおいがない。料理に使われているのが、まだ乳離れもしない生まれたての子やぎ(caprettoカプレット)の肉だからである。子やぎは乳離れをしてひとくちでも草を食むと、その肉にはやぎ独特の臭(くさ)みがこもり始めるという。従って良い肉ほど若いやぎのそれということになる。


炭火やオーブンでじっくりと焼き上げられた子やぎの肉は香ばしく、口にいれると柔らかく舌にからんで、とても上品な味がする。

 

イタリアには「さすがはグルメの国」と感心させられるような料理がたくさんあるが、僕にとっては、復活祭の子やぎ料理もそんな食べ物の一つである。

 

復活祭になぜやぎ料理なのかというと、イエス・キリストが贖罪のために神に捧げられる子羊、すなわち「神の子羊」だとみなされることからくる。そこで復活祭に子羊を食べてイエス・キリストに感謝をする習慣ができたが、子羊の肉はやがてそれに似た子やぎの肉にも広がっていった。

 

日本のやぎ料理といえば南の島々のそれであろう。また北海道のジンギスカン料理も島のやぎ料理に少し近いかもしれない。

 

島々のやぎ料理は良く言えば珍味、もっと良く言えばゲテモノ(笑)である。

 

やぎの成獣は羊よりもくさい。その肉はもっとくさい。初めてやぎ料理を食べる人が仰天するのは、鼻もひん曲がるようなその強烈なにおいである。僕の意見では料理法にも問題があると思うが、なによりもまず肉の刺激臭が初心者の障害になる。

 

食べ慣れた人にはやぎ肉のにおいはもちろん気にならない。いわば納豆やくさややブルーチーズなどの「におう」食べ物と同じで、好きな人にはむしろその独特の臭みがおいしさの源の一つになったりする。

 

それにしても、生まれて間もない子やぎをつぶして食べるとは、なんというゼイタクだろうか。カワイソーなどと偽善的な言葉は口に出すまい。そんなことを言えば成長したやぎをつぶすことだってカワイソーということになるのだから。


島の古人たちが子やぎを食べることを思いつかなかったのは、それを「かわいそう」などと思ったからでは断じてない。

 

貧しかったからだ。

 

やぎは大きく育ててからつぶす方がより大量の食材になる。より多くのひもじい人々の口に行き渡る。だから大きく育ててから食べた。成長したやぎの肉はにおう。だが、においよりは空腹の方がはるかに切実な問題だから、くさくても食べた。

 

食べるうちに人は臭みに慣れる。やがて臭みは臭みではなくなって食材の個性になる。むしろ臭みがないと物足りないという風に味覚が変化していく。それが島々のやぎ料理である。 

 

一方ローマ帝国を持ったこともある豊かなイタリア人は、空腹を満たそうとする切実な行動よりも、より美味いものを食べたいというグルメな欲求を優先させてやぎ料理を考えることができた。

 

だから量は多いが、くさい成熟したやぎ肉よりも、少量だがおよそくさみとは無縁の、子やぎの肉を使って料理をする方法を編み出した。それが洗練されたイタリアのやぎ料理であろう。

 

僕は妻の実家で子やぎ料理のレシピを習って、ときどき自分でも試したりする。長い伝統のある料理法だから簡単にはものにできないが、ときどき「それらしく」仕上がることもある。

 

レシピは僕の大ざっぱなやり方では次のようになる。

1)  オーブン用の皿にバターをたっぷりと敷く。

2)  その上に食べやすい大きさに切った肉を載せ敷く。

3)  塩を振る。その時さらにバターも少々肉に塗る。

4)  薬味のサルビアとローズマリーを大量に載せる。

5)  白ワインとコニャックを上にかける。

6)  ときどき肉を裏返しながら、180℃で2時間じっくりと焼く。 

※あるいは少し低い温度で3時間前後焼く場合も。
※どちらの場合も肉が干上がらずに適度な湿り気を保つよう、溶けたバターや脂をスプーンなどですくっては、肉にかける作業を続けることが肝心。