「このアイスクリームをあの娘の顔に思いきり投げつけてやりたい…」


アイスクリームの発祥の地といわれるナポリの、本場物中の本場物のアイスクリームを食べることも忘れて、右手でそれを強く握り締めながら僕の姉が言った。

 

彼女が怒りを込めて見やる視線の先には、ナポリ出身の名女優ソフィア・ローレンの若い頃にそっくりの、利発で華のある顔立ちをした娘が、ためつすがめつ、という感じで臆面もなくこちらを眺め続けている。

8月の陽光がぎらぎらと照りつけるナポリの街で、涼を求めて立ち寄った一軒のカフェバーでの出来事である。

 

姉はそのとき夏休みを利用してヨーロッパ旅行に来ていた。イギリス、フランス、スイスなどを巡ったあとにイタリアに入った彼女とともに、僕はミラノを出てイタリア半島を南下する旅に出ていた。

 

「もう我慢できない。イタリア人はどこに行ってもジロジロと私の顔を見る。ひとをばかにしている。あの娘は特にひどい」

どうしたのか、と問う僕に姉は声を震わせて悔しそうに言った。

 

「イギリスでもフランスでもスイスでも、向こうの人たちはみんなちゃんと礼儀をわきまえていたわ。見も知らない人の顔をいつまでもジロジロとぶしつけに眺めているなんてことはなかった。イタリア人だけよ、こんなに失礼なのは」

ぷんぷんと怒る彼女をなだめながら、僕はそれから10年以上も前に、はじめてイタリアを訪れたときの自分を思った。

僕はそのとき、姉以上にイタリア人を誤解して、クソイタ公どもめ!と叫んだ経験がある。

 

イタリア人は僕の姉が指摘したように、街なかでもカフェでもレストランでも、あるいは電車やバスやデパートの中でも、要するにどこでも、ジロジロと無遠慮な視線を投げて他人を観察する。その辺の洟(はな)たれや無教養なオッサン・オバサンならともかく、人品卑しからぬ一流の紳士淑女でさえ等しくそうなのである。

 

人品うんぬんの外にいるとされるヤクザでさえ、人の顔を見つめればガンをつけた、つけない、と怒る(つまりそれほど他人をじっと見やる行為を悪く考える)日本の常識に染まって育った僕にとっては、これは非常にショックだった。


(イタリア人はどいつもこいつも俺をバカにしている。俺が東洋人だ、黄色い男だ、と見下してジロジロとあからさまな視線を注いでくる)

とそのとき僕は思い非常に腹を立てた。姉の怒りの原因もそれと全く同じところにある。

 

ところがこれはほとんどの場合日本人の被害妄想なのである。その証拠に彼らは、同じイタリア人同士でもジロジロとぶしつけな視線を投げ合ってお互いを観察している。見る相手の肌の色が黄色だとか黒だとか緑だとかという人種差別的な発想は、ここではあまり関係がないのである。

 

見る対象が価値のあるものと認めたとき、イタリア人は子供のように好奇心をあらわにして、しげしげと相手を見回す。そしてその行為は、日本をはじめとする多くの国々の場合と違って、イタリアでは社会的に少しも悪だとは見なされない。悪どころかむしろ逆の意味の方が強い。だからこの国では、たちの悪いそのあたりの子供から礼儀をわきまえた一流の紳士淑女に至るまで、他人にせっせと熱い視線を注ぐのである。

 

では彼らにとって価値のあるものとは一体なにかと言うと、それは個性的なもの、ユニークなもの、他とは全く違う何か、のことである。東洋人の僕や姉が彼らと違うのは当たり前だ。だから彼らは、僕らをじっくりと観察しないではいられないのである。

 

お互いに見つめること、また見つめられることを良しと考え、日常的にそれを実践しているイタリア人のメンタリティーは、彼らが非常に独創性にあふれた国民である事実と無縁ではないと僕は思う。

 

たとえばここにユニーク(個性的)でセンスのいいファッションに身を包んだ人がいるとする。イタリア人はその人のセンスの良さやユニークさを素直に認め、感心し、じっくりと観察する。観察しながら彼らはこう考えている。「これとは違う私だけが着こなせるファッションは何だろうか・・」と。たとえば日本人ならたちまちその人と同じ服を買いに走るか、あるいはさりげなくコピーをするかもしれない場面で、彼らは全く逆のことを考えているのである。

 

かくしてイタリアでは、ひとつのユニークなファッションが、それを見つめる人々と同じ数の新たなファッションを誘発し、個性的でセンスのいいしかもバラエティーに富んだ装いをした男女が、国中にあふれるということにもなる。

 

これはファッションに限った現象ではない。イタリアでは万事がその精神に貫かれて発生するように見える。


彼らの熱いまなざしはタダモノではないのである。