僕らは南イタリアでドキュメンタリーのロケをしている。

今回のような長期ロケの場合は、スタッフ構成はディレクターの僕を含めて4人程度が基本だ。そうしておいて必要があれば、ミラノやローマのみならず、ロケ地に近いイタリア各地から応援のスタッフを呼ぶのが僕のやり方である。

その日と翌日は、夕方から夜にかけて大きな撮影が入っていたため、助っ人の証明マンと助手が加わってスタッフの人数が増え、ワイワイと騒ぐ雰囲気が大きくなって、彼らの気分がさらに仕事から遠ざかりやすくなっていた。

ドキュメンタリーのロケの場合、スタッフは撮影の対象になる出来事や人物やイベントや事件や物の動き等々に合わせて、時間を調整してスタンバイしていなければならない。ロケがたとえば午後四時に始まるならば、普通の場合、どんなに遅くても三時半には現場にいることが要求される。

普通の場合というのは、たとえて言えば、何の変哲もない街や田園の風景を単純に撮影するようなときである。

街とか田園というのは、いつでもそこにあって、動いたり走ったり消えたりすることはない。だからそれをありのままに撮影するときは、カメラを好きなところに据えてそのまま風景を切り取れば良い。

そういうときでも、撮影をはじめる三十分前には現場に行っているのがプロというものである。なぜならプロは撮影の前に充分に時間をかけて準備をするものだからだ。


ディレクターである僕が、切り取りたい風景のイメージをカメラマンに告げ、カメラマンはそれによってカメラ位置やレンズや構図やフレームや光の具合などのいろいろな条件を考慮してテストをくり返した後に、ようやくカメラが回されることになる。

腕の良いカメラマンならば、一連の作業をあっという間に済ませて撮影を終えてしまうが、少しでもいい絵を撮ろうと思えば、それでも準備や設定に三十分程度は軽くかかってしまうものなのだ。

いちばん単純な撮影でさえそうなのだから、照明や音声を設定したり、複雑なカメラワークが必要な撮影だったりすると、準備時間はいくらあっても足りない。

それに加えて、僕が作るドキュメンタリーは、撮影対象が生身の人間だったり、生身の人間にまつわるでき事であったりする場合がほとんどである。 生身の人間が相手だから、物事が撮影の予定時間よりも早く進行したり、撮影直前になって何かが変更になったりキャンセルされたりすることは日常茶飯事だ。

相手の都合ばかりではなく、こちらに起こりうる問題も気に留めておかなければならない。

ロケ現場でいざ撮影をしようとした時に、カメラや照明や音声に不具合が生じることだってないとは限らないのだ。

フィクションの撮影なら、そういう時ゆっくりと構えて機材を調整することもできるが、ドキュメンタリーの場合は撮影する対象が一過性のものであるケースが多いから、その時どきのチャンスを逃してしまうと取り返しがつかない。

そうしたことにすばやく対応するためにも、ロケの現場にはなるべく早く着いていた方が良いのである。

もちろん早めにスタンバイはしたものの、予定の時間よりも逆に遅れて物事が進行することもある。イタリアではむしろその方が多いくらいだ。だからといって、それを期待して時間ぎりぎりに動いたり予定を決めたりするようでは、最早これはプロではない。アマチュアでさえない。単なるバカである。

いまノーテンキな顔でデザートを食っている僕のスタッフは、全員がプロである。

従ってデザートを食っても、次の撮影開始時間の少なくとも三十分前には現場に到達できることを知っている。たとえ全員ではなくても、制作進行を兼ねる監督助手のマリアンナは、そのことを充分に計算している・・・・ように見える。

ところが、これが全くあてにならないのである。メシのため、デザートのためならば、バカと言われようがアマチュアとののしられようが、断固として食卓にへばりついているのがイタリア人である。

(メシもデザートもその日の撮影がすべて終わったところで、いくらでも時間と金をかけて好きなだけ食わしてやる。それだけの予算はちゃんと計上されているのだ。だからロケが進行中は、フツーの人類のように昼食は一時間程度ですませて、早め早めに現場に行ってスタンバイをしようよ)

というのが僕の偽らざる心境である。

僕はできるだけ早くロケ現場に行って、撮影が始まるまでの間に撮影項目や設定や構成や人物や話の流れや・・・といった作品の基本になる様々な事柄をもう一度確認し、あるいは練り直しておきたいのだ。

だからたとえ待ち時間が長くても、それは決してムダな時間ではないのである。

胃潰瘍のウシじゃあるまいし、クチャクチャクチャクチャ食いつづけている時間などないのだ!

 

(つづく)