パリオでは、競馬そのものにも増してすさまじいのが、このイベントにかけるシエナの人々の情熱とエネルギーである。
それぞれが4日間つづく7月と8月のパリオの期間中、人々は文字通り寝食を忘れて祭りに熱中する。
シエナの街はコントラーダと呼ばれる17の町内会から成り立っている。17地区のうちのほとんどの町内会は、架空の動物を含む生き物の名前を持ち、その生き物を旗印にしている。また、動物の名を持たないコントラーダも、それぞれ象とイルカとサイを旗印にする。
パリオはその17のコントラーダが、それぞれの馬と騎手を擁して覇を競う町内対抗戦である。ただし1回のパリオに出走できるのは、17のコントラーダのうち10のコントラーダだけと定められている。
パリオの度に、前回出走しなかった7つのコントラーダが自動的に出場できる権利を得て、残る3つの枠には、前回走った10のコントラーダの中から、くじ引きで決められた3町内会が入る仕組みになっているのである。
シエナで現在の形のパリオが始まったのは1644年である。しかしその起源はもっと古く、牛を使ったパリオや直線コースの道路を走るパリオなどが、12世紀の半ば頃から行なわれていたらしい。
パリオでは優勝することだけが名誉である。2位以下は全く何の意味も持たず一様に「敗退」として片づけられる。従ってパリオに出場する10のコントラーダはひたすら優勝を目指して戦う・・・と言いたいところだが、実は違う。
それぞれのコントラーダにはかならず天敵とも言うべき相手があって、各コントラーダはその天敵の勝ちをはばむために、自らが優勝するのに使うエネルギー以上のものを注ぎこむ。
天敵のコントラーダ同志の争いや憎しみ合いや駆け引きの様子は、部外者にはほとんど理解ができないほどに直截で露骨で、かつ真摯そのものである。天敵同志のこの徹底した憎しみ合いが、シエナのパリオを面白くする最も大きな要因になっている。
それぞれのコントラーダの天敵は、ほとんどの場合通りを一つへだてた隣の町内会である。これはその昔、コントラーダ同志が土地や住民の帰属をめぐって奪い合いをした名残りである。また同じ時代にコントラーダ同志が、軍事教練で激しいライバル関係を保ちつづけたことが、現代にまで受け継がれているともいう。
ちょっと信じ難いことなのだが、シエナのコントラーダの人々は、たとえば、まるで昨日隣の町内会と境界線の石垣の位置をめぐっていさかいが起こり、その結果奴方に死人が出た、というのでもあるかのような怒りと憎しみを持って敵対するコントラーダに立ち向かっていく。これは言葉の遊びではない。
パリオの期間中のシエナは、敵対するコントラーダの住民たちがひんぱんに暴力沙汰を起こす危険な無法地帯になるのである。
かつて僕はパリオのドキュメンタリーを制作するためにシエナに行った。それ以前に長い時間をかけてリサーチとロケハンを進めて、僕は17のコントラーダのうちから「キオッチョラ」町内会に狙いを定め、そこの人々の動きを中心にパリオの物語を作ろうと心に決めていた。
キオッチョラ町内会はシエナの下町にあって、17のコントラーダのうちでは3番目くらいに規模が大きい。また1644年以来のパリオでの優勝回数も17チームの中で2番目に多い、いわば華のある強いコントラーダの一つである。
ところがその強いはずのキオッチョラは、ほぼ15年もパリオの優勝から遠ざかっていた。
町内会の人々にとってはそれだけでも面白くないことなのに、彼らの天敵のコントラーダ「タルトゥーカ(亀)」がその間に2回も優勝している。その事実が耐え難い屈辱となって人々の心に重くのしかかっていた。
僕は先ずそのことに目をつけて、キオッチョラ町内会に通い詰めて撮影取材に協力してくれるようにと交渉しつづけた。
彼らの敵のタルトゥーカの過去の優勝回数は、キオッチョラに次いで三番目。町内会の規模も拮抗している。2チームのライバル意識の激しさも全体のトップクラスだから、キオッチョラが受けてくれれば、番組はうまくいくと僕は計算していた。
シエナの各コントラーダは極めて閉鎖的でテレビの取材には余りいい顔をしない。パリオそのものがいろいろなタブーや迷信じみた拘束を持つ古い祭りであることがその大きな原因だが、近年はパリオの出走馬の扱いが不当だとして、動物愛護家からの強い批判も出たりするから人々は余計にナーバスになっている。
今年のブランビッラ大臣の声高の批判も、そういう歴史の中で出てきたのである。
紆余曲折を経て僕はキオッチョラの人々の全面的な協力を取りつけることができた。
その後で、僕は少し卑怯なやり方だとは知りつつも、彼らの天敵であるタルトゥーカ町内会も同時に取材していきたい、とかねてから計画していたことをはじめて口にした。
人々はそのとき露骨に嫌な顔をした。敵のタルトゥーカと並んで写真に撮られるなど真っ平ごめんだ、というわけである。それは予期していた反応だった。
「キオッチョラ町内会だけではパリオは成立しません。キオッチョラを話の中心にすえて、他の全てのコントラーダを取材しながらパリオを紹介していくつもりです。タルトゥーカもそのうちの一つなんです」
僕はそう説明をはじめた。
パリオに出走する町内会は一応全て取材する計画でいたのは事実だった。しかし、タルトゥーカはキオッチョラとほぼ同じ程度の比重を置いてロケをしたい、というのが僕の本音である。
パリオはその規模や形態や歴史性など全ての面で極めて興味深い祭りである。しかし僕が最も興味を持っているのは、天敵同志のコントラーダの人々が相手に示す、ほとんど理解不能なほどに強烈で露骨な敵対意識だった。
要するにパリオは、伝統とか歴史とかシエナの古い文化云々というきれいごとではなく、馬を隠れ蓑(みの)にしたシエナの人々の大喧嘩なのだ、というのが僕のひそかな確信だったのである。
その大喧嘩のおかげで伝統が生まれ、歴史が作られ、文化が形成されていった・・・
(つづく)