馬の抽選日を境にキオッチョラ町内会の幹部たちは、パリオでの優勝を諦めてタルトゥーカの勝利をはばむ作戦に出ることが予想された。
その方法はたくさんある。先ず一つはタルトゥーカの騎手を買収してしまう方法である。パリオでは買収工作は合法である。買収工作も含めた全ての動きがパリオのゲームなのだ。
各コントラーダはパリオの資金を豊富に持っている。町内会員がパリオの度に多額の寄付金を提供していて、幹部はそれを自由に使うことができるのである。また各コントラーダは、一年を通してひんぱんにパーティーや夕食会を催して町内会員から資金を集めている。そうした金も全てパリオの運用資金に回される。
第2の方法は、他のコントラーダと共同でタルトゥーカ包囲網を作ってしまうことである。これにもやはり金が動く。
タルトゥーカの馬を事前に傷つけてしまう方法もある。これは実際に起こることで、敵の厩舎(きゅうしゃ)に忍び込んで馬に睡眠薬を飲ませたり、興奮剤を注射して暴走させたりということも起こる。そのために各コントラーダは敵の襲撃に備えて、24時間体制で馬小屋を警備しつづける。
様々な方法で敵の妨害を試みた上で、最終的には彼らはパリオのコース上で直接対決をする。つまり出発と同時に騎手と馬が相手に襲いかかって行く手をはばんでしまうのである。自分の馬で敵の馬に体当たりを食らわせながら、騎手は鞭(むち)を振るって相手騎手をメッタ打ちにする。パリオでは、騎手同志がレース中に馬上から鞭で殴り合いをしても許されるのである。
僕がメインの取材をした一つ前のパリオでは、出発前に敵対するコントラーダの騎手が相手を殴りつけながら乗馬服の背中を引っ張りつづけたために、騎手は馬をコントロールすることができずにスタートダッシュができなかった。優勝候補と目されていたその馬はもちろん敗退した。
妨害をしたコントラーダは、スタート前に乗馬服を引っ張りつづけた反則を咎められて、何年かの出場停止処分を受けた。しかし彼らにとってはそれでいいのである。共に出走して敵コントラーダに優勝をさらわれることは耐え難い苦痛だ。そこでペナルティを覚悟で、相手の馬をつぶしてしまったという訳である。
キオッチョラもタルトゥーカに対してそれと同じような捨て身の妨害作戦を取ることが充分に考えられた。
ところがキオッチョラの馬は、パリオの本番の前に行なわれる試し乗りで予想外のいい走りを見せて、もしかすると本番でも勝てるのではないかという気運が高まった。そうなるとキオッチョラは、妨害工作よりも自らが勝つ為の方策に手いっぱいになる筈だから、今度はタルトゥーカ側の作戦も変わってくる。
僕はいい方向に事態が動いていると思った。優位に立つタルトゥーカを妨害しようとしてキオッチョラが動くのも面白いが、買収工作を含む彼らのいろいろな裏工作は、おそらく映像には撮らせてもらえないから表現が難しい。
しかし、両コントラーダがお互いに優勝を目指してぶつかり合えば、そうした禁忌(きんき)が少なくなって映像にしやすいいシーンがたくさん発生する、と僕は考えたのである。
パリオの本番までには試し乗りが6回行なわれる。キオッチョラは2回目もトップでゴールインしていよいよ期待感が高まった。しかし3回目の試し乗りの時に事故が起きた。
キオッチョラの馬が急カーブをまがり切れずに壁に激突して、足に傷を負ったのである。
普通なら押して本番にも出走させる程度の傷だったのだが、キオッチョラは大事をとってパリオを棄権する決定をした。パリオを棄権することは非常に不名誉なこととされていて、長い歴史の中でもめったに起こったことがない。少々の負傷は隠して出走させるのが当然のことだった。
キオッチョラが敢えて棄権する道を選んだのには理由があった。実はその一ト月前に終わったばかりのパリオでも、キオッチョラの馬は試し乗りで傷を負った。街の広場に土を敷き詰めて馬場とするパリオでは、馬が負傷するのは日常茶飯事である。だからこそ本番を前に3日間も時間を取って、出走馬の試し乗りを行なう。馬をコースに慣らせるためである。
普通の競馬コースとは違って、カンポ広場では普段の試し乗りができないからこれは非常に重要な行事である。その試し乗りでは良く馬が負傷する。急カーブの広場のコースはそれほど危険なのである。
キオッチョラは7月のパリオでは、どこのコントラーダでもそうするように傷を押して馬を本番で走らせた。ところがそれがたたったのでもあるかのように、馬は急カーブの鉄柱に頭から激突して死んでしまった。
そういう伏線があって、キオッチョラは8月のそのパリオでは、断腸の思いで引き下がる決定を下したのである。
その決定が下ってしばらくすると、キオッチョラの人々、特に若者たちの態度が一変した。見た目にもすぐにそれと分かるほど彼らの顔には怒りと苛立ちがあふれて、憤懣を何かにぶつけようとしてあたりをうかがっている。一触即発の緊張感がみなぎった。
あちこちで口論が起こり、タルトゥーカに殴りこみをかけようと言い出す若者のグループまで出た。パリオの棄権の決定を下した幹部と町内会の長老たちが必死にこれをなだめている。
撮影する側にとっては非常にいいシーンなのだが、あからさまにカメラのレンズをそこに向けるのはまずかった。
(つづく)