ドキュメンタリーの取材ではしばしばこういう場面に出くわす。仕事と冷たく割り切ってカメラを回すか、彼らの心情を汲んで人間として彼らに寄り添い、彼らの怒りや悲しみや苛立ちを共有する「振りをしながら」しばらく撮影を控えるか、の判断を迫られるのである。

 

僕は後者を選んだ。というよりも後者を選ぶことを強いられた。

 

あたりの雰囲気は非常に悪く、今人々にカメラのレンズを向ければ、たちまち暴力沙汰に発展するであろうことがひしひしと肌身に感じてこちらに伝わってくる。

それでなくてもイタリア人カメラマンのフランコや音声マンのエンツォはすっかりおびえていて、僕がカメラを回せと指示してもおそらく拒否したに違いなかった。彼らはイタリア人であるだけに、同じイタリア人であるキオッチョラの人々の今の心理が誰よりも良く分かっているのである。

 

キオッチョラの人々の怒りは、不名誉な棄権、長年勝てない不運への苛立ち、敵コントラーダのタルトゥーカがパリオを制するかもしれない不安等が原因なのだが、しばらくすると僕ら撮影隊を見る眼が血走ってくるのが分かった。

 

無言のまま憎々し気にこちらを見る者がいたり、グループで固まって何か話しながらチラチラとこちらを盗み見ている者もいる。そのうちに1人2人と僕らの横を通る振りをして体をぶつけていく者も現われた。

 

僕らは危険を感じて、町内会事務所に避難をして幹部たちに助けを求めた。そこには町内会長のベルナルディ氏が待ち受けていて深刻な顔で僕に言った。

「悪いが撮影は中止してくれ。若者たちの怒りが君らに向けられている。こちらの裏口から退散してくれ」

 

何が何やら分からないまま、僕らはまるで犯罪者か何かのようにキオッチョラの町内から締め出された。

 

後で分かったことなのだが、人々は7月と8月の2回のパリオで不運がつづいたのは僕ら撮影隊のせいだ、とその頃考え出していたのである。それは馬の世話をするバルバレスコと呼ばれるグループの男たちが言い出して、一気に町内会全体に噂が広がったものらしかった。

 

クジ引きで割り当てられた出走馬は、町内会の中心部に作られた馬小屋で厳しく管理される。馬小屋は24時間体制で監視されて、たとえ同じ町内会員でも決して馬小屋の中には入れない。獣医を含むバルバレスコの男たちは、馬小屋の中に寝台を持ちこんで馬と共に寝起きをする仰々しさである。

 

普通の場合はテレビカメラなどまず入れてくれないが、僕はバルバレスコの男たちとも良好な関係を作って馬小屋の中にまでカメラを入れることに成功していた。そんな親しい関係があったにもかかわらず、彼らは7月に馬が傷を負い、その後死亡し、8月にも再び事故が起きたのは、全て僕をはじめとする撮影隊のせいだと言い出したのである。

 

ふだんならバカバカしいと笑い飛ばしてくれるはずのキオッチョラの人々は、異様な興奮状態の中でその言い分を信じてしまった。馬好きの人々が非常に迷信深いものであることは僕も知っていたが、まさか人々の怒りが僕らに向かってくるとは想像もしなかった。

 

いずれにしても僕らは危機一髪のところでキオッチョラを退散することができたのだった。

 

しかし退散はしたものの、今後キオッチョラで取材ができなくなってしまったのだから僕は非常に困った。

 

敵対するタルトゥーカと平行して撮影を進めながらも、話の中心はキオッチョラにあったし、また僕はそのつもりでキオッチョラに重きを置いて絵作りを進めてきた。もしもタルトゥーカがパリオで優勝することがあっても、僕は編集段階ではやはりキオッチョラの視点からのドキュメンタリーにしたい、と考えていた。

 

優勝するチームのリアクションはたいてい想像がつく。それは喜びであり笑顔であり満足であり祝賀会であり、要するに明るい大騒ぎである。僕はその部分は最小限に留めて、おそらく敗者となるであろうキオッチョラの人々の淋しさや悲しみや不運や嘆きを、じっくりと追いかけてみたかったのである。

 

しかしキオッチョラで取材ができないのだからどうにも仕様がない。なんとか対策を立てなければならなかった。こういうことも又ドキュメンタリーのロケでは珍しくない。

 

ドキュメンタリーの監督のもう一つの大きな仕事は、予定していた取材がダメになった場合に、何をどのように撮影して話を組み立てるかを常に考えておくことである。計画がダメになったり、予期していたものとは違ったりすることも実はドキュメンタリーの話の流れの一つなのだ。

 

極端に言えば、取材を拒否された時点で、その事実をはっきりと視聴者に伝えるために空白の映像を流すことさえも考えられる。それが真実として大きな意味を持つ場合もあるのである。

 

今回のそれはしかし取材拒否の事実を全面に押し出して作り上げるタイプの話ではない。

 

僕はすばやく頭の中を切り替えて、二台のカメラをタルトゥーカに張り付けることにした。

 

そこでできる限りの取材をして、キオッチョラで取材できない部分を補い、かつタルトゥーカ側から見えるキオッチョラ、という形で人々のインタビューをふんだんにまじえて最終的な物語をまとめようと決心したのである。

 

(つづく)