「 渋谷君
琴奨菊の大関昇進のニュースは、衛星放送やネットなどでここでもしっかり見ています。彼が一気に横綱にまで駆け上がったら楽しいね。
そういえば去年は朝青龍の引退騒ぎがありました。それにからんで僕が新聞に寄稿した記事を添付します。
そこに書いた内容は、もちろん今も変わらない僕の真摯(しんし)な思いです。
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~横綱の品格とは~
横綱の品格を問われ続けた朝青龍の引退騒ぎを描いたNHKの特集番組を衛星放送で見た。そこでは大相撲のご意見番とも呼べる専門家たちが、横綱の品格とは結局なんなのか分からない、という話に終始していて驚いた。不思議なことである。日本国内にいると日本人自らの姿が良く見えなくなるのかとさえ思った。
横綱の品格とはずばり「強者の慎(つつし)み」のことだと僕は考える。
この「慎み」というのは、日本文化の真髄と言ってもいいほど人々の心と社会の底流に脈々と流れている、謙虚、控えめ、奥ゆかしさ、などと同意味のあの「慎み」である。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という格言句に完璧に示された日本人の一番の美質であり、僕のように日本を離れて外国に長く住んでいる人間にとっては、何よりも激しく郷愁を掻き立てられる日本の根源である。
朝青龍にはそれが分からなかった。或いは分かろうとしなかった。もしかすると分かっていたが無視した。
「慎み」というのは世界中で尊敬される価値観である。人は誰でも「実るほど頭を垂れる者」を慕う。そして実った人の多くが頭を垂れるのが世界の現実である。
たとえばイタリア映画の巨匠フェリーニは、僕が仕事で会った際「監督は生きた伝説です」と真実の賛辞を言うと「ホントかい?君、ホントにそう思うかい?嬉しい、嬉しい」と子供のように喜んだ。またバッジョやデルピエロなどのサッカーの一流選手も、仕事の度に常に謙虚で誠実な対応をしてくれた。頂点を極めた真の傑物たちは皆、実るほどに頭を垂れるのが常である。
「慎み」は日本人だけに敬愛される特殊な道徳観ではない。真に国際的な倫理観なのである。
相撲には、他のあらゆるスポーツと同様に我われ人間の持つ凶暴さ、残虐性、獣性などを中和する役割がある。同時に、他のスポーツ以上に、それと対極にある思いやりや慎みや謙虚も「演出すること」が求められている。
相撲は格闘技である。強ければそれでいい。慎みや謙虚というのは欺瞞だという考え方もあるだろう。しかし相撲はプロレスやボクシングなどとは違って、極めて日本的な「型」を持つ「儀式」の側面も持つ。
そこでは強者横綱は「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という日本精神の根本を体現することが強要される。それが相撲の文化なのである。
強い横綱だった朝青龍には、せめて倒した相手にダメを押すような行為を慎んで欲しかった。勝負が決まった後の一撃は、見苦しいを通り越して醜かった。そしてもっと無いものねだりをすれば、倒れ込んでケガでもしたかと思うほど参っている相手には、手を差し伸べる仕草をして欲しかった。
その態度は最初は「強制された演技」でも「嘘」でも良かったのである。行為を続けていくうちに気持ちが本物になっていく。本物になるともはや演技ではなくなり、じわりとにじみ出る品格へと変貌する。
強くて明るくて個性的な横綱朝青龍は、そうやっていつか品格高い名横綱に生まれ変わる筈だった。残念である。
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