イタリア語には、枯れ葉、病葉(わくらば)、紅葉(こうよう)、落葉、朽ち葉、落ち葉、黄葉、もみじ・・などなど、というたおやかな秋の言葉はない。
枯れ葉は「フォーリア・モルタ」つまり英語の「デッド・リーフ」と同じく「死んだ葉」と表現する。
少したおやかに言おうと思えば「乾燥葉(フォーリア・セッカ)」という言い方もイタリア語には無いではない。
また英語にも「Withered Leaves(ウイザード・リーブ)」、つまり「しおれ葉」という言葉もある。
が、僕が知る限りでは、どちらの言語でも理知の勝(まさ)った「死に葉」という言い方が基本であり普通だ。
夏がとつぜん冬になるような季節変化が特長的なイタリアでは、秋が極端に短い。おそらくそのこととも関係があると思うが、この国の人々は木の葉の色づき具合に日本人のように繊細に反応することはない。
ただイタリア人の名誉にために言っておくと、それは西洋人全般にあてはまるメンタリティーであって、この国の人々が特別に鈍感なわけではない。
言葉が貧しいということは、それを愛(め)でる心がないからである。彼らにとっては枯れ葉は命を終えたただの死葉にすぎない。そこに美やはかなさや陰影を感じて心を揺り動かされたりはしないのである。
それと似たことは食べ物でもある。たとえば英語では、魚類と貝類をひとまとめにして「フィッシュ」、つまり「魚」と言う場合がある。というか、魚介類はまとめてフィッシュと呼ぶことが多い。
日本語で貝やタコを「魚」と言ったら気がふれたと思われるだろう。
もっと言うと、そこでの「フッィッシュ」は海産物の一切を含むフィッシュだから、昆布やわかめなどの海藻も含むことになる。もっとも欧米人が海藻を食べることはかつてはなかったが。
タコさえも海の悪魔と呼んで口にしなかった英語圏の人々は、魚介類に疎(うと)いところが結構あるのである。
イタリアやフランスなどのラテン人は、英語圏の人々よりも多く魚介に親しんでいる。しかし、日本人に比べたら彼らでさえ、魚介を食べる頻度はやはりぐんと落ちる。
また、ラテン人でもナマコなどは食い物とは考えないし、海藻もそうだ。もっとも最近は日本食ブームで、刺身と共に海藻にも人気が出てきてはいる。
多彩な言葉や表現の背景には、その事象に対する人々の思いの深さや文化がある。
秋の紅葉を愛で、水産物を「海の幸」と呼んで強く親しんでいる日本人は、当然それに対する多様な表現を生み出した。
もちろん西洋には西洋人の思い入れがある。たとえば肉に関する彼らの親しみや理解は、われわれのそれをはるかに凌駕(りょうが)する。
イタリアに限って言えば、パスタなどにも日本人には考えられない彼らの深い思いや豊かな情感があり、従ってそれに見合った多彩な言葉やレトリックがあるのは言うまでもない。
さらに言えば、近代社会の大本を作っている科学全般や思想哲学などにまつわる心情は、われわれよりも西洋人の方がはるかに濃密であるのは論を俟たないところである。