ミラノの語学学校でイタリア語を勉強しているN・Y君がこの間僕のところにやって来た。将来イタリアと日本を結んでデザイン関係の大きなビジネスをやりたいと青雲の志に燃えている彼は、今イタリア語にけん命に取り組んでいる。が、それがなかなか思うように上達しないので悩んでいるところだという。
「おれ、語学の才能がないんだと自分でも思っています。くやしいけど、そのことは口を大にして言ってもいいですよ。おれ、本気ではそんなことは毛頭認めたくないんですけど・・・」
N・Y君は深刻な顔で彼の悩みを語り始めた。
僕はN・Y君のイタリア語がうまくならない理由が分かったと思ったので、なおも話し続けようとする彼を制して、笑って言った。
「イタリア語もいいけど、日本の古典文学をまず勉強した方がいいな」
「へ?」
「たとえば“源氏物語”とか“枕草子”とか、日本の古典文学だよ」
「・・コテン・・・ブンガク・・?」
N・Y君は、まるで頭の中がコテン、とでんぐり返った男でも見るような顔つきで僕を見た。少しふざけ過ぎたと思ったので、僕は言葉を変えた。
「今は必死になってイタリア語を勉強しているのだから、日本語は関係がない、と君は思っているだろう。そこが一番の問題なんだ」
「・・・?」
「はっきり言うと君の日本語はおかしい。口を大にして、というのは正確には声を大にして、と言うんだ。本気では、というのもここでは使い方が間違っている。それを言うなら、本心では、と変えた方がいい。毛頭、というむつかしい語の使い方も少しニュアンスが違う。ついでに言うなら、おれ、おれと言いながらデスマス調で言葉をしめくくるのも変だ」
僕はあえて指摘した。
N・Y君は決してバカではない。特別でもない。彼の世代の日本の若者は皆彼のような言葉遣いをする。しかし、変なものは変だ。
日本語をしっかり話せない日本人は外国語も決して上達しない。それが長い間そこかしこの国で言葉に苦労した僕が出した結論である。
語学のうまい、へた、はひたすら「言い換え」の能力によって決まる、と僕は思う。
たとえば一番分かりやすい例で<猿も木から落ちる>という諺。これを英語にする時たいていの日本人は<猿>⇒モンキー。<も>はトゥー、あ、でもここでは<でも>の意味だから多分イーブン。<木>⇒ツリー。<から>はフロムなのでフロム・ツリー。そして<落ちる>⇒ドロップ?フォール?多分フォール・・・などと辞書を引き引き考えて、最終的に《EVEN A MONKY FALLS
FROM A TREE》のように英文を組み立てるのではないか。少なくとも受験勉強をしていた頃の僕などはそうだった。
こういう直訳の英語で話しかけられた外国人は、目をパチクリさせながら、それでも言おうとする意味は分かるから、苦笑してうなずく。
それでは<猿も木から落ちる>と全く同じ意味の<弘法にも筆の誤り>を訳するときはどうするか。前者と同じやり方で《EVEN MR. KOBO MAKES MISTAKES WITH HIS PENCIL》とでも言おうものなら、ドタマの変な奴に違いないと皆が引いたり、避けて通っていくこと必定である。
<ミスター・コーボー>を<空海>と置き換えても<ペンシル>を<ブラッシュ>と置き換えても事情は変わらない。
こういうときに、素早く言い換えができるかどうかによって語学のうまい、へた、が決まるのである。
二つの諺は<私達はみんな間違いを犯す>という意味である。そこで素早く直訳して《WE ALL MAKE MISTAKES》などと言い換える。あるいは<人間は不完全な存在(動物)である>として
《HUMANS ARE INPERFECT BEINGS 》など言い換える。
それらは既に《EVEN A MONKY FALLS FROM A TREE》よりもはるかに英語らしい英語だと思うが、さらに言い換えて<人は誰でも間違いを犯す>《EVERYBODY MAKES MISTAKES》とでもすればもっと良い英語になる。それをさらに言い換えて<完全な人間などいない>つまり《NOBODY IS PERFECT》と簡潔に言い換えることができれば、<猿も木から落ちる>や<弘法にも筆の誤り>のほぼ完璧な英訳と言ってもいいのではないか。
事は英語に限らない。外国語はそうやってまず日本語の言い換えをしないと意味を成さない場合がほとんどである。
日本語を次々と言い換えるためには、当然日本語に精通していなければならない。語彙(ごい)が豊富でなければならない。僕がN・Y君に言いたかったのは実はその一点なのである。
言葉を全く知らない赤ん坊ならひたすらイタリア語を暗記していけばいい。しかし、一つの言語(この場合は日本語)に染まってしまっている大人は、その言語を通してもう一つの言語を習得するしかないのだ。
N・Y君は日本語の聞こえないイタリアに来て、イタリア語にまみれてそれを勉強している。これは非常にいいことである。言葉は学問ではない。単なる「慣れ」である。従ってN.Y君も間もなく慣れて、少しはイタリア語が分かるようになる。
しかし、うまいイタリア語は日本語をもっと勉強しない限り絶対に話せないと僕は思う。この先彼が何十年もイタリアに住み続け、彼の中でイタリア語が日本語に取って代わって母国語にでもなってしまわない限り・・・。