「渋谷君
君の要望に答えて新聞とネット論壇に寄稿した僕の記事を転載します。
ネット雑誌では、記事は掲載されてもすぐに古くなって次のネタに取って代わられるから忙しい。君が見逃したのも仕方がないね。
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~謝り過ぎるのは、謝らない、と同じこと~
テレビドキュメンタリーや報道番組のディレクターという仕事柄、僕は連日CNN、アル・ジャジーラ、BBCインターナショナル等々の24時間衛星放送やNHKなどの報道番組をリアルタイムで追いかけ、同時に新聞や雑誌などにも絶えず目を配っています。最近そこにインターネットという途方もなく強力な文明の利器が加わったおかげで、僕は今では遠いイタリアにいながら、日本の様子が細大漏らさず、それこそ手に取るように分かると感じています。
そうした中で最近僕が追い続けてきたのが普天間基地の移設問題です。多くの日本国民が基地の地元の皆さんに同情し、理解を示し、一刻も早い基地負担の軽減を願っています。また一方で相当数の国民の皆さんが、基地地元の動きを不可解と見なし、沖縄を補償金泥棒のように悪しざまに言い、ゆすり・たかりを生業とする怠惰な人々、という見方さえしています。人種差別の本性とゴーヤー論争がステキな、あの愉快なケビン・メアさんと同じ発想ですね。
そうした人々の一部は、沖縄の民意など無視して普天間基地をさっさと辺野古に移設しろ、という驕慢(きょうまん)な心を隠して「本土はいったいいつまで沖縄に謝り続けるのだろうか」などと発言したりもします。
まったく彼らの言うとおりです。僕は全面的にその方々に賛成です。本当に、いったい本土はいつまで沖縄に謝り続けるつもりなのでしょうか。
本土はもうこれ以上沖縄に謝ってはなりません。なぜなら謝り続けるのは「謝らない」ことと同じであり、従ってそれは沖縄を侮辱し続けることだからです。
謝るとは、言うまでもなく間違いや失敗や不手際等々を認めて、反省し、再びそれを繰り返さないことを誓って「ごめんなさい」と頭を下げることです。そればかりではなく、謝った後に、同じミスを犯さないように努力をすること、またできれば実際にミスを犯さないこと、で謝罪は完成すると考えられます。
再び謝ることがあれば、それはまた同じ間違いを犯したということです。人間は間違うことの多い存在ですから、3度目に間違うこともあるでしょう。そこでもまた謝罪します。それはいいと思います。しかし、それ以後も謝罪がえんえんと続くようなら、それはもう謝罪ではありません。謝罪に名を借りた愚弄です。なぜなら間違いを犯し続けるということは、間違いを犯さない努力などしていないことを意味しています。口先だけで謝っていることにほかなりません。だから間違いを繰り返してえんえんと謝り続けるのです。
田中前沖縄防衛局長発言のあとの防衛大臣や野田佳彦総理の謝罪は言うまでもなく、現政権のこれまでの総理や閣僚、さらに歴代政権のお偉方や大臣や官僚も、しつこいくらいに沖縄に謝り続け、今も謝っています。間違いを正す努力などせずにただ口先だけで謝り続ける。つまり沖縄を侮辱し続けているのです。
本土の、つまり政府のその動きは日本国の品格を貶(おとし)めています。国家は人と同じです。誠実を欠く者が人として劣るように国家も誠実を欠けば下卑てしまう。民主主義を標榜する世界の文化・文明国は、例外なく自国の中にある不公平、差別、矛盾などに毅然として向き合い、これを無くすために絶えず努力をしています。だからこそ民主国家と呼ばれ文明国や文化国家と呼ばれて尊敬されるのです。自国の小さな一部である「たかが沖縄ごとき」の悲しみや苦しみさえ救えない日本国が、どうして大きな民主国家としての品格と尊厳を保つことができるのでしょうか。
政府はもうそろそろ謝ることを止めて、行動するべきです。行動するとは、沖縄の基地負担を軽減することです。わが国の安全保障上、沖縄にはある程度の基地はなくてはならないでしょう。また沖縄は日本の一部としてそれを負担するのは当然です。しかし、小さな島・沖縄の負担は明らかに重過ぎます。重すぎる負担に伴なって、少女暴行事件に象徴されるような米軍人・軍属による不祥事や騒動や悪行など、屈辱的な事案がひんぱんに起こっています。基地の何割かを撤去し、不公平極まりない日米地位協定を是正すべく、断固として米国と向かい合うべきです。
そのためにも基地の地元の皆さんは怒り続けて下さい。ここのところ日米地位協定の改善が少しだけ進んでいます。とてもいいことです。しかし、それはほんの始まりに過ぎません。政府の口先だけの謝罪や、小さな不平等の改善にはまだほだされてはなりません。怒りは悲しみの発露です。怒ることは苦しく、また見た目も良くはありません。しかし、悲しみがある限り抗議の声を消してはならないのです。
負担軽減の象徴的な存在である普天間基地は、もはや座り込みの地元の皆さんをブルドーザーで轢(ひ)いて前進でもしない限り、今のままでは辺野古への移設は無理でしょう。国内移設も到底できるとは考えられません。ならばグアム移設か完全撤廃しかありません。
しかし、それでは日本の抑止力や安全保障上問題がある、という結論になります。それならば、どうすればいいのでしょうか。話はいたって簡単です。この閉塞(へいそく)状況をはっきりと認めて、同盟国であるアメリカともう一度話し合うのです。ただし、卑屈な従属外交ではなく、凛とした態度で。アメリカは敵性国ではありません。仲の良い同盟国です。友だちなのです。政府の覚悟さえあれば真っ当な議論ができない筈はありません。
イザヤ・ペンダサンではないのですが、安全(保障)はただではありません。今も国防には多大な金が掛かっています。その上、アメリカとの交渉の結果、さらに莫大な経済的負担を強いられることも考えられます。逆に言えば、経済的負担さえ覚悟すれば、道は必ず開けるのではないでしょうか。
その時こそ、わが国の安全保障や抑止力に関する、真の意味での全国民的な議論が湧き起こるように思えます。真摯な国民的議論を経たあとならば、その結果がどう出るにしろ、基地の地元の皆さんも必ず納得するのではないでしょうか。政府は心にもない下劣な謝罪で時間を潰すことなどやめて、早く行動を起こすべきなのです。
(おわり)
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というものでした。
記事にも書きましたが、基地問題の歪みの原因の一つは、言うまでもなく、日本国民のほとんどが「安全(保障)をただだと思っている」ところにある。世界から見たらそら怖ろしい幼稚性だが、ま、日本が平和だからしょうがないとも言える。
でも国のトップの連中まで無知な国民と同レベルか、へたをするとそれ以下の認識しか持ち合わせていないように見える現実は、やっぱりマズイと僕は思う。
ところで渋谷くん、
基地の地元に降りる政府の補償金が、特別視されるほどに手厚いものなら、どうして全国の自治体は手を挙げて「ここに基地を持ってきてくれ」って言わないんだろう?
日本の自治体って東京を除けばほとんどが財政難で苦しんでいる筈なのに。
僕はそこのところも不思議で仕方がない。君はどう思う?