なかにし礼作詞・作曲の「時には娼婦のように」は次のような歌詞である。

 

『時には娼婦のように 淫らな女になりな 

真赤な口紅つけて 黒い靴下をはいて
大きく脚をひろげて 片眼をつぶってみせな 

人さし指で手まねき 私を誘っておくれ

バカバカしい人生より バカバカしいひとときが 

うれしい ム・・・・・


時には娼婦のように たっぷり汗を流しな 

愛する私のために 悲しむ私のために
時には娼婦のように 下品な女になりな 

素敵と叫んでおくれ 大きな声を出しなよ


自分で乳房をつかみ 私に与えておくれ 

まるで乳呑み児のように むさぼりついてあげよう

バカバカしい人生より バカバカしいひとときが 

うれしい ム・・・・・


時には娼婦のように 何度も求めておくれ 

お前の愛する彼が 疲れて眠りつくまで』

 

この歌が発表された時、僕は東京の大学の学生だった。歌詞の衝撃的な内容に文字通り目をみはった。歌謡曲詞の革命だとさえ思った。今もそう思っている。「時には娼婦のように」について書こうと思ったのは、実はそのことに尽きる。

 

でも歌詞を書き出したとたんにがっくりときた。何か気のきいたことを書けないかと思ったのだがまるでダメだ。この歌詞の偉大さの前には自分が何を言っても空しいと感じる。

 

かつて三島由紀夫は詩が書けないから小説を書くんだと言った。詩とはそれほど卓越したものである。そして音楽とともに存在する歌詞もまた詩の一種だ。エライものなのである。

 

なかにし礼という作詞家は、亡くなった阿久悠と共に日本歌謡詞界の双璧であるのは、今さら僕ごときが指摘しなくても周知の事実だと思うが、「時には娼婦のように」を生み出した分、なかにし礼の方が少し上かなと僕は考えている。それほどこの歌詞はすごいと思う。

 

歌詞に限らず、あらゆる創造的な活動とは新しい発見であり発明である。新しい考え、新しい見方、新しい切り口、新しい哲学、新しい表現法などなど、これまで誰も思いつかなかったものを提示するのが創造である。

 

「時には娼婦のように」はそういう創造性にあふれた歌詞である。際どい言葉の数々を駆使しながらポルノにならず、「歌詞」という型枠を嵌められた「詞」でありながら、自由詩の大きさや凄みの域に達していると思うのである。

 

男の下賎な妄想である「昼は貞淑、夜は娼婦」という女の理想像を、歌謡曲という子供も女性たちも誰もが耳にする可能性のある普遍的な表現手段に乗せて、軽々とタブーを跨(また)ぎ越えて世の中に広めてしまった。ウーむ、マイッタ。

 

もう一方の天才・阿久悠は、名曲「津軽海峡冬景色」を

<上野発の夜行列車おりた時から 青森駅は雪の中~>

と始めて、短い表現で一気に時間を飛ばし、東京の上野駅と青森駅を瞬時に結んでドラマを構築した。よく知られた分析だが、こちらもまたすごいので一応言及しておこうと思う。
 

作詞家なかにし礼はそのほかにも多くの創造をしたけれど、新人の頃には「知りたくないの」という訳詞でも物議をかもした。エルビス・プレスリーも歌った英語の名曲「I really don't want to know」を「あなたの過去など知りたくないの~」という名調子で始めたのだが、歌い手の菅原洋一が「過去」という語はよくないとゴネたという。でも彼は信念を押し通して、そのおかげで今ある名訳詞が世の中に出回ることになった。ヨカッタ。

 

僕の独断と偏見による意見では、イタリアにも「なかにし礼」はいる。ファブリツィオ・デアンドレというシンガーソングライターである。

10年余り前に亡くなった彼は、歌詞でも音楽でも圧倒的な存在感を持っている。あえて日本の歌手にたとえれば、小椋佳と井上陽水を合わせて、さらに国民的歌手に作り上げた感じ、とでも言おうか。実力人気ともに超がつく名歌手、名作詞家、名作曲家である。

 

デアンドレもよく娼婦の歌を作り歌った。彼は娼婦に対してとても親和的な考えを持っていた。娼婦を不幸な汚れた存在とは見ずに、明るく生命力にあふれた女として描いた。

 

娼婦や娼婦に似せた女を歌うタブーは、デアンドレの活動期の頃のイタリアには存在しなかったから、禁忌を勇敢に破って世に出た「時には娼婦のように」とデアンドレの歌を同列には論じられないかもしれない。

でも、僕はどうしても両者の「歌詞」の一方を聞くたびに、片方を思い起こしてしまうのである。