イタリアも日本同様に大雪に見舞われている。交通機関がマヒし大きな被害が出ている。

 

北イタリア・ロンバルディア州の片田舎、わが家のあるフランチャコルタ地方は、一昨日から間断なく降りつづけている雪であたり一面が白銀のパノラマに変わった。

 

他の地方に比べてフランチャコルタには降雪は遅く来た。その代わりに最低気温が氷点下10度近くに留まる寒い日が続いていたのである。

 

おととい始まった雪降りは、始めは無風状態の中のこな雪だったが、間もなく無数の白蝶が踊るかと見まがう、わた雪に変わって積もり始めた。

 

今は、少しの風に押されてわずかに横に乱れ舞う、つぶ雪が降りしきっている。言葉を換えれば、少し横なぐりに落下しつづける細雪(ささめゆき)。谷崎潤一郎の世界・・

 

こう書きながら、雪の風情を想いはじめた。雪の風情とは、雪にまつわる言葉の風情と考えることもできる。雪を表す日本語は秋言葉をはるかに凌ぐほど数が多い。

 

新沼謙治という演歌歌手の歌に、7種類の津軽の雪を愛でたフレーズがあるが、それは太宰治の小説「津軽」に出てくる雪の名称である。即ち:こな雪、つぶ雪、わた雪、みづ雪、かた雪、ざらめ雪、こおり雪の7つ。

 

7種類でもずいぶん多いようだが、降雪と積雪に大別される雪の呼称は、実は7種類どころではないのである。文学的な表現を加えれば、数え切れないと言いたくなるほど数が豊富である。

 

今思い出すだけでも7つのほかに新雪、もち雪、ぼたん雪、みぞれ雪、はい雪、あわ雪、大雪、垂(しず)り雪、べた雪、うす雪、しら雪、にわか雪、み雪、忘れ雪・・etc、etc

と枚挙にいとまがない。

 

だが秋言葉などと同じで、雪を表す言葉もイタリア語には多くない。イタリア語に限らず欧米語の常である。

 

言葉の乏しさは現実の光景にも影響を与えずにはおかない。それはもちろん人間心理の綾(あや)が投影されたもので、自然そのものは何も変わらない。しかし、雪言葉の少ないこの国で見る雪には、風情がそれほどないように感じるのも又事実なのである。

そう感じるのは恐らく、今ここで言葉あそびをしている僕のような人間の、ちょっとゆがんだ感覚がなせるわざに違いない。ペダンチックと言うと少し大げさだが、日本語の多くの雪言葉を通して、いま降りしきっている雪を見ることから来る気取り、くさみ、しったかぶり・・のようなもの。


そこで、

懸命に邪念を振り切って、ありのままの雪景色を見つめようと気持ちを集中してみる。すると、まだドカ雪にならない一帯の白い眺望は、やはり美しく、それなりの深い感慨を見る者に抱かせずにはおかない。

 

静かに降りしきるつぶ雪は、わが家の庭とブドウ園にあるエノキとシナノキにまるで樹氷のような白い大輪の花を咲かせている。

 

綿帽子をかぶった家々の屋根を見下ろしてそびえる巨木の雪の花は、樹氷のようなきらめきや輝きはないものの、イタリアの自然らしく男性的に荒く、雄雄しく咲き誇っている。

 

巨大な雪の花の間に遠景をのぞかせるはずの標高およそ2千メートルのカンピオーネ山は、今日は雪煙の彼方に消されて見えない。そのさらに先に望めるアルプスの山々ももちろん視界には入ってこない・・

 

閑話休題

 

僕は庭の大木たちをエノキにシナノキと書き記しているが、それらの木はイタリア語ではそれぞれ「bagolaro」に「tiglio」と言う。辞書で調べると、それぞれエノキとシナノキ(フユボダイジュとも)となるが、実はシナノキは日本特産の木である。従ってその木の名称はホントは西洋シナノキ、とでも呼ぶべきものではないか、と僕は勝手に考えたりもしている。

 

ついでに言えば、bagolaro(エノキ)は別名spaccasassi(スパッカサッシ)つまり「石割木」という。その名前は、荒涼とした山の岩盤などを突き破って育つ、ド根性幼木をも連想させて僕はとても好きである。