【加筆再録】

 


世界の24時間衛星放送局の報道も、新聞に代表される紙媒体も雑誌も、そしてネットも、依然としてヨーロッパの財政危機問題で埋めつくされている。ヨーロッパ経済が沈没すれば、この地球上のあらゆる国や地域がその影響をもろに受けるのは火を見るよりも明らかだから、世界中のメディアが騒ぎ立て、議論百出して紛糾するのは当然である。

 

中でも当事者であるEU諸国のそれはかしましい。そしてそのEUの中でも、ギリシャと共に危機の元凶みたいに見なされてしまったここイタリアでは、高名な経済学者や財務官僚や金融アナリストや銀行トップや大投資家などが、メディアの要請に応じて理路整然とした数字の理屈や高邁な考察や主張を、これでもかこれでもかとばかりに連日連夜開陳している。

そうした中で、経済も数字もゆるく見えかねない自分の意見を言ったり書いたりするのは不謹慎に映りそうで気が引けるが、経済でさえ断じて数字やファンダメンタルズや理論だけで動くものではないから、僕は僭越を承知であえて人間存在の本質、つまり感情という不透明で面倒でやっかいなものに引き摺(ず)られることが多い不思議にこだわって、記事を書き続けて行ければと考えている。

僕は日本人だが、イタリア的な軽さと寛大と明朗を愛し、できれば彼らに倣(なら)いたい一心でここに住み、テレビ番組を作り、文章を書き、主張をしている。それなので僕の一連の悪文は、論理と数字と科学の明晰だけを愛する方々には、きっと不快なものであると思う。従ってそういう方々は読むのはここまでにして、どうか他の記事や論文や主張にページを移していただき、それらを吟味することに貴重な時間を使ってほしい、と腹の底からの誠実で申し上げておきたい。

閑話休題

先日の記事「“違うこと”は美しい」の中でチラと書いたことにも重なるが、イタリア人(特にイタリア男)のイメージの一つに「スケベで怠け者で嘘つきが多く、パスタやピザをたらふく食って、日がな一日カンツォーネにうつつを抜かしているノーテンキな人々」というステレオタイプ像がある。ここではその真偽について、僕なりの考えを少し述べたい。

イタリア人は恋を語ることが好きである。男も女もそうだが、特に男はそうである。恋を語る男は、おしゃべりで軽薄に見える分だけ、恋の実践者よりも恋多き人間に見える。

ここからイタリア野郎は、手が早くてスケベだという羨ましい(!)評判が生まれる。しかも彼らは恋を語るのだから当然嘘つきである。嘘の介在しない恋というのは、人類はじまって以来あったためしがない。

ところで、恋を語る場所はたくさんあるけれども、大人のそれとしてもっともふさわしいのは、なんと言っても洒落たレストランあたりではないだろうか。イタリアには日本の各種酒場のような場所がほとんどない代わりに、レストランが掃(は)いて捨てるほどあって、そのすべてが洒落ている。なにしろ一つ一つがイタリアレストランだから・・。
 
イタリア人は昼も夜もしきりにレストランに足を運んで、ぺちゃクチャぐちゃグチャざわザワとしゃべることが好きな国民である。そこで語られることはいろいろあるが、もっとも多いのはセックスを含む恋の話だ。実際の恋の相手に恋を語り、友人知人のだれ彼に恋の自慢話をし、あるいは恋のうわさ話に花を咲かせたりしながら、彼らはスパゲティーやピザに代表されるイタリア料理のフルコースをぺろりと平らげてしまう。
 
こう書くと単純に聞こえるが、イタリア料理のフルコースというのは実にもってボー大な量だ。したがって彼らが普通に食事を終えるころには、二時間や三時間は軽くたっている。そのあいだ彼らは、全身全霊をかけて食事と会話に熱中する。どちらも決しておろそかにしない。その集中力というか、喜びにひたる様というか、太っ腹な時間のつぶし方、というのは見ていてほとんどコワイ。
 
そうやって昼日なかからレストランでたっぷりと時間をかけて食事をしながら、止めどもなくしゃべり続けている人間は、どうひいき目に見ても働くことが死ぬほど好きな人種には見えない。

そういうところが原因の一つになって、怠け者のイタリア人のイメージができあがる。
 
さて、次が歌狂いのイタリア人の話である。

この国に長く暮らして見ていると、実は「カンツォーネにうつつを抜かしているイタリア人」というイメージがいちばん良く分からない。おそらくこれはカンツォーネとかオペラとかいうものが、往々にして絶叫調の歌い方をする音楽であるために、いちど耳にすると強烈に印象に残って、それがやたらと歌いまくるイタリア人、というイメージにつながっていったように思う。

イタリア人は疑いもなく音楽や歌の大好きな国民ではあるが、人前で声高らかに歌を歌いまくって少しも恥じ入らない、という質(たち)の人々では断じてない。むしろそういう意味では、カラオケで歌いまくるのが得意な日本人の方が、よっぽどイタリア人的(!)である。
 
そればかりではなく、スケベさにおいても実はイタリア人は日本人に一歩譲るのではないか、と僕は考えている。

イタリア人は確かにしゃあしゃあと女性に言い寄ったり、セックスのあることないことの自慢話や噂話をしたりすることが多いが、日本の風俗産業とか、セックスの氾濫(はんらん)する青少年向けの漫画雑誌、とかいうものを生み出したことは一度もない。

嘘つきという点でも、恋やセックスを盾に大ボラを吹くイタリア人の嘘より、本音と建て前を巧みに使い分ける日本人の、その建て前という名の嘘の方がはるかに始末が悪かったりする。
 
またイタリア人の大食らい伝説は、彼らが普通一日のうちの一食だけをたっぷりと食べるに過ぎない習慣を知れば、それほど驚くには値しない。それは伝統的に昼食になるケースが多いが、二時間も三時間もかけてゆっくりと食べてみると、意外にわれわれ日本人でもこなせる量だったりする。
 
さらにもう一つ、イタリア人が怠け者であるかどうかも、少し見方を変えると様相が違ってくる。

イタリアは自由主義社会(こういう言い方は死語になったようでもあるがイタリアを語るにはいかにもふさわしい語感である。また自由主義社会だから中国を排除する)で、米日独仏につづいて第5番目か6番目の経済力を持つ。IMFの統計ではここのところブラジルの台頭が著しいが、イタリアはイギリスよりも経済の規模が大きいと考える専門家も少なくない。言うまでもなくこれには諸説あるが、正式の統計には出てこないいわゆる「闇経済」の数字を考慮に入れると、イタリアの経済力が見た目よりもはるかに強力なものであることは、周知の事実である。
 
ところで、恋と食事とカンツォーネと遊びにうつつを抜かしているだけの怠け者が、なおかつそれだけの経済力を持つということが本当にできるのだろうか?
 
何が言いたいのかというと・・

要するにイタリア人というのは、結局、日本人やアメリカ人やイギリス人やその他もろもろの国民とどっこいどっこいの、スケベで嘘つきで怠け者で大食らいのカンツォーネ野郎に過ぎない、と僕は考えているのである。

それでも、やっぱりイタリア人には、他のどの国民よりももっともっと「スケベで嘘つきで怠け者で大食らいのカンツォーネ野郎」でいてほしい。せめて激しくその「振り」をし続けてほしい。それでなければ世界は少し寂しく、つまらなく見える。