ドイツ国民とイタリア国民が、週刊誌のデア・シュピーゲルと新聞のイル・ジョルナーレを介して
いがみ合いを続けている間も、両国政府は欧州財政危機の回避に向けて緊密に連絡を取り合って仕事をしている。先週末にはメルケル首相がローマを訪問してモンティ首相と会談するはずだったが、ドイツのウルフ大統領が汚職疑惑がらみで辞任したことを受けて、ローマ訪問を中止した。

ウルフ氏は映画制作者から金銭を含む便宜供与を受けたり、他の事業者とも癒着するなど、イタリアの汚職政治家も顔負けの悪徳為政家だったわけだが、幸いイタリアのメディアは、ドイツ大統領の汚職事件をデア・シュピーゲル対イル・ジョルナーレの口論にからませて、不毛な水掛け論に持ち込んだりはしていない。

ドイツのメルケル首相とイタリアのモンティ首相は強い信頼関係で結ばれている。前任のベルルコーニ首相の時とは大違いである。それはあえて言えば、モンティ首相の財政の舵取りがドイツ的だからである。あるいはEU信奉者であるモンティ首相が、EU(つまりこの場合は主にドイツ)の意に沿った方向でイタリアの財政再建に向けて邁進しているからである。国民に多くの犠牲を強いる財政緊縮策を厳しく、緻密に、且つ粛々として押し進めている彼を、ドイツを中心とするEUは今のところ評価している。ドイツ政権とイタリア政権の蜜月関係はそこに起因している。

しかしそれは、デア・シュピーゲルの記事をきっかけに表面に出た、イタリア国民とドイツ国民の間にくすぶっている古くて新しい問題とは別の話である。さらに言えば、両国の間にくすぶっている古くて新しい問題とは実は、ドイツ国民とその他の全ての欧米諸国民との間の問題、と普遍化してもいい極めて重要な論点なのである。

イル・ジョルナーレがデア・シュピーゲルに『われわれにスケッティーノがあるなら、ドイツ人のお前らにはアウシュヴィッツがある』と言い返したことを受けて、ヨーロッパでは国境を越えて大きな反響があった。ネットなどの書き込みを見ると、人々はイル・ジョルナーレの立場に寄り添いつつも「アウシュヴィッツ」という言葉に困惑し、それでもやはりナチスのアウシュヴィッツでの蛮行を心のどこかで糾弾する思いにあふれたものが多かった。僕がこの前の記事でドイツ国民の言動を憂い、それだけでは飽き足らずにまだこうしてこの問題にこだわっているのもそれが理由である。

最近のドイツは危なっかしい。特にギリシャの財政危機に端を発したEU危機以降、その兆候が強くなった。ドイツは言うまでもなくEU加盟国の中では財政的にもっとも強く且つ安定している経済大国である。そればかりではなくEUの牽引車としてフランスとともに危機脱却のために奮闘している。そのあたりから来る自信のようなものが、ドイツ国民をどうも少し驕慢にしつつあるようにも見える。危なっかしいとはそういうことである。

兆候がはっきりと現れたのは2010年2月。ドイツの週刊誌が、右手の中指を突き立てているミロのヴィーナス像の合成写真を表紙に使って『ユーロファミリーの中のペテン師』というタイトルで、ギリシャの財政問題を強く避難する特集を組んだ頃である。その4ヶ月前の2009年10月、発足したパパンドレウ新政権の下で旧政権が隠蔽しつづけていた巨額の財政赤字が表に出た。それまでギリシャの財政赤字はGDPの4%程度とされてきたが、実際は12、7%に膨らみ、債務残高も113%にのぼっていることが分かった。いわゆるギリシャ危機の始まりである。ドイツの週刊誌は、そのことを皮肉って特集を組んだのだった。

それはギリシャ政府の放漫財政を攻撃したジャーナリズムの当たり前の動きだった。ギリシャはドイツにとって外国とはいうものの、統一通貨のユーロという船に乗った運命共同体である。しかも、ギリシャ危機のツケをもっとも多く被るのは、EUの優等生ドイツになることは火を見るよりも明らかだった。従って、ドイツが怒っても少しも不思議ではない、と第三者の僕のような人間の目には映った。

ところがギリシャ人にとってはそうではなかった。週刊誌の写真はギリシャを侮辱するものだとして激しい反発が起こった。パリのルーブル美術館に所蔵されているミロのヴィーナスは、古代ギリシャの巨大な芸術作品のひとつであり、ヨーロッパの至宝である。週刊誌は、そのミロのヴィーナス像を汚した上にギリシャ人を侮辱したとして人々は怒った。中指を突き立てるのは欧米ではもっとも嫌われる行為。それは尻の穴に中指を突き立てる、という暗喩で顔に唾を吐きかけるのと同じくらいの侮辱、挑発と見なされる。

週刊誌は、神聖なヴィーナス像に最悪のアクションを取らせて彼女自身を侮辱した上に、そのヴィーナスの中指がギリシャの尻の穴にずぶりと突き立てられる、という実にえげつないメタファーを示してギリシャ国民を侮辱した、と多くのギリシャ人は感じた。今でこそ国力ではドイツに遠く及ばないが、ギリシャ人には、過去にヨーロッパの核を成す文化文明を生み出したという自負がある。それは歴史的事実である。だからギリシャ人は、彼らにとってはいわば「新興成金」に過ぎないドイツからの侮辱を甘んじて受けたりする気はない。その上、ドイツはナチスのおぞましい闇を抱えた国だ。思い上がるのもほどほどにしろ、と反発したのである。

ギリシャ人を含めた全てのヨーロッパ人は、ドイツの経済力に感服している。同時にドイツ以外の全てのヨーロッパ人は、心の奥で常にドイツ人を警戒し監視し続けている。彼らはヨーロッパという先進文明地域の住人らしく、ドイツ人とむつまじく付き合い、彼らの科学哲学経済その他の分野での高い能力を認め、尊敬し、評価し、喜ぶ。

しかし、ドイツ人は彼らにとっては同時に、残念ながら未だにヒトラーのナチズムに呪われた国民なのである。ドイツ以外の全てのヨーロッパ人が、心の奥で常にドイツ人を監視・警戒している、というのはそういう意味である。いや、ヨーロッパ人だけではない。米国や豪州や中南米など、あらゆる西洋文明域またキリスト教圏の人々が、同じ思いをドイツ人に対して秘匿している。

僕はここではたまたま、欧州危機の元凶とされるギリシャとイタリアに対するドイツメディアの反応、というところから論を進めることになったが、ドイツとギリシャあるいはドイツとイタリアとの関係性は、ドイツと欧米のあらゆる国とのそれに当てはまる。

それと矛盾するようだが、今メディアを通してドイツといがみ合っているイタリアを筆頭に、欧米諸国のほとんどの人々は、前述したようにドイツ国民の戦後の努力を評価し、アウシュヴィッツに代表される彼らの凄惨な過去を許そうとしている。しかし、それは断じて忘れることを意味するのではない。「加害者は己の不法行為をすぐに忘れるが被害者は逆に決して忘れない」という理(ことわり)を持ち出すまでもなく、ナチスの犠牲者であるイタリア人(枢軸国の一角であるイタリアも加害者だが、最終的にはイタリアはドイツと袂を分かち、あまつさえ敵対してナチスの被害を受けた)を含む欧米人の全ては、彼らの非道を今でも鮮明に覚えている。そのあたりの執念の深さは、忘れっぽいに日本人には中々理解できないほどである。

ドイツ国民は他者の寛大に甘えて自らの過去を忘れ去ってはならない。忘れないまでも過小評価してはならない。なぜなら、ドイツ国民が性懲りもなく思い上がった行動を起こせば、欧米世界はたちまち一丸となってこれを排斥する動きに出ることは間違いがない。ドイツと欧米各国の現在の融和は、ドイツ国民の真摯な反省と慎みと協調という行動原理があってはじめて成立するものであることを、彼らは片時も忘れてはならないのである。