イタリア最大の週刊誌「パノラマ(panorama)」の最新号が、3月11日を待たずに東日本大震災一周年記念特集を組んだ。1日に発売された同紙の表紙はまるで日章旗そのもののデザイン。白地に大きな日の丸を描き、その中心に「奇跡の日本-以前よりもさらに力強く」と大きくタイトルを打っている。さらにキャプションで地震と津波と原発事故の3重苦に見舞われた日本は、危機的状況に長く留まるであろうという大方の予想を覆して、わずか1年で立ち上がり復興に向けて力強く歩みだした、と説明している。
15ページにも及ぶ「パノラマ」の特集記事は先ず、宮城県の女川市と仙台空港の地震直後、3ヶ月後、さらに6ヵ月後の定点撮影写真を掲載しながら、災害現場から瓦礫が取り除かれ整理されていく様子を紹介して、復興への着実な歩みを印象付ける構成になっている。定点撮影写真の手法は、いろいろな震災報告で使われていて目新しさはないが、瓦礫の山が消えてすっきりしていく様子は、何度見てもやはり、日本人ならではの迅速かつ正確な仕事振りが一目瞭然で感慨深い。

特に行政の仕事が大ざっぱで遅いことが多いここイタリアでは、紹介された一連の写真を見ただけで驚く読者が相当数いるに違いない。なにしろ2009年に起きたイタリア中部地震の瓦礫の整理さえまだ完全には終わっていないし、最近ではナポリのゴミの山の問題が、人々の気持ちを深く落ち込ませたりもしているお国柄だから。

言うまでもなく東北の被災地の瓦礫処理作業はまだ道半ばであり、パノラマの記事でも、2253万トンにものぼる被災地の瓦礫(イタリア全体が一年で出すゴミの約73%に相当する)のうち、2012年2月現在で5.2%が最終処分されただけに過ぎない、と説明することを忘れてはいない。しかし、東北が蒙った圧倒的な被害規模を考慮すればそれでも、日本の作業の進み具合はほとんど奇跡に近い、とこの国の人々が考えても何ら不思議はないのである。

続けて特集記事は、高速道路や鉄道などのインフラ復旧の早さと効率の良さを紹介したあと、大まかに論点を3つに絞って考察を展開している。それは、1)我慢強い国民性、2)産業力の圧倒的な強さ、3)政治の怪物的な無能ぶり、の3点である。そこには日本への真摯な賞賛が溢れている。特に1)と2)に対する思い入れは強く、ほとんど絶賛と言っても良いほどの論陣を張っている。3)の政治の無能を指摘することでさえ、1)と2)の素晴らしさを際立たせるための道具、というような書き方なのである。

パノラマは言う。日本経済の牽引車である自動車産業は今年1月の時点で18.8%の伸び率を示し、東北の部品メーカーの停滞で落ち込んだ昨年の実績が嘘のようにエンジン全開となった。2012年、イタリアを含むEUが債務危機のあおりで-0.5%という厳しい経済成長率を予測されているのに対して、日本経済はなんと、1、7%の成長率が見込まれる(IMF予測)。日本経済の長い間の低迷と大災害に見舞われた昨年の-0、5%の成長率は、今年見込まれる1.7%という大きなジャンプへの助走にしか過ぎなかった。それは決して偶然の出来事ではない。自動車に限らず、付加価値を付ける能力に長けた日本の産業は大震災のあとも健在である。例えばロボット作りもその一つ。経済大国になった中国ではロボットへの需要が急速に大きくなったが、最先端技術であるロボットは日本人にしか作れない。中国人は日本に頭を下げるしかないのだ。

事ほど左様に、日本経済が過去20年に渡って停滞し続けたという経済統計は、単なる伝説であることが明らかになりつつある。日本はヒロシマとナガサキの悲劇を乗り越え、数々の地震災害を撥ね返し、多発する火山の憤怒に打ち勝ち、そして今東日本大震災の3重苦を克服しようとしている。そうした奇跡は、原発の停止によって発生した電力供給能力の急激な低下を、火力と水力に切り替えることで成し遂げられたのだが、原発を素早く他の発電機能に置き換えて電力を確保してしまうこと自体もまた、驚嘆するべき能力であり日本経済の揺るぎない底力を示している。

返す刀でパノラマはわが国の政治の蒙昧も厳しく指摘する。

被災地救済の特別予算こそ与野党一致で通したものの、日本の政治家は国難を尻目に国会で喧嘩ばかりしている。政府はあってないようなもの。首相はこの6年間で6回変わり、有権者の46%が総理大臣なんて誰がなっても同じ。何も期待しない、と答えた。日本は政治の脳死状態の中にあるが、国民と産業界と地方自治体から成る健全優秀な肉体は、何の問題もなく動き続けている、とたたみかける。

パノラマが、しかし、さらに持ち上げて強調するのは日本の国民性である。わざわざ『我慢』という漢字まで文中に実際に使って、被災地の皆さんをはじめとする日本国民の自己犠牲の精神と、忍耐と、強靭な連帯意識の尊さを、これでもかこれでもかとばかりに誉めたたえている。僕は記事を読みながら、まるでエズラ・ヴォーゲルの著書「ジャパン・アズ・ナンバーワン」にはじめて接した時のような、こそばゆい思いさえしたほどだ。

同時に僕は当然、震災直後から世界中の人々が寄せ続けた日本への好意と大きな賞賛も思っていた。そしてあの時と今とは一体何が同じで何が変わっているのか、見極めようとした。震災直後に世界から日本に送られたエールの数々は、ある意味で当たり前のことだった。未曾有の災害に見舞われた国民に同情しない者などいる筈もなく、大震災が起こった直後から世界は日本をあたたかい目で見つめ続けた。

あの時もわれわれ日本人は自らを誇らしく思った。日本人が当然のこととして考え、行う行為が、かけがえのない尊いものであることを外国人の目を通してはじめて気づいたりもした。また、特にパノラマの記事が指摘するような「我慢」や「忍耐」の精神が、世界を驚かせることに驚いたりもした。我慢は自己犠牲の心に通じ、連帯感を芽生えさせ、お互いに助け合い頑張ろう、という強い意志の発露ともなる。しかもそうした覚悟や行動様式は日本人の場合、外に向かって大きくうねりを上げて突き進んでいくものではなく、内に秘めた静かな強い芯のようなものになって体内に沈殿する、と僕には感じられる。それは慎みになり謙遜を誘い節度を生む。日本人の真の美質である「日本的なもの」の完成である。それはまさしく、パノラマがわざわざ日本語の漢字を印刷してまで指摘した『我慢』の中に脈々と波打っているもの、と断定してもあながち過言ではないように思う。われわれはきっとパノラマの賛美を素直に喜んでいいのだ。

これから先しばらくは、おそらく世界中のメディアが競って東日本大震災の一周年特集を組むだろう。そしてその多くが、パノラマと同じように日本に対して肯定的な意見や主張を展開するのではないか。もしそうなれば、それは世界の人々のわが国に対する応援であり、好意であり、そして何よりも忌憚のない賛辞である。われわれはその事実を斜に構えることなく、照れず、真っすぐに受け止めて内なる力となし、さらに謙虚になって前進するべきである。巨大な不幸から一年が経った今、一年を頑張り抜いた被災者の皆さんに深い敬意を表すとともに、われわれ自らをもあらためて見つめ直し、鼓舞し、誇りにするべきなのである。