少しこだわり過ぎに見えるかもかもしれないが、実は日伊ひいては日欧(米)の文化の根本的な違いにまでかかわる事象の一つとも考えられるので、あえて書いておくことにした。

 

この前の記事に書いたファブリツィオ・デアンドレの「バーバラの唄」の歌詞

 

「♪~あらゆる夫婦のベッドは

  オルティカとミモザの花でできているんだよ ~♪」

 

をイタリア語で書くと、

 

「♪~ ogni letto di sposa

e’ fatto di ortica e mimosa ~♪」

 

となり、そのうち「夫婦のベッド」に当たるのは「letto di sposa」である。

 

前回、なぜ僕がその部分を直接に「夫婦の寝床」とか「夫婦の褥(しとね)」あるいは「夫婦の布団」などと訳さずに「夫婦のベッド」と訳して、それをさらに日本語では「夫婦の寝床」とか「夫婦の褥(しとね)」とするのが正しい、みたいな回りくどい言い方をしたのかというと、イタリア語をそのまま日本語にすると「letto di sposa」の持つ「性的な意味合い」だけが突然強調されて、その結果、原詩が強く主張している(夫婦の)人生や生活や暮らし、というニュアンスが薄くなると考えたからである。ポルノチックになりかねないと書いたのもそういう意味だった。

 

だが、そうではあるものの、二次的とはいえ「letto di sposa」には性的な含蓄も間違いなくあって、それらの微妙なバランスがイタリア語では「艶っぽい」のである。

 

日本語とイタリア語の間にある齟齬やずれは、性あるいは性的なものを解放的に語ったり扱ったりできるかどうか、という点にある。イタリア語のみならず欧米語ではそれができるが日本語では難しい。

 

言葉が開放的である、とは思考や行動が開放的である、ということである。そう考えれば性的表現における欧米の開放感と日本の閉塞感の違いが説明できる。性や性表現が閉鎖的だから、日本にはそのはけ口の一つとして「風俗」という陰にこもった性産業が生まれた、とも考えられるのである。

 

人生の機微や結婚生活の浮き沈みの中には、夫婦の性の営みも当然含まれていて、欧米文化の方向性はそのことも含めて直視しようとする。日本文化の方向性はそこから目をそらせる。あるいは見て見ぬ振りをする。あるいはぼかして捉える。そこには日本文化の奥ゆかしさに通じる美もあるが、内向して「風俗」的な執拗につながる危うさもあるように思う。

 

良くしたもので、日本語には都合の悪い表現を別の言い回しでうまく切り抜ける方法がある。それが外来語である。

 

たとえば日常の会話の中ではちょっと言いづらい「性交」という言葉を「セックス」と言い換えると、たちまち口に出しやすくなるというようなこと。僕がバーバラの唄の「letto di sposa」を「夫婦の寝床」と訳さずに、あえて下線まで引いて「夫婦のベッド」と表現したのもそれと同じことである。

 

ベッドはもはや、日本語と言っても良いほどひんぱんに使われる言葉だが、夫婦の「寝床」や「褥」や「布団」に比べると、まだまだ日本語のいわば血となり肉となっている言葉ではない。だから「性交」に対する「セックス」という言葉のように、生々しい表現のクッションの役を果たして、それらの直截的な言い回しをぼかす効果があるように思う。

 

そればかりではなく、日本の家の中には「夫婦のベッド」なんて存在しないのが普通である。夫婦のベッドとは巨大なダブルベッドのことである。だから狭い家にはなじまない。

また例えそれを用いていても、ベッドはあくまでもベッド、あるいは寝台であって、朝になれば畳まれて跡形もなくなる「寝床」や「褥」や「布団」ではないのだ。

 

そんな具合に日本の家においては「ベッド」は、やっぱりまだ特別なものであり、日本語における特別な言葉、つまり外来語同様に特別なニュアンスを持つ家具なのである。だから夫婦の「寝床」や「褥」や「布団」と言わずに「夫婦のベッド」と表現すると、この部分でも恥ずかしいという感じがぐんと減って、耳に心地よく聞こえるのである。

 

もっと言えば、日本語では「夫婦の寝室」「や「夫婦の寝間」などと空間を広げて、つまりぼかして言うことは構わないが「夫婦の寝床」とピンポイントで言ってしまうと、微妙に空気が変わってしまう。そこがまさに日本語のつまり日本文化の面白いところであり、ひるがえってそこと比較したイタリア語やイタリア文化、あるいは欧米全体のそれの面白さの一つなのだと思う。