間もなく始まるロンドンオリンピックで、イタリアも国中が盛りあがっていると言いたいところだが、開会式を明日に控えた今もいたって平静である。
新聞やテレビをはじめとするマスコミはオリンピックについて最小限の報道しかしないし、国民もそれに呼応するように平常心でいる。冷めていると言ってもいいくらいである。
五輪に対するイタリア人の冷めた反応は今に始まったことではない。彼らは例えばサッカーのW杯や先日終わったサッカー欧州選手権などでは、ちょっと大げさに言えば「国中が狂喜乱舞する」みたいな盛り上がりを見せるが、オリンピックに際してはいつも冷静である。
前回2008年の北京、前々回2004年のアテネ大会など直近の大会でも盛り上がりに欠けた。その中間年、2006年に開かれた冬季オリンピック対する関心度は、開催地がなんとここイタリアのトリノであったにもかかわらず、もっとひどかった。
なにしろ一番売れているスポーツ新聞の報道でさえ、開幕まで数日と迫った時点でも、紙面25ページのうちプロサッカーに関する記事が1面から15面までを占め、その後にやはりプロテニスやバレーボール、バスケットやカーレースの記事が続いて、ようやくオリンピック関連の記事が出ているという有様だった。オリンピックがいかに軽い扱いであったかは、その事実だけでも歴然としている。
なぜ僕が当時のことを良く知っているのかというと、僕はその頃ビデオのロケ取材に加えて新聞記事を書くためにたくさんの情報を集めていて、いまそのメモを読み返しながら当時を振り返っているからである。そしてあの時点でも僕は、イタリアのマスコミの「盛り下がり」振りに結構衝撃を受けたりしたものだった。
五輪ではイタリアは常に多くの競技に参加する。それなりに好成績も収める。関心もある。でも決して、例えば日本のように大いに「盛り上がる」というふうにはならない。それって一体なんだろうかと考えを巡らせると、少し見えてくるものがある。
まずイタリア人はスポーツに限らず国際的なイベントに慣れきっている。ヨーロッパの中でも、イタリアはイギリスやフランスと並んで国際的な催し物であふれている。規模は大きいものの、オリンピックも彼らが慣れているそんな国際的イベントの一つに過ぎない。
また彼らには愛国心がそれほど強くないということもある。つい最近統一国家になったとは言え、イタリアの各地方にはかつての独立都市国家の精神が強く残っている。そのために統一国家への愛着心が国民に薄いのはよく知られたことである。
オリンピックって、けっこう国家対国家の競い合いみたいな様相を呈することが多いから、カンパニリズモと呼ばれる強力な地方中心主義に捉われている者も多いイタリア国民には、あまりうまくアピールしないということもあると言っていいだろう。
さらにこういうこともある。実は今年もそうだが、オリンピックの年にはサッカーの欧州選手権が開かれる。欧州選手権も四年に一度の大会で、ちょうど五輪と重なる日程になっているのだ。サッカー好きの多くのイタリア国民は、欧州杯の応援にエネルギーを使い果たして、とてもオリンピックまで気が回らないという事情も皆無ではないように思う。
だが、僕の考えでは実は、イタリア人がオリンピックに付いて回るいわゆる「純粋なアマチュア精神」なるものを「まゆつばものの潔癖」と見なして嫌う国民であることが、彼らが五輪にあまり燃えない理由であると思う。
イタリア語ではスポーツの試合や競技のことをジョーコという。ジョーコは「遊び」という意味である。イタリア人にとってはサッカーもオリンピックの競技も「遊び」である。或いはあらゆるスポーツはスポーツである前に「ゲーム=遊び」でなければならない。
そして「ゲーム=遊び」には相手を出し抜くズルさがなくてはならない。このズルさこそ「遊び」の真髄である。遊びの精神が優先されなければならないのだ。だから参加選手が国の威信を背負って気張っているような、オリンピックの堅苦しさがあまり好きになれないのだろうと思う。
かてて加えて、イタリア的な重大かつ現実的な原因がもう一つある。バカンスである。
毎年7月~8月はイタリアはバカンス真っ盛りの季節。特に8月に入ると国中が一気にバカンスモードに入る。オリンピックが始まろうとする今は、誰もがバカンスの計画立案や予約や期待でドタマが一杯である。
バカンスの喜びでオリンピックどころじゃないよ、というのもまた、多くのイタリア人の偽らざる心境であることは間違いがない。