尖閣問題がついにイタリアのメディアにも「上陸」しました。イタリア随一の新聞コリエーレ・デッラ・セーラが「車両、店に放火―中国人の日本への怒りが爆発」という見出しと共に、中国の反日デモの様子を写真付きで大きく取り上げてしまったのです。他の媒体も追随しました。
僕は欧米のメディアとアルジャジーラなどを参照しつつ、日本のテレビ、新聞、ネット情報なども詳しく見ています。原発、エネルギー、いじめ、慰安婦、領土問題などなど、今一番ホットな話題も逐一追いかけているのは言うまでもありません。そして、それらの問題には多くの論者の皆さんが意見を開陳しているので、外国にいる自分は三面記事風の話題も含めて、あえて違うテーマの記事を書こうとそこかしこで心がけています。が、尖閣問題に関しては黙っていられなくなりました。
今回のトピックスに対しましても既に多くの論者の皆さんが優れた記事を書かれています。それらに目を通してもう余すことなく論点は出尽くした、自分が出る幕はないと考えていたところに、こちらのメディアへの飛び火があり黙っていられなくなったのです。尖閣問題では冷静に行動しろ、と主張する論者の皆さんに100%賛同しながら、自分なりの考えも少し付け加えて述べてみたいと思います。
香港の活動家の動きに対抗する形で日本の地方議員の皆さんが尖閣に上陸したのは、気持ちは大いに理解できるものの、やはり軽率だったのではないでしょうか。彼らはそうすることで中国の反日デモを呼び世界中のメディアの関心も呼びこんでしまった。影響力の強い欧米主要国のメディアは言うまでもなく、先進国の中では比較的マイナーな国ここイタリアのマスコミが、中国の反日デモの様子を大きく紹介したことでもそれは分かります。つまり彼らは行動を起すことで尖閣には領土問題が存在する、と世界に喧伝してしまったのです。中国に対しては、わが国の怒りを知らしめることになって、あるいは良しとする面があるのかも知れません。しかし、現実問題として暴力で解決できる案件ではないのは明らかですから、やはり話し合いで解決して行く道を探らなくてはならない。
こういうことを言うとすぐに弱腰、売国奴、事なかれ主義、などと勇ましい言葉でののしる人々がいますが、いい加減に時代錯誤な軍事優先思考はやめてもらいたいものです。日本人であるなら誰でも尖閣の中国に怒り、竹島の韓国に苛立ち、北方領土のロシアに腹を立てない訳がありません。愛国者とは何事につけ武力行使を口に出して騒ぐ皆さんのことではない。そういうやり方では国の行く末を誤ると考える僕のような人間も愛国者です。僕は平和、平和と叫んでいれば自然に平和が訪れると考える者でもなければ、軍隊を否定することでたちまち戦争が無くなり安寧がやってくると考える者でもない。究極の理想は核廃絶、非武装だとは信じているものの、人類がそこに至る道は長く、或いは永遠にやって来ないかも知れない、とさえ考える者です。そこに至るまでには軍備も止むを得ない。必要悪だと考える。ただし抑止力として。
くやしくても、武力行使はまずできないのですから、三つの事案に対しても経済制裁や外交圧力などに始まる強硬策を模索し実施しながら、飽くまでも対話で臨むしかないでしょう。中国や韓国やロシアといった国々にはまともな対話など通用しない。それらは一党独裁や腐敗や汚職に満ち満ちた人権抑圧国家であり、日本とは国のレベルが違うのだから対話など無理だ、という意見もネットなどでは良く散見します。特に最近の3国(北朝鮮を含めれば4国)の動静を見ていると、そうした意見に頷きたくなることも多々あります。
しかし、だからと言って、わが国は彼らへの対話や呼びかけを怠るべきではない。それどころか、冷静に秩序立てて「しつこく」彼らに話しかけるべきです。彼らが分からなくてもいいのです。彼らが理不尽でも野蛮でも構いません。とにかく対話を持ちかける、つまり日本の言い分を彼らに伝え続けるのです。なぜなら、そうした行動は彼ら以外の国際社会が見ています。言い変えれば日本は、国際社会が見やすい形で「戦略的に」彼らと対話を続けるべきです。それだけではありません。
彼らと会話を続け、或いは執拗に対話を呼びかけながら、彼ら以外の世界に向けてさらに会話をする、つまり情報を発信し続けるのです。実はこれが日本の主な目的にならなくてはなりません。彼らと対話を続けることは目的の2番目です。世界を味方につけることが第1のそして最大の目的。ではどうやって国際世論に訴えて行くのか。僕なりの考えを述べます。
先ず当たり前に世界中の、特に欧米と近隣のアジア諸国の媒体に「資金をふんだんに使って」日本の主張を訴え続けます。いわば国家によるロビー活動です。日本はこれまでそういう伝統的で在り来たりの手段さえ余り取ってきていません。コミュニケーション能力が欠落しているのです。ただこの点に関してはわが国の政治家や官僚やわれわれ国民自身を責めても仕方がありません。日本人は長い間「黙っていてもお互いに分かりあえる」という、思い込み、信条、メンタリティーのもとに生き、子供を教育し、国が動いて来ました。そして世界を相手にしない限り、その生き方は何の問題もなく十分に通用しました。
ところが日本が徐々にグローバル社会に組み込まれて行く過程でもわれわれはそうやって生き続け、やがて第二次世界大戦という破局を招き、その後もコミュニケーション能力の不足によって再び、いや再三再四、繰り返し国の行く末を誤ろうとしています。国と国民にコミュニケーション能力が不足しているのは、それを獲得するための教育がなされてこなかったからです。「日本人なら黙っていてもお互いに分かりあえる」という精神と態度で、世界に相対しても全く分ってもらえません。われわれは、おそらく多くの日本人にとって一番苦手な、一番辛い、「対話能力」を懸命に学び身につけていかなくてはなりません。
それと同時に、今ここでこうして利用しているようなインターネット・SNSを徹底的に活用することです。インターネットの特徴を生かしてあらゆる方法で掲示板やブログを立ち上げます。そこに日本の主張を書き込み、人々の参加を呼びかけて議論を誘導します。加えてツイッターやfacebookをとことん利用して世界中に語りかけるのです。日本国内だけに目が行っている人々には、或いはピンとこないことかもしれませんが、特にfacebookは有効です。実に簡単に世界とつながることができるのですから。ジャスミン革命を覚えていますか。?そしてそれに続くアラブの春を見ていますか?そこで威力を発揮し、今も強い影響力を持ち続けているのがFacebookです。同じように領土問題でもfacebookを利して世界中に働きかけるのです。
私事ですが、国内だけを相手にしている皆さんに一例を紹介します。僕はほんの数週間前にfacebookに登録しました。動機は世界中に散らばっているロンドンでの学生時代の「かつての」友人達と連絡を取りたい、というものでした。すると、イタリア人の友人2人から早速友達申請があり、それらにOKを出したところ、イタリア内外で爆発的に知り合いの輪が広がっています。いえ、正確に言うと僕はほとんど友達探しや承認などをしていない(facebookを利用していない)ので、知り合いの輪(友達確認)は実際には広がっていません。が、その気になれば一気にネットワークが広がることがはっきりと分かっています。
そうしたソーシャルネットワーク活動を個人がばらばらにやるのではなく、言語やネットの専門家を多く集めて「国家プロジェクト」として構築して、世界に向けて本気で情報を発信し、日本の立場と日本の真実をきちんと主張し対話を続ける、というのが僕の考えです。
最後に再び私事で恐縮ですが、とても重要なことを言わせていただきます。僕は故国日本の次にはヨーロッパが好きで、さらにアメリカも好きな人間で、そうした国々に住んだり勉強をしたり、もちろん仕事もたくさんやって来ました。好きな国々ですのでいつも楽しく過ごしてきたのですが一つだけとても辛いものがあります。それが社交です。
社交とは何か。それは「おしゃべり」のことです。つまり会話の実践場がいわゆる社交なのです。社交こそ、一番疲れる気の重い時間です。しかもそれは、欧米社会では社会生活の根幹を成す最も重要なものの一つと見なされます。社交、つまり「おしゃべり」ができなくては仕事も暮らしもままならないのです。
昔、三船敏郎が演じる「男は黙ってサッポロビール」というコマーシャルがありました。あのキャッチフレーズは、沈黙を美徳とする日本文化の中でのみ意味を持ちます。欧米では、男はしゃべることが大切です。「男はだまってしゃべりまくる」のです。特に紳士たる者は、パーティーや食事会などのあらゆる社交の場で、自己主張や表現のために、そして社交仲間、特に女性を楽しませるために、一生懸命にしゃべらなければならない。男はしゃべりまくるのが美徳なのです。例えばイタリアには人を判断するのに「シンパーティコ⇔アンティパーティコ」という基準がありますが、これは直訳すると「面白い人⇔面白くない人」という意味です。そして面白いと面白くないの分かれ目は、要するにおしゃべりかそうでないかということなのです。
事ほど左様に欧米社会ではしゃべりが重要視されます。西洋社会の人間関係の基本にはおしゃべり、つまり会話がドンと居座っています。社交の場はもちろん、日常生活でも人々はぺちゃくちゃとしゃべりまくる。社交とは「おしゃべり」の別名であり、日常とは「会話」の異名なのです。
彼らのコミュニケーション能力は、子供の頃から徹底して培われます。家庭では、例えば食事の際、子供たちはおしゃべりを奨励される。楽しく会話を交わしながら食べることを教えられます。日本の食卓で良く見られるように、子供に向かって「黙って食べなさい」とは親は決して言わない。せいぜい「まず食べ物を飲みこんで、それからお話しなさい」と言われるくらいです。
学校に行けば、子供たちはディベート(討論)中心の授業で対話力を鍛えられ、口頭試問の洗礼を受け続けます。そうやって彼らはコミュニケーション力を育てられ、弁論に長けるようになり、自己主張の方法を磨き上げていきます。それが国際社会です。われわれはそこに向かって、彼らに対抗しながら明確な意見を述べ続けなければなりません。幸いSNSならば顔と顔を付き合わせる会話や議論ではなく、文章によるやり取りが主ですからわれわれ日本人でも十分にこなせるように思います。国が国家プロジェクトとしてしっかりと予算を立てて取り組めば、世界世論を動かす効果的な喧伝活動も夢ではないと考えるのです。