加筆再録



尖閣、竹島、北方四島・・

ここところ、それらを思う度に心が昂ぶり体が戦闘的になるような気がします。自分自身も、また故国日本全体の世論も、ここ数週間ですっかり「兵(つわもの)振り」が身についたようにも見えます。

それはそれでいいのですが、日本には勇猛な武将でさえ花を活け和歌をたしなむ、という文武両道、硬軟融和の伝統もあります。国難を見て心が騒ぐ今こそ、その繊細な文化を思い出してみるのも一興かも知れません。

ここ北イタリアは9月の声を聞くと同時に涼しくなり、今はもうすっかり秋です。異常気象とまで言われた8月の猛暑が遠い昔のようです。秋の日はつるべ落としと言いますが、この国では秋そのものがつるべ落としに素早くやって来て、あっという間に過ぎ去ります。印象としては夏が突然冬になります。

日本の平均よりも冬が長く厳しい北イタリアですが、短い秋はそれなりに美しく、風情豊かに時間が流れて行きます。ところが、イタリア語には、枯れ葉、病葉(わくらば)、紅葉(こうよう)、落葉、朽ち葉、落ち葉、木の葉しぐれ、黄葉、木の葉ごろも、もみじ・・などなど、というたおやかな秋の言葉はありません。枯れ葉は「フォーリア・モルタ」つまり英語の「デッド・リーフ」と同じく「死んだ葉」と表現します。

少ししとやかに言おうと思えば「乾いた葉(フォーリア・セッカ)」という言い方もイタリア語には無いではない。また英語にも「Withered Leaves(ウイザード・リーブ)」、つまり「しおれ葉」という言葉もあります。が、僕が知る限りでは、どちらの言語でも理知の勝(まさ)った「死に葉」という言い方が基本であり普通です。

言葉が貧しいということは、それを愛(め)でる心がないからです。彼らにとっては「枯れ葉」は命を終えたただの死葉にすぎない。そこに美やはかなさや陰影を感じて心を揺り動かされたりはしないのです。山に行けば紅葉がきれいだと知ってはいても、そこに特別の思い入れをすることはなく、当然テレビなどのメディアが紅葉の進展を逐一報道するようなこともあり得ません。

ただイタリア人の名誉にために言っておくと、それは西洋人社会全般にあてはまるメンタリティーであって、この国の人々が特別に鈍感なわけではありません。

それと似たことは食べ物でもあります。たとえば英語では、魚類と貝類をひとまとめにして「フィッシュ」、つまり「魚」と言う場合があります。というか、魚介類はまとめてフィッシュと呼ぶことが多い。Seafood(シーフード)という言葉もありますが、日常会話の中ではやはりフィッシュと短く言ってしまうことが普通です。イタリア語もそれに近い。が、もしも日本語で、たとえひとまとめにしたとしても、貝やタコを「魚」と呼んだら気がふれたと思われるでしょう。

もっと言うと、そこでの「フッィッシュ」は海産物の一切を含むフィッシュですから、昆布やわかめなどの海藻も含むことになります。とは言うものの、欧米人が海藻を食べることはかつてはなかったのですが。タコさえも海の悪魔と呼んで口にしなかった英語圏の人々は、魚介類に疎(うと)いところが結構あるのです。

イタリアやフランスなどのラテン人は、英語圏の人々よりも多く魚介に親しんでいます。しかし、日本人に比べたら彼らでさえ、魚介を食べる頻度はやはりぐんと落ちます。また、ラテン人でもナマコなどは食べ物とは考えないし、海藻もそうです。もっとも最近は日本食ブームで、刺身と共に海藻にも人気が出てきてはいますが。

多彩な言葉や表現の背景には、その事象に対する人々の思いの深さや文化があります。秋の紅葉を愛で、水産物を「海の幸」と呼んで強く親しんできた日本人は、当然それに対する多様な表現を生み出しました。
 
もちろん西洋には西洋人の思い入れがあります。たとえば肉に関する彼らの親しみや理解は、われわれのそれをはるかに凌駕(りょうが)する。イタリアに限って言えば、パスタなどにも日本人には考えられない彼らの深い思いや豊かな情感があり、従ってそれに見合った多彩な言葉やレトリックがあるのは言うまでもありません。

さらに言えば、近代社会の大本を作っている科学全般や思想哲学などにまつわる心情は、われわれよりも西洋人の方がはるかに濃密であるのは論を待たないところだと思います。

と、書き進めても、領土問題の解決には何も役には立ちません。が、逆に領土問題も人の心の琴線を振るわせる何の役にも立ちません。むしろ心を昂ぶらせ、すさませ、虚しくさせる。領土問題ではどうしても気持ちが武闘的になります。その行き着く先は戦争です。戦争などあってはなりません。従って、やはり、われわれは中国その他の国々との問題を平和裏に解決しなくてはなりません。そのためには荒ぶる心を鎮める必要がある。その方法は多々ありますが、陳腐なように見えてもやはり、花や紅葉を愛でる日本の伝統文化に思いを馳せることなどもその一助になる、と考えたりするのはただのこじつけでしょうか。